育ち悪いからー。
2010/11/16/Tue
結局さ、藤田博史がわたしに言ってることって、「いいことは言っているのに、俺好みの「知的な」言い方をしてないからだめだ」ってことなんだよな、あたしからすれば。
ごめんね育ち悪くて。
別にお前に好かれたくてやってるわけじゃないし、文化人オヤジたちのちんぽしゃぶるために精神分析やってるわけじゃないし。
何を勘違いしているのか知らないが、わたしは自分から「フジタゼミに行きたい」って言ったわけじゃねえぞ? あくまでわたしは中野雅哉からフジタゼミに誘われただけ。
なのになんで「礼儀」を強制されなきゃならんのだ。
前記事にも書いたが「自分はこれだけ礼儀を尽くしたんだから、相手も礼儀を尽くすべきだ」なんてのは「礼儀」じゃねえだろ、んなもん。
あたしには「礼儀」と思えないただの「すました仮面」を強制されるコンパならお断りします。
あたしはあたしの症状を解明するために精神分析をやってるだけだから。
それだけだよ。
他人の好みなんかどうでもいい。
お前のアニマなんてどうでもいい。
あ、水上さんはちょっと興味あるから水上さんの好みにはあわせてやらなくないよ? どんなんがいいのかわからないけれど。
もちろんあなたの好みに完璧にあわせられるわけじゃないけど、役者の役作りも同じなんだよね、作家や演出が求める役のイメージと、物質として存在する自分を、手探りで組みあわせていく。
嘘と実物との、決して気持ちのいいものでも美しいものでもない、みすぼらしくてめんどくさい、ってユング的なイメージのそれじゃないって意味でこんなにしつこく言ってるけど、もっとわかりやすく夫婦でたとえるなら、新婚初期ではなく、倦怠期のようなギスギスした融合。
物の理からはずれた作業。
生きるために仕方なくやってる終わらない妥協としての作業。
そういうのは慣れてるんだ。
だから言って。水上さん、あなたも藤田のようにわたしの言い方が気に入らないなら、どんな風に言えばいいのか、具体的に説明してくれ。演出家のごとく指示してくれ。
そのような演技してやるから。ちょっとのあいだだけなら。
つかまーこんな「育ちの悪いスナックのババア」的なキャラも演技なんだけどさ。どうあがいても存在する自分という物質と、世間との、生きるために仕方なくやってる妥協策としては、なかなか便宜なんだよ。
あ、この記事では「魔女キャラ」とか書いてるな。
まあそんなようなもん。ほらあたし育ち悪いからさ、「洗練された文化人的な言い回し」とか苦手なんだ。だからこんな幼稚な表現しかできない。
わたしがわかればいいんだから別に幼稚でもいいんだよな。
ま、そんなとこ。
あと一応。
「ブログにアクセスしてるのは、「まなざし」としてわざとやっている」
ってところさ。
それお前自分自身の弱点を吐露してるだけじゃないかい?
強迫症と対人恐怖症は構造的に似ている。「藤田博史という症状」はわたしは強迫症的人格傾向であると解釈している。この記事などからも「他人にどう見られているか」に過敏な人格傾向があると言える。
いやわたしも確かに「まなざし」に弱いよ? お前のやってるわたしへの心理攻撃は成功している。
だけどだな、あたしの弱点って、別に「まなざし」に限らないんだよな。
たとえばすげー死にかけて怯えている動物とか、別にそいつとはまったく関係のないことでちょっと手を動かしただけでもびくっと跳ね起きたりするだろ?
あれは「まなざし」への反応じゃないよな。
それとおんなじ感じ。
わたしはなんでもかんでもが心理的な弱点。まーだからメンヘラなんだけど。
「まなざし」が弱点なのは、藤田くんと同じかもしれないけど、わたしの弱点は他にももっといろいろあるよ、っていう話。
わたしを心理的に苦しめる目的でやってるなら、成功しているよ。
動物だって「視線」くらい認知している。
だけど「視線」にも「ちょっとした手の動き」にも同じように体が反応する。びくっとなる。
「まなざし」だけが弱点になってるのが対人恐怖症だろうな。
そうじゃないんだよー。
ほんとここ重要よ、「わたしという症状」の解釈においては。
このブログでもよく書いているじゃん、「数的に過剰な刺激」って。「数的」でブログ内検索すればわかると思う。
だけど逆に言えば、「まなざし」も「数的に過剰な刺激」の一つにすぎないんだよね。
いやまあ去勢済み主体にすれば「まなざし」ってな最重要な部分対象ではあると思うけどさ。ラカンの言う通り。
でも「まなざし」も一つの部分でしかない。少なくとも妄想分裂態勢の乳児の主観世界では。赤ん坊が大人の視線の先を自分の目で追うようになるのは生後二年くらいからだとかなかったっけ。精神分析じゃなくて認知心理学系で。
でもさ、確かにつおい部分ではあると思う。「まなざし」は。だからこの記事ではこんな風に書いた。
=====
有象無象な部分対象の中からのし上がった専制君主が、まなざしである。まなざしという部分対象が、他の様々な部分対象を制圧していく。多神教を征服してきた一神教のごとく。
=====
自閉症研究で、テレビドラマかなんかを見せたら、定型発達者が多く視線を集中する箇所とは違った箇所を自閉症者は見ている、なんて実験結果があったんだが、そういうことだと思う。
彼らの主観世界では「まなざし」が部分対象の中から最重要な部分としてのし上がっていない。
だから、それこそ怯えている動物のごとく、「まなざし」じゃない刺激にも反応する。
この場合自閉症者たちは、大人の「まなざし」に集中して(赤ん坊が大人の視線の先を自分の目で追うように)認知認識構造を形成していく段階を踏まなかったから、定型発達者たちが暗黙のうちにしている「こういったシーンではこの箇所に視線を集中させる」という認知認識方法ができない、と言えるだろうか。
いやわたしは自閉症じゃないからね。「まなざし」は重要な部分よ。なんたって役者やってたわけだし。役者なんて仕事それこそ「まなざしの生贄」だわ。
だけどなー、別にやっぱ「数的に過剰な部分の一つ」でもあるんだよ。
普通に出かけたりするし、普通に人間関係における応対はできている(と本人は思っている)し。リアルでは。
んー、よくわかんないけどそゆこと。
ごめんね育ち悪くて。
別にお前に好かれたくてやってるわけじゃないし、文化人オヤジたちのちんぽしゃぶるために精神分析やってるわけじゃないし。
何を勘違いしているのか知らないが、わたしは自分から「フジタゼミに行きたい」って言ったわけじゃねえぞ? あくまでわたしは中野雅哉からフジタゼミに誘われただけ。
なのになんで「礼儀」を強制されなきゃならんのだ。
前記事にも書いたが「自分はこれだけ礼儀を尽くしたんだから、相手も礼儀を尽くすべきだ」なんてのは「礼儀」じゃねえだろ、んなもん。
あたしには「礼儀」と思えないただの「すました仮面」を強制されるコンパならお断りします。
あたしはあたしの症状を解明するために精神分析をやってるだけだから。
それだけだよ。
他人の好みなんかどうでもいい。
お前のアニマなんてどうでもいい。
あ、水上さんはちょっと興味あるから水上さんの好みにはあわせてやらなくないよ? どんなんがいいのかわからないけれど。
もちろんあなたの好みに完璧にあわせられるわけじゃないけど、役者の役作りも同じなんだよね、作家や演出が求める役のイメージと、物質として存在する自分を、手探りで組みあわせていく。
嘘と実物との、決して気持ちのいいものでも美しいものでもない、みすぼらしくてめんどくさい、ってユング的なイメージのそれじゃないって意味でこんなにしつこく言ってるけど、もっとわかりやすく夫婦でたとえるなら、新婚初期ではなく、倦怠期のようなギスギスした融合。
物の理からはずれた作業。
生きるために仕方なくやってる終わらない妥協としての作業。
そういうのは慣れてるんだ。
だから言って。水上さん、あなたも藤田のようにわたしの言い方が気に入らないなら、どんな風に言えばいいのか、具体的に説明してくれ。演出家のごとく指示してくれ。
そのような演技してやるから。ちょっとのあいだだけなら。
つかまーこんな「育ちの悪いスナックのババア」的なキャラも演技なんだけどさ。どうあがいても存在する自分という物質と、世間との、生きるために仕方なくやってる妥協策としては、なかなか便宜なんだよ。
あ、この記事では「魔女キャラ」とか書いてるな。
まあそんなようなもん。ほらあたし育ち悪いからさ、「洗練された文化人的な言い回し」とか苦手なんだ。だからこんな幼稚な表現しかできない。
わたしがわかればいいんだから別に幼稚でもいいんだよな。
ま、そんなとこ。
あと一応。
「ブログにアクセスしてるのは、「まなざし」としてわざとやっている」
ってところさ。
それお前自分自身の弱点を吐露してるだけじゃないかい?
強迫症と対人恐怖症は構造的に似ている。「藤田博史という症状」はわたしは強迫症的人格傾向であると解釈している。この記事などからも「他人にどう見られているか」に過敏な人格傾向があると言える。
いやわたしも確かに「まなざし」に弱いよ? お前のやってるわたしへの心理攻撃は成功している。
だけどだな、あたしの弱点って、別に「まなざし」に限らないんだよな。
たとえばすげー死にかけて怯えている動物とか、別にそいつとはまったく関係のないことでちょっと手を動かしただけでもびくっと跳ね起きたりするだろ?
あれは「まなざし」への反応じゃないよな。
それとおんなじ感じ。
わたしはなんでもかんでもが心理的な弱点。まーだからメンヘラなんだけど。
「まなざし」が弱点なのは、藤田くんと同じかもしれないけど、わたしの弱点は他にももっといろいろあるよ、っていう話。
わたしを心理的に苦しめる目的でやってるなら、成功しているよ。
動物だって「視線」くらい認知している。
だけど「視線」にも「ちょっとした手の動き」にも同じように体が反応する。びくっとなる。
「まなざし」だけが弱点になってるのが対人恐怖症だろうな。
そうじゃないんだよー。
ほんとここ重要よ、「わたしという症状」の解釈においては。
このブログでもよく書いているじゃん、「数的に過剰な刺激」って。「数的」でブログ内検索すればわかると思う。
だけど逆に言えば、「まなざし」も「数的に過剰な刺激」の一つにすぎないんだよね。
いやまあ去勢済み主体にすれば「まなざし」ってな最重要な部分対象ではあると思うけどさ。ラカンの言う通り。
でも「まなざし」も一つの部分でしかない。少なくとも妄想分裂態勢の乳児の主観世界では。赤ん坊が大人の視線の先を自分の目で追うようになるのは生後二年くらいからだとかなかったっけ。精神分析じゃなくて認知心理学系で。
でもさ、確かにつおい部分ではあると思う。「まなざし」は。だからこの記事ではこんな風に書いた。
=====
有象無象な部分対象の中からのし上がった専制君主が、まなざしである。まなざしという部分対象が、他の様々な部分対象を制圧していく。多神教を征服してきた一神教のごとく。
=====
自閉症研究で、テレビドラマかなんかを見せたら、定型発達者が多く視線を集中する箇所とは違った箇所を自閉症者は見ている、なんて実験結果があったんだが、そういうことだと思う。
彼らの主観世界では「まなざし」が部分対象の中から最重要な部分としてのし上がっていない。
だから、それこそ怯えている動物のごとく、「まなざし」じゃない刺激にも反応する。
この場合自閉症者たちは、大人の「まなざし」に集中して(赤ん坊が大人の視線の先を自分の目で追うように)認知認識構造を形成していく段階を踏まなかったから、定型発達者たちが暗黙のうちにしている「こういったシーンではこの箇所に視線を集中させる」という認知認識方法ができない、と言えるだろうか。
いやわたしは自閉症じゃないからね。「まなざし」は重要な部分よ。なんたって役者やってたわけだし。役者なんて仕事それこそ「まなざしの生贄」だわ。
だけどなー、別にやっぱ「数的に過剰な部分の一つ」でもあるんだよ。
普通に出かけたりするし、普通に人間関係における応対はできている(と本人は思っている)し。リアルでは。
んー、よくわかんないけどそゆこと。