ムサン
2010/12/11/Sat
パリサイ人がイエスに問う。
「あなたは一体、どういう方ですか?」
イエスは答える。
「わたしがどういう者かは、初め(アルケー)からあなた方に言っているではないか」
わたしはこう問い返す。
「ごめん、わたしそのアルケーにはいなかったから、もう一回言って。アルケーから全部」
一部始終、細部に渡って。
聞かせて。
教えて。
わたしがパリサイ人だったとしても、わたしじゃないパリサイ人に言ったこともあるだろう。それはわたしは聞いていない。わたしは知らない。
パリサイ人全部あわせたら、そりゃあたくさんの「自分、イエスはどういう方か」を言ったんだろうけど、隣のパリサイ人は同じパリサイ人でもわたしじゃない。『隣の印度人』かもしれない。
何してるの?
あなただけ言うのがいやなら、わたしも言うから。アルケーから。全部。
それがこのブログ。
もちろんアルケーから全部ってわけにはならないけど、そうであろうとしている。「思考実況」とはそのためにしている。
だから、あなたも教えてよ。
イエスも、全部言ってよ。アルケーから。
どんなに徹夜してもいいよ。わたしほら、メンヘラでプーだから。時間はたっぷりある。
「初めから言っているじゃんか」
なんて怒らないでよ。そのときいなかったのはわたしのせいじゃない。全部知らないのはわたしのせいじゃない。
それにさ、「アルケーから言っていること」というのは、過去のことなわけじゃん? 今のあなたは同じことを違う表現で述べるかもしれないでしょ?
今のあなたを過去のあなたが知っているはずがない。
「あなたは一体、どういう方なのですか?」
というのは、「今この瞬間のあなたはどういう人なの?」という問いかけでもある。
それに「過去のわたし」を答えられても。
あなたの「アルケーから言っていた」過去の言葉は、もうすでに嘘になっている。
いやだからって全部棄却するわけじゃないけど。過去のあなたについて述べたあなたの過去の言葉は、今この瞬間のあなたを推し量るヒントではあるからね。別に聞いてやってもいい。
だけど、それはあくまでヒントであって、完全に真ではない。
今の言葉を聞かせてよ。
今のあなたを教えてよ。
「思考実況」とはそういう言葉でもある。
今のわたしについて述べた今の言葉。
新宮の『ラカンの精神分析』を今さら読んでる。
なんかこう、何度も読むと全然だね。言葉が枯葉のように落ちていく。今と比べると一時期はすごく刺激的な本だったんだと思う。わたしにとって。いやこの一冊に限らず他の精神分析本もそうだけど。
言葉が枯葉のように、っていいね。自分で言っといてなんだけど。カシャ、って踏み潰すあの感覚好き。
なんか一応言っとくけど、このくだり、
「精神分析家は「わたしはこういう者である」と言うイエスになるべき」
って意味じゃないからな。
このたとえ話において、イエスはクライエントだ。分析主体である。「わたしはこういう者である」と言わしめるのが精神分析治療なのだ。ここでのイエスは治療された患者として解釈しなければならない。
分析家はどっちかってとパリサイ人だよ。この場合。
こうやってパラノイアというキチガイが増産されてくっと。
つか
「わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」
なんて現実で言う奴いたら明らかに頭おかしいだろ。又吉イエスか、ってなもんで。
でも、それが「正常であること」でもあるんだよ。
「正常という精神疾患」とはパラノイアなんだ。
単に周囲の人間から「正常だ」とみなされているかどうかの違いだけ。
又吉だって、信者がいるかどうか知らないけど、信者からはキチガイだなんて思われてないだろう。
そういう話。
非公開コメの方へ。
死んでない。だいじょぶ。
でもあれだ、書き溜めて、いっぱい記事書いて、fc2って予約投稿ってあるんだけどそれセットして、死んでるのに生きてるように見せかけるっての、なんかぐっとくる。
わたしにとって「正常であること」とはそういうことだ。
実は死んでるのに、ブログの機能かなんかで生きているように見せかけているだけ。
正常人は死んで生きている。
「子供時代は、そのものとしては、もうない」
子供時代という現在を殺して、生きている。
なんかコンニャク状態だ。
いろんなことがぽろぽろこぼれ落ちていく。
いや、2ちゃん的に言えば「スルー力がついた」ってことになるわけだから、一概に悪いことじゃないんだけども。
でもコンニャクって、なんかそういう「のらりくらり」的な「スルーする何か」って意味で使われがちだけど(個人的にこういう意味を学んだのは『はしれ走(かける)』ってマンガだった気がする。そういったサッカーをするライバルがそう言われてた)、そうなのかな、と思う。
コンニャクは確かに柔らかいけれど、傷ついていないのか、と。
力を受けていることには変わらない。
空気だってそうだ。空気抵抗というものがある。
反作用があれば、傷ついていることになる。わたしの理屈では。
ただ、自分の中での力の分散速度が異常に速いため、一瞬でそれはごく微小な力たちになる。だから力を受けていないように思えるだけ。
傷ついていないように思えるだけ。
自分でさえも。
霧散、っていい表現があった。そういう感じ。
しかし霧だって、水分子なりという形で存在している。なくなったわけではない。「無」になったわけではない。
刺激の解体、霧散、エントロピー増大。
そうやって人は傷つかなくなるのか。ストレス耐性がつくのか。鈍感になるのか。
結局はエントロピー増大やん。
つまり死の欲動。
霧散、っていいね。便利だ。
ムサン。ムサン。
カンダタさんに影響されてか旅に行きたい気がする。
でも女の一人旅って自殺するかもしれないからと宿泊断られるというのをどっかで見て、それが引っかかって行けない。
いや別に死に行くつもりはないんだけど、死にたいと思ってるのは事実だからね。なんかね。
「わたし、あなたのこと嫌い」
もちろんこの「あなた」はわたしの主観における「あなた」でしかない。わたしはそういうつもりでこう言っている。
だからそんなに怒らないでよ。
あなたの主観における「あなた」じゃないとあなたが思うなら別にいいじゃん。
わたしが一人で勝手に嫌ってるだけだから。
別に「こいつはこれこれこういう風に悪い奴だ」なんて言いふらしたりしないから。あなたを嫌いな人間を、仲間を増やそうだなんて思ってないから。めんどくさい。
あ、なんかデジャブ。木田原くんにも同じこと言ったな。
わたしの感情はわたしの感情でしかない。
他人に感化させようだなんてあんまり思わない。
そんなにたいしたものじゃないし、そんなに安売りするものでもないから。
「わたしの感情はわたしの感情である」
というただの事実に則っているだけ。
谷山浩子の『きみが壊れた』よくこのブログで引用してるけど、前にも書いたけど、そんなに好きな曲じゃないんだよな。
『よその子』と同じなんだよね。ここで「壊れた」と表現されている「それ」を見捨てるのは。
だけど『よその子』の主人公より、この「僕」の方がいい。
『よその子』よりかは好きだな。そんなに好きじゃない方だけど。谷山作品の中では。『よその子』は好きでも嫌いでもない。ただ「そういう曲」としか思えない。
でも『よその子』だって、「強くありたい」という言葉に、何かしら悲哀があるだろ? それは「それ」を見捨てて「強くなる」からなんだ。
「よその子」も「僕」も、「それ」を見捨てて強くなる。
「僕」の場合は「それ」が「きみ」にあった。「よその子」には自分にあった。
霧散した微小な「それ」を、「微小だから存在しない」とすること。そうやって人は「それ」を見捨てる。
もう少しかな。
もう少し去勢済み主体に近づけば、この二つの曲を好きになれるのかもしれない。
「あなたは一体、どういう方ですか?」
イエスは答える。
「わたしがどういう者かは、初め(アルケー)からあなた方に言っているではないか」
わたしはこう問い返す。
「ごめん、わたしそのアルケーにはいなかったから、もう一回言って。アルケーから全部」
一部始終、細部に渡って。
聞かせて。
教えて。
わたしがパリサイ人だったとしても、わたしじゃないパリサイ人に言ったこともあるだろう。それはわたしは聞いていない。わたしは知らない。
パリサイ人全部あわせたら、そりゃあたくさんの「自分、イエスはどういう方か」を言ったんだろうけど、隣のパリサイ人は同じパリサイ人でもわたしじゃない。『隣の印度人』かもしれない。
何してるの?
あなただけ言うのがいやなら、わたしも言うから。アルケーから。全部。
それがこのブログ。
もちろんアルケーから全部ってわけにはならないけど、そうであろうとしている。「思考実況」とはそのためにしている。
だから、あなたも教えてよ。
イエスも、全部言ってよ。アルケーから。
どんなに徹夜してもいいよ。わたしほら、メンヘラでプーだから。時間はたっぷりある。
「初めから言っているじゃんか」
なんて怒らないでよ。そのときいなかったのはわたしのせいじゃない。全部知らないのはわたしのせいじゃない。
それにさ、「アルケーから言っていること」というのは、過去のことなわけじゃん? 今のあなたは同じことを違う表現で述べるかもしれないでしょ?
今のあなたを過去のあなたが知っているはずがない。
「あなたは一体、どういう方なのですか?」
というのは、「今この瞬間のあなたはどういう人なの?」という問いかけでもある。
それに「過去のわたし」を答えられても。
あなたの「アルケーから言っていた」過去の言葉は、もうすでに嘘になっている。
いやだからって全部棄却するわけじゃないけど。過去のあなたについて述べたあなたの過去の言葉は、今この瞬間のあなたを推し量るヒントではあるからね。別に聞いてやってもいい。
だけど、それはあくまでヒントであって、完全に真ではない。
今の言葉を聞かせてよ。
今のあなたを教えてよ。
「思考実況」とはそういう言葉でもある。
今のわたしについて述べた今の言葉。
新宮の『ラカンの精神分析』を今さら読んでる。
なんかこう、何度も読むと全然だね。言葉が枯葉のように落ちていく。今と比べると一時期はすごく刺激的な本だったんだと思う。わたしにとって。いやこの一冊に限らず他の精神分析本もそうだけど。
言葉が枯葉のように、っていいね。自分で言っといてなんだけど。カシャ、って踏み潰すあの感覚好き。
なんか一応言っとくけど、このくだり、
「精神分析家は「わたしはこういう者である」と言うイエスになるべき」
って意味じゃないからな。
このたとえ話において、イエスはクライエントだ。分析主体である。「わたしはこういう者である」と言わしめるのが精神分析治療なのだ。ここでのイエスは治療された患者として解釈しなければならない。
分析家はどっちかってとパリサイ人だよ。この場合。
こうやってパラノイアというキチガイが増産されてくっと。
つか
「わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」
なんて現実で言う奴いたら明らかに頭おかしいだろ。又吉イエスか、ってなもんで。
でも、それが「正常であること」でもあるんだよ。
「正常という精神疾患」とはパラノイアなんだ。
単に周囲の人間から「正常だ」とみなされているかどうかの違いだけ。
又吉だって、信者がいるかどうか知らないけど、信者からはキチガイだなんて思われてないだろう。
そういう話。
非公開コメの方へ。
死んでない。だいじょぶ。
でもあれだ、書き溜めて、いっぱい記事書いて、fc2って予約投稿ってあるんだけどそれセットして、死んでるのに生きてるように見せかけるっての、なんかぐっとくる。
わたしにとって「正常であること」とはそういうことだ。
実は死んでるのに、ブログの機能かなんかで生きているように見せかけているだけ。
正常人は死んで生きている。
「子供時代は、そのものとしては、もうない」
子供時代という現在を殺して、生きている。
なんかコンニャク状態だ。
いろんなことがぽろぽろこぼれ落ちていく。
いや、2ちゃん的に言えば「スルー力がついた」ってことになるわけだから、一概に悪いことじゃないんだけども。
でもコンニャクって、なんかそういう「のらりくらり」的な「スルーする何か」って意味で使われがちだけど(個人的にこういう意味を学んだのは『はしれ走(かける)』ってマンガだった気がする。そういったサッカーをするライバルがそう言われてた)、そうなのかな、と思う。
コンニャクは確かに柔らかいけれど、傷ついていないのか、と。
力を受けていることには変わらない。
空気だってそうだ。空気抵抗というものがある。
反作用があれば、傷ついていることになる。わたしの理屈では。
ただ、自分の中での力の分散速度が異常に速いため、一瞬でそれはごく微小な力たちになる。だから力を受けていないように思えるだけ。
傷ついていないように思えるだけ。
自分でさえも。
霧散、っていい表現があった。そういう感じ。
しかし霧だって、水分子なりという形で存在している。なくなったわけではない。「無」になったわけではない。
刺激の解体、霧散、エントロピー増大。
そうやって人は傷つかなくなるのか。ストレス耐性がつくのか。鈍感になるのか。
結局はエントロピー増大やん。
つまり死の欲動。
霧散、っていいね。便利だ。
ムサン。ムサン。
カンダタさんに影響されてか旅に行きたい気がする。
でも女の一人旅って自殺するかもしれないからと宿泊断られるというのをどっかで見て、それが引っかかって行けない。
いや別に死に行くつもりはないんだけど、死にたいと思ってるのは事実だからね。なんかね。
「わたし、あなたのこと嫌い」
もちろんこの「あなた」はわたしの主観における「あなた」でしかない。わたしはそういうつもりでこう言っている。
だからそんなに怒らないでよ。
あなたの主観における「あなた」じゃないとあなたが思うなら別にいいじゃん。
わたしが一人で勝手に嫌ってるだけだから。
別に「こいつはこれこれこういう風に悪い奴だ」なんて言いふらしたりしないから。あなたを嫌いな人間を、仲間を増やそうだなんて思ってないから。めんどくさい。
あ、なんかデジャブ。木田原くんにも同じこと言ったな。
わたしの感情はわたしの感情でしかない。
他人に感化させようだなんてあんまり思わない。
そんなにたいしたものじゃないし、そんなに安売りするものでもないから。
「わたしの感情はわたしの感情である」
というただの事実に則っているだけ。
谷山浩子の『きみが壊れた』よくこのブログで引用してるけど、前にも書いたけど、そんなに好きな曲じゃないんだよな。
『よその子』と同じなんだよね。ここで「壊れた」と表現されている「それ」を見捨てるのは。
だけど『よその子』の主人公より、この「僕」の方がいい。
『よその子』よりかは好きだな。そんなに好きじゃない方だけど。谷山作品の中では。『よその子』は好きでも嫌いでもない。ただ「そういう曲」としか思えない。
でも『よその子』だって、「強くありたい」という言葉に、何かしら悲哀があるだろ? それは「それ」を見捨てて「強くなる」からなんだ。
「よその子」も「僕」も、「それ」を見捨てて強くなる。
「僕」の場合は「それ」が「きみ」にあった。「よその子」には自分にあった。
霧散した微小な「それ」を、「微小だから存在しない」とすること。そうやって人は「それ」を見捨てる。
もう少しかな。
もう少し去勢済み主体に近づけば、この二つの曲を好きになれるのかもしれない。
/ 未分類