隠喩(圧縮)は便利だが不便である場合もある。
2010/10/13/Wed
前記事読み返して思った。
わたしは向井雅明の「新しい知を発見するにはヒステリー的主体でなければならない」という論旨には同意している。
向井雅明はそのコラム集において、「毛沢東軍の兵士たち」という要件を通過して、当該論旨に到達した。
一方わたしは、フェミニズムを経由して、当該論旨に到達した。
おそらく向井より早く到達していただろう。ラカン論で表現すること自体は向井の方が早かったのかもしれないが。つか「毛沢東軍の兵士たち」なんかよか「フェミニズム」の方がよっぽど「ヒステリー」に連鎖しやすいだろ。「フェミニスト女性たち」という具体の方が「ヒステリー」っぽいわけだし。
ここで藤田の反応を思い出そう。彼は向井のこのコラムを読み「毛沢東主義を目指す党派としてグループを作っている」と思い込んだ。断っておくが向井が事実そう思っていたかはここでは論じない。戦略として。
向井はそれを件の論旨を示したコラムにおいて否定しているが、本当に、無意識レベルでそう思っていなかったかどうかは、わたしは検証していない。検証する気もない。わたしの理論にはあまり大事な要素ではないからだ。
したがって、藤田の指摘、「彼は口ではそんなことを言っているが、無意識レベルでは毛沢東主義的な党派を作ろうとしていたのではないのか」を否定しない。その可能性もあるだろう、と。
ただ、それについての議論はわたしは興味ない、ってだけ。
わたしが今興味を向けているのは、向井に対して藤田がした解釈方法を、わたしが書いた前記事にそのままあてはめてみたら、という仮想実験である。
藤田はこう考えるだろう。「脂という奴はフェミニズムの党派を作ろうとしている」。いや、実際にこのブログにおいて党派など作っていないのは明らかで、向井から「精神病的な妄想症状」とされたその当時の藤田であっても、さすがにそんな風には思わないだろう。一応社会人はできているわけだし。メンヘラで社会復帰もままならないわたしなどより(ラカン的な意味ではなくフロイト的な意味での)現実を認識できるだろう。
ではこうか。
「脂という奴はフェミニストだ」と。
……いやなー。
まあ確かに大学生時代は、まあそんなこと言われたら否定はしていたが、ばりばりのフェミニストではあったと思うよ。上野千鶴子とか読んでたし。ラカンって名前を知らないままクリステヴァの名前だけは知ってたし。本は読んでなかったけど。ほら理系だから心理系は避けてたのよね。「インテリの嗜み」程度でフロイトとユングをさらっとなめた程度。
今思い出したが、東大演劇人の奴にこう言われた覚えがある。「理系のフェミってめんどくさい(笑)」みたいな。奴何学部だっけか。文系だったのは覚えてる。あれ、理系か? 忘れたわ。名前も漢字一字しか覚えてないや。言わないけど。「北ホール委員会」(だっけか?)では発言力ある人だったんじゃね。そういうの出席してたし。別の人だが文系で入学して駒場に四年いて進学できずに退学して翌年理一かなんかに入り直したって馬鹿なのか頭いいのかわかんねえ奴がいたな。あだ名も覚えている。あだ名は結構覚えているんだけどなー。あ、ごめん独り言。
だからだな。特に大学時代を連想しているときなどは、フェミっぽい用語がよく出てきたりするんだとは思う。
でも本人は一応フェミ卒業してるとは思ってるんだよな。社会人になったら理想論ばっか語ってられんだろ。子供産んでたら舞い戻ってたかもしれんが。
そゆわけでこのブログでもフェミについてはちょこちょこ言及してるから、「フェミ」でブログ内検索してくれちょ。その上で「彼女はフェミニストだ」って言うなら、理由をきちんと説明してわたしを納得させられたなら、納得してやらんこともない。
とりあえず現状本人は「フェミは卒業している」つもりでいる、ってことだけ。
あああと、一時期笙野頼子って作家にはまってたんだよ。彼女自身は否定しているが、大雑把な分類でフェミ側にされることも多い。それとこれが一番大きいんだが、あたしラカン派じゃなくてクリステヴァ派だと思っているんだよね。自分では。こういった理由から、いやクリステヴァも本人はフェミに否定的だが(むしろわたしの方が容認している部分がある)、社会(学問村)的にフェミに分類されているのは事実で、彼女の用語はフェミ用語だとなるため、「フェミ用語を乱発している」となっている部分はある。
こういった事実を隠喩(圧縮)して「フェミニストだ」って言っているんなら、それでいいよ別に、とは思う。
いやラカン理論には感謝してるよ。クリステヴァの本が読めるようになったから。クリステヴァってラカンのゼミ生だったんだけどラカン本人から「お前うちにはあわねえよ」って言われてフロイト派になったんだよな確か。
めんどくせえな。
こういったように隠喩(圧縮)は便利だが不便である場合もある。
ただそれを述べているだけなんだがな。
こういったことを藤田は「強迫神経症的な防衛」って言っているのかね。
そうなら正しくは「藤田博史のような素で強迫症的な人格が示す強迫症状に対する被害妄想的な防衛」だな。
この被害妄想こそがあれだ、「隠喩を読み込まれる側の被害」だよ。
「ミームの伝染性による被害」だよ。
お・わ・か・りぃ?
強迫症か。
「早く死ななきゃ」という強迫観念はある。
わたしという物質がこのまま生きていったら、どんどん社会的にならなくなるだろうから。
社会復帰したいならブログやめるべきだ、というのは自覚している。
そうだね、強迫症的だよ。
死ぬためにこのブログをやってるようなもんだし。
「わたし」として社会復帰するためではなく、わたしとして死ぬために。
自己陶酔的? そうねえ、そうなるのかもねえ。
そうじゃなくならせたいなら、わたしと殺しあいしてよ、誰か。
わたしがここで言う「女という症状」は「「女」という隠喩」への適応障害なんだよな。
「強迫症は「生か死か」という症状であり、ヒステリーは「男か女か」という症状である」か。
そうじゃないんだよ。
「エスか自我・超自我か」なんだよ。
あたしのは。
だからフェミは結構すぐ飽きた。いやまあ、演劇って本分があったのもあるけど。演劇や精神分析ほどには入れ込んでいない。
「脂という奴は演劇人だ」
ならいいんだよ。大学時代のわたしはそうだ。反論できない。でも大学時代であっても、わたしはフェミニストじゃないと思えるもん。
「落ちこぼれ理系女の演劇人」
かな。これなら納得。
ああでも今はクリステヴァ派だと公言しているし彼女自身は否定しているが彼女をフェミだとするならわたしもフェミになるな。
どうでもよくなってきた。いいやフェミで。
CMに昔の演劇人仲間の女優さんが出てて、結構繰り返し放映されてて、なんかな。
あついだるいがまんのげんど。
りゅりゅりゅりゅーりゅりゅ。
ちいさいかわははしる。
うみはじごくでした。
薄暗い実験室で研究している科学者がいる。社会的な交流もあまりしないため、人は彼をマッドサイエンティストのように思っているが、薄暗いのは光により彼の研究する物質が変化してしまうためであり、人が思っているような意味はなかった。彼にとっては光もそういう物質でしかない。ただ電荷や質量がないだけ。
そんな彼が珍しく学者同士の会合に出席した。研究費の捻出という現実的な問題ゆえのことだった。
社会的なコミュニケーションが苦手な彼はほとほと疲弊して帰ってきた。
会合にきていたさまざまな学者たちの言い分にカチンときた。いや、隣接分野の研究をしている親しい学者とした議論は彼にとって有意義であったが、それ以外の学者たちの言い分に怒り、呆れ返ってしまった。
「ここにいるのは学者という肩書きの文化人ばかりだ。学者は文化人じゃない。本当の学者は年々減って行っている」
親しい学者に彼はこうこぼした。
研究室に戻り、疲弊していながらも怒りがおさまらない彼は、研究ノートにこんな言葉を書き殴った。
「学者は真理を探究しているのではない。ただ目の前にある物質を研究するのみ。その結果真理が見えてくる場合もあろう。しかし先に真理を追い求めるのは間違っている。真理はあとからついてくるものだ。特に哲学者などはここを理解できていない。」
会合でこう発言してやればよかった、と思ったがときすでに遅しであり、言っても無駄だとも思えた。
数年後、彼は精神を病み自殺するが、このことが原因となっているのかは定かではない。
そろそろ「学者の本分」を真面目に考えるべきときじゃないかね? 学問村は。
「社会」だなんてただの「全体性の幻想」の症状に惑わされず。
分析家はもっと「自己言及の不完全性」に真摯に向きあえよ。
「いや俺教育分析で経験したし」
なんてのを免罪符にしてないでさ。
まあいいけど。その程度だとわかったから社会人になったわけだし。
どっちが「自閉」だか。
ほんと「自閉症は自開症だ」だよ。定型発達者の方が自閉してんの。
一応報告しとくとな。今日の藤田のアクセス回数、12時時点で32回。
中野くんもきてるんだが数回なんだよな。
ここ数日の累計なら、水上と中野の回数を足してもダブルスコア以上に藤田はここを見てる。まあブラウザにもよると思うが。タブブラウザだとどうしてもアクセス数増えるよな。
でもうざい。キモい。
「通用しない」なら読むなよ。
ただのメンヘラが勝手に「脳内藤田」をおちょくってるだけなんだから。
お前はいらないの、水上ならいい。
水上きてないんだよな。つかあれか、東京にも診療所あるみたいだし広島東京行ったりきたりしてんのか。
東京からのホストは知らない。水上がばらしたくないならコメントしなくていい。
あーでも藤田見てるなら。
わたしの症状解釈のヒントみたいなもんとして、自己言及しといてやる。わたしがわたしについて述べる。
お前んちのBBS、書き込んだホスト見ればわかると思えば、ありゃ串だ。
二回目はわりと冷静だったが、一回目はわたし一種のパニック状態だったんだな。いや泣いたりなんかはしてなかったが。ほんとあとで「あれ? あれ夢だっけ現実だっけ」って思うような状態。
でも一回目もちゃんと串刺していると思う。まあ前後に生で踏んだかもしれないが。
夢か現実かわからない程度にパニックになっている状態でも、そういった判断はできるんだよな。合理的判断っていうか。
わたしは「パニックって混乱しているという意味だが、思考は異常に冷静、論理的だ」と思っているんだ。だから「パニックになっているときの思考は非論理的だ」という「パニック」の一般的な隠喩連鎖がいまいち理解できない。
たとえばこの記事から。
=====
パニック発作を手繰り寄せている感覚は実際にある。思考しながら、書きながら涙をぽろぽろ流していることもある。この涙は自分や他人への感情移入からくるものではない。頭は非常に冷静だ。
=====
こっちも。
=====
論理的思考がフル回転している=パニック状態、なわけだから、読み返して自分で何言ってるのかわからない部分が多かったりする。論文風記事って。
=====
わたしにとっての「パニック」は「論理的思考がフル回転している状態」なんだよ。
だからな、あんまパニックを治そうって気にならないんだ。
いや辛いよ、しんどい。だから治りたい部分もあるんだが、「論理的思考がフル回転している状態」を手放したくはない。
こういったところはアスペルガー症候群と似ていると思う。だからわたしはこのような記事が書けた。自分の体験を根拠に。
別の記事から。
======
この記事で、アスペルガー症候群者には「フレーム問題」が起こっている、と書いた。
自分で上手い喩えだと思わなくもなかったが、それほどなんていうか気合い入れて書いた記事ではなかった。それにしては微妙に関係者や当事者から反響がある。
ふむ。
他人のブログの話だが、こちらのコメント欄から引用する。
=====
自分のことを、Excelのように認識しています。自分で式を入れたりマクロを組んだりしないとただのセル。
対処出来ない事態が起こるとその度に、次に起こった時は対処出来るように式を考えて入れていくのですが、融通はきかないし、エラーは起こるし、新たに加えなければならない式がどんどん増えるし、過去に入れた式と矛盾することもあるし…。
=====
まさしくこれはフレーム問題的な状態を当事者が述べた言葉だと思える。
======
「Excel」がフル稼働している状態なのに、なぜ「非論理的だ」となるのかがわからないんだよな。
いや確かにそういったときのアスペがする発言は、一般常識から言えば、「非論理的」と言われることは少ないが、「屁理屈」などと言われる場合が多い。
わたしブログって大学からのアクセスが異常に多いのよね。『なかのひと』から。
ということはわたしの文章はある程度「論理的な文章だ」と思われていると思うんだ。いやまあそうじゃない記事も大量にあるが。小説や詩っぽいのもあるしな。
なあ、「パニック」って本当に「非論理的」か?
お前らがその論理を理解できないからそう言っているだけじゃないのか?
余談だが、
=====
だから治りたい部分もあるんだが、「論理的思考がフル回転している状態」を手放したくはない。
=====
について。
『Dr.HOUSE』ってドラマがあるんだよ。主人公は片足に障害があって、常に痛みがあるらしいんだな。痛み止めの薬を常用している。「それ薬物中毒だろ」って他の医師に言われることも多い。それがテーマになった回もある。
でな、ある回で、それの画期的な(危険はあるが)治療法が見つかって、他の医師たちが内緒で主人公にその治療を施したんだな。内緒にしたのはまあ成り行きなんだけど。
主人公は確かに痛みを覚えなくなった。しかし副作用からか合理的判断が鈍りつつあった。部下の医師たちもそれを認識した。
主人公は怒った。
「なぜ治したんだ!」と。
まあ結局夢オチだったんだが。
なんかな、そういうことだと思うんだよ。
パニックは確かにわたしにとって心的苦痛だ。しかしパニック状態と、たとえばここで書いたような「思考しすぎて失神する」ときのような状態と、似ているようにしか思えないんだ。
一方、パニック状態の症状が「非論理的だ」と思われるのも、わたしは認識している。
こういった矛盾がわからないんだよ。
それを解き明かしたいだけ。
だから治るため、というよりその状態になってそれを確認するため、という部分がないことはない。
ああ、こんなこと言っても藤田は無視するのか。「通用しない」つって。
もしそうなら、お前の「通用しない」ってお前が理解不能な事物を棄却するためにやっているんじゃないか?
そうなら分析家以前の問題だろ。
お前の脳内にある「類型的なメンヘラ」のどれにあてはまるか、って思考は「精神科医がする診断」であって「分析家がする解釈」じゃねえぞ? 当然わかっているんだろうが。
精神科医としてわたしブログを見ているならいりません。あたし今診てもらってる精神科医に不満はないので。むしろお前にゃ診てもらいたくないな。医療村でも評判悪そうだし。精神科医としてなら、だぜ? つかまあラカン派の精神科医ってそうなっちゃうんだろうな。こことか読むと。ラカン派はボーダー認めてないもんな、理論上。
ま、ちとさ、お前自分がどんな症状しているのか、自分が今まで書いてきた文章を、シニフィアンを自己分析してみろよ。
話はそれからだ。
そこから。
=====
ときどき私の勤めている病院にも患者さんの入院依頼をしてきていたのだけれど、これがなんともたいへんな患者さんばかりで閉口した覚えがあります。
=====
あ、なんかごめんね。
でもあれよ、精神科医と面会しているわたしは結構「いい子ちゃん」だと思うけどな。このブログみたいなことはしてない。
わたしは精神科医って「薬の自動販売機」だと思ってるからさ。「解釈機械」じゃない。
あ、ピーンときた。
藤田が向井んちで前後の文脈関係なしに出した「精神病者は転移をするか否か」って、「向井、お前は毛沢東に転移していないか?」って意味だったのか?
わっかりにくー。
これだから文化人(笑)は。
いや、毛沢東ではなかろうが、「社会的なリーダー」的なものに転移しているのは、藤田、お前自身じゃね?
向井んちでもそんなこと書かれてたよな。
「藤田自身がそういったことに執着している」
みたいに。向井じゃない人に。
でもあれはだめだったな、口出すべきじゃなかった。外野は。
「ヒステリー的主体同士の語らい」においては、当事者以外の人間が口出すのはご法度だ。「新しい知の発見」を目的としているならば。
「新しい知の発見」なんかにゃならず、ただのカオスになる。
この点は向井側の誰だか知らんがそいつは批判されるべきだろう。
「向井が事後に書いたコラムとも矛盾している行動だ」とね。
向井と藤田二人っきりでヒステリー的主体同士として語りあえば、罵りあえばよかったんだよ。
「女性同性愛者の語らい」のごとく。
あ、わかった。向井が目指す「新しい知の発見」としての「ヒステリー的主体同士の語らい」として、もっとも理想的な具体は、「精神分析的フェミニズムの女性学者同士が女性同性愛的に議論すること」じゃね? それならなんか「新しい知の発見」のジャックポット状態になりそう。
あ、ごめんギャグ。
だからさー、ババアさー、言ってるの。
議論しようよ。
罵りあおうよ。
殺しあおうよ。
キャットファイトしようよ。
松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』のごとく。
わたしたちのキャットファイトから周りのスケベジジイたちは新しい知を発見するだろう。
つか『ナチュラル・ウーマン』て文学的には確かに物足りない部分はあるが(若い頃の作品だしな。『親指P』より前らしい)、精神分析的に読むなら傑作だと思うんだけど。一回読んでみそ。
いや金原ひとみの方がいいのかな? ヒステリーならそっちだし。
まあいいや、「女」は、どうでも。
わたしにとっては、「「女」という隠喩」は、「エスのさらけ出し」の隠蔽になる。
ここを「俺は見抜いているぜ」って言うなら理解してやらなくない。
どっちかってと二階堂奥歯に近いと思うんだがな。女性同性愛と比べるなら。
あ、なんかデジャブ。
やっぱ通じないんだろうな。いくらこんなこと言っても。
ほんと「サバルタン」だわ。
わたしは向井雅明の「新しい知を発見するにはヒステリー的主体でなければならない」という論旨には同意している。
向井雅明はそのコラム集において、「毛沢東軍の兵士たち」という要件を通過して、当該論旨に到達した。
一方わたしは、フェミニズムを経由して、当該論旨に到達した。
おそらく向井より早く到達していただろう。ラカン論で表現すること自体は向井の方が早かったのかもしれないが。つか「毛沢東軍の兵士たち」なんかよか「フェミニズム」の方がよっぽど「ヒステリー」に連鎖しやすいだろ。「フェミニスト女性たち」という具体の方が「ヒステリー」っぽいわけだし。
ここで藤田の反応を思い出そう。彼は向井のこのコラムを読み「毛沢東主義を目指す党派としてグループを作っている」と思い込んだ。断っておくが向井が事実そう思っていたかはここでは論じない。戦略として。
向井はそれを件の論旨を示したコラムにおいて否定しているが、本当に、無意識レベルでそう思っていなかったかどうかは、わたしは検証していない。検証する気もない。わたしの理論にはあまり大事な要素ではないからだ。
したがって、藤田の指摘、「彼は口ではそんなことを言っているが、無意識レベルでは毛沢東主義的な党派を作ろうとしていたのではないのか」を否定しない。その可能性もあるだろう、と。
ただ、それについての議論はわたしは興味ない、ってだけ。
わたしが今興味を向けているのは、向井に対して藤田がした解釈方法を、わたしが書いた前記事にそのままあてはめてみたら、という仮想実験である。
藤田はこう考えるだろう。「脂という奴はフェミニズムの党派を作ろうとしている」。いや、実際にこのブログにおいて党派など作っていないのは明らかで、向井から「精神病的な妄想症状」とされたその当時の藤田であっても、さすがにそんな風には思わないだろう。一応社会人はできているわけだし。メンヘラで社会復帰もままならないわたしなどより(ラカン的な意味ではなくフロイト的な意味での)現実を認識できるだろう。
ではこうか。
「脂という奴はフェミニストだ」と。
……いやなー。
まあ確かに大学生時代は、まあそんなこと言われたら否定はしていたが、ばりばりのフェミニストではあったと思うよ。上野千鶴子とか読んでたし。ラカンって名前を知らないままクリステヴァの名前だけは知ってたし。本は読んでなかったけど。ほら理系だから心理系は避けてたのよね。「インテリの嗜み」程度でフロイトとユングをさらっとなめた程度。
今思い出したが、東大演劇人の奴にこう言われた覚えがある。「理系のフェミってめんどくさい(笑)」みたいな。奴何学部だっけか。文系だったのは覚えてる。あれ、理系か? 忘れたわ。名前も漢字一字しか覚えてないや。言わないけど。「北ホール委員会」(だっけか?)では発言力ある人だったんじゃね。そういうの出席してたし。別の人だが文系で入学して駒場に四年いて進学できずに退学して翌年理一かなんかに入り直したって馬鹿なのか頭いいのかわかんねえ奴がいたな。あだ名も覚えている。あだ名は結構覚えているんだけどなー。あ、ごめん独り言。
だからだな。特に大学時代を連想しているときなどは、フェミっぽい用語がよく出てきたりするんだとは思う。
でも本人は一応フェミ卒業してるとは思ってるんだよな。社会人になったら理想論ばっか語ってられんだろ。子供産んでたら舞い戻ってたかもしれんが。
そゆわけでこのブログでもフェミについてはちょこちょこ言及してるから、「フェミ」でブログ内検索してくれちょ。その上で「彼女はフェミニストだ」って言うなら、理由をきちんと説明してわたしを納得させられたなら、納得してやらんこともない。
とりあえず現状本人は「フェミは卒業している」つもりでいる、ってことだけ。
あああと、一時期笙野頼子って作家にはまってたんだよ。彼女自身は否定しているが、大雑把な分類でフェミ側にされることも多い。それとこれが一番大きいんだが、あたしラカン派じゃなくてクリステヴァ派だと思っているんだよね。自分では。こういった理由から、いやクリステヴァも本人はフェミに否定的だが(むしろわたしの方が容認している部分がある)、社会(学問村)的にフェミに分類されているのは事実で、彼女の用語はフェミ用語だとなるため、「フェミ用語を乱発している」となっている部分はある。
こういった事実を隠喩(圧縮)して「フェミニストだ」って言っているんなら、それでいいよ別に、とは思う。
いやラカン理論には感謝してるよ。クリステヴァの本が読めるようになったから。クリステヴァってラカンのゼミ生だったんだけどラカン本人から「お前うちにはあわねえよ」って言われてフロイト派になったんだよな確か。
めんどくせえな。
こういったように隠喩(圧縮)は便利だが不便である場合もある。
ただそれを述べているだけなんだがな。
こういったことを藤田は「強迫神経症的な防衛」って言っているのかね。
そうなら正しくは「藤田博史のような素で強迫症的な人格が示す強迫症状に対する被害妄想的な防衛」だな。
この被害妄想こそがあれだ、「隠喩を読み込まれる側の被害」だよ。
「ミームの伝染性による被害」だよ。
お・わ・か・りぃ?
強迫症か。
「早く死ななきゃ」という強迫観念はある。
わたしという物質がこのまま生きていったら、どんどん社会的にならなくなるだろうから。
社会復帰したいならブログやめるべきだ、というのは自覚している。
そうだね、強迫症的だよ。
死ぬためにこのブログをやってるようなもんだし。
「わたし」として社会復帰するためではなく、わたしとして死ぬために。
自己陶酔的? そうねえ、そうなるのかもねえ。
そうじゃなくならせたいなら、わたしと殺しあいしてよ、誰か。
わたしがここで言う「女という症状」は「「女」という隠喩」への適応障害なんだよな。
「強迫症は「生か死か」という症状であり、ヒステリーは「男か女か」という症状である」か。
そうじゃないんだよ。
「エスか自我・超自我か」なんだよ。
あたしのは。
だからフェミは結構すぐ飽きた。いやまあ、演劇って本分があったのもあるけど。演劇や精神分析ほどには入れ込んでいない。
「脂という奴は演劇人だ」
ならいいんだよ。大学時代のわたしはそうだ。反論できない。でも大学時代であっても、わたしはフェミニストじゃないと思えるもん。
「落ちこぼれ理系女の演劇人」
かな。これなら納得。
ああでも今はクリステヴァ派だと公言しているし彼女自身は否定しているが彼女をフェミだとするならわたしもフェミになるな。
どうでもよくなってきた。いいやフェミで。
CMに昔の演劇人仲間の女優さんが出てて、結構繰り返し放映されてて、なんかな。
あついだるいがまんのげんど。
りゅりゅりゅりゅーりゅりゅ。
ちいさいかわははしる。
うみはじごくでした。
薄暗い実験室で研究している科学者がいる。社会的な交流もあまりしないため、人は彼をマッドサイエンティストのように思っているが、薄暗いのは光により彼の研究する物質が変化してしまうためであり、人が思っているような意味はなかった。彼にとっては光もそういう物質でしかない。ただ電荷や質量がないだけ。
そんな彼が珍しく学者同士の会合に出席した。研究費の捻出という現実的な問題ゆえのことだった。
社会的なコミュニケーションが苦手な彼はほとほと疲弊して帰ってきた。
会合にきていたさまざまな学者たちの言い分にカチンときた。いや、隣接分野の研究をしている親しい学者とした議論は彼にとって有意義であったが、それ以外の学者たちの言い分に怒り、呆れ返ってしまった。
「ここにいるのは学者という肩書きの文化人ばかりだ。学者は文化人じゃない。本当の学者は年々減って行っている」
親しい学者に彼はこうこぼした。
研究室に戻り、疲弊していながらも怒りがおさまらない彼は、研究ノートにこんな言葉を書き殴った。
「学者は真理を探究しているのではない。ただ目の前にある物質を研究するのみ。その結果真理が見えてくる場合もあろう。しかし先に真理を追い求めるのは間違っている。真理はあとからついてくるものだ。特に哲学者などはここを理解できていない。」
会合でこう発言してやればよかった、と思ったがときすでに遅しであり、言っても無駄だとも思えた。
数年後、彼は精神を病み自殺するが、このことが原因となっているのかは定かではない。
そろそろ「学者の本分」を真面目に考えるべきときじゃないかね? 学問村は。
「社会」だなんてただの「全体性の幻想」の症状に惑わされず。
分析家はもっと「自己言及の不完全性」に真摯に向きあえよ。
「いや俺教育分析で経験したし」
なんてのを免罪符にしてないでさ。
まあいいけど。その程度だとわかったから社会人になったわけだし。
どっちが「自閉」だか。
ほんと「自閉症は自開症だ」だよ。定型発達者の方が自閉してんの。
一応報告しとくとな。今日の藤田のアクセス回数、12時時点で32回。
中野くんもきてるんだが数回なんだよな。
ここ数日の累計なら、水上と中野の回数を足してもダブルスコア以上に藤田はここを見てる。まあブラウザにもよると思うが。タブブラウザだとどうしてもアクセス数増えるよな。
でもうざい。キモい。
「通用しない」なら読むなよ。
ただのメンヘラが勝手に「脳内藤田」をおちょくってるだけなんだから。
お前はいらないの、水上ならいい。
水上きてないんだよな。つかあれか、東京にも診療所あるみたいだし広島東京行ったりきたりしてんのか。
東京からのホストは知らない。水上がばらしたくないならコメントしなくていい。
あーでも藤田見てるなら。
わたしの症状解釈のヒントみたいなもんとして、自己言及しといてやる。わたしがわたしについて述べる。
お前んちのBBS、書き込んだホスト見ればわかると思えば、ありゃ串だ。
二回目はわりと冷静だったが、一回目はわたし一種のパニック状態だったんだな。いや泣いたりなんかはしてなかったが。ほんとあとで「あれ? あれ夢だっけ現実だっけ」って思うような状態。
でも一回目もちゃんと串刺していると思う。まあ前後に生で踏んだかもしれないが。
夢か現実かわからない程度にパニックになっている状態でも、そういった判断はできるんだよな。合理的判断っていうか。
わたしは「パニックって混乱しているという意味だが、思考は異常に冷静、論理的だ」と思っているんだ。だから「パニックになっているときの思考は非論理的だ」という「パニック」の一般的な隠喩連鎖がいまいち理解できない。
たとえばこの記事から。
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パニック発作を手繰り寄せている感覚は実際にある。思考しながら、書きながら涙をぽろぽろ流していることもある。この涙は自分や他人への感情移入からくるものではない。頭は非常に冷静だ。
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こっちも。
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論理的思考がフル回転している=パニック状態、なわけだから、読み返して自分で何言ってるのかわからない部分が多かったりする。論文風記事って。
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わたしにとっての「パニック」は「論理的思考がフル回転している状態」なんだよ。
だからな、あんまパニックを治そうって気にならないんだ。
いや辛いよ、しんどい。だから治りたい部分もあるんだが、「論理的思考がフル回転している状態」を手放したくはない。
こういったところはアスペルガー症候群と似ていると思う。だからわたしはこのような記事が書けた。自分の体験を根拠に。
別の記事から。
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この記事で、アスペルガー症候群者には「フレーム問題」が起こっている、と書いた。
自分で上手い喩えだと思わなくもなかったが、それほどなんていうか気合い入れて書いた記事ではなかった。それにしては微妙に関係者や当事者から反響がある。
ふむ。
他人のブログの話だが、こちらのコメント欄から引用する。
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自分のことを、Excelのように認識しています。自分で式を入れたりマクロを組んだりしないとただのセル。
対処出来ない事態が起こるとその度に、次に起こった時は対処出来るように式を考えて入れていくのですが、融通はきかないし、エラーは起こるし、新たに加えなければならない式がどんどん増えるし、過去に入れた式と矛盾することもあるし…。
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まさしくこれはフレーム問題的な状態を当事者が述べた言葉だと思える。
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「Excel」がフル稼働している状態なのに、なぜ「非論理的だ」となるのかがわからないんだよな。
いや確かにそういったときのアスペがする発言は、一般常識から言えば、「非論理的」と言われることは少ないが、「屁理屈」などと言われる場合が多い。
わたしブログって大学からのアクセスが異常に多いのよね。『なかのひと』から。
ということはわたしの文章はある程度「論理的な文章だ」と思われていると思うんだ。いやまあそうじゃない記事も大量にあるが。小説や詩っぽいのもあるしな。
なあ、「パニック」って本当に「非論理的」か?
お前らがその論理を理解できないからそう言っているだけじゃないのか?
余談だが、
=====
だから治りたい部分もあるんだが、「論理的思考がフル回転している状態」を手放したくはない。
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について。
『Dr.HOUSE』ってドラマがあるんだよ。主人公は片足に障害があって、常に痛みがあるらしいんだな。痛み止めの薬を常用している。「それ薬物中毒だろ」って他の医師に言われることも多い。それがテーマになった回もある。
でな、ある回で、それの画期的な(危険はあるが)治療法が見つかって、他の医師たちが内緒で主人公にその治療を施したんだな。内緒にしたのはまあ成り行きなんだけど。
主人公は確かに痛みを覚えなくなった。しかし副作用からか合理的判断が鈍りつつあった。部下の医師たちもそれを認識した。
主人公は怒った。
「なぜ治したんだ!」と。
まあ結局夢オチだったんだが。
なんかな、そういうことだと思うんだよ。
パニックは確かにわたしにとって心的苦痛だ。しかしパニック状態と、たとえばここで書いたような「思考しすぎて失神する」ときのような状態と、似ているようにしか思えないんだ。
一方、パニック状態の症状が「非論理的だ」と思われるのも、わたしは認識している。
こういった矛盾がわからないんだよ。
それを解き明かしたいだけ。
だから治るため、というよりその状態になってそれを確認するため、という部分がないことはない。
ああ、こんなこと言っても藤田は無視するのか。「通用しない」つって。
もしそうなら、お前の「通用しない」ってお前が理解不能な事物を棄却するためにやっているんじゃないか?
そうなら分析家以前の問題だろ。
お前の脳内にある「類型的なメンヘラ」のどれにあてはまるか、って思考は「精神科医がする診断」であって「分析家がする解釈」じゃねえぞ? 当然わかっているんだろうが。
精神科医としてわたしブログを見ているならいりません。あたし今診てもらってる精神科医に不満はないので。むしろお前にゃ診てもらいたくないな。医療村でも評判悪そうだし。精神科医としてなら、だぜ? つかまあラカン派の精神科医ってそうなっちゃうんだろうな。こことか読むと。ラカン派はボーダー認めてないもんな、理論上。
ま、ちとさ、お前自分がどんな症状しているのか、自分が今まで書いてきた文章を、シニフィアンを自己分析してみろよ。
話はそれからだ。
そこから。
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ときどき私の勤めている病院にも患者さんの入院依頼をしてきていたのだけれど、これがなんともたいへんな患者さんばかりで閉口した覚えがあります。
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あ、なんかごめんね。
でもあれよ、精神科医と面会しているわたしは結構「いい子ちゃん」だと思うけどな。このブログみたいなことはしてない。
わたしは精神科医って「薬の自動販売機」だと思ってるからさ。「解釈機械」じゃない。
あ、ピーンときた。
藤田が向井んちで前後の文脈関係なしに出した「精神病者は転移をするか否か」って、「向井、お前は毛沢東に転移していないか?」って意味だったのか?
わっかりにくー。
これだから文化人(笑)は。
いや、毛沢東ではなかろうが、「社会的なリーダー」的なものに転移しているのは、藤田、お前自身じゃね?
向井んちでもそんなこと書かれてたよな。
「藤田自身がそういったことに執着している」
みたいに。向井じゃない人に。
でもあれはだめだったな、口出すべきじゃなかった。外野は。
「ヒステリー的主体同士の語らい」においては、当事者以外の人間が口出すのはご法度だ。「新しい知の発見」を目的としているならば。
「新しい知の発見」なんかにゃならず、ただのカオスになる。
この点は向井側の誰だか知らんがそいつは批判されるべきだろう。
「向井が事後に書いたコラムとも矛盾している行動だ」とね。
向井と藤田二人っきりでヒステリー的主体同士として語りあえば、罵りあえばよかったんだよ。
「女性同性愛者の語らい」のごとく。
あ、わかった。向井が目指す「新しい知の発見」としての「ヒステリー的主体同士の語らい」として、もっとも理想的な具体は、「精神分析的フェミニズムの女性学者同士が女性同性愛的に議論すること」じゃね? それならなんか「新しい知の発見」のジャックポット状態になりそう。
あ、ごめんギャグ。
だからさー、ババアさー、言ってるの。
議論しようよ。
罵りあおうよ。
殺しあおうよ。
キャットファイトしようよ。
松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』のごとく。
わたしたちのキャットファイトから周りのスケベジジイたちは新しい知を発見するだろう。
つか『ナチュラル・ウーマン』て文学的には確かに物足りない部分はあるが(若い頃の作品だしな。『親指P』より前らしい)、精神分析的に読むなら傑作だと思うんだけど。一回読んでみそ。
いや金原ひとみの方がいいのかな? ヒステリーならそっちだし。
まあいいや、「女」は、どうでも。
わたしにとっては、「「女」という隠喩」は、「エスのさらけ出し」の隠蔽になる。
ここを「俺は見抜いているぜ」って言うなら理解してやらなくない。
どっちかってと二階堂奥歯に近いと思うんだがな。女性同性愛と比べるなら。
あ、なんかデジャブ。
やっぱ通じないんだろうな。いくらこんなこと言っても。
ほんと「サバルタン」だわ。