水上雅敏へ質問 ラスト(にしたい)
2010/10/24/Sun
今思い出したけど藤田の持論って「生とは死の迂回にすぎない」なんじゃないっけ。なんの著作か忘れたけど。
これにはわたしも同意するんだよな。
でもなー。
んー。
迂回にも過程があるじゃん。
「大人らしさ」をつきつめてった迂回の最終領域の「わびさび」「もののあはれ」だけじゃなくて、迂回の前半、最初の方もあるわけだ。
迂回の頂点とは去勢だ。「王様としての子供」たる万能感に満ちている状態。
そこからあとは下るだけ。ライカローリンストン。
それが「大人らしさ」だと思うんだよな。
「去勢を承認しろ」なんてのは「山の頂点をすでに越えてしまって下りているだけの自分を認めろ」ってことになるな。
藤田の言っていることって、川上未映子についての書評もそうなんだけど、去勢という山を乗り越えてあとは下っていくだけの「大人らしさ」からの発言なんだよな。カフェ・フジタの4281番の「無花果」うんぬんのコメントもそういうことだろ? 「大人らしさ」が増長した症状たる「わびさび」「もののあわれ」。わたしなんかは「あーそうなんだ」くらいだけどな。ごめんねそういうのわかんない人で。その筆者はそのことについてなんとなくなんか感じるものがあったんだろうな、ぐらい。
山を越える前の人間の視点が、「未去勢的」な視点が彼にはない。
「藤田博史という解釈機械」にはそういうクセがある。
藤田はこれを自覚できているんだろうか。教育分析のときはそのときのお前でしかすぎないのに。今この瞬間のお前についての分析主体でいれているのだろうか。
ゴール間近にいる人間がスタート近辺にいる人間を批判しているだけにすぎんよ。
そもそもそんなかけっこ自体に興味ない人もいるだろうし。ファルスによる「せき立て」が弱い人だっているだろう。
そういう人間からしてみれば、藤田の言っていることとか「は?」だろうな。「早く山から下りろよ」だなんて言われてもな。まだ山に登ってすらいないわけで。
そういう人はカフェ・フジタやフジタゼミには行かないんだろうな。自発的に。あ、わたしは誘われたからさ、それについて触れているだけ。
そうやって「迂回の山を越え下りていく人たち」が、下山者たちが集っていくわけだな。登山者たる「は?」な人たちはどうでもいいから集まってこない。
なるほど。ルイトモってすげーな。
まーでも中野くんあたりは山の頂点から下りはじめた人っぽいけど。下山初心者。なので多少登山側の意識も残っているのだろう。
つかさー、登山者でもなく下山者でもなく、山の裾野から山を見るのが科学者としての分析家じゃないのかね。
その「山」なんてただの幻想にすぎないんだから。
「死を迂回するだけの生」とは「幻想の山」だ。
あ、ちなみに木村敏論で言うと登山側がアンテ・フェストゥムで下山側がポスト・フェストゥムってことになるな。
イントラ・フェストゥムは山の頂点が噴火口だった、って感じか。
「去勢の否認」はあれだな、下山しながら「まだ山の頂点があるはずだ」って感じなのか。
そんな奴らにゃ藤田のお説教は有効なんだろうな。
でも「去勢の否認」も間違っちゃないよな。
その「山」自体が幻想なんだから、幻想で「頂上」を作ればいい。
そこに辿り着いた彼は英雄になるだろう。
パラノイアになる。
この一連の事件においてわたしは「水上雅敏という症状」解釈をしていないが、そらな、わたしのドリルはキチガイじみているわけだから(某アスペに言われた)、相手がいやがることくらい知っている。でもコメントしてこなくなったのでいいかな、と思ったのでやってみる。つか内心してはいたんだよ。言語化してなかっただけ。
わたしは水上さんも下山者だと思ってる。ただ「登山している頃」についてひっかかってはいそうだが。それこそ彼の4282番のコメントはそういうことじゃないかと。
だからちょっとお話してみようかな、ってな。
さて。
ここのコメントで水上さんと自由連想の話をしてたんだがなんか別方向に行ってしまったので戻してみる。
水上さんは「自由連想」から「精神分析の終わりの状態として」の「少し精神病や倒錯に近い状態」を連想した。
そして彼はここのコメントでこう述べた。
=====
そうですね。精神分析の終わりの状態が、「少し精神病、倒錯に近い状態」とするなら、それを芸術療法でどう達成できるのか、と考えさせられました。
=====
水上さんは「自由連想」を、「連想が自由になる状態」だと考えているようだ。
なので「自由連想」が一種極端となった状態として、「少し精神病や倒錯に近い状態」(それこそ「観念連合の弛緩」など)を連想したのだろう。
しかし、「自由連想法」とは、「連想が完全に自由になる状態」なのだろうか?
わたしは違うと思う。
「自由連想法」とは、クライエントに「自由に連想できる場」を与えることだ。それによってクライエントは自由に連想する。
ところが本人がいくら「自由」と思ってはいても、その連想連鎖においてなんらかの構造が見えてくる。A→B→C→……という連想において「→」に着目するのが精神分析だ。AやBやCではなく「→」にこそ無意識はそのほんの片鱗を表す。「冗談や言い間違いにこそ無意識は表出する」である。「言語のように構造化された無意識」。この構造こそが冒頭で述べた「幻想の山」だ。
分析家はそこから心因性症状の病理たるトラウマなどを見出す。
精神分析はこうやって臨床素材たるクライエントたちの「言語のように構造化された無意識」を、「幻想の山」を研究してきた。
しかしこの「山」はただの幻想であるため、さまざまな幻想から影響を受ける。変化する。
クライエントのそれを研究対象物とすれば、それを変化させる要因はいわば「ノイズ」である。実験において除去しなければならない要因である。余談ではあるが、この「ノイズ」としてもっとも多いのは「文化という幻想」だろう。
クライエントのそれという研究対象物を厳密に観察するためには、そういった「ノイズ」は排除しなければならない。実験というメソッドの基礎中の基礎だ。
こういった観察実験の環境として「自由連想法」はある。そうわたしは考えている。
要するに、
「実は自由などではないクライエントの無意識構造を観察するための、「自由に連想できる場」という「さまざまなノイズを排除した場」としての観察実験環境が、「自由連想法」である」
ということだ。
「自由連想法」とは「クライエントに自由に連想させること」ではない。あくまでクライエントの無意識構造を観察するために設置する観察実験環境でしかない。「自由に連想できる場を提供すること」であって「自由に連想させること」ではない。
そしてその場を作る人間が分析家なのである。分析自体はクライエントが、分析主体が行うものである。
わたしの意見は、ね。
こう考えて、藤田がキレた向井雅明のこのコラムを読み返せば、理解できる部分もあるのではないだろうか。確かに表現としては語弊が多い稚拙なものなのだろうが。「毛沢東軍の兵士」なんてのはこのことを説明しようとするためのただの一つの比喩にしかすぎない。つか向井だって「比喩のプロ」たる小説家じゃないわけだし。
世間知らずな学者が世間に与える影響なんて予想せずに、それこそ幼児的に言った言葉だと考えれば、そう解釈もできうる、って話にすぎん。
となると、クライエントに「まったく自由に連想させる」というのは、研究対象物の観察実験として考えるならば、観測者が研究対象物に負荷させる余計な「ノイズ」でしかない。
となると、水上の主張、「分析主体を「連想が完全に自由になる状態」させる」というのは、観察実験として誤りである、となる。
いやもちろん、研究対象物の物性を知るために、観測者側からなんらかの影響を負荷させる場合もある。
この場合なら、たとえばクライエントの無意識構造がうまく観察できなかったとき、「まったく自由な連想をしている状態」が、比較対照的な物性として必要となるケースもあるだろう。
そういった意味で水上がそう言っているのならば、理解できなくない。もしそういう意味で言ったのならば、「彼の主張は誤りだ」としたことをわたしは謝罪する。
しかし、「まったく自由な連想をしている状態」とは、厳密には「それに近づいた状態」とは、彼の言う通り「少し精神病や倒錯に近い状態」である。これはわたしも反論しない。
むしろこれは「まったく自由な連想が可能な場」としての「自由連想法の場」こそが、研究対象物に影響している状態だ、と言えよう。そういった場がクライエントの、分析主体の「構造化された無意識」に影響した結果でもある、と。
ここまでくると物理学の観測問題と同領域の議論となる。
むしろこの問題は原理である。「不確定性【原理】」という表現は大仰などではない。
「人間の知の限界」という原理と常に対峙しているのが、わたしの言う(「アルチュセールをこれ見よがしに持ち歩く学生」などではない)「学者なる態度」である。
たとえば。
複雑系研究者の金子邦彦は言う。
「複雑な物を複雑なまま理解する」
一部で物議を醸した言葉である。
これは「複雑なまま」の状態を理解できない「人間の知の限界」を自覚していながらの言葉である。
そうではなく、「人間は複雑な物を複雑なまま理解できる」という前向きな意味で言っていたならば、一種の「去勢の否認」的な言葉だとも言えよう。
しかし、今の彼がどうなのかは知らないが、大学時代実際に面会したことのあるわたしは、そうではないと解釈する。
つか彼いわゆる「昔のオタク」なんだが、「昔のオタク」って大体自虐的だろ? 『リアルげんしけん』で描かれている「自己肯定が上手な後輩オタクたち」とは違う時代のオタク。巨乳先輩タイプのオタク。ベースに自己否定があるような感じの、自己否定がクセになってるようなタイプの人だった。だからその言葉もわたしはそう解釈する。
つか自己否定がクセになっているからこそ社会的に自閉しているんだろうな。
よく言えば「傷つきやすい人」(笑)。もっといじめてやればよかった。
金子邦彦という「統合された人格」には言及しないが(つかそれほど、「よく夜通し議論した」とかってわけじゃないし、わたしはよく知らない)、複雑系研究における彼の態度は、登山者側だ。「去勢の否認」ではない「未去勢的」と言ってもいいだろう。実際彼子供っぺえところあるぜ。つかガキだよ、ほんと。よく言えば「無邪気」(笑)。
その物議を醸した言葉も「社会的な影響」なんて気にしないで「ぽろっと」言っちゃったんだろうな。まあ「あ俺うまいこと言った」ぐらいは思ったかもしれんが。
反論している奴は「複雑系研究が何かそういった壮大な思想のように思われる」とか言ってた。アホか。「思われる」とかんな「社会的な影響」なんて、そら確かに多少は考慮せなあかんねかもしらんが、正直知らんわ。なぜって「学者の本分」じゃないだろそれ。「そう思われる」なんてな「そう思う奴」の勝手だ。そいつの「心の問題」だ。それこそ学者は小説家じゃない。ああ「そういったことを気にしろ」ってのが「社会に開かれた大学を目指す東大改革」なわけですねわかります。蓮實重彦とかフローベール大好きだもんな。
その「心の問題」をやってるのが今のわたしですが何か?
藤田一派事件におけるわたしの主張である「隠喩を読み込まれることの被害」。金子さんもそういう被害にあってた、って話だとわたしは思う。
ここまでのまとめ。
「自由連想法」とは「自由に連想させること」ではない。
「自由に連想できる場を与えること」である。
観察実験環境として。
余談風にもう一つの具体例を挙げておこう。
シュルレアリスムの発端でもある、アンドレ・ブルトンによる「自動書記」。
これなど「自由連想」と関連させて述べられていることが多いが、やり方を考えればまったく「自由連想法」と別物なのがわかる。ブルトンがした「自動書記」とは、「決められた時間内にできるだけ多くの言葉を書き記す」というものだ。時間制限がある。「自由に連想できる場」ではない。
しかしわたしは同時に、「自動書記」は「連想が完全に自由になる状態」へと近づくためのメソッドではある、とも思っている。「自動書記」によってつむがれた言葉は「連想が完全に自由になった状態」に近づいた言葉である、と。
要するに、むしろ「一定時間内にできるだけ言葉を多く書き記す」という、実験執行者側が課した条件によって、「連想が完全に自由になる状態」、それに親近する状態としての「少し精神病や倒錯に近い状態」へと近づいたのだ、と。
このことを「詩は「自由」ではなく「定型」であるからこそエスをさらけ出すことになるのではないか」と述べたのがこの記事だ。ブルトンの場合は実験執行者と被験者が同一人物だったにすぎない。「自動書記」の時間制限は詩の定型と同じ役割を担っていたのではないか、ということだ。
あとまあラカニアンならすぐ連想することだと思うが、「短時間セッション」もそういう感じのことなんじゃねえの? あたしゃどうでもいい話だけど。
ここで断っておきたいが、わたしは分析家ではない。分析家になろうとも思わない。
何度も言うようにわたしはメンヘラでありクライエント側だ。
わたしは分析主体である。分析するのは分析家ではなく分析主体である。
自分、他者問わず。
当然だろ、分析される他者ってのはそいつの主観内における他者にすぎないんだから。最終的にそれは自己分析となる。
以上のことを踏まえて「水上雅敏という症状」を解釈してみよう。
水上さんは、彼の無意識は、自分自身が「連想が完全に自由になる状態」に近づきたがっていると、「少し精神病や倒錯に近い状態」になりたがっていると、わたしには思える。
そういう無意識がここでわたしが指摘したような誤謬を犯させた、と。その誤謬は彼のそういった無意識の表出ではないか、と。
ブルトンは自身の「自動書記」について「危険な行為だ」と述べている。彼は精神病者との関わりを表現した作品を書いている。『ナジャ』である。
しかし彼はそれを実行した。
これと同じような思考構造が水上さんにもあるように思える。
たとえば彼はカフェ・フジタにおいて、藤田の4281番に対して、彼は4282番というコメントを返している。ここで彼が言う「おもしろき世」とは「連想が完全に自由になる状態」「少し精神病や倒錯に近い状態」ではないか、とわたしは解釈してしまう。
そいやラカンって元シュルレアリストなんだよな。
果たして「もののあはれ」「わびさび」はシュルレアリスムだろうか。
「もののあはれ」「わびさび」を追求する文化人が自己陶酔的につぶやく。
「形ある物は必ず滅びゆく」
そこへ、ぼろぼろの鎧を着た今戦場から帰ってきたばかりの武者が現れ、こう言い放つ。
「あんただって「形ある物」だ。なら今から戦場に連れてってやるよ」
狼狽する文化人の首根っこをつかんで、武者は戦場へと舞い戻る。
高杉晋作ってばりばりのタカ派だよな。「西郷隆盛より武闘派だった」とかどっかの歴史作家がゆってたな。
わたしは藤田の藤田の4281番について以下のような解釈をしている。この記事から。
=====
あとさ、藤田くんの新しいコメントだけれども。
わたしこういうこと別に精神科医に限らず誰でもやっちゃうのね。「すました奴の仮面をはぎたがる」って言うかね。
でさ、ライトノベル作法研究所でもよくやったんだ、こういうの。それこそ今藤田にやってるようなこと。「かっこつけてるけどお前のその行動見方を変えたらすげー情けないものじゃんwww」みたいなね。
でおもしろい傾向を発見したんだ。
まあ大体「話になんねえ」つって議論は終わるんだけどな。わたしにそうされた奴って、必ずと言っていいくらい、議論の直後、他のチャット参加者に激しく気を遣うんだな。なぜか観客に媚びたがる。
多分な、わたしの言葉は彼に通用したんだろう。いや当然そいつら精神科医じゃないし。ただのアマチュアライトノベル作家たちだからさ。
だからな、「自分はそんな情けない人間じゃない」ってことにしたくて、他のチャット参加者たちに媚を売ったんだと思う。
つまり、わたしに「欲望とは他者の欲望である」を指摘され、それが崩れかけてしまったから、「欲望とは他者の欲望である」関係を維持しようと、他のチャット参加者たちに媚を売りまくった、と。
ほんとにね、おもしろいくらいみんなそうするんだ。
藤田くんのこの、文脈もない「ただの思いつき」でしかなさそうなこの新しいコメントも、そういうのと同じ反応だとわたしは思っちゃったりなんかしちゃったりするんだけど、考えすぎかな?
どう? 藤田くん?
まあ要するに「お前にあんだけ罵倒されたが俺にはこんなに仲間がいるんだぞ」症候群、とでも言おうか。
=====
「すました奴の仮面をはぎたがる」わたしについて書いたコメントの直後(五時間後)に4281番は書かれている。
わたしにはそれが、カフェ・フジタの他の読者へ媚びているように見える。
彼のこのコメントにはそれこそ「お前にあんだけ罵倒されたが俺にはこんなに仲間がいるんだぞ」という隠喩がなかったか。
少なくとも水上は、藤田のこのコメントにそういった隠喩を読み込んで、4282番というそれについてのコメントを書いたのではないか。
このとき藤田は「主人のディスクール」における「物言わぬ主人」になっていなかったか。
ちなみにこういった日常会話における隠喩構造は女性にもある。わたしの主観ばりばりの脚色を施して表現してみよう。仮想症例みたいなもんだ。
すれた喪女とリア充女が口論している。
喪女「あんたこないだだってそうだったじゃん。いっつもすました顔しちゃってさ、あーキモ」
リア充女「あーうっさいなー。あんたの言うことなんてどうでもいいの。もうあたしに話しかけないでよ」
喪女「お前の方こそ話しかけてくんなよ」
リア充女「(こりゃ話にならないわ、と別方向に向き直り)……ねえねえ、そういや昨日やってたキムタクのドラマ見た? チョーせつなくてあたしカンドーしちゃったあ」
他の子「あ、うん、でも先々週の激しいのもよかったよね」
誰が誰だかわかるよな?
男だって同じだ。「ねえねえ」って媚を隠すのがちょっとうまいだけ。事実ライトノベル作法研究所においてわたしが観察した「お前にあんだけ罵倒されたが俺にはこんなに仲間がいるんだぞ」症候群は、男性の方が多かった。そこでわたしと週二度は夜通し議論していた妖怪紳士にも指摘したことがあるが、彼はそれを媚だと自覚していた。「そうやって相手を丸め込むのがいいんだよ」と。ちなみに「丸め込む」は彼の作劇手法(そういう人らすい。小説家崩れのライター崩れ)において重要なキーワードとなっているようだった。ほんと蓮實に似てるよな。彼に直接そう言ったことあるけど。わたしが蓮實大嫌いなの彼も知ってた上で。
また、わたしは昔から他の多くの人たちにおいてこの症状を観察していた。この記事から。
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他のクラスメイトとは、幻影同士が噛み合っている。相手がどう言って欲しいのかがわかるし、わたしはそれに従うし、わたしがどう言って欲しいかに従って、相手は喋る。わたしたちは、常に王様ゲームをしている。王様ゲームをしている間は、お互いが幻影であることに気づけない。気づかなくてもいい。
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これを踏まえるならば、「「お前にあんだけ罵倒されたが俺にはこんなに仲間がいるんだぞ」症候群」はさすがに冗長なので「「王様ゲーム」症候群」と書き換えてもいいかもしれない。
これが「主人のディスクール」の具体だとわたしは考えている。新宮一成の言う、このディスクールの無意識下にある「全体性の幻想」は、その小説ならば「幻影の王国」に相当するだろう。またそれは前半文章における「幻想の山」でもある。
むしろわたしはそれを「王様ゲーム」と思ってしまうから「コトバハコトバノコトバカリ」となるのかもな。
「幻影の王国」に表面上組み込まれてはいるが、常にどこか一歩離れたような感じだった。これはわたしの症状となるだろう。ちなみにその主人公はわたしよりリア充だ。自分からヤロー誘うとかムリムリムリムリカタツムリだった。あれだ、オタク文化の「ヤンデレ」に対してちょっと物言いしたくて書いた小説だしな。多少「自己肯定がうまい現代オタク」向けによく書いている。どっちかてと自殺した方にわたしは近い。中高生時代のわたしな。大学でびう前。
藤田の4281番のコメントは明確に誰かに語りかけている言葉ではない。
しかし実際に水上は返答した。そのなんの脈絡もないコメントに。
それはなぜだ?
この瞬間の藤田と水上の無意識下では「王様ゲーム」が行われていたのではないだろうか?
つかさ、この仮想症例って「揶揄」「風刺」なわけじゃん。藤田や水上に対する。いやそんなつもりはなかったけど。ここでは。
そうそう、こういう隠喩ならあたしも使えるのだよね。「揶揄」「風刺」的だと思いながら使うこともある。
でもなぜか「隠喩の王国」に入れない。
精神分析を学んでいる今のわたしは、『隠喩の王国』という舞台作品について関係者入り口から潜り込もうとしているようなものだ。
うんうん、あたしスタッフやってた理由は「タダで見れるから」だったもんな。観客席にはいられないけれど。
しかしここで注意してほしい。
先の仮想症例における他の子はリア充女の言う「カンドー」に対し、反論だとは明確に言えないが、「物言わぬ主人」の意に沿っていないと言える返答をしている。おそらく主人が求める答えは「うんうん、チョーせつなかったよねえ」とかだろう。こういった会話は女性に多く見られる。
水上の4282番のコメントもそういったものではないか、とわたしには思える。
他の子は「主人のディスクール」に応じていない。
では彼女はどうだったのか。
暴論になるのを承知で言うが、彼女は、喪女の「激しい」、藤田の言なら「挑発」的な言葉に多少影響されて、ほんのちょびっとだけ「ヒステリーのディスクール」になっていたのではないか。
彼女はちょっとだけ「すました仮面」をはずして、「激しい回のもおもしろかった」という素顔を、エスをさらけ出したのではないだろうか。
このとき他の子は、リア充女という相手に気遣わず、好き勝手なことを言っている。
ここで藤田が向井掲示板の殴り込む原因となったコラムを読んでみよう。
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オブザーバーによると当時毛沢東の軍隊は大混乱を起こしていて、まったく信じられない様相と呈していた。とにかく皆がめいめい好き勝手なことをして、一兵卒が士官を平気で批判したり、通常の軍隊の規律からすると考えられないような状態が起きているということだ。
=====
他の子は「女性同士の会話」における「「うんうん、チョーせつなかったよねえ」などと返さなければならない」という「規律」を無視している。好き勝手なことを言っている。
あたかも「自由連想」的に。
水上さん、あなたはどう思う? あなたという症状について。
あなたのそのコメントは、あなたのエスが、ほんのかすかにちょびっとだけ、漏れてしまった言葉じゃないかい?
「おもしろき世」という言葉で、あなたの症状として隠喩されたものとは、あなたのエスだったんじゃないだろうか。
ちなみに言うと、「女性同士の会話」を人生とほぼ同じくらい長く観察してきたわたしの推測では、他の子のこのコメントに対しリア充女は、ほんのかすかにちょびっとだけ、カチンときてたと思うんだよな。
藤田くん、あなたはどう思う? あなたという症状について。
別の面から「水上雅敏という症状」を指摘してみよう。これまでの論は「解釈」にはなっていると自分で思うが、以下は解釈するにいたっていないから「指摘」と言った。
わかるもん。他人を症状として解釈するのは、相手も不愉快になるし自分の精神も不安定になる。ここのコメント欄で水上が述べた通りだ。
なので解釈はここまで、って話。ほら今超絶調子悪いから。ケンカ屋にだって休みがほしいときぐらいある。
つかさ。水上雅敏でさえそういう症状として見ちゃうようになったわけで(わたしはそうしようとは別に思っていない。無意識だ)、水上さんコメントしなくていいよ。お互いに傷つくだけだから。藤田はすでにいいおもちゃだったけどあなたはまだおもちゃになってない。おもちゃになる前にわたしの前から姿を消してくれ。
さて、解釈ではなく指摘として。
水上がここにしたコメント。
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・・とのことですが、どんな語りでもそれなりに真理はどれほどか語っているはず。逆に、こういう一見本音的にひびく語りによって、本来語るべき語りを隠すこともある、と思います。こういう語り方だからと、本音を語っているとは限らない、・・と。
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んでもって
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私にとっては「隠喩」とは、これまでの言葉では言いえなかったこと、つまり無、を象徴化する機能ということになります。ラカンの隠喩の式でも、新しいシニフィエが生まれているように。つまり私にとって「隠喩」は、脂さんの言われる、「欲動が赤裸々に語り出した言葉」側のものになるかと思います。
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そして
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そうですね。精神分析の終わりの状態が、「少し精神病、倒錯に近い状態」とするなら、それを芸術療法でどう達成できるのか、と考えさせられました。
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この三つのコメントにおいて、ある共通点がある。
それは、「水上は具体を述べていない」ということだ。
たとえば一番目のコメントは、わたしの言う「パジャマッコリ」についてだ。これはわたしの主観においては具体がある。世間的にはどちらかと言うとリア充ではない、よく言えばインドア派な女性たちが、ある部屋に集まり、すっぴんのパジャマ姿で酒を飲み愚痴りあう、という具体。なんならわたしとそうした奴の実名を挙げてもいい。いやしないけど。つか覚えてないしほとんど。
しかし彼はそんな具体にまったく触れもせず、ただ単に彼の空想的な思考を述べているだけである。
もちろんこれはわたしの主観内における具体でしかない。であるならば、彼が「こういう一見本音的にひびく語りによって、本来語るべき語りを隠すこともある」と思った根拠となる彼の主観世界における具体を述べてもらわないと、わたしはそれがどういう具体か想像できない。意味がわからないのだ。いや言っている意味はわかるけど。
もし具体を伴った上でのそういう主張なら、その具体(を想像し近似したわたしの具体)とわたしの「パジャマッコリ」という具体とを比較対照し、彼の言うように演技で「死ね」と言っていたのかどうか検証できるのだが、それすらできない。
二番目はまさに今回の藤田一派事件においてわたしが主張してきたことだ。わたしはわたしの主観におけるさまざまな具体を挙げてそれを論じている。なので省略する。過去記事を読み返してほしい。
三番目については、わたしは彼の疑問に対し「「解答」ではなく、あくまで一つの「ヒント」みたいなものとして、暗黒舞踏やアングラ系がそうなんじゃないの?」と述べている。「暗黒舞踏やアングラ系」という具体を伴った回答をしている。
要するに、彼のコメントはほとんど抽象的すぎて、何を言っているのか意味がわからないのだ。いやジャーゴンなどの学問的定義は理解できる。しかし彼はそのジャーゴンによってどういう具体を、シニフィエを示しているのかわからない。
だからわたしはこう述べた。
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物理学者がしている議論にSF小説の理論を持ち込んでくるのは「話をそらしている」ことにならないか?
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この記事のこの文章もそういう意味だろう。
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つか心理療法なんて結婚詐欺と同じようなもんだろ? 原理考えたら。
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これは、「わたしは具体を根拠に述べているのに、そしてそれを開陳しているのに、あなたはそうせず抽象的な話ばかりして、話をそらしている。」という意味だ。「文字数が少ない」とも言ったが、それは「具体的な話をまったくしない」という意味になるだろう。
シニフィエは原理的に一人一人違う。正常人とキチガイが見ている世界は違う。
なのにシニフィエに見向きもせず話を進められても、「もしかしてわたしは周りの多くの人と見ている世界が違うんじゃないか」と思い続けてきたわたしは混乱するだけだ。
おそらく水上の主観世界には「世界は一つ」のごとき「全体性の幻想」があるのだろう。一人一人見ている世界は、いろいろあっても最終的には同じである、と。だからこういったような具体を、シニフィエを軽視する傾向となるのではないだろうか。
木村敏はポスト・フェストゥムの条件たる「ノエマ的自己」を「シニフィアン的自己」と読み替えている。水上のこういった症状はポスト・フェストゥムの理屈と合致する。
話は変わるがここで精神分析の話をすると、精神分析という学問にとっての具体とは臨床素材である。ヒステリーなどといったクライエントである。「具体を知ること」が臨床である。
向井のこのコラムにあるように、ラカン派は「臨床を軽視している」と他学派から思われているようだ。それに対する向井の反論要旨は「ラカン派だって臨床している。理論も実践も両方大事なのである」というものである。わたしはそれには同意する。ラカン派だって臨床していると思える。斎藤環などは(彼は分析家の資格を持っているわけではないが)オタクやひきこもりといった具体を伴わせてラカン論を使用している。臨床している。
しかし、こういった「水上雅敏という症状」を見ると、他学派のそういった批判もありかもしれない、とわたしは思ってしまう。
向井が推測しているように「複雑で理解困難なラカン理論」を原因としているわけではなく、ラカニアン個々人の症状、人格傾向が原因となって、「臨床を軽視している」という派閥全体の傾向になっているのではないか、と。
たとえば、ネットラカニアンの本上まもるが、あるラカニアンと「いじめは死の欲動か」という議論をしたことがある。ここでも触れた。
=====
その議論内容は「現代のいじめは死の欲動の表出かどうか」だった。その学者は死の欲動に関する議論で「現代のいじめ」に触れた。それに対し本上は「違う。現代のいじめは死の欲動の表出ではない」と言った。
わたしは本上が正しいと思う。ライトノベル作法研究所という中高生が集まるサイトなどでいじめの話題にも触れたことがあるが、あれは死の欲動の表出とはわたしも思えない。エントロピー増大則としてやっているとは思えない。「異物を排除する」ということはむしろネゲントロピーであり、生の欲動だ。つまり「現代のいじめは死の欲動に対しての防衛だ」となる。
=====
わたしも本上の意見に同意する。わたしの「いじめ」という具体を考えると、とてもそうは思えないからだ。いや、議論相手は結構な年配らしく彼の時代の「いじめ」はそうだったのかもしれないが、わたしが見てきた「いじめ」はそうではない、と思える。わたしいじめられてなかったけど。浮いてはいた。小中学生時代な。高校はけっこういじめる側だったかもしれない。「女星一徹」とか言われたことあるしな(笑)。頑固ではあったんだろうな。「クラスから浮いていること」を「いじめられている」と言うならいじめられてたことになるな。浮いてた方が楽だったし本人は「いじめ」とは思っていないが。
ともかく、これも、もしかしたら具体を伴わない議論だったがゆえの、「原則一人一人違う」シニフィエを論じなかったゆえの、すれ違いだったのではないか、とわたしには思える。
余談だが、先の金子邦彦の「複雑な物を複雑なまま理解する」という言は、向井の「つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。」に相当する、とわたしは考えている。
さて次に。
わたしが水上が本職の心理士だということを知らなかった。ネットで調べると「精神分析的カウンセリング」なるものをやっているようだ。
なるほど。
そうするとわたしには一つの疑問が湧く。水上がここでしたコメント。
=====
ターゲットや目標を限定しないでの他者の精神分析的?な推察は、私の場合自分の精神を不安定にすることに学生時代に気付いて、そういうことをするのはそれ以降できるだけ自粛するよう決めたのです。
=====
これはわたしの「あなたは「藤田博史という症状」解釈をしたくないのか。もししたくないのなら、それはなぜか。」という質問に対する彼の答えである。
彼がそれをしないのは「多くの他者を精神分析的解釈すると自分の精神が不安定になるから」、という意味だろう。
しかしだ、彼は「精神分析的カウンセリング」という仕事をしている。
どういうものかわからないが、実際にカウンセリングを何度か受けたわたしが推測するに、少なくとも週に十人以上はカウンセリングしているのだと思う。
彼は週に十人は「精神分析的カウンセリング」できる(だろう)。
であるならば、なぜ「藤田博史という症状」解釈ができないのだろう? 十人が十一人に増えるだけである。まあ確かにんなの金にならないわけだし、なんなら「藤田博史という症状」解釈は月一回にすればいい。その場合十人が10.25人になるだけとなる。
おそらく彼が「藤田博史という症状」解釈ができないのは、人数の問題ではないのだろう。
ではなんだ? 彼が「藤田博史という症状」解釈できない理由はなんだ?
自分の診療室にくるクライエントなら解釈できる。藤田博史にはできない。
合意が必要なのか。
それならば水上は、藤田に「あなたを症状として精神分析解釈してよいですか?」と聞いてみたことがあるのだろうか? そのあとのコメントから察するに彼はいまだ藤田にそう聞いたことがないと推測できる。
なぜだ?
藤田との信頼関係を壊したくないからか?
ここにも「物言わぬ主人」の「言明されない命令」を、主人と奴隷のあいだにある「暗黙の了解」を遵守している水上がいるのではないだろうか。
こういった無意識的な思考回路こそが、水上の「言語のように構造化された無意識」であり、「隠喩連鎖構造としての症状」だ。
水上の隠喩はまったく「欲動を赤裸々に語る言葉」ではないことがこれで証明された。
水上さん、あなたはどう思う? あなたという症状について。
あとさー、
=====
ターゲットや目標を限定しないでの他者の精神分析的?な推察は、私の場合自分の精神を不安定にすることに学生時代に気付いて、そういうことをするのはそれ以降できるだけ自粛するよう決めたのです。
=====
とさ、ここの
=====
「困難だからやらない」、ってことではないですよ。
=====
って矛盾してね?
「自分の精神を不安定にする」という「困難」さがあるから「やらない」って話じゃないの?
下の水上のコメントは、わたしの「向井みたいに自らが分析主体、ヒステリー的主体になることが困難だからやりたくないってことか?」という質問に答えたものだ。
おそらく水上は「自らがヒステリー主体になること」と「ターゲットや目標を限定しないでの他者の精神分析的?な推察」を別物だと考えているのだろう。水上の「精神の不安定な状態」はヒステリー的状態じゃなかった、ということか。
いや、あのだな。
他者を無差別に精神分析的に解釈していくということはだな、そいつの主観世界の他者を科学的な態度で見つめるということだ。他者を科学的な態度で見つめたらそいつは(ラカン的な意味での)「他者」ではなくなる。人間を科学的に見ればそれは人体という物質でしかない。
結局さ、他者を無差別に精神分析的に解釈していけば、回り回って分析主体になるんだ。
つかこの記事でも書いておろうが。
=====
当然だろ、分析される他者ってのはそいつの主観内における他者にすぎないんだから。最終的にそれは自己分析となる。
=====
これはこのブログで何度も繰り返している主張だ。
わたしはそのように考えているから、この水上の二つのセリフは矛盾だと感じる。
まああれだろうな、水上の言う「精神の不安定な状態」っていわゆるデプレッション止まりだったんだろうな。要するに抑鬱状態。だからその状態がヒステリー的状態であるとは思えなかった、と。
いや、あのだな。デプレッションという抑鬱状態の向こうに、「少し精神病や倒錯に近い状態」があるんじゃよ?
君が勝手にその手前で立ち止まっただけじゃないかい?
抑鬱状態って気持ちいいもんらしいからな。その上部の超自我とその裏面のアブジェさえ見なければ。一種の平均台。ささやかな休息地。ママのかいなの中で眠る赤子。
君が「無」を象徴だと気づけなかったのは、デプレッションの心地よさのせいだろう。
あと最後に。単なる確認なんだけど。
=====
あくまで私の「隠喩」の定義ですが(通常の言語学的な定義とは随分違うのでしょうが)、私にとっては「隠喩」とは、これまでの言葉では言いえなかったこと、つまり無、を象徴化する機能ということになります。ラカンの隠喩の式でも、新しいシニフィエが生まれているように。つまり私にとって「隠喩」は、脂さんの言われる、「欲動が赤裸々に語り出した言葉」側のものになるかと思います。
=====
これさ、この記事の、
=====
水上が述べている「隠喩に象徴される無」とは、それ自体が象徴である。
物理学的に考えればわかることだ。その物質があるかないかはその物性を読み取るためのデータでしかない。その物質がなくても他の物質がある。他の物質の物性と混同しないためのデータだ。
全宇宙において「完全な無」などという状態は存在しない。
であれば「無」そのものが妄想であると、象徴であるとなる。
「無」こそが象徴なのである。
=====
で論破済み、ってことでいいかい?
「無」そのものが象徴なんだから、水上の言う「隠喩」は「象徴の象徴」だとなる。
「象徴の象徴」なんてまったく「赤裸々」じゃねえじゃん。単純に考えて。
この記事で何度もわたしは述べているように、「欲動を赤裸々に語ること」とは「具体を語ること」だ。「王様は裸だ」だ。「象徴の象徴」なんて抽象化まっしぐらじゃんか。
彼は抽象を具体だと言い張っているだけ。まさにシニフィアン的自己。ポスト・フェストゥム。
こうやってお前らはキチガイの言葉を自分の「清く正しく正常な主観世界」に、「象徴界に参入した自己観念」に、「去勢済み主体」に都合のいいように歪曲していくんだよな。
無自覚に。
ほんとサバルタンだよな。
=====
スピヴァクによって広く知られる用語となった。「自らを語ることができない者」であり,たとえ語っても,それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者のことをいう。一方でサバルタンを語る人々の側には、無機質な透明性がつくり出され、語る側の権力と欲望は見えなくされているのだとか。
=====
あ、コメントしてこないでね。
藤田はおもちゃでいいけどあなたを傷つけるのはちょっと避けたい自分もいる。あれだ、「いい感じに話をそらしてくれたこと」へのお礼だ。
お互い苦しむだけだからね。こんな議論しても。
でもしたいなら別に止めない。
エスをさらけ出すのがこのブログという場だから。
この記事は全然「思考実況」なんかじゃないよ。「自由連想」なんかじゃない。
水上雅敏という他者をある程度気遣って書いてある。
だからすごくつまんない記事。
ちなみに言っとくと、あたし精神分析学ぶ前からこういったような会話ばっかしてたんだよね。精神分析学んで道具が飛躍的に増えた、ってだけ。精神分析なくてもやってたよ。わたしのこういう会話某アスペから「(心を)ドリルされる」って言われたことあるんだが、いっつも「ドリル」してた。
だからだな、わたしをかわいがってくれてた上司にすら、「お前の議論は相手をナイフで刺すようなものだ」って言われたんだろうな。
「ドリル」、「ナイフ」。
精神分析はそれをすさまじくチューンナップしてくれた。
この「ドリル」や「ナイフ」こそが、わたしの「気遣い」だ。
あれだな、「生とは死の迂回にすぎない」って言葉をどう受け取るか、って話なんだろうな。
藤田はおそらくここから「わびさび」「もののあはれ」的な何かを受け取っている。
わたしは「人生は夢、世界は劇場」という個人的な座右の銘につながる何かを受け取った。
これだよ、登山者と下山者の違いって。
これにはわたしも同意するんだよな。
でもなー。
んー。
迂回にも過程があるじゃん。
「大人らしさ」をつきつめてった迂回の最終領域の「わびさび」「もののあはれ」だけじゃなくて、迂回の前半、最初の方もあるわけだ。
迂回の頂点とは去勢だ。「王様としての子供」たる万能感に満ちている状態。
そこからあとは下るだけ。ライカローリンストン。
それが「大人らしさ」だと思うんだよな。
「去勢を承認しろ」なんてのは「山の頂点をすでに越えてしまって下りているだけの自分を認めろ」ってことになるな。
藤田の言っていることって、川上未映子についての書評もそうなんだけど、去勢という山を乗り越えてあとは下っていくだけの「大人らしさ」からの発言なんだよな。カフェ・フジタの4281番の「無花果」うんぬんのコメントもそういうことだろ? 「大人らしさ」が増長した症状たる「わびさび」「もののあわれ」。わたしなんかは「あーそうなんだ」くらいだけどな。ごめんねそういうのわかんない人で。その筆者はそのことについてなんとなくなんか感じるものがあったんだろうな、ぐらい。
山を越える前の人間の視点が、「未去勢的」な視点が彼にはない。
「藤田博史という解釈機械」にはそういうクセがある。
藤田はこれを自覚できているんだろうか。教育分析のときはそのときのお前でしかすぎないのに。今この瞬間のお前についての分析主体でいれているのだろうか。
ゴール間近にいる人間がスタート近辺にいる人間を批判しているだけにすぎんよ。
そもそもそんなかけっこ自体に興味ない人もいるだろうし。ファルスによる「せき立て」が弱い人だっているだろう。
そういう人間からしてみれば、藤田の言っていることとか「は?」だろうな。「早く山から下りろよ」だなんて言われてもな。まだ山に登ってすらいないわけで。
そういう人はカフェ・フジタやフジタゼミには行かないんだろうな。自発的に。あ、わたしは誘われたからさ、それについて触れているだけ。
そうやって「迂回の山を越え下りていく人たち」が、下山者たちが集っていくわけだな。登山者たる「は?」な人たちはどうでもいいから集まってこない。
なるほど。ルイトモってすげーな。
まーでも中野くんあたりは山の頂点から下りはじめた人っぽいけど。下山初心者。なので多少登山側の意識も残っているのだろう。
つかさー、登山者でもなく下山者でもなく、山の裾野から山を見るのが科学者としての分析家じゃないのかね。
その「山」なんてただの幻想にすぎないんだから。
「死を迂回するだけの生」とは「幻想の山」だ。
あ、ちなみに木村敏論で言うと登山側がアンテ・フェストゥムで下山側がポスト・フェストゥムってことになるな。
イントラ・フェストゥムは山の頂点が噴火口だった、って感じか。
「去勢の否認」はあれだな、下山しながら「まだ山の頂点があるはずだ」って感じなのか。
そんな奴らにゃ藤田のお説教は有効なんだろうな。
でも「去勢の否認」も間違っちゃないよな。
その「山」自体が幻想なんだから、幻想で「頂上」を作ればいい。
そこに辿り着いた彼は英雄になるだろう。
パラノイアになる。
この一連の事件においてわたしは「水上雅敏という症状」解釈をしていないが、そらな、わたしのドリルはキチガイじみているわけだから(某アスペに言われた)、相手がいやがることくらい知っている。でもコメントしてこなくなったのでいいかな、と思ったのでやってみる。つか内心してはいたんだよ。言語化してなかっただけ。
わたしは水上さんも下山者だと思ってる。ただ「登山している頃」についてひっかかってはいそうだが。それこそ彼の4282番のコメントはそういうことじゃないかと。
だからちょっとお話してみようかな、ってな。
さて。
ここのコメントで水上さんと自由連想の話をしてたんだがなんか別方向に行ってしまったので戻してみる。
水上さんは「自由連想」から「精神分析の終わりの状態として」の「少し精神病や倒錯に近い状態」を連想した。
そして彼はここのコメントでこう述べた。
=====
そうですね。精神分析の終わりの状態が、「少し精神病、倒錯に近い状態」とするなら、それを芸術療法でどう達成できるのか、と考えさせられました。
=====
水上さんは「自由連想」を、「連想が自由になる状態」だと考えているようだ。
なので「自由連想」が一種極端となった状態として、「少し精神病や倒錯に近い状態」(それこそ「観念連合の弛緩」など)を連想したのだろう。
しかし、「自由連想法」とは、「連想が完全に自由になる状態」なのだろうか?
わたしは違うと思う。
「自由連想法」とは、クライエントに「自由に連想できる場」を与えることだ。それによってクライエントは自由に連想する。
ところが本人がいくら「自由」と思ってはいても、その連想連鎖においてなんらかの構造が見えてくる。A→B→C→……という連想において「→」に着目するのが精神分析だ。AやBやCではなく「→」にこそ無意識はそのほんの片鱗を表す。「冗談や言い間違いにこそ無意識は表出する」である。「言語のように構造化された無意識」。この構造こそが冒頭で述べた「幻想の山」だ。
分析家はそこから心因性症状の病理たるトラウマなどを見出す。
精神分析はこうやって臨床素材たるクライエントたちの「言語のように構造化された無意識」を、「幻想の山」を研究してきた。
しかしこの「山」はただの幻想であるため、さまざまな幻想から影響を受ける。変化する。
クライエントのそれを研究対象物とすれば、それを変化させる要因はいわば「ノイズ」である。実験において除去しなければならない要因である。余談ではあるが、この「ノイズ」としてもっとも多いのは「文化という幻想」だろう。
クライエントのそれという研究対象物を厳密に観察するためには、そういった「ノイズ」は排除しなければならない。実験というメソッドの基礎中の基礎だ。
こういった観察実験の環境として「自由連想法」はある。そうわたしは考えている。
要するに、
「実は自由などではないクライエントの無意識構造を観察するための、「自由に連想できる場」という「さまざまなノイズを排除した場」としての観察実験環境が、「自由連想法」である」
ということだ。
「自由連想法」とは「クライエントに自由に連想させること」ではない。あくまでクライエントの無意識構造を観察するために設置する観察実験環境でしかない。「自由に連想できる場を提供すること」であって「自由に連想させること」ではない。
そしてその場を作る人間が分析家なのである。分析自体はクライエントが、分析主体が行うものである。
わたしの意見は、ね。
こう考えて、藤田がキレた向井雅明のこのコラムを読み返せば、理解できる部分もあるのではないだろうか。確かに表現としては語弊が多い稚拙なものなのだろうが。「毛沢東軍の兵士」なんてのはこのことを説明しようとするためのただの一つの比喩にしかすぎない。つか向井だって「比喩のプロ」たる小説家じゃないわけだし。
世間知らずな学者が世間に与える影響なんて予想せずに、それこそ幼児的に言った言葉だと考えれば、そう解釈もできうる、って話にすぎん。
となると、クライエントに「まったく自由に連想させる」というのは、研究対象物の観察実験として考えるならば、観測者が研究対象物に負荷させる余計な「ノイズ」でしかない。
となると、水上の主張、「分析主体を「連想が完全に自由になる状態」させる」というのは、観察実験として誤りである、となる。
いやもちろん、研究対象物の物性を知るために、観測者側からなんらかの影響を負荷させる場合もある。
この場合なら、たとえばクライエントの無意識構造がうまく観察できなかったとき、「まったく自由な連想をしている状態」が、比較対照的な物性として必要となるケースもあるだろう。
そういった意味で水上がそう言っているのならば、理解できなくない。もしそういう意味で言ったのならば、「彼の主張は誤りだ」としたことをわたしは謝罪する。
しかし、「まったく自由な連想をしている状態」とは、厳密には「それに近づいた状態」とは、彼の言う通り「少し精神病や倒錯に近い状態」である。これはわたしも反論しない。
むしろこれは「まったく自由な連想が可能な場」としての「自由連想法の場」こそが、研究対象物に影響している状態だ、と言えよう。そういった場がクライエントの、分析主体の「構造化された無意識」に影響した結果でもある、と。
ここまでくると物理学の観測問題と同領域の議論となる。
むしろこの問題は原理である。「不確定性【原理】」という表現は大仰などではない。
「人間の知の限界」という原理と常に対峙しているのが、わたしの言う(「アルチュセールをこれ見よがしに持ち歩く学生」などではない)「学者なる態度」である。
たとえば。
複雑系研究者の金子邦彦は言う。
「複雑な物を複雑なまま理解する」
一部で物議を醸した言葉である。
これは「複雑なまま」の状態を理解できない「人間の知の限界」を自覚していながらの言葉である。
そうではなく、「人間は複雑な物を複雑なまま理解できる」という前向きな意味で言っていたならば、一種の「去勢の否認」的な言葉だとも言えよう。
しかし、今の彼がどうなのかは知らないが、大学時代実際に面会したことのあるわたしは、そうではないと解釈する。
つか彼いわゆる「昔のオタク」なんだが、「昔のオタク」って大体自虐的だろ? 『リアルげんしけん』で描かれている「自己肯定が上手な後輩オタクたち」とは違う時代のオタク。巨乳先輩タイプのオタク。ベースに自己否定があるような感じの、自己否定がクセになってるようなタイプの人だった。だからその言葉もわたしはそう解釈する。
つか自己否定がクセになっているからこそ社会的に自閉しているんだろうな。
よく言えば「傷つきやすい人」(笑)。もっといじめてやればよかった。
金子邦彦という「統合された人格」には言及しないが(つかそれほど、「よく夜通し議論した」とかってわけじゃないし、わたしはよく知らない)、複雑系研究における彼の態度は、登山者側だ。「去勢の否認」ではない「未去勢的」と言ってもいいだろう。実際彼子供っぺえところあるぜ。つかガキだよ、ほんと。よく言えば「無邪気」(笑)。
その物議を醸した言葉も「社会的な影響」なんて気にしないで「ぽろっと」言っちゃったんだろうな。まあ「あ俺うまいこと言った」ぐらいは思ったかもしれんが。
反論している奴は「複雑系研究が何かそういった壮大な思想のように思われる」とか言ってた。アホか。「思われる」とかんな「社会的な影響」なんて、そら確かに多少は考慮せなあかんねかもしらんが、正直知らんわ。なぜって「学者の本分」じゃないだろそれ。「そう思われる」なんてな「そう思う奴」の勝手だ。そいつの「心の問題」だ。それこそ学者は小説家じゃない。ああ「そういったことを気にしろ」ってのが「社会に開かれた大学を目指す東大改革」なわけですねわかります。蓮實重彦とかフローベール大好きだもんな。
その「心の問題」をやってるのが今のわたしですが何か?
藤田一派事件におけるわたしの主張である「隠喩を読み込まれることの被害」。金子さんもそういう被害にあってた、って話だとわたしは思う。
ここまでのまとめ。
「自由連想法」とは「自由に連想させること」ではない。
「自由に連想できる場を与えること」である。
観察実験環境として。
余談風にもう一つの具体例を挙げておこう。
シュルレアリスムの発端でもある、アンドレ・ブルトンによる「自動書記」。
これなど「自由連想」と関連させて述べられていることが多いが、やり方を考えればまったく「自由連想法」と別物なのがわかる。ブルトンがした「自動書記」とは、「決められた時間内にできるだけ多くの言葉を書き記す」というものだ。時間制限がある。「自由に連想できる場」ではない。
しかしわたしは同時に、「自動書記」は「連想が完全に自由になる状態」へと近づくためのメソッドではある、とも思っている。「自動書記」によってつむがれた言葉は「連想が完全に自由になった状態」に近づいた言葉である、と。
要するに、むしろ「一定時間内にできるだけ言葉を多く書き記す」という、実験執行者側が課した条件によって、「連想が完全に自由になる状態」、それに親近する状態としての「少し精神病や倒錯に近い状態」へと近づいたのだ、と。
このことを「詩は「自由」ではなく「定型」であるからこそエスをさらけ出すことになるのではないか」と述べたのがこの記事だ。ブルトンの場合は実験執行者と被験者が同一人物だったにすぎない。「自動書記」の時間制限は詩の定型と同じ役割を担っていたのではないか、ということだ。
あとまあラカニアンならすぐ連想することだと思うが、「短時間セッション」もそういう感じのことなんじゃねえの? あたしゃどうでもいい話だけど。
ここで断っておきたいが、わたしは分析家ではない。分析家になろうとも思わない。
何度も言うようにわたしはメンヘラでありクライエント側だ。
わたしは分析主体である。分析するのは分析家ではなく分析主体である。
自分、他者問わず。
当然だろ、分析される他者ってのはそいつの主観内における他者にすぎないんだから。最終的にそれは自己分析となる。
以上のことを踏まえて「水上雅敏という症状」を解釈してみよう。
水上さんは、彼の無意識は、自分自身が「連想が完全に自由になる状態」に近づきたがっていると、「少し精神病や倒錯に近い状態」になりたがっていると、わたしには思える。
そういう無意識がここでわたしが指摘したような誤謬を犯させた、と。その誤謬は彼のそういった無意識の表出ではないか、と。
ブルトンは自身の「自動書記」について「危険な行為だ」と述べている。彼は精神病者との関わりを表現した作品を書いている。『ナジャ』である。
しかし彼はそれを実行した。
これと同じような思考構造が水上さんにもあるように思える。
たとえば彼はカフェ・フジタにおいて、藤田の4281番に対して、彼は4282番というコメントを返している。ここで彼が言う「おもしろき世」とは「連想が完全に自由になる状態」「少し精神病や倒錯に近い状態」ではないか、とわたしは解釈してしまう。
そいやラカンって元シュルレアリストなんだよな。
果たして「もののあはれ」「わびさび」はシュルレアリスムだろうか。
「もののあはれ」「わびさび」を追求する文化人が自己陶酔的につぶやく。
「形ある物は必ず滅びゆく」
そこへ、ぼろぼろの鎧を着た今戦場から帰ってきたばかりの武者が現れ、こう言い放つ。
「あんただって「形ある物」だ。なら今から戦場に連れてってやるよ」
狼狽する文化人の首根っこをつかんで、武者は戦場へと舞い戻る。
高杉晋作ってばりばりのタカ派だよな。「西郷隆盛より武闘派だった」とかどっかの歴史作家がゆってたな。
わたしは藤田の藤田の4281番について以下のような解釈をしている。この記事から。
=====
あとさ、藤田くんの新しいコメントだけれども。
わたしこういうこと別に精神科医に限らず誰でもやっちゃうのね。「すました奴の仮面をはぎたがる」って言うかね。
でさ、ライトノベル作法研究所でもよくやったんだ、こういうの。それこそ今藤田にやってるようなこと。「かっこつけてるけどお前のその行動見方を変えたらすげー情けないものじゃんwww」みたいなね。
でおもしろい傾向を発見したんだ。
まあ大体「話になんねえ」つって議論は終わるんだけどな。わたしにそうされた奴って、必ずと言っていいくらい、議論の直後、他のチャット参加者に激しく気を遣うんだな。なぜか観客に媚びたがる。
多分な、わたしの言葉は彼に通用したんだろう。いや当然そいつら精神科医じゃないし。ただのアマチュアライトノベル作家たちだからさ。
だからな、「自分はそんな情けない人間じゃない」ってことにしたくて、他のチャット参加者たちに媚を売ったんだと思う。
つまり、わたしに「欲望とは他者の欲望である」を指摘され、それが崩れかけてしまったから、「欲望とは他者の欲望である」関係を維持しようと、他のチャット参加者たちに媚を売りまくった、と。
ほんとにね、おもしろいくらいみんなそうするんだ。
藤田くんのこの、文脈もない「ただの思いつき」でしかなさそうなこの新しいコメントも、そういうのと同じ反応だとわたしは思っちゃったりなんかしちゃったりするんだけど、考えすぎかな?
どう? 藤田くん?
まあ要するに「お前にあんだけ罵倒されたが俺にはこんなに仲間がいるんだぞ」症候群、とでも言おうか。
=====
「すました奴の仮面をはぎたがる」わたしについて書いたコメントの直後(五時間後)に4281番は書かれている。
わたしにはそれが、カフェ・フジタの他の読者へ媚びているように見える。
彼のこのコメントにはそれこそ「お前にあんだけ罵倒されたが俺にはこんなに仲間がいるんだぞ」という隠喩がなかったか。
少なくとも水上は、藤田のこのコメントにそういった隠喩を読み込んで、4282番というそれについてのコメントを書いたのではないか。
このとき藤田は「主人のディスクール」における「物言わぬ主人」になっていなかったか。
ちなみにこういった日常会話における隠喩構造は女性にもある。わたしの主観ばりばりの脚色を施して表現してみよう。仮想症例みたいなもんだ。
すれた喪女とリア充女が口論している。
喪女「あんたこないだだってそうだったじゃん。いっつもすました顔しちゃってさ、あーキモ」
リア充女「あーうっさいなー。あんたの言うことなんてどうでもいいの。もうあたしに話しかけないでよ」
喪女「お前の方こそ話しかけてくんなよ」
リア充女「(こりゃ話にならないわ、と別方向に向き直り)……ねえねえ、そういや昨日やってたキムタクのドラマ見た? チョーせつなくてあたしカンドーしちゃったあ」
他の子「あ、うん、でも先々週の激しいのもよかったよね」
誰が誰だかわかるよな?
男だって同じだ。「ねえねえ」って媚を隠すのがちょっとうまいだけ。事実ライトノベル作法研究所においてわたしが観察した「お前にあんだけ罵倒されたが俺にはこんなに仲間がいるんだぞ」症候群は、男性の方が多かった。そこでわたしと週二度は夜通し議論していた妖怪紳士にも指摘したことがあるが、彼はそれを媚だと自覚していた。「そうやって相手を丸め込むのがいいんだよ」と。ちなみに「丸め込む」は彼の作劇手法(そういう人らすい。小説家崩れのライター崩れ)において重要なキーワードとなっているようだった。ほんと蓮實に似てるよな。彼に直接そう言ったことあるけど。わたしが蓮實大嫌いなの彼も知ってた上で。
また、わたしは昔から他の多くの人たちにおいてこの症状を観察していた。この記事から。
=====
他のクラスメイトとは、幻影同士が噛み合っている。相手がどう言って欲しいのかがわかるし、わたしはそれに従うし、わたしがどう言って欲しいかに従って、相手は喋る。わたしたちは、常に王様ゲームをしている。王様ゲームをしている間は、お互いが幻影であることに気づけない。気づかなくてもいい。
=====
これを踏まえるならば、「「お前にあんだけ罵倒されたが俺にはこんなに仲間がいるんだぞ」症候群」はさすがに冗長なので「「王様ゲーム」症候群」と書き換えてもいいかもしれない。
これが「主人のディスクール」の具体だとわたしは考えている。新宮一成の言う、このディスクールの無意識下にある「全体性の幻想」は、その小説ならば「幻影の王国」に相当するだろう。またそれは前半文章における「幻想の山」でもある。
むしろわたしはそれを「王様ゲーム」と思ってしまうから「コトバハコトバノコトバカリ」となるのかもな。
「幻影の王国」に表面上組み込まれてはいるが、常にどこか一歩離れたような感じだった。これはわたしの症状となるだろう。ちなみにその主人公はわたしよりリア充だ。自分からヤロー誘うとかムリムリムリムリカタツムリだった。あれだ、オタク文化の「ヤンデレ」に対してちょっと物言いしたくて書いた小説だしな。多少「自己肯定がうまい現代オタク」向けによく書いている。どっちかてと自殺した方にわたしは近い。中高生時代のわたしな。大学でびう前。
藤田の4281番のコメントは明確に誰かに語りかけている言葉ではない。
しかし実際に水上は返答した。そのなんの脈絡もないコメントに。
それはなぜだ?
この瞬間の藤田と水上の無意識下では「王様ゲーム」が行われていたのではないだろうか?
つかさ、この仮想症例って「揶揄」「風刺」なわけじゃん。藤田や水上に対する。いやそんなつもりはなかったけど。ここでは。
そうそう、こういう隠喩ならあたしも使えるのだよね。「揶揄」「風刺」的だと思いながら使うこともある。
でもなぜか「隠喩の王国」に入れない。
精神分析を学んでいる今のわたしは、『隠喩の王国』という舞台作品について関係者入り口から潜り込もうとしているようなものだ。
うんうん、あたしスタッフやってた理由は「タダで見れるから」だったもんな。観客席にはいられないけれど。
しかしここで注意してほしい。
先の仮想症例における他の子はリア充女の言う「カンドー」に対し、反論だとは明確に言えないが、「物言わぬ主人」の意に沿っていないと言える返答をしている。おそらく主人が求める答えは「うんうん、チョーせつなかったよねえ」とかだろう。こういった会話は女性に多く見られる。
水上の4282番のコメントもそういったものではないか、とわたしには思える。
他の子は「主人のディスクール」に応じていない。
では彼女はどうだったのか。
暴論になるのを承知で言うが、彼女は、喪女の「激しい」、藤田の言なら「挑発」的な言葉に多少影響されて、ほんのちょびっとだけ「ヒステリーのディスクール」になっていたのではないか。
彼女はちょっとだけ「すました仮面」をはずして、「激しい回のもおもしろかった」という素顔を、エスをさらけ出したのではないだろうか。
このとき他の子は、リア充女という相手に気遣わず、好き勝手なことを言っている。
ここで藤田が向井掲示板の殴り込む原因となったコラムを読んでみよう。
=====
オブザーバーによると当時毛沢東の軍隊は大混乱を起こしていて、まったく信じられない様相と呈していた。とにかく皆がめいめい好き勝手なことをして、一兵卒が士官を平気で批判したり、通常の軍隊の規律からすると考えられないような状態が起きているということだ。
=====
他の子は「女性同士の会話」における「「うんうん、チョーせつなかったよねえ」などと返さなければならない」という「規律」を無視している。好き勝手なことを言っている。
あたかも「自由連想」的に。
水上さん、あなたはどう思う? あなたという症状について。
あなたのそのコメントは、あなたのエスが、ほんのかすかにちょびっとだけ、漏れてしまった言葉じゃないかい?
「おもしろき世」という言葉で、あなたの症状として隠喩されたものとは、あなたのエスだったんじゃないだろうか。
ちなみに言うと、「女性同士の会話」を人生とほぼ同じくらい長く観察してきたわたしの推測では、他の子のこのコメントに対しリア充女は、ほんのかすかにちょびっとだけ、カチンときてたと思うんだよな。
藤田くん、あなたはどう思う? あなたという症状について。
別の面から「水上雅敏という症状」を指摘してみよう。これまでの論は「解釈」にはなっていると自分で思うが、以下は解釈するにいたっていないから「指摘」と言った。
わかるもん。他人を症状として解釈するのは、相手も不愉快になるし自分の精神も不安定になる。ここのコメント欄で水上が述べた通りだ。
なので解釈はここまで、って話。ほら今超絶調子悪いから。ケンカ屋にだって休みがほしいときぐらいある。
つかさ。水上雅敏でさえそういう症状として見ちゃうようになったわけで(わたしはそうしようとは別に思っていない。無意識だ)、水上さんコメントしなくていいよ。お互いに傷つくだけだから。藤田はすでにいいおもちゃだったけどあなたはまだおもちゃになってない。おもちゃになる前にわたしの前から姿を消してくれ。
さて、解釈ではなく指摘として。
水上がここにしたコメント。
=====
・・とのことですが、どんな語りでもそれなりに真理はどれほどか語っているはず。逆に、こういう一見本音的にひびく語りによって、本来語るべき語りを隠すこともある、と思います。こういう語り方だからと、本音を語っているとは限らない、・・と。
=====
んでもって
=====
私にとっては「隠喩」とは、これまでの言葉では言いえなかったこと、つまり無、を象徴化する機能ということになります。ラカンの隠喩の式でも、新しいシニフィエが生まれているように。つまり私にとって「隠喩」は、脂さんの言われる、「欲動が赤裸々に語り出した言葉」側のものになるかと思います。
=====
そして
=====
そうですね。精神分析の終わりの状態が、「少し精神病、倒錯に近い状態」とするなら、それを芸術療法でどう達成できるのか、と考えさせられました。
=====
この三つのコメントにおいて、ある共通点がある。
それは、「水上は具体を述べていない」ということだ。
たとえば一番目のコメントは、わたしの言う「パジャマッコリ」についてだ。これはわたしの主観においては具体がある。世間的にはどちらかと言うとリア充ではない、よく言えばインドア派な女性たちが、ある部屋に集まり、すっぴんのパジャマ姿で酒を飲み愚痴りあう、という具体。なんならわたしとそうした奴の実名を挙げてもいい。いやしないけど。つか覚えてないしほとんど。
しかし彼はそんな具体にまったく触れもせず、ただ単に彼の空想的な思考を述べているだけである。
もちろんこれはわたしの主観内における具体でしかない。であるならば、彼が「こういう一見本音的にひびく語りによって、本来語るべき語りを隠すこともある」と思った根拠となる彼の主観世界における具体を述べてもらわないと、わたしはそれがどういう具体か想像できない。意味がわからないのだ。いや言っている意味はわかるけど。
もし具体を伴った上でのそういう主張なら、その具体(を想像し近似したわたしの具体)とわたしの「パジャマッコリ」という具体とを比較対照し、彼の言うように演技で「死ね」と言っていたのかどうか検証できるのだが、それすらできない。
二番目はまさに今回の藤田一派事件においてわたしが主張してきたことだ。わたしはわたしの主観におけるさまざまな具体を挙げてそれを論じている。なので省略する。過去記事を読み返してほしい。
三番目については、わたしは彼の疑問に対し「「解答」ではなく、あくまで一つの「ヒント」みたいなものとして、暗黒舞踏やアングラ系がそうなんじゃないの?」と述べている。「暗黒舞踏やアングラ系」という具体を伴った回答をしている。
要するに、彼のコメントはほとんど抽象的すぎて、何を言っているのか意味がわからないのだ。いやジャーゴンなどの学問的定義は理解できる。しかし彼はそのジャーゴンによってどういう具体を、シニフィエを示しているのかわからない。
だからわたしはこう述べた。
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物理学者がしている議論にSF小説の理論を持ち込んでくるのは「話をそらしている」ことにならないか?
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この記事のこの文章もそういう意味だろう。
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つか心理療法なんて結婚詐欺と同じようなもんだろ? 原理考えたら。
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これは、「わたしは具体を根拠に述べているのに、そしてそれを開陳しているのに、あなたはそうせず抽象的な話ばかりして、話をそらしている。」という意味だ。「文字数が少ない」とも言ったが、それは「具体的な話をまったくしない」という意味になるだろう。
シニフィエは原理的に一人一人違う。正常人とキチガイが見ている世界は違う。
なのにシニフィエに見向きもせず話を進められても、「もしかしてわたしは周りの多くの人と見ている世界が違うんじゃないか」と思い続けてきたわたしは混乱するだけだ。
おそらく水上の主観世界には「世界は一つ」のごとき「全体性の幻想」があるのだろう。一人一人見ている世界は、いろいろあっても最終的には同じである、と。だからこういったような具体を、シニフィエを軽視する傾向となるのではないだろうか。
木村敏はポスト・フェストゥムの条件たる「ノエマ的自己」を「シニフィアン的自己」と読み替えている。水上のこういった症状はポスト・フェストゥムの理屈と合致する。
話は変わるがここで精神分析の話をすると、精神分析という学問にとっての具体とは臨床素材である。ヒステリーなどといったクライエントである。「具体を知ること」が臨床である。
向井のこのコラムにあるように、ラカン派は「臨床を軽視している」と他学派から思われているようだ。それに対する向井の反論要旨は「ラカン派だって臨床している。理論も実践も両方大事なのである」というものである。わたしはそれには同意する。ラカン派だって臨床していると思える。斎藤環などは(彼は分析家の資格を持っているわけではないが)オタクやひきこもりといった具体を伴わせてラカン論を使用している。臨床している。
しかし、こういった「水上雅敏という症状」を見ると、他学派のそういった批判もありかもしれない、とわたしは思ってしまう。
向井が推測しているように「複雑で理解困難なラカン理論」を原因としているわけではなく、ラカニアン個々人の症状、人格傾向が原因となって、「臨床を軽視している」という派閥全体の傾向になっているのではないか、と。
たとえば、ネットラカニアンの本上まもるが、あるラカニアンと「いじめは死の欲動か」という議論をしたことがある。ここでも触れた。
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その議論内容は「現代のいじめは死の欲動の表出かどうか」だった。その学者は死の欲動に関する議論で「現代のいじめ」に触れた。それに対し本上は「違う。現代のいじめは死の欲動の表出ではない」と言った。
わたしは本上が正しいと思う。ライトノベル作法研究所という中高生が集まるサイトなどでいじめの話題にも触れたことがあるが、あれは死の欲動の表出とはわたしも思えない。エントロピー増大則としてやっているとは思えない。「異物を排除する」ということはむしろネゲントロピーであり、生の欲動だ。つまり「現代のいじめは死の欲動に対しての防衛だ」となる。
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わたしも本上の意見に同意する。わたしの「いじめ」という具体を考えると、とてもそうは思えないからだ。いや、議論相手は結構な年配らしく彼の時代の「いじめ」はそうだったのかもしれないが、わたしが見てきた「いじめ」はそうではない、と思える。わたしいじめられてなかったけど。浮いてはいた。小中学生時代な。高校はけっこういじめる側だったかもしれない。「女星一徹」とか言われたことあるしな(笑)。頑固ではあったんだろうな。「クラスから浮いていること」を「いじめられている」と言うならいじめられてたことになるな。浮いてた方が楽だったし本人は「いじめ」とは思っていないが。
ともかく、これも、もしかしたら具体を伴わない議論だったがゆえの、「原則一人一人違う」シニフィエを論じなかったゆえの、すれ違いだったのではないか、とわたしには思える。
余談だが、先の金子邦彦の「複雑な物を複雑なまま理解する」という言は、向井の「つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。」に相当する、とわたしは考えている。
さて次に。
わたしが水上が本職の心理士だということを知らなかった。ネットで調べると「精神分析的カウンセリング」なるものをやっているようだ。
なるほど。
そうするとわたしには一つの疑問が湧く。水上がここでしたコメント。
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ターゲットや目標を限定しないでの他者の精神分析的?な推察は、私の場合自分の精神を不安定にすることに学生時代に気付いて、そういうことをするのはそれ以降できるだけ自粛するよう決めたのです。
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これはわたしの「あなたは「藤田博史という症状」解釈をしたくないのか。もししたくないのなら、それはなぜか。」という質問に対する彼の答えである。
彼がそれをしないのは「多くの他者を精神分析的解釈すると自分の精神が不安定になるから」、という意味だろう。
しかしだ、彼は「精神分析的カウンセリング」という仕事をしている。
どういうものかわからないが、実際にカウンセリングを何度か受けたわたしが推測するに、少なくとも週に十人以上はカウンセリングしているのだと思う。
彼は週に十人は「精神分析的カウンセリング」できる(だろう)。
であるならば、なぜ「藤田博史という症状」解釈ができないのだろう? 十人が十一人に増えるだけである。まあ確かにんなの金にならないわけだし、なんなら「藤田博史という症状」解釈は月一回にすればいい。その場合十人が10.25人になるだけとなる。
おそらく彼が「藤田博史という症状」解釈ができないのは、人数の問題ではないのだろう。
ではなんだ? 彼が「藤田博史という症状」解釈できない理由はなんだ?
自分の診療室にくるクライエントなら解釈できる。藤田博史にはできない。
合意が必要なのか。
それならば水上は、藤田に「あなたを症状として精神分析解釈してよいですか?」と聞いてみたことがあるのだろうか? そのあとのコメントから察するに彼はいまだ藤田にそう聞いたことがないと推測できる。
なぜだ?
藤田との信頼関係を壊したくないからか?
ここにも「物言わぬ主人」の「言明されない命令」を、主人と奴隷のあいだにある「暗黙の了解」を遵守している水上がいるのではないだろうか。
こういった無意識的な思考回路こそが、水上の「言語のように構造化された無意識」であり、「隠喩連鎖構造としての症状」だ。
水上の隠喩はまったく「欲動を赤裸々に語る言葉」ではないことがこれで証明された。
水上さん、あなたはどう思う? あなたという症状について。
あとさー、
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ターゲットや目標を限定しないでの他者の精神分析的?な推察は、私の場合自分の精神を不安定にすることに学生時代に気付いて、そういうことをするのはそれ以降できるだけ自粛するよう決めたのです。
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とさ、ここの
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「困難だからやらない」、ってことではないですよ。
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って矛盾してね?
「自分の精神を不安定にする」という「困難」さがあるから「やらない」って話じゃないの?
下の水上のコメントは、わたしの「向井みたいに自らが分析主体、ヒステリー的主体になることが困難だからやりたくないってことか?」という質問に答えたものだ。
おそらく水上は「自らがヒステリー主体になること」と「ターゲットや目標を限定しないでの他者の精神分析的?な推察」を別物だと考えているのだろう。水上の「精神の不安定な状態」はヒステリー的状態じゃなかった、ということか。
いや、あのだな。
他者を無差別に精神分析的に解釈していくということはだな、そいつの主観世界の他者を科学的な態度で見つめるということだ。他者を科学的な態度で見つめたらそいつは(ラカン的な意味での)「他者」ではなくなる。人間を科学的に見ればそれは人体という物質でしかない。
結局さ、他者を無差別に精神分析的に解釈していけば、回り回って分析主体になるんだ。
つかこの記事でも書いておろうが。
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当然だろ、分析される他者ってのはそいつの主観内における他者にすぎないんだから。最終的にそれは自己分析となる。
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これはこのブログで何度も繰り返している主張だ。
わたしはそのように考えているから、この水上の二つのセリフは矛盾だと感じる。
まああれだろうな、水上の言う「精神の不安定な状態」っていわゆるデプレッション止まりだったんだろうな。要するに抑鬱状態。だからその状態がヒステリー的状態であるとは思えなかった、と。
いや、あのだな。デプレッションという抑鬱状態の向こうに、「少し精神病や倒錯に近い状態」があるんじゃよ?
君が勝手にその手前で立ち止まっただけじゃないかい?
抑鬱状態って気持ちいいもんらしいからな。その上部の超自我とその裏面のアブジェさえ見なければ。一種の平均台。ささやかな休息地。ママのかいなの中で眠る赤子。
君が「無」を象徴だと気づけなかったのは、デプレッションの心地よさのせいだろう。
あと最後に。単なる確認なんだけど。
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あくまで私の「隠喩」の定義ですが(通常の言語学的な定義とは随分違うのでしょうが)、私にとっては「隠喩」とは、これまでの言葉では言いえなかったこと、つまり無、を象徴化する機能ということになります。ラカンの隠喩の式でも、新しいシニフィエが生まれているように。つまり私にとって「隠喩」は、脂さんの言われる、「欲動が赤裸々に語り出した言葉」側のものになるかと思います。
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これさ、この記事の、
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水上が述べている「隠喩に象徴される無」とは、それ自体が象徴である。
物理学的に考えればわかることだ。その物質があるかないかはその物性を読み取るためのデータでしかない。その物質がなくても他の物質がある。他の物質の物性と混同しないためのデータだ。
全宇宙において「完全な無」などという状態は存在しない。
であれば「無」そのものが妄想であると、象徴であるとなる。
「無」こそが象徴なのである。
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で論破済み、ってことでいいかい?
「無」そのものが象徴なんだから、水上の言う「隠喩」は「象徴の象徴」だとなる。
「象徴の象徴」なんてまったく「赤裸々」じゃねえじゃん。単純に考えて。
この記事で何度もわたしは述べているように、「欲動を赤裸々に語ること」とは「具体を語ること」だ。「王様は裸だ」だ。「象徴の象徴」なんて抽象化まっしぐらじゃんか。
彼は抽象を具体だと言い張っているだけ。まさにシニフィアン的自己。ポスト・フェストゥム。
こうやってお前らはキチガイの言葉を自分の「清く正しく正常な主観世界」に、「象徴界に参入した自己観念」に、「去勢済み主体」に都合のいいように歪曲していくんだよな。
無自覚に。
ほんとサバルタンだよな。
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スピヴァクによって広く知られる用語となった。「自らを語ることができない者」であり,たとえ語っても,それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者のことをいう。一方でサバルタンを語る人々の側には、無機質な透明性がつくり出され、語る側の権力と欲望は見えなくされているのだとか。
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あ、コメントしてこないでね。
藤田はおもちゃでいいけどあなたを傷つけるのはちょっと避けたい自分もいる。あれだ、「いい感じに話をそらしてくれたこと」へのお礼だ。
お互い苦しむだけだからね。こんな議論しても。
でもしたいなら別に止めない。
エスをさらけ出すのがこのブログという場だから。
この記事は全然「思考実況」なんかじゃないよ。「自由連想」なんかじゃない。
水上雅敏という他者をある程度気遣って書いてある。
だからすごくつまんない記事。
ちなみに言っとくと、あたし精神分析学ぶ前からこういったような会話ばっかしてたんだよね。精神分析学んで道具が飛躍的に増えた、ってだけ。精神分析なくてもやってたよ。わたしのこういう会話某アスペから「(心を)ドリルされる」って言われたことあるんだが、いっつも「ドリル」してた。
だからだな、わたしをかわいがってくれてた上司にすら、「お前の議論は相手をナイフで刺すようなものだ」って言われたんだろうな。
「ドリル」、「ナイフ」。
精神分析はそれをすさまじくチューンナップしてくれた。
この「ドリル」や「ナイフ」こそが、わたしの「気遣い」だ。
あれだな、「生とは死の迂回にすぎない」って言葉をどう受け取るか、って話なんだろうな。
藤田はおそらくここから「わびさび」「もののあはれ」的な何かを受け取っている。
わたしは「人生は夢、世界は劇場」という個人的な座右の銘につながる何かを受け取った。
これだよ、登山者と下山者の違いって。