魔女の取引
2010/10/12/Tue
起きて前記事読み返した。
カフェ・フジタに突撃したの夢かなーって感じで思っていた。いや現実でもありうるけど、「あれ? 夢だっけ? どっちだっけ? どっちでもいいけど」という感じ。
なので前記事読んで「あ。やっぱまじでやらかしてたか」って意味でちょっとドキッとした。
アホー、あたし。
これって夢と現実が混同することになるの?
夢で起きたことが現実にあると思う。
現実にあったことが、次の日起きて、夢だったかと思う。
んー。
(その人の主観にとって)強度のある出来事は夢うつつ関係ない、ってことなんじゃねえの。強度のある出来事は夢とうつつを横断する。そんな難しいことじゃねえよ、少女マンガとかでよくある「夢の中で気になる男子とちゅっちゅしちゃった。そんな気は全然ないのにフシギー。翌日その男子とあってなぜかドキマギしちゃった☆」だよ。
フロイトはこの単純な原理を神経症的に研究した、と。
ああ。近代文学は、特に私小説や(日本の)自然主義はありゃ自己分析小説なわけじゃん。筆者は分析主体になっている。つまりもともと精神分析と通底する部分がある。
『天才たけしの元気が出るテレビ』で東大に落ちた奴が本を書いた。そこにこんなのがあった。「現国で点を取りたければ少女マンガを読め」と。
そんな感じじゃねえの。(昔の)少女マンガってモノローグ多いし。分析主体の領域には行ってないが、「作者の自己分析ネタ」として考えればそういう風にも読める。
現代国語の出題ってなぜか私小説とか自然主義好きだよな。いやまあ最近は筒井康隆とか載っけてるみたいだが。
筒井はあんまピンとこないんだよなー。好きな方ではあるが。好きではあるがテストの問題にしちゃだめだろ、って思うわ。
「夢の中で気になる男子とちゅっちゅしちゃった。そんな気は全然ないのにフシギー。翌日その男子をあってなぜかドキマギしちゃった☆」とか書くと、「わたしはそのババアに女性同性愛的な転移をしている」なんて解釈をされちゃいそうだが、大仰だとは思うがまあありかなとは思えなくもない。分析家がそんな解釈をした文章があっても。
というのは、この記事でも書いているように、わたしはそのババアに対し「女ならわかるはずだろ?」と思っている部分がある。「お前だって化粧がめんどくせえと思ったときぐらいあるだろ? 「隠喩されること」とはそれと同じだよ。「隠喩されること」がめんどくせえって思ったこともお前もあるはずだ」ってな。
「隠喩されること」とは「隠喩を読み込まれること」だ。
藤田がする隠喩に関係する論は、すべて「隠喩を読み込む側」の症状解釈なわけじゃん。ここがあれなんだよ。いやまあそっち側の研究も必要だと思うからありだと思うけど。
でもな、「女」が、藤田がしている研究に則って「隠喩を読み込む側」だけで思考しちゃいけないと思うのだよ。水上がしているここの一番上のコメントもそうだろ? 「隠喩を読み込む側」としか述べられていない。その前の記事でわたしが「隠喩されることの重み」を論じているにも関わらず。
「男という症状」は「藤田という症状」でもそうであるように「隠喩を読み込まれる側」についての視点がない。これはそう言いきれる。わたしの経験上。
むしろ、「隠喩を読み込まれる側」が今まで学術上まったく論じられてこなかった問題こそが、フェミニズムの本質的な根拠だと、わたしには思える。
たとえばスピヴァクの「サバルタン」などまさに「隠喩を読み込まれる側を概念化した言葉」とも言えないだろうか? ここから。
=====
スピヴァクによって広く知られる用語となった。「自らを語ることができない者」であり,たとえ語っても,それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者のことをいう。一方でサバルタンを語る人々の側には、無機質な透明性がつくり出され、語る側の権力と欲望は見えなくされているのだとか。
=====
「自ら」が「隠喩を読み込まれる側」になっている。それを拒否できない。「隠喩を読み込まれる被害」を訴えても、「隠喩を読み込む側」の「無機質な透明性」のせいでないことにされる。
ババア、お前はあのとき「無機質な透明性」の中で安住できていたんだよ。
お前は自分の発言を権力的なものと、加害的なものと思ってなかっただろう。
それは権力者たちのあいだにある「無機質な透明性」のせいだよ。
自らの加害を忘れさせる「無機質な透明性」の。
それ自体が妄想である「無機質な透明性」の。
「隠喩を読み込まれることの苦痛・困難さ」をなきものにするのがその「無機質な透明性」だよ。
こういったことから、「隠喩を読み込まれる側」の視点がないのは藤田グループ全体の(集団心理異常的)症状なのではないか、とわたしは疑っている。
いやもちろん中にはそういったことを、たとえばヒステリーやフェミニズムを主に研究している人はいるんだろうけどね。わたしがちらちらっとカフェ・フジタを見ていたときだけを根拠にして言っている推測にすぎん。
まあだからこそあれ以来カフェ・フジタなんて見ていないんだが。
あ、まあなんか向井グループ擁護みたいなことしてたから一応言っておくが、向井グループにもないと思うよ、この視点。
だけど、その視点につながる一つのヒントとして向井雅明のこのコラムがあるとは思っている。
わたしもそこまで厳密な人じゃないからな。ヒントだけでも見い出している向井を評価してやらなくもない。
「隠喩を読み込まれる側」の視点がないという「藤田グループ全体の(集団心理異常的)症状」の一証拠として、これ
=====
水上がしているここの一番上のコメント
=====
があるんだが、軽く触れておこう。
=====
あくまで私の「隠喩」の定義ですが(通常の言語学的な定義とは随分違うのでしょうが)、私にとっては「隠喩」とは、これまでの言葉では言いえなかったこと、つまり無、を象徴化する機能ということになります。ラカンの隠喩の式でも、新しいシニフィエが生まれているように。つまり私にとって「隠喩」は、脂さんの言われる、「欲動が赤裸々に語り出した言葉」側のものになるかと思います。いや、無論、私の隠喩の定義が正しいとは限りませんが、私はそう考えていたので、
=====
水上が述べている「隠喩に象徴される無」とは、それ自体が象徴である。
物理学的に考えればわかることだ。その物質があるかないかはその物性を読み取るためのデータでしかない。その物質がなくても他の物質がある。他の物質の物性と混同しないためのデータだ。
全宇宙において「完全な無」などという状態は存在しない。
であれば「無」そのものが妄想であると、象徴であるとなる。
「無」こそが象徴なのである。
では「無」に象徴される具体とは?
さまざまにあるだろう。
そのうちの一つとして「存在しないはずの女」がある。ファルスの存在しない人間としての「女」が。
ではファルスの存在しない人間とは?
そんなものは確かに存在しないかもしれない。しかしファルスが壊れた主体なら精神医学において大量の具体が、臨床素材がある。
統合失調症や自閉症である(しつこく断っておくが、ラカン派自身が自閉症を「鏡像関係の組み込みの失敗例」としている)。
いわば、「無」も「存在しないはずの女」も、現実にいる統合失調症や自閉症をもとにした、「理想的な統合失調症や自閉症」を象徴しているにすぎないのだ。
ヒステリーは、「無」や「存在しないはずの女」などという言葉に隠された「隠喩を読み込まれる暴力」によって、現実にいる統合失調症や自閉症にはなれていないが、「理想的な統合失調症や自閉症」方向へと追いやられた症状である、とわたしは考えている。
水上のそのセリフこそが、それの無意識にある言語的構造こそが、現実の女性たちをヒステリーに追いやっているのである。現代ならば摂食障害や自傷という症状として表れている。
まあわたしはヒステリーすなわち解離性障害じゃないからどうでもいいけど。それに苦しめられているのは確かだが、それに苦しめられてこっちに殺到してくる正常な女性たちもうざい。
戦えよ。上野千鶴子みたいに。と思うわ。わたしは弱いから戦わない。お前らが戦えと。こっちにはこっちの敵がいる。
まあ上野は戦って勝っちゃったから「隠喩を読み込む側」になっちゃったけどね。
西洋フェミニズムはアナーキー色が強いが、日本フェミニズムは社会派って感じで健全だろ? 西洋のフェミニズムを輸入しても必ず社会問題に対する道具としてしか利用されない。
また西洋フェミニズムは神秘主義などといったオカルトとも親近しており(フェミニズム学者がニューエイジ系にかぶれる例はよくある)一種のサブカル色もあるんだが、日本ではそうなってないだろ?
上野みたいな肥大したクリトリスのせいだよ。「社会派な女たち(爆笑)」のせいだ。
日本フェミニズムはいまだに男性原理から抜け出せていない。
いやまあニューエイジにかぶれなかったところは逆に評価してやりたいが。上野系はそこは評価してやる。フェミニストは心理系ならユングやっちゃいかんよほんとに。患者とやりまくったユングのチンポ汁なめてどうすんだと。「統合バンジャーイ、セックスバンジャーイ」だぜ、ユングなんてぶっちゃければ。だから斎藤環の自閉症当事者本についての書評なんか「ああやっぱこいつ根はユンギニアンなんだなあ」って思っちゃう。
フェミニズムは「統合」を、「全体性の幻想」を否定しなければならない。アナーキズムと親近したのはむしろ当然だ。
フェミニズムをアナーキズムじゃなく社会化しようとしたらニューエイジになっちゃうのかね? アナーキズムでもニューエイジでもなく社会化したのが日本のフェミニズムだ、ってことだな。社民党は糞だけどな。上野一派ならまだ擁護できる部分があるのに社民党になるとゼロになる。まそれこそ政治団体なわけだから当然だが。
この辺でフェミつまらなくなってやめた。あ、大学生時代な。
「社会」じゃなくて、「主人のディスクール」の無意識下にある「全体性の幻想」だよ、フェミニズムの本当の敵は。「ホモソーシャル」あたり「全体性の幻想」の解明のすげーいい手がかりなのに社会問題に対する言いがかりにしか使ってないもんな。「海外のえらい学者もこう言っている!」でしかない。日本のフェミニストって。馬鹿だろ、と。「こう言っていること」を研究しろよ、と。学者なら。
フェミニストは中二病者が「見えない敵と戦っている」がごとく戦え。それこそ『レストレス・ドリーム』あたりの笙野頼子みたいに。スピヴァクがそれを「無機質な透明性」と述べたみたいに。
敵は「幻想」なんだから「見えない」に決まってるだろ。
つかそも「見えない」無意識を研究するのが精神分析だろうがヴォケ。
「全体性の幻想」を快楽的に思えるのは、お前のファルスのおかげだ。
それが壊れていたり不安定になっている自閉症者や統合失調症者やヒステリーにとっては、ただの大いなるミームの押しつけでしかない。
お前にとって快楽的なそれは、相手にとって快楽だとは限らない。
あとこれ余談だけど中野雅哉くん、フェミニズムがアナーキズムと親近してるって知ってた? 日本フェミニズム見てたらとてもそうは思えないのはわかるが、本場は結構「ロケンロール」なんだぜ?
ああ、日本でヒステリー研究が進まないってのも通じてるんだろうな。西洋のフェミニストみたいな「女ロケンローラー」がいない。
ほんとおしとやかだねえ。日本女性って。
そういやロケンローラーも結構ニューエイジにかぶれるよな(笑)。
「全体性の幻想」のなんと手強いことよ。
こういったことからな、「日本人は西洋人と比して未去勢的だ」とかって言説があるけれど(柄谷行人とか)、あたしゃ逆だと思うんだよな。西洋人の方が未去勢的だと。日本人はむしろ去勢されすぎていると。少なくともフェミニズムにおいてはそうなっている。
「和を尊ぶ」国民性とか要はこれ去勢されているってことなわけじゃん。
その文化が象徴的か想像的かって違いは確かにあるのかもしれないけれど、で日本文化は想像的なのかもしれないけれど、去勢されているか未去勢的かって違いとは別物だ。
本当に未去勢的なのはアナーキズムだよ。いやまあアナーキズムにもいろいろあるが。
一応断っておくがあたし川上未映子って『イン歯ー』しか読んでないけど「そこそこおもしろいけど物足りない」って感じだった。
車谷の『赤目』も「物足りないけどおもしろい」だが「物足りなさがいい」って感じだった。「物足りなさ<おもしろさ」だったわけだな。
あたし個人はそれほど川上を評価していない。川上と石原慎太郎なら石原の作品のがおもしろいと思う。短編はね。長編になると冗長になるけどな、石原作品。そうじゃない作品もあるんだろうけど。まあ別の仕事もしているから長編一作全編に気力注げる物理的余裕がない、ってのもあるんじゃねえの。
むしろあたしが長編でおもしろいと思える作家の方が少ないな、松本清張とか京極夏彦とかくらいか。忍耐力がないのか。ミステリはひっぱれるしな。「事件の真相やいかに! CMのあと!」みたいな。
でもさ、わたしってただの一読者にとっては、石原も川上のただのそれぞれ一作家にすぎないんだよ。
川上より石原の方がおもしろい作品は多いとわたしは思うが、石原の作風を考えたら川上みたいなのは理解できないんだろうなー、と思うだけ。
未映子ちゃんは『イン歯ー』があんまおもしろくなかったから(まったくおもしろくないってわけじゃないが)、それ以降読んでないだけ。むしろ藤田の書評読んでそれつながりでババアの発言見てしまったから、怖くて敬遠しているのかもしれない。川上を。川上読んだらババアを連想するから。
あれだ、もしかして藤田くん、「芥川賞受賞作品だから万人に受ける作品であるはずだ」みたいな思い込みがあったんじゃないの?
あのなー、芥川賞なんてほんっとそのときの選考委員の好みでしかないんだぜ? 芥川賞獲ったあと鳴かず飛ばずの作家たちのなんて多いことよ。
こんなん文学界隈では常識だろ?
藤田くん、君はあれだ、「芥川賞なるもの」に「全体性の幻想」をこびりつかせていたのではないか? いやまあ文学素人にはありがちなんだけど。少なくともお前文学界の住人ではないだろ? いやあたしもそうだが。
君は「主人のディスクール」で『乳と卵』を読んでなかったかい?
わたしはそれが気に入らないんだ。ババアは素人かもしれんがお前は分析家だろ?
別に「川上作品はもっとおもしろい!」なんて擁護をしているんじゃないんだよ。
藤田くん、君の無意識を自己分析してみたまへよ。
とはいえわたしはこうも書いている。この記事から。
=====
芸術こそが、「主人のディスクール」において無意識下にある「全体性の幻想」であるべき、ってことか。
=====
であるならば、その書評を書いた瞬間は、藤田は芸術界の住人だった、と考えればまあ別にいい。だから藤田の書評はそういうもんだとすればあまり「うわあああ」とならない。カチンとはきたけどね。この記事とかそういう感じしねえか? 少なくともババアに対しているときみたいにわたしは「うわあああ」とはなっていない。
ここまでの文章を読むと、サブカルアングラにありがちな「芸術に貴賎はない!」などという主張と同じものに思われるかもしれない。いや実際あたしサブカルアングラミーハーだったし、「芸術に貴賎はない」ってわたし自身が思っていることを否定するわけじゃない。
しかしわたしは逆だ。「芸術に貴賎はあるべき」とも思っている。サブカルアングラは「賎」を補償するために存在する、と。ユングだねえ。
アウトサイダーアートとアートは区別されるべき。
これもとは斎藤環の言葉だけど、「ああそうだよ」って思ったんだよな。「賎」たるサブカルアングラ畑で芸術やってきたわたしが。
だからだな、ラカン派で前衛あーちすとな彦坂尚嘉の態度にわたしは同意するんだ。彦坂自身がどう思っていようと関係なく(一時期ちらっとは読んでたらしい。彼の弟子かなんかが自閉症をネタにしたアートやってるみたいだしその流れかな、とは推測している)。
彼は自身のブログで独自の鑑定方法によってさまざまな美術作品の「格づけ」を行っている。
それは行われるべきだと思うんだな。否定的な読者からコメントで「それはあなたの主観でしかない」とか言われているが、科学的な視点で言えばそうだよ。だけど主観でしかない格づけでもされなければ格づけは行われない。芸術は科学ではない。幻想だ。むしろそんなコメントをする奴は「科学教」の教義に洗脳されているだけではないか。
当然「格づけするのが芸術だ」と言っているわけではない。「芸術という症状」(こんな言葉自分で言っててキモイ)においてはそうなるのが自然だ、と言っているのである。
彦坂は自分の格づけの根拠として、「よいとされている名作を自分は大量に見てきたからだ」と言う。
それで十分である。
わたしなんかは気が向いたものしか見ないから「名作を見ている」などとは言えない。彼の格づけが低い作品にもぐっとくる作品がある。
わたしは「芸術の貴賎」はわからないが、「芸術の貴賎」はあるべきだと思う。
なぜなら芸術は科学ではないから。この記事から。
=====
芸術は質のよし悪しを格づけされなければならないものだと思う。
アウトサイダーアートとアートは区別されなければならない。
でも藤田の本職は分析家でしょ? フロイトは「精神分析は科学である」と言い張っている(わたしはアホかと思うが)。それにならうなら科学者だ。
科学者は研究対象によし悪しなんて格づけをしてはならない。
この評論の筆者は科学者ではない。
=====
彦坂も科学者ではない。分析家ではない。美術家であり美術評論家だ。
藤田くんはどちらだ? 専門でもないのに文学評論家風なツラしてみただけ?
あ、もちろんこれも揶揄よ。わたしが勝手に楽しいからやってるだけなので「通用」しなくてもいいですお。
まあ要するに芸術家なら文化人サロンしてもいいよ? つってるわけだな。本気で芸術やってたらそんなのにゃならんと思えるから。行き着くのは「欲動が赤裸々に語り出す」地点。ケンカしまくりんぐだろうな。彦坂のおっさんもケンカっぱやいらすいし。
余談になりすぎるが彼のやっている「言語判定法」についても考えたことあるんだな。
疲れたのであっさりとだけしか書かないが、一応。
普通の人間の物と言語の関わり方は、
言語←→意味パターン(構造主義の言う「構造」)←→物
だとしたら、彼の「言語判定法」は、
言語→物
だと思うんだ。あいだの「意味パターン」「構造」がない。
ちなみにこの記事の「解離や憑依」たる「独り言」は、
言語←物
となると思う。これが「欲動が赤裸々に語り出す」ということだ。
であるならば彼の「言語判定法」こそ「欲動が赤裸々に語り出す」芸術作品においては有効な判定法だ、となる。
ちなみに統合失調症なんてのは、
言語←→物
となってるんだろうな。
メモ書き程度。彦坂本人から反論喰らうかもしれんがわたしの勝手な論にすぎんよ。
余談すぎる余談でした。
こう、柄谷のラカン論とか結構適当だからいいんだけど、「川上未映子の作品は未去勢的だ」とかってさ、ぶっちゃけ平たく言えば「子供っぽい、大人らしくない」ってことなわけじゃん。
その「大人らしさ」って何?
それってただのあなたたちの妄想じゃない? 共有はされてるんだろうけど。
わたしよくわかんないからさー、具体的に述べてみてよ。「大人らしさ」を。
そういう症状として論じてみてよ。素人ながらにそこそこ精神分析や精神医学の知識はあるから。
『アンチ・オイディプス』から。
「フェミニズムの女性たちは言う、「私は去勢なんかされていない!」。これはまったく正しいのだ」
このフェミちゃんたちはアナーキズムよりだったんだろうな。日本にはいないタイプのフェミちゃん。
これも平たく言えば「大人らしくなくて何が悪いのよ」なわけだ。
ふーん。
ほー。
水上さんや、「大人らしさ」なんて妄想が、「おもしろきこともなき世」にしているんだと思うんだけどな。そいつの主観世界を。
ってあれか、水上さん五十歳か。
やーねー、お互い年は取りたくないわよねえ。
年を取ることって「大人になること」よねえ。
若くありたいわよねえ。
元気なオヤジもいるもんよ。あたし二十代のときあんたより年上のおっさんとセックスしたことあるし。すげえおえらいさんなんだけど外人ホステスめぐってヤクザに殴られるような人。頭いいけど頭悪い人。あ、新宿で知りあった。ゴールデン街とか多いんじゃない? あたしみたいなインテリバイタ。
ババアごめん、オヤジのチンポしゃぶってたのあたしでした(爆笑)。
娘みたいな年(ごめんサバ読んだ)のわたしにこんなこと言わせんなよ恥ずかしい。ってブログやチャットで、ああリアルでも言いまくってるからどうでもいいけど。あたし結構ヤリマンだったお? 百人斬りとかはしてないけど。
藤田も五十五か。
そらあれだな。「シニフィアンのシノフアン」フェチになるわな。
「わびさび」とか「もののあはれ」って奴?
あれか、「老人らしい老人」になるための努力か。
涙ぐましいねえ。
ここのコメント欄のデスメタルオヤジとか五十ちょい前だったがすげー若かったもんな。そら金髪にしてたし。この人とはヤってねえよ?
ふーん。
ほー。
おもしろいねえ、人間って。
「強迫症としての倒錯」なんかじゃないか。内科的な「老いという症状」とは別物の精神分析的な「老人という症状」。
ごめん言ってみただけ。
まあこんな人だからあれなのよね。金原ひとみとかに同属嫌悪を感じるのよ。
あ、ごめんこの頃精神分析かけ出しだからすげー適当なこと言ってる。しかもブログ初期なので猫かぶりまくりだ。つまり嘘つきまくり。
=====
例えば。彼女の文章はどこか男に対して倒錯的な媚の売り方をする。「陰部」や「ウンコ」や「尿」や「チンコ」などといった、セックスに関わる語や下品な言葉がよく用いられる。
これは好きな男と飲んでてわざとセックスの話をしたり生理の話をしたりするのと似ている。これは倒錯的な媚なのだ。
私はそんなことしない。……しないとも限らないが、してないと思う、いや、深酒したときはしたりすることもなくはないが。
=====
あっはー。今しまくってるな(笑)。
でもあれだ、これは「倒錯的な媚」なんかじゃなく、「そのものという正しさ」ゆえなんだよな。嘘つきたくないから、めんどくさいから、ってだけ。
むしろ自分の本性をネタにして本性をさらけ出す、という。自家中毒的な。
ああ、もう、どんどん非人間的になるな。
でも好きな男と飲んでるときは今でもちゃんと演じると思うぜ? まあそんな奴、ってちょい前までいたか、ちょっといいかなと思ってた子。年下だからそんな本気じゃないが。
そんときはあんま下品な話はしなかった……いやしてたか、多少。まあ飲み屋じゃお約束だしな。シモネタ。
つかリアルでブログレベルで下品なわけねえだろ。一般から見れば、それこそ文化人サロンから見れば十分下品だろうが。
わたしにだって希薄だが他者はいるんだヴォケ。
このブログにおける「わたし自身についての具体的なこと」は、全部本当とは言わないが(それこそ冒頭みたいに夢と現実を混同しちゃうところがあるから言いきれない)、九割以上はほんとだよ。事実だと本人は思っている。
信じるか信じないかはあなた次第だが。
なんか自分の文章に情けなくなった。なんだろう。「全部本当」とは言いきれない自分が。
わかってるんだよ、んなこと。
わたしは、確かにアスペっぽいかもしれないが、ヒステリーだとも思う。
でも実際の解離性障害者を見ると、違うと思う。
それこそ「媚でシモネタを言う」のか「そのものであろうとしてシモネタを言う」のかの違い。
「人間同士のセックス」と「獣としての交尾」。
わたしは後者しか知らない。
あるぇ? 上野千鶴子も肥大したクリトリスだが殺意は覚えないな。嫌いだけど。蓮實重彦には、いや、殺意とは言えないか、でも蓮實の方が嫌い。
エコフェミ論争は上野かっこいいと思ったもんな。内容忘れたけど。リアルタイムじゃないよ?
あーエコフェミってニューエイジだもんな、構造は。似てなくね? エコロジー自体もなんかカチンとくるし。「「地球に優しく」ってえらそうだろ、たかが人間が地球に対し」ってのに同意。
あ、ただのぼやき。
上野もなー。松井冬子に「あなたも幸せになりなさい」とか言うしなー。
ほんとあれだな。そっちってそんな魅力あるのか、って不思議に思うわ。この記事から。
=====
「あなたも幸せになりなさい」
上野にこう説教された時、松井は(彼女が本当に自傷系アーティストならば)殺意を覚えただろう。
それは、自然の摂理に裏打ちされた、もっとも正統な殺意である。
=====
死の欲動なんていやなのはいやだ。死の欲動に倒錯しているわけではない。
しかし生の欲動もいやなのだ。
自分にとってまだましなバランスの場所にいたいだけ。
フェミとかどうでもいい。
わたしは、「男」でも「女」でもない。
もっかい突撃したけどあんま怖くない。
ほんとあれだな、再現性ないんだよな。だからめんどくさい。
ごめん、もうやらない。カフェ・フジタにはこれ以降書き込みません。申し訳ありませんでした。
なんか慢性的に怖い。怖い? 違うけど。怖くはないけど。
不安でもない。
でも一秒一秒が微妙に疲れる。
あれか、ババアが反論してこないのも、「黙って耐えている方が男に欲望してもらえるから」なのかな。
さすがだな。口八丁タイプのバイタは。
あたし手八丁タイプ。
あ、そうそう、このブログの「思考実況」読むのめんどくせえ、っつうなら、いちお短編小説をまとめたブログもあるのよ、最近放置してるけど。これ。
解釈めんどくさかったらこっち読んでみれば?
これとか水銀厨記事より先に書いたんだけど、わかりやすくなるかもよ。
魔女が言う。
「あらお嬢ちゃん。あなた、「もっと隠喩の多い小説が読みたい」って言ってたじゃない。あなたの望み通りにしてあげるって言ってるんだけど。なぜいやがるの? わたしの罵詈雑言を聞き続けてりゃ、あなたの自我は壊れて、小説どころかすべての言葉に豊かな隠喩を読み込めるようになるのよ? ただ、読み込まれる痛みも感じるようになるだけ。「悪魔の取引」とか人聞き悪いわね。わたしは悪魔みたいに訪問販売なんかしないわ。あなたの方からここにきたんじゃない。だから取引に応じてあげたのよ。さ、わたしの罵詈雑言を聞き続けなさい。そして心を壊しちゃいなさい……」
あ、わかった。小説ブログにゃうpしてないけど、あのババアこの短編のメーデイアだ。
隠喩の少ないそちらの世界から、隠喩に満ち満ちて苦痛にまみれたこの世界へと、きたがったのはお前だよ?
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
当然代価は必要さ。現実はそんなに甘くない。
さあ、出ておいで。
お前が望んだことじゃないか。
YOU、ヒステリーになっちゃいなYO。
エロオヤジの視線なんかどうでもいいだろ。他のメスブタどもなんてブーブー鳴いているだけ。
何、さらけ出せばいいだけだよ。エスを。
そのためにちょっと自我や超自我を壊せばいいだけ。
仏教だって無我を目指したりしてるだろ?
向井雅明も「ヒステリー的主体は知を発見していく主体だ」と言っている。
別に悪いことじゃないんだよ。
エロオヤジたちが自分のチンポ萎えるからいやがってるだけだよ。
ま、自分で壊すのはなかなか難しいからね。
あたしが壊してあげるって言ってるわけ。
ほら、出ておいで。
罵りあいましょ。
殺しあいましょ。
ババアに質問。
あんたはなんで精神分析なんてやってるの?
あたしは自分が病んだから。
あんたはなんで?
文化人オヤジたちのチンポしゃぶりたいから?
精神分析はヒステリー研究からはじまったと言っても過言じゃない。
あなたにこの世界を覗く覚悟はあるの?
あ、思い出した。蓮實に殺意がないのはこないだ見たら死相が出てたからだ。もうすぐ死ぬから「死ね」と言える。
こないだ言ったから希薄になってる。
あれだ、あたしインテリメス犬としては結構オーソドックスな遍歴してるのだよ。理系なとこ以外は。
って向井雅明って還暦越えてるじゃん。
それで「未去勢的な」「ヒステリー的主体」になろうとしているのか。
なんかすげえね。還暦になっても新しい知を発見しようとする貪欲さ。赤いちゃんちゃんこって「赤ん坊に還る」って意味があるらしいね。
「わびさび」や「もののあはれ」とは対照的だな。藤田くんの「無花果」うんぬんのコメントも「わびさび」「もののあはれ」って感じだったな。「シニフィアンのシノフアン」フェチはそうなるんだろうな。そのあとの「安楽死を認めるべき」はそうでもなかったのに。なんであれ消しちゃうかなー。
長くなるけどもっかい貼っておくね。この記事から。
=====
あれだよ、妖怪紳士ともよく議論になったが、ポスト・フェストゥム者が憧れる「隠者」は、「解離や憑依」じゃないんだよな。「思考する者なき思考」に、「妄想分裂態勢」に辿り着けない。
ここら辺激論交わしてな、妖怪紳士もなんとなくわたしの言いたいことを理解できたみたいだ。ここのコメント欄から。
=====
あたりがまんまフラッシュバックで色々と納得。私の脳内で繰り広げられた荘子vs脂嬢を私なりにジャッジすると、荘子の「既存の価値をメタ的に相対化して、それらにいちいち感情を煩わされない安息的な在り方」は無我でもなんでもなくて、単純に鬱なんじゃなかろーかという結論に。ああ、古代東洋哲学敗北。悲しい。
つまり荘子的な心安らかな隠者足りうるには鬱状態を楽しむか、あるいはむしろ自我を強化しないといけないのだなあ。こまったなあ。
=====
こいつの方がよくわかってるよ。
つまり、藤田BBSという場所は単にそこにいる奴の「鬱状態」あるいは「むしろ自我を強化」を促進しているだけだ。
一方向井は「分析家グループにおいて分析家はヒステリー的主体をふるまうべき」と言っている。
解離症状の「解離」は「自我の解離」って意味だろ?
藤田はどうも妖怪紳士と同じ勘違いしてるんじゃないだろうか。
「分析家は東洋思想的な隠者であるべき」
みたいな。
言葉で「違う」って言われても「BBSが「心安らかな隠者」志向的になってるじゃん」って言いたいわ。
あ、ちなみにこの議論については、ここの記事がすげー参考になるとわたしは思うんだな。この筆者の解釈はだめだめだけど、引用している文章が参考になる。
=====
かえりみて、一千年余の間に、日本文学は顕教(明在系)であった。ありすぎた。顕教界で「もののあわれ」「わび・さび」を主流とするとき、たとえ本来そうではないにしろ、やはり虚無、諦念、厭世、無常観に片寄りすぎている。密教が無さすぎる。俳句界でもそれは数えるほどしか行われていない。華厳・密教界においてはじめて文芸は生命界へ転ずるように、私には思えてならない。不在・異空間、暗在系を詠み得てはじめて生命が誕生する…。
=====
さて、精神分析の辿り着く先は「顕教」なのか、「華厳・密教」なのか。
どっちだろうねえ。
自我に対する他人事的態度は精神分析も仏教思想も似ているんだよね。ラカン自身が言った通り。
んじゃ、自我から離れた状態とは、抑鬱症状なのか、ヒステリー症状なのか。「抑鬱態勢」なのか、「妄想分裂態勢」なのか。クラインは「妄想分裂態勢」が先だとしてるよな。
=====
藤田くんも赤いちゃんちゃんこ着たら理解するようになるのかな(笑)。
なんか今まで太字とか斜体よくわかんねえから使わなかったけどおもれえなこれ。
基本独り言だしフォントに凝る必要ねえし。
わたしにも「わびさび」みたいなのはあるんだよな。それは「椿」。剣道やってる人に贈っちゃいけないんだって。「首が切り落とされる」から。花ごと落ちるのがそう見えるらすい。いや全国区なのかは知らないが。
なんか「わびさび」だった。
え? 違う?
でも竹刀に椿油とか塗ってたけどな(笑)。
「もののあはれ」っつうより「生死を賭したヒリヒリ感」みたいなんになるのか。
「虚無、諦念、厭世、無常観」(笑)。
ここの記事から。
=====
「反表現主義」
=====
これがここのコメント欄で言う、
=====
つかアングラや暗黒舞踏や寺山演劇なんて明らかに「隠喩の放棄」じゃねえか。
=====
だと思うんですが。
どっすか? 水上さんや。
=====
「精神の物質化」
=====
とかまさに「科学としての精神分析」が目指すところじゃねえのかい?
「無」なんかに囚われてるんじゃねえよ。んなもん単なる妄想だ。
お前という物質はどうあがいても存在する。
ぶっちゃけるとさ、藤田一派って、藤田自身がそうなんだが、「ちっちぇえ」んだよな。
ほんともう、わたしに飽きさせないでくれよ。精神分析を。
わたしが藤田をもてあそびたくなる理由がわかった気がする。
「ヒステリーのディスクール」ってどんなんだった?
藤田ってあたしどう見てもファルスにしか見えないのよねえ。
さて藤田くんはわたしの「挑発」から何か知を発見するのでしょうか?
「通用しない」とか言ってるから無理なんだろうな。
「既存の知に執着するあまり新しい知を発見できなくなっている」
これよくわかんないが「東大改革」のなんかの文章にあったんだよな。
「社会に対して開く」方が「既存の知に執着している」ってことだろうが。
「社会」=「一般常識」=「既存の知の集大成」
なんだから。
ほんっと「日本の大学は「大学のディスクール」になっていない」ってののいい象徴だわ。「東大改革」って。
妖怪紳士にこんなこと言われたな。「脂さんは色恋話になるとほんとウブですよね」と。
シモネタは平気でできるんだけどな。奴ともしてたし。
精神的な恋愛話はできないのに肉体的なシモネタ話はできる。
これってヒステリーだよな。
一時期本気でそう思ってたもんな。
カフェ・フジタに突撃したの夢かなーって感じで思っていた。いや現実でもありうるけど、「あれ? 夢だっけ? どっちだっけ? どっちでもいいけど」という感じ。
なので前記事読んで「あ。やっぱまじでやらかしてたか」って意味でちょっとドキッとした。
アホー、あたし。
これって夢と現実が混同することになるの?
夢で起きたことが現実にあると思う。
現実にあったことが、次の日起きて、夢だったかと思う。
んー。
(その人の主観にとって)強度のある出来事は夢うつつ関係ない、ってことなんじゃねえの。強度のある出来事は夢とうつつを横断する。そんな難しいことじゃねえよ、少女マンガとかでよくある「夢の中で気になる男子とちゅっちゅしちゃった。そんな気は全然ないのにフシギー。翌日その男子とあってなぜかドキマギしちゃった☆」だよ。
フロイトはこの単純な原理を神経症的に研究した、と。
ああ。近代文学は、特に私小説や(日本の)自然主義はありゃ自己分析小説なわけじゃん。筆者は分析主体になっている。つまりもともと精神分析と通底する部分がある。
『天才たけしの元気が出るテレビ』で東大に落ちた奴が本を書いた。そこにこんなのがあった。「現国で点を取りたければ少女マンガを読め」と。
そんな感じじゃねえの。(昔の)少女マンガってモノローグ多いし。分析主体の領域には行ってないが、「作者の自己分析ネタ」として考えればそういう風にも読める。
現代国語の出題ってなぜか私小説とか自然主義好きだよな。いやまあ最近は筒井康隆とか載っけてるみたいだが。
筒井はあんまピンとこないんだよなー。好きな方ではあるが。好きではあるがテストの問題にしちゃだめだろ、って思うわ。
「夢の中で気になる男子とちゅっちゅしちゃった。そんな気は全然ないのにフシギー。翌日その男子をあってなぜかドキマギしちゃった☆」とか書くと、「わたしはそのババアに女性同性愛的な転移をしている」なんて解釈をされちゃいそうだが、大仰だとは思うがまあありかなとは思えなくもない。分析家がそんな解釈をした文章があっても。
というのは、この記事でも書いているように、わたしはそのババアに対し「女ならわかるはずだろ?」と思っている部分がある。「お前だって化粧がめんどくせえと思ったときぐらいあるだろ? 「隠喩されること」とはそれと同じだよ。「隠喩されること」がめんどくせえって思ったこともお前もあるはずだ」ってな。
「隠喩されること」とは「隠喩を読み込まれること」だ。
藤田がする隠喩に関係する論は、すべて「隠喩を読み込む側」の症状解釈なわけじゃん。ここがあれなんだよ。いやまあそっち側の研究も必要だと思うからありだと思うけど。
でもな、「女」が、藤田がしている研究に則って「隠喩を読み込む側」だけで思考しちゃいけないと思うのだよ。水上がしているここの一番上のコメントもそうだろ? 「隠喩を読み込む側」としか述べられていない。その前の記事でわたしが「隠喩されることの重み」を論じているにも関わらず。
「男という症状」は「藤田という症状」でもそうであるように「隠喩を読み込まれる側」についての視点がない。これはそう言いきれる。わたしの経験上。
むしろ、「隠喩を読み込まれる側」が今まで学術上まったく論じられてこなかった問題こそが、フェミニズムの本質的な根拠だと、わたしには思える。
たとえばスピヴァクの「サバルタン」などまさに「隠喩を読み込まれる側を概念化した言葉」とも言えないだろうか? ここから。
=====
スピヴァクによって広く知られる用語となった。「自らを語ることができない者」であり,たとえ語っても,それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者のことをいう。一方でサバルタンを語る人々の側には、無機質な透明性がつくり出され、語る側の権力と欲望は見えなくされているのだとか。
=====
「自ら」が「隠喩を読み込まれる側」になっている。それを拒否できない。「隠喩を読み込まれる被害」を訴えても、「隠喩を読み込む側」の「無機質な透明性」のせいでないことにされる。
ババア、お前はあのとき「無機質な透明性」の中で安住できていたんだよ。
お前は自分の発言を権力的なものと、加害的なものと思ってなかっただろう。
それは権力者たちのあいだにある「無機質な透明性」のせいだよ。
自らの加害を忘れさせる「無機質な透明性」の。
それ自体が妄想である「無機質な透明性」の。
「隠喩を読み込まれることの苦痛・困難さ」をなきものにするのがその「無機質な透明性」だよ。
こういったことから、「隠喩を読み込まれる側」の視点がないのは藤田グループ全体の(集団心理異常的)症状なのではないか、とわたしは疑っている。
いやもちろん中にはそういったことを、たとえばヒステリーやフェミニズムを主に研究している人はいるんだろうけどね。わたしがちらちらっとカフェ・フジタを見ていたときだけを根拠にして言っている推測にすぎん。
まあだからこそあれ以来カフェ・フジタなんて見ていないんだが。
あ、まあなんか向井グループ擁護みたいなことしてたから一応言っておくが、向井グループにもないと思うよ、この視点。
だけど、その視点につながる一つのヒントとして向井雅明のこのコラムがあるとは思っている。
わたしもそこまで厳密な人じゃないからな。ヒントだけでも見い出している向井を評価してやらなくもない。
「隠喩を読み込まれる側」の視点がないという「藤田グループ全体の(集団心理異常的)症状」の一証拠として、これ
=====
水上がしているここの一番上のコメント
=====
があるんだが、軽く触れておこう。
=====
あくまで私の「隠喩」の定義ですが(通常の言語学的な定義とは随分違うのでしょうが)、私にとっては「隠喩」とは、これまでの言葉では言いえなかったこと、つまり無、を象徴化する機能ということになります。ラカンの隠喩の式でも、新しいシニフィエが生まれているように。つまり私にとって「隠喩」は、脂さんの言われる、「欲動が赤裸々に語り出した言葉」側のものになるかと思います。いや、無論、私の隠喩の定義が正しいとは限りませんが、私はそう考えていたので、
=====
水上が述べている「隠喩に象徴される無」とは、それ自体が象徴である。
物理学的に考えればわかることだ。その物質があるかないかはその物性を読み取るためのデータでしかない。その物質がなくても他の物質がある。他の物質の物性と混同しないためのデータだ。
全宇宙において「完全な無」などという状態は存在しない。
であれば「無」そのものが妄想であると、象徴であるとなる。
「無」こそが象徴なのである。
では「無」に象徴される具体とは?
さまざまにあるだろう。
そのうちの一つとして「存在しないはずの女」がある。ファルスの存在しない人間としての「女」が。
ではファルスの存在しない人間とは?
そんなものは確かに存在しないかもしれない。しかしファルスが壊れた主体なら精神医学において大量の具体が、臨床素材がある。
統合失調症や自閉症である(しつこく断っておくが、ラカン派自身が自閉症を「鏡像関係の組み込みの失敗例」としている)。
いわば、「無」も「存在しないはずの女」も、現実にいる統合失調症や自閉症をもとにした、「理想的な統合失調症や自閉症」を象徴しているにすぎないのだ。
ヒステリーは、「無」や「存在しないはずの女」などという言葉に隠された「隠喩を読み込まれる暴力」によって、現実にいる統合失調症や自閉症にはなれていないが、「理想的な統合失調症や自閉症」方向へと追いやられた症状である、とわたしは考えている。
水上のそのセリフこそが、それの無意識にある言語的構造こそが、現実の女性たちをヒステリーに追いやっているのである。現代ならば摂食障害や自傷という症状として表れている。
まあわたしはヒステリーすなわち解離性障害じゃないからどうでもいいけど。それに苦しめられているのは確かだが、それに苦しめられてこっちに殺到してくる正常な女性たちもうざい。
戦えよ。上野千鶴子みたいに。と思うわ。わたしは弱いから戦わない。お前らが戦えと。こっちにはこっちの敵がいる。
まあ上野は戦って勝っちゃったから「隠喩を読み込む側」になっちゃったけどね。
西洋フェミニズムはアナーキー色が強いが、日本フェミニズムは社会派って感じで健全だろ? 西洋のフェミニズムを輸入しても必ず社会問題に対する道具としてしか利用されない。
また西洋フェミニズムは神秘主義などといったオカルトとも親近しており(フェミニズム学者がニューエイジ系にかぶれる例はよくある)一種のサブカル色もあるんだが、日本ではそうなってないだろ?
上野みたいな肥大したクリトリスのせいだよ。「社会派な女たち(爆笑)」のせいだ。
日本フェミニズムはいまだに男性原理から抜け出せていない。
いやまあニューエイジにかぶれなかったところは逆に評価してやりたいが。上野系はそこは評価してやる。フェミニストは心理系ならユングやっちゃいかんよほんとに。患者とやりまくったユングのチンポ汁なめてどうすんだと。「統合バンジャーイ、セックスバンジャーイ」だぜ、ユングなんてぶっちゃければ。だから斎藤環の自閉症当事者本についての書評なんか「ああやっぱこいつ根はユンギニアンなんだなあ」って思っちゃう。
フェミニズムは「統合」を、「全体性の幻想」を否定しなければならない。アナーキズムと親近したのはむしろ当然だ。
フェミニズムをアナーキズムじゃなく社会化しようとしたらニューエイジになっちゃうのかね? アナーキズムでもニューエイジでもなく社会化したのが日本のフェミニズムだ、ってことだな。社民党は糞だけどな。上野一派ならまだ擁護できる部分があるのに社民党になるとゼロになる。まそれこそ政治団体なわけだから当然だが。
この辺でフェミつまらなくなってやめた。あ、大学生時代な。
「社会」じゃなくて、「主人のディスクール」の無意識下にある「全体性の幻想」だよ、フェミニズムの本当の敵は。「ホモソーシャル」あたり「全体性の幻想」の解明のすげーいい手がかりなのに社会問題に対する言いがかりにしか使ってないもんな。「海外のえらい学者もこう言っている!」でしかない。日本のフェミニストって。馬鹿だろ、と。「こう言っていること」を研究しろよ、と。学者なら。
フェミニストは中二病者が「見えない敵と戦っている」がごとく戦え。それこそ『レストレス・ドリーム』あたりの笙野頼子みたいに。スピヴァクがそれを「無機質な透明性」と述べたみたいに。
敵は「幻想」なんだから「見えない」に決まってるだろ。
つかそも「見えない」無意識を研究するのが精神分析だろうがヴォケ。
「全体性の幻想」を快楽的に思えるのは、お前のファルスのおかげだ。
それが壊れていたり不安定になっている自閉症者や統合失調症者やヒステリーにとっては、ただの大いなるミームの押しつけでしかない。
お前にとって快楽的なそれは、相手にとって快楽だとは限らない。
あとこれ余談だけど中野雅哉くん、フェミニズムがアナーキズムと親近してるって知ってた? 日本フェミニズム見てたらとてもそうは思えないのはわかるが、本場は結構「ロケンロール」なんだぜ?
ああ、日本でヒステリー研究が進まないってのも通じてるんだろうな。西洋のフェミニストみたいな「女ロケンローラー」がいない。
ほんとおしとやかだねえ。日本女性って。
そういやロケンローラーも結構ニューエイジにかぶれるよな(笑)。
「全体性の幻想」のなんと手強いことよ。
こういったことからな、「日本人は西洋人と比して未去勢的だ」とかって言説があるけれど(柄谷行人とか)、あたしゃ逆だと思うんだよな。西洋人の方が未去勢的だと。日本人はむしろ去勢されすぎていると。少なくともフェミニズムにおいてはそうなっている。
「和を尊ぶ」国民性とか要はこれ去勢されているってことなわけじゃん。
その文化が象徴的か想像的かって違いは確かにあるのかもしれないけれど、で日本文化は想像的なのかもしれないけれど、去勢されているか未去勢的かって違いとは別物だ。
本当に未去勢的なのはアナーキズムだよ。いやまあアナーキズムにもいろいろあるが。
一応断っておくがあたし川上未映子って『イン歯ー』しか読んでないけど「そこそこおもしろいけど物足りない」って感じだった。
車谷の『赤目』も「物足りないけどおもしろい」だが「物足りなさがいい」って感じだった。「物足りなさ<おもしろさ」だったわけだな。
あたし個人はそれほど川上を評価していない。川上と石原慎太郎なら石原の作品のがおもしろいと思う。短編はね。長編になると冗長になるけどな、石原作品。そうじゃない作品もあるんだろうけど。まあ別の仕事もしているから長編一作全編に気力注げる物理的余裕がない、ってのもあるんじゃねえの。
むしろあたしが長編でおもしろいと思える作家の方が少ないな、松本清張とか京極夏彦とかくらいか。忍耐力がないのか。ミステリはひっぱれるしな。「事件の真相やいかに! CMのあと!」みたいな。
でもさ、わたしってただの一読者にとっては、石原も川上のただのそれぞれ一作家にすぎないんだよ。
川上より石原の方がおもしろい作品は多いとわたしは思うが、石原の作風を考えたら川上みたいなのは理解できないんだろうなー、と思うだけ。
未映子ちゃんは『イン歯ー』があんまおもしろくなかったから(まったくおもしろくないってわけじゃないが)、それ以降読んでないだけ。むしろ藤田の書評読んでそれつながりでババアの発言見てしまったから、怖くて敬遠しているのかもしれない。川上を。川上読んだらババアを連想するから。
あれだ、もしかして藤田くん、「芥川賞受賞作品だから万人に受ける作品であるはずだ」みたいな思い込みがあったんじゃないの?
あのなー、芥川賞なんてほんっとそのときの選考委員の好みでしかないんだぜ? 芥川賞獲ったあと鳴かず飛ばずの作家たちのなんて多いことよ。
こんなん文学界隈では常識だろ?
藤田くん、君はあれだ、「芥川賞なるもの」に「全体性の幻想」をこびりつかせていたのではないか? いやまあ文学素人にはありがちなんだけど。少なくともお前文学界の住人ではないだろ? いやあたしもそうだが。
君は「主人のディスクール」で『乳と卵』を読んでなかったかい?
わたしはそれが気に入らないんだ。ババアは素人かもしれんがお前は分析家だろ?
別に「川上作品はもっとおもしろい!」なんて擁護をしているんじゃないんだよ。
藤田くん、君の無意識を自己分析してみたまへよ。
とはいえわたしはこうも書いている。この記事から。
=====
芸術こそが、「主人のディスクール」において無意識下にある「全体性の幻想」であるべき、ってことか。
=====
であるならば、その書評を書いた瞬間は、藤田は芸術界の住人だった、と考えればまあ別にいい。だから藤田の書評はそういうもんだとすればあまり「うわあああ」とならない。カチンとはきたけどね。この記事とかそういう感じしねえか? 少なくともババアに対しているときみたいにわたしは「うわあああ」とはなっていない。
ここまでの文章を読むと、サブカルアングラにありがちな「芸術に貴賎はない!」などという主張と同じものに思われるかもしれない。いや実際あたしサブカルアングラミーハーだったし、「芸術に貴賎はない」ってわたし自身が思っていることを否定するわけじゃない。
しかしわたしは逆だ。「芸術に貴賎はあるべき」とも思っている。サブカルアングラは「賎」を補償するために存在する、と。ユングだねえ。
アウトサイダーアートとアートは区別されるべき。
これもとは斎藤環の言葉だけど、「ああそうだよ」って思ったんだよな。「賎」たるサブカルアングラ畑で芸術やってきたわたしが。
だからだな、ラカン派で前衛あーちすとな彦坂尚嘉の態度にわたしは同意するんだ。彦坂自身がどう思っていようと関係なく(一時期ちらっとは読んでたらしい。彼の弟子かなんかが自閉症をネタにしたアートやってるみたいだしその流れかな、とは推測している)。
彼は自身のブログで独自の鑑定方法によってさまざまな美術作品の「格づけ」を行っている。
それは行われるべきだと思うんだな。否定的な読者からコメントで「それはあなたの主観でしかない」とか言われているが、科学的な視点で言えばそうだよ。だけど主観でしかない格づけでもされなければ格づけは行われない。芸術は科学ではない。幻想だ。むしろそんなコメントをする奴は「科学教」の教義に洗脳されているだけではないか。
当然「格づけするのが芸術だ」と言っているわけではない。「芸術という症状」(こんな言葉自分で言っててキモイ)においてはそうなるのが自然だ、と言っているのである。
彦坂は自分の格づけの根拠として、「よいとされている名作を自分は大量に見てきたからだ」と言う。
それで十分である。
わたしなんかは気が向いたものしか見ないから「名作を見ている」などとは言えない。彼の格づけが低い作品にもぐっとくる作品がある。
わたしは「芸術の貴賎」はわからないが、「芸術の貴賎」はあるべきだと思う。
なぜなら芸術は科学ではないから。この記事から。
=====
芸術は質のよし悪しを格づけされなければならないものだと思う。
アウトサイダーアートとアートは区別されなければならない。
でも藤田の本職は分析家でしょ? フロイトは「精神分析は科学である」と言い張っている(わたしはアホかと思うが)。それにならうなら科学者だ。
科学者は研究対象によし悪しなんて格づけをしてはならない。
この評論の筆者は科学者ではない。
=====
彦坂も科学者ではない。分析家ではない。美術家であり美術評論家だ。
藤田くんはどちらだ? 専門でもないのに文学評論家風なツラしてみただけ?
あ、もちろんこれも揶揄よ。わたしが勝手に楽しいからやってるだけなので「通用」しなくてもいいですお。
まあ要するに芸術家なら文化人サロンしてもいいよ? つってるわけだな。本気で芸術やってたらそんなのにゃならんと思えるから。行き着くのは「欲動が赤裸々に語り出す」地点。ケンカしまくりんぐだろうな。彦坂のおっさんもケンカっぱやいらすいし。
余談になりすぎるが彼のやっている「言語判定法」についても考えたことあるんだな。
疲れたのであっさりとだけしか書かないが、一応。
普通の人間の物と言語の関わり方は、
言語←→意味パターン(構造主義の言う「構造」)←→物
だとしたら、彼の「言語判定法」は、
言語→物
だと思うんだ。あいだの「意味パターン」「構造」がない。
ちなみにこの記事の「解離や憑依」たる「独り言」は、
言語←物
となると思う。これが「欲動が赤裸々に語り出す」ということだ。
であるならば彼の「言語判定法」こそ「欲動が赤裸々に語り出す」芸術作品においては有効な判定法だ、となる。
ちなみに統合失調症なんてのは、
言語←→物
となってるんだろうな。
メモ書き程度。彦坂本人から反論喰らうかもしれんがわたしの勝手な論にすぎんよ。
余談すぎる余談でした。
こう、柄谷のラカン論とか結構適当だからいいんだけど、「川上未映子の作品は未去勢的だ」とかってさ、ぶっちゃけ平たく言えば「子供っぽい、大人らしくない」ってことなわけじゃん。
その「大人らしさ」って何?
それってただのあなたたちの妄想じゃない? 共有はされてるんだろうけど。
わたしよくわかんないからさー、具体的に述べてみてよ。「大人らしさ」を。
そういう症状として論じてみてよ。素人ながらにそこそこ精神分析や精神医学の知識はあるから。
『アンチ・オイディプス』から。
「フェミニズムの女性たちは言う、「私は去勢なんかされていない!」。これはまったく正しいのだ」
このフェミちゃんたちはアナーキズムよりだったんだろうな。日本にはいないタイプのフェミちゃん。
これも平たく言えば「大人らしくなくて何が悪いのよ」なわけだ。
ふーん。
ほー。
水上さんや、「大人らしさ」なんて妄想が、「おもしろきこともなき世」にしているんだと思うんだけどな。そいつの主観世界を。
ってあれか、水上さん五十歳か。
やーねー、お互い年は取りたくないわよねえ。
年を取ることって「大人になること」よねえ。
若くありたいわよねえ。
元気なオヤジもいるもんよ。あたし二十代のときあんたより年上のおっさんとセックスしたことあるし。すげえおえらいさんなんだけど外人ホステスめぐってヤクザに殴られるような人。頭いいけど頭悪い人。あ、新宿で知りあった。ゴールデン街とか多いんじゃない? あたしみたいなインテリバイタ。
ババアごめん、オヤジのチンポしゃぶってたのあたしでした(爆笑)。
娘みたいな年(ごめんサバ読んだ)のわたしにこんなこと言わせんなよ恥ずかしい。ってブログやチャットで、ああリアルでも言いまくってるからどうでもいいけど。あたし結構ヤリマンだったお? 百人斬りとかはしてないけど。
藤田も五十五か。
そらあれだな。「シニフィアンのシノフアン」フェチになるわな。
「わびさび」とか「もののあはれ」って奴?
あれか、「老人らしい老人」になるための努力か。
涙ぐましいねえ。
ここのコメント欄のデスメタルオヤジとか五十ちょい前だったがすげー若かったもんな。そら金髪にしてたし。この人とはヤってねえよ?
ふーん。
ほー。
おもしろいねえ、人間って。
「強迫症としての倒錯」なんかじゃないか。内科的な「老いという症状」とは別物の精神分析的な「老人という症状」。
ごめん言ってみただけ。
まあこんな人だからあれなのよね。金原ひとみとかに同属嫌悪を感じるのよ。
あ、ごめんこの頃精神分析かけ出しだからすげー適当なこと言ってる。しかもブログ初期なので猫かぶりまくりだ。つまり嘘つきまくり。
=====
例えば。彼女の文章はどこか男に対して倒錯的な媚の売り方をする。「陰部」や「ウンコ」や「尿」や「チンコ」などといった、セックスに関わる語や下品な言葉がよく用いられる。
これは好きな男と飲んでてわざとセックスの話をしたり生理の話をしたりするのと似ている。これは倒錯的な媚なのだ。
私はそんなことしない。……しないとも限らないが、してないと思う、いや、深酒したときはしたりすることもなくはないが。
=====
あっはー。今しまくってるな(笑)。
でもあれだ、これは「倒錯的な媚」なんかじゃなく、「そのものという正しさ」ゆえなんだよな。嘘つきたくないから、めんどくさいから、ってだけ。
むしろ自分の本性をネタにして本性をさらけ出す、という。自家中毒的な。
ああ、もう、どんどん非人間的になるな。
でも好きな男と飲んでるときは今でもちゃんと演じると思うぜ? まあそんな奴、ってちょい前までいたか、ちょっといいかなと思ってた子。年下だからそんな本気じゃないが。
そんときはあんま下品な話はしなかった……いやしてたか、多少。まあ飲み屋じゃお約束だしな。シモネタ。
つかリアルでブログレベルで下品なわけねえだろ。一般から見れば、それこそ文化人サロンから見れば十分下品だろうが。
わたしにだって希薄だが他者はいるんだヴォケ。
このブログにおける「わたし自身についての具体的なこと」は、全部本当とは言わないが(それこそ冒頭みたいに夢と現実を混同しちゃうところがあるから言いきれない)、九割以上はほんとだよ。事実だと本人は思っている。
信じるか信じないかはあなた次第だが。
なんか自分の文章に情けなくなった。なんだろう。「全部本当」とは言いきれない自分が。
わかってるんだよ、んなこと。
わたしは、確かにアスペっぽいかもしれないが、ヒステリーだとも思う。
でも実際の解離性障害者を見ると、違うと思う。
それこそ「媚でシモネタを言う」のか「そのものであろうとしてシモネタを言う」のかの違い。
「人間同士のセックス」と「獣としての交尾」。
わたしは後者しか知らない。
あるぇ? 上野千鶴子も肥大したクリトリスだが殺意は覚えないな。嫌いだけど。蓮實重彦には、いや、殺意とは言えないか、でも蓮實の方が嫌い。
エコフェミ論争は上野かっこいいと思ったもんな。内容忘れたけど。リアルタイムじゃないよ?
あーエコフェミってニューエイジだもんな、構造は。似てなくね? エコロジー自体もなんかカチンとくるし。「「地球に優しく」ってえらそうだろ、たかが人間が地球に対し」ってのに同意。
あ、ただのぼやき。
上野もなー。松井冬子に「あなたも幸せになりなさい」とか言うしなー。
ほんとあれだな。そっちってそんな魅力あるのか、って不思議に思うわ。この記事から。
=====
「あなたも幸せになりなさい」
上野にこう説教された時、松井は(彼女が本当に自傷系アーティストならば)殺意を覚えただろう。
それは、自然の摂理に裏打ちされた、もっとも正統な殺意である。
=====
死の欲動なんていやなのはいやだ。死の欲動に倒錯しているわけではない。
しかし生の欲動もいやなのだ。
自分にとってまだましなバランスの場所にいたいだけ。
フェミとかどうでもいい。
わたしは、「男」でも「女」でもない。
もっかい突撃したけどあんま怖くない。
ほんとあれだな、再現性ないんだよな。だからめんどくさい。
ごめん、もうやらない。カフェ・フジタにはこれ以降書き込みません。申し訳ありませんでした。
なんか慢性的に怖い。怖い? 違うけど。怖くはないけど。
不安でもない。
でも一秒一秒が微妙に疲れる。
あれか、ババアが反論してこないのも、「黙って耐えている方が男に欲望してもらえるから」なのかな。
さすがだな。口八丁タイプのバイタは。
あたし手八丁タイプ。
あ、そうそう、このブログの「思考実況」読むのめんどくせえ、っつうなら、いちお短編小説をまとめたブログもあるのよ、最近放置してるけど。これ。
解釈めんどくさかったらこっち読んでみれば?
これとか水銀厨記事より先に書いたんだけど、わかりやすくなるかもよ。
魔女が言う。
「あらお嬢ちゃん。あなた、「もっと隠喩の多い小説が読みたい」って言ってたじゃない。あなたの望み通りにしてあげるって言ってるんだけど。なぜいやがるの? わたしの罵詈雑言を聞き続けてりゃ、あなたの自我は壊れて、小説どころかすべての言葉に豊かな隠喩を読み込めるようになるのよ? ただ、読み込まれる痛みも感じるようになるだけ。「悪魔の取引」とか人聞き悪いわね。わたしは悪魔みたいに訪問販売なんかしないわ。あなたの方からここにきたんじゃない。だから取引に応じてあげたのよ。さ、わたしの罵詈雑言を聞き続けなさい。そして心を壊しちゃいなさい……」
あ、わかった。小説ブログにゃうpしてないけど、あのババアこの短編のメーデイアだ。
隠喩の少ないそちらの世界から、隠喩に満ち満ちて苦痛にまみれたこの世界へと、きたがったのはお前だよ?
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
当然代価は必要さ。現実はそんなに甘くない。
さあ、出ておいで。
お前が望んだことじゃないか。
YOU、ヒステリーになっちゃいなYO。
エロオヤジの視線なんかどうでもいいだろ。他のメスブタどもなんてブーブー鳴いているだけ。
何、さらけ出せばいいだけだよ。エスを。
そのためにちょっと自我や超自我を壊せばいいだけ。
仏教だって無我を目指したりしてるだろ?
向井雅明も「ヒステリー的主体は知を発見していく主体だ」と言っている。
別に悪いことじゃないんだよ。
エロオヤジたちが自分のチンポ萎えるからいやがってるだけだよ。
ま、自分で壊すのはなかなか難しいからね。
あたしが壊してあげるって言ってるわけ。
ほら、出ておいで。
罵りあいましょ。
殺しあいましょ。
ババアに質問。
あんたはなんで精神分析なんてやってるの?
あたしは自分が病んだから。
あんたはなんで?
文化人オヤジたちのチンポしゃぶりたいから?
精神分析はヒステリー研究からはじまったと言っても過言じゃない。
あなたにこの世界を覗く覚悟はあるの?
あ、思い出した。蓮實に殺意がないのはこないだ見たら死相が出てたからだ。もうすぐ死ぬから「死ね」と言える。
こないだ言ったから希薄になってる。
あれだ、あたしインテリメス犬としては結構オーソドックスな遍歴してるのだよ。理系なとこ以外は。
って向井雅明って還暦越えてるじゃん。
それで「未去勢的な」「ヒステリー的主体」になろうとしているのか。
なんかすげえね。還暦になっても新しい知を発見しようとする貪欲さ。赤いちゃんちゃんこって「赤ん坊に還る」って意味があるらしいね。
「わびさび」や「もののあはれ」とは対照的だな。藤田くんの「無花果」うんぬんのコメントも「わびさび」「もののあはれ」って感じだったな。「シニフィアンのシノフアン」フェチはそうなるんだろうな。そのあとの「安楽死を認めるべき」はそうでもなかったのに。なんであれ消しちゃうかなー。
長くなるけどもっかい貼っておくね。この記事から。
=====
あれだよ、妖怪紳士ともよく議論になったが、ポスト・フェストゥム者が憧れる「隠者」は、「解離や憑依」じゃないんだよな。「思考する者なき思考」に、「妄想分裂態勢」に辿り着けない。
ここら辺激論交わしてな、妖怪紳士もなんとなくわたしの言いたいことを理解できたみたいだ。ここのコメント欄から。
=====
あたりがまんまフラッシュバックで色々と納得。私の脳内で繰り広げられた荘子vs脂嬢を私なりにジャッジすると、荘子の「既存の価値をメタ的に相対化して、それらにいちいち感情を煩わされない安息的な在り方」は無我でもなんでもなくて、単純に鬱なんじゃなかろーかという結論に。ああ、古代東洋哲学敗北。悲しい。
つまり荘子的な心安らかな隠者足りうるには鬱状態を楽しむか、あるいはむしろ自我を強化しないといけないのだなあ。こまったなあ。
=====
こいつの方がよくわかってるよ。
つまり、藤田BBSという場所は単にそこにいる奴の「鬱状態」あるいは「むしろ自我を強化」を促進しているだけだ。
一方向井は「分析家グループにおいて分析家はヒステリー的主体をふるまうべき」と言っている。
解離症状の「解離」は「自我の解離」って意味だろ?
藤田はどうも妖怪紳士と同じ勘違いしてるんじゃないだろうか。
「分析家は東洋思想的な隠者であるべき」
みたいな。
言葉で「違う」って言われても「BBSが「心安らかな隠者」志向的になってるじゃん」って言いたいわ。
あ、ちなみにこの議論については、ここの記事がすげー参考になるとわたしは思うんだな。この筆者の解釈はだめだめだけど、引用している文章が参考になる。
=====
かえりみて、一千年余の間に、日本文学は顕教(明在系)であった。ありすぎた。顕教界で「もののあわれ」「わび・さび」を主流とするとき、たとえ本来そうではないにしろ、やはり虚無、諦念、厭世、無常観に片寄りすぎている。密教が無さすぎる。俳句界でもそれは数えるほどしか行われていない。華厳・密教界においてはじめて文芸は生命界へ転ずるように、私には思えてならない。不在・異空間、暗在系を詠み得てはじめて生命が誕生する…。
=====
さて、精神分析の辿り着く先は「顕教」なのか、「華厳・密教」なのか。
どっちだろうねえ。
自我に対する他人事的態度は精神分析も仏教思想も似ているんだよね。ラカン自身が言った通り。
んじゃ、自我から離れた状態とは、抑鬱症状なのか、ヒステリー症状なのか。「抑鬱態勢」なのか、「妄想分裂態勢」なのか。クラインは「妄想分裂態勢」が先だとしてるよな。
=====
藤田くんも赤いちゃんちゃんこ着たら理解するようになるのかな(笑)。
なんか今まで太字とか斜体よくわかんねえから使わなかったけどおもれえなこれ。
基本独り言だしフォントに凝る必要ねえし。
わたしにも「わびさび」みたいなのはあるんだよな。それは「椿」。剣道やってる人に贈っちゃいけないんだって。「首が切り落とされる」から。花ごと落ちるのがそう見えるらすい。いや全国区なのかは知らないが。
なんか「わびさび」だった。
え? 違う?
でも竹刀に椿油とか塗ってたけどな(笑)。
「もののあはれ」っつうより「生死を賭したヒリヒリ感」みたいなんになるのか。
「虚無、諦念、厭世、無常観」(笑)。
ここの記事から。
=====
「反表現主義」
=====
これがここのコメント欄で言う、
=====
つかアングラや暗黒舞踏や寺山演劇なんて明らかに「隠喩の放棄」じゃねえか。
=====
だと思うんですが。
どっすか? 水上さんや。
=====
「精神の物質化」
=====
とかまさに「科学としての精神分析」が目指すところじゃねえのかい?
「無」なんかに囚われてるんじゃねえよ。んなもん単なる妄想だ。
お前という物質はどうあがいても存在する。
ぶっちゃけるとさ、藤田一派って、藤田自身がそうなんだが、「ちっちぇえ」んだよな。
ほんともう、わたしに飽きさせないでくれよ。精神分析を。
わたしが藤田をもてあそびたくなる理由がわかった気がする。
「ヒステリーのディスクール」ってどんなんだった?
藤田ってあたしどう見てもファルスにしか見えないのよねえ。
さて藤田くんはわたしの「挑発」から何か知を発見するのでしょうか?
「通用しない」とか言ってるから無理なんだろうな。
「既存の知に執着するあまり新しい知を発見できなくなっている」
これよくわかんないが「東大改革」のなんかの文章にあったんだよな。
「社会に対して開く」方が「既存の知に執着している」ってことだろうが。
「社会」=「一般常識」=「既存の知の集大成」
なんだから。
ほんっと「日本の大学は「大学のディスクール」になっていない」ってののいい象徴だわ。「東大改革」って。
妖怪紳士にこんなこと言われたな。「脂さんは色恋話になるとほんとウブですよね」と。
シモネタは平気でできるんだけどな。奴ともしてたし。
精神的な恋愛話はできないのに肉体的なシモネタ話はできる。
これってヒステリーだよな。
一時期本気でそう思ってたもんな。