さべつさべつさべつーさべつーをするーならー♪
2011/01/19/Wed
はいはいこの記事の続き。
ここ。
=====
売春婦ってふれまわった大野さんこそがこちらを誹謗中傷してるんですけど。
それを差別だ名誉毀損だと指摘したら「誹謗中傷」?
認知の歪みって怖いね。
=====
最後の「認知の歪みって怖いね。」は、精神障害者への差別でしょうか?
この文章は論敵に対し侮蔑する意味で使っているものと思われます。
たとえば自閉症は認知認識パターンが定型発達者と違うということは現代では定説となっております。
であるなら、「認知の歪みがある」たとえば自閉症者、統合失調症者などへの侮蔑となるわけですが、いかがでしょう。
あなたのこの言葉には、精神障害者への差別心が含まれていませんか?
ちなみにわたしも知覚変容と称される症状がときたまあります。この記事で「わたしは歩き方を忘れることがある」としていることです。これも、運動感覚的な「認知の歪み」と言えるでしょう。
あなたはわたしを侮蔑しているのですか?
これはパニック障害の症状ではなく、個人的には統合失調症型人格障害の症状だとわたしは考えていますが、あなたはそういった人たちも差別しているのですか?
あなたは、売春婦差別は許さないが、精神障害者は差別されてもいい、と考えてらっしゃるのですか?
あ、ちなみにこれも精神障害者への差別的な意味あいが読み取れなくはないですね。
メンヘラへの差別は日常的に行われているから大丈夫なのですか?
みんなしているから平気なのですか?
赤信号みんなで渡れば怖くない、ですか?
このように精神障害者差別は日常会話の中にあふれている。正常人が気づいていないだけ。
そら被害妄想にもなるわ。集団ストーカー妄想にもなるわ。思考盗聴されるわ。
あ、すみません、一応断っておくと「あてこすり」です。
あ、前記事に書いちゃったけど大事なことなのでコピペしておくね。
=====
つーかさー。たとえば、だよ?
「つきあってる女が元売春婦だとわかった。むかついたので殴ってやった」なんてブログに書いた馬鹿がいて、2ちゃんなりはてななりで祭りになったとしよう。
あたしは殴った奴を批判する。実際に男に殴られたことあっしな。「被害妄想だ」と言われても構わない。んなこと言われなれておる。
また、殴った奴を擁護するようなコメントにも反論する。そのとき、フェミ論法で「これは差別問題だ」とわめくかもしれない。
そんな奴警察に捕まって罰を受けるべきだ。
しかし、そいつの心をどうにかする社会規制を訴えるなんてことはしない。男だろうが女だろうが、心を支配する社会規制など糞喰らえだって人だし。アナーキズムですか?
今回のケースは、そのような身体的苦痛の被害ではなく、心的苦痛だ。心的苦痛は客観では認識できない。フロイトが「心的外傷は客観的に明らかなものとは限らない」としたように。
今回の大野さんがしたような言動を受け、心を傷つける人がいる可能性は認める。そういったPTSD症状だと解釈するだろう。
であるならば、まずそいつの心の傷をどうにかするのが先である。トラウマが回帰するトリガーなど十人十色である。多数決で決まる社会構造がそんなことに対応できるわけがない。対応したとしたらみんな進んでPTSDになりたがるだろう。フリーライド問題が生じるだろうな。なんせそれは平たく言えば「自分を不愉快にする者がいない社会にすること」なんだから。王様だ。
差別問題に関する議論が目指す解決策とは、大体の場合、社会構造の調整である。社会構造を変革して差別をなくそう、というものである。
差別問題とは社会問題である。差別問題を個人間の感情のもつれに還元してはならない。それは単に好悪の問題となる。
今回の当該者の主張を読むと、大野さんという個人に対する指摘ばかりである。
したがって、これは差別問題ではない、とわたしは考える。
もちろんこれとは別に、社会に実際に存在している売春婦差別を論じるのはいい。しかしそれを、個人間の感情のもつれを一方的に解決するための道具として利用することには、わたしは反対する。
わたしには、今回のケースは、当該者が大野という人物との個人間の感情のもつれを一方的に解決するための道具として利用しているようにしか見えない。
それが腹立たしいのである。
メンヘラ差別という社会に実際に存在している差別を生きているわたしからすれば、実際に存在している差別問題に対する冒涜である。
もし当該者の心がそう考えていたならば、の話だが。
=====
日頃ブログ主が非実在社会問題を差別だと難癖つけるのは自分こそが実在してないから
=====
当該者はMidasさんのこの言葉の意味をもう一度よく考えてみるべきではないだろうか。
彼女が差別問題を語ることは、「被害の非現実化」になっていないだろうか。
=====
当該者の方が、「差別による被害」を非実在化させている。
それはむしろ、差別問題を骨抜きにしていることにならないか。
そこのコメント欄。あれ素です。
ほんとな、TPOってのがわからないんだよ。何度も繰り返し言ってるけど。
TPOが単純なケースなら調子こいてぺらぺらしゃべれるんだけど。
あのコメント欄の状況がいまいち把握できてないのだよ。だから嫌われるんだろうけどな。
「暗黙の了解」がわからない。「空気が読めない」って奴だ。いやまあ限定的なTPOなら随分と読めるようにはなったが。
まあそれだけ。
あと某さんちの日記から。某さんがぽろっといいこと言った。
=====
女の子コミュニティは「好き」以外の「興味」を気持ち悪がるからなぁ
=====
それに対する別の人の返事。
=====
そうなんですか。それはまた何故なんでしょうね?
女の子には「好きか嫌いか」しか無いから、客観的とか中立的とかそういうのは「好きじゃないなら嫌いってことだな」ってなるとか?
ていうか、こういう女の子コミュニティの常識(以下略)。
=====
これ重要だよな。女子中高生にはこの傾向が顕著だと思う。
他人をすべて敵か味方に区分したがるのは境界性人格障害の症状としてあるんだが、そういう意味で言うなら、女子は思春期になるとみんなボーダーチックになる、みたいな話になるな。
そうだよなあ、わたしはここでこんなことを書いている。
=====
穢れている女が、穢れている自分に傷ついていた。
それを、穢れている女からすれば穢れていないように思える女が、興味本位で見て、語っていた。
彼女は怒る。
「私の傷に興味本位に触れるな!」
では彼女はその傷を、穢れをどのように見てほしかったのだろう。
同情して欲しかったのだろうか。その傷を同情という転移関係の成立によって癒そうとしたのか。
それは癒しにはならない。ただの痛みどめ、モルヒネである。
根本的に治療してもらうならば、同情の視線だと傷自体が見えなくなる。それは見る方にとってもモルヒネだからだ。
だからわたしは、興味本位に見てくれた方がいい。
一方その女は、同情の目で見てほしかったのだろう。
むしろわたしの傷は、同情で悪化する。
=====
実際にその集団に属しているかは関係なく、「好きか嫌いか」という観点でされる区分けを拒絶してしまう。
わたしのそれは「興味」であり、「好きか嫌いか」ではない。どちらかと言えば「嫌い」の方が近い。それはいわば批判的に観察することだから。
あーそりゃ浮くわ。
い・ま・ご・ろ・気づきました。てへっ。
大野さんが売春婦差別問題に向けた視線は、おそらく「興味」であった。それは「分析的視線」とも言い換えることができるだろう。
この態度はけして「好き」というものではない。分析家はクライエントに転移してはならない。
しかし、一般的な「嫌悪」ではない。「拒絶」はしていない。「排他」ではない。
これは文化人類学者がある異文化をフィールドワークするときの態度と似ているだろう。この記事のコメント欄から。
=====
結局さ、科学村にしろなんにしろ、人の輪からはずれたところで、人の輪を見ることが大事なんだよ。「部外者視点」っつうかさ。
人類学で言う、「(フィールドワークをする)人類学者は、研究対象部族と友好的な関係を結ぶことが大事だが、学者視点を忘れてはならない」みたいなこと。顔では友好的に笑っていながら、内面では学者の冷静な視点を忘れてはならない、って。
=====
ここでの人類学者は、研究対象部族に対し、「好き」という仮面をかぶりつつ「興味」の視線を向けているわけだ。
発端となった大野さんの売春婦問題についての記事は、わたしはこういった態度で見つめて書かれたものだと思う。
彼女はあくまでそういった差別問題の部外者の立場から論じようとしている。
これが、そういった問題の渦中にいる人からすれば、カチンとくるのかもしれない。「好き」ではない「興味」の視線を「差別的な態度だ」と述べているのかもしれない。
「研究対象部族と友好的な関係を築く」のを怠ったせいで。「好き」という仮面の手入れを怠ったせいで。
この態度を「差別だ」と定義するならば、大野センセは売春婦(やそれに関係する人たち)を差別している、となるだろう。
文化人類学者は研究対象の部族を差別している、となる。
わたしなどはすべての人間を差別していることになる。
精神分析家(特にラカン派)もすべての人間を差別していることになる。
そういった話ではないだろうか。
ちなみにわたしはこの論戦については大野派と思われていようが、大野センセも批判してるぜ。「メールにしてくれ」って言われたからメールでやってるが。
ただ大野さん結構弱ってるのかわたしの批判には反応が薄い。前と比べて。
当該者の求める「反省」ってのがどういうのかわからんが、心にダメージは受けてると思うよ。平たく言えば「凹んでる」ようにわたしには見える。
まあ別にどうでもいいが。凹むこともアーティストにとっちゃ有益なことだからな。
つかあれなんだっけ、おーとっこっのっことちがうっおんなのこって♪ ってなんだっけと思ったら『クリィミーマミ』だった。
すーきっときっらいだけっで ふつうがないのっ
これいわば「女の子はボーダーであれ」って意味になるよな(笑)。
デリケートに好きして デリケートに 好きして 好きして 好きして
結局こういう要求だったりするのかもしれんな。
わたしはごめんこうむりますが。『世界名作劇場』の方が好きだったし。これいまだに歌えるわ。
『ミーム』みたいな科学教養アニメが一番好きだったんだよなあ。今だと『飛び出せ! 科学くん』みたいな。
ああいうのをアニメでやれよー。大人ですら「ほうほう」って思えるような科学教養をアニメにさー。でんじろうみたいなおっさんじゃなくてさー。いやでんじろうが監修してくれていいけどさー。
もう京極夏彦だけ読んじゃうよ? それ以外は糞だって言っちゃうよ?
ここ。
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売春婦ってふれまわった大野さんこそがこちらを誹謗中傷してるんですけど。
それを差別だ名誉毀損だと指摘したら「誹謗中傷」?
認知の歪みって怖いね。
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最後の「認知の歪みって怖いね。」は、精神障害者への差別でしょうか?
この文章は論敵に対し侮蔑する意味で使っているものと思われます。
たとえば自閉症は認知認識パターンが定型発達者と違うということは現代では定説となっております。
であるなら、「認知の歪みがある」たとえば自閉症者、統合失調症者などへの侮蔑となるわけですが、いかがでしょう。
あなたのこの言葉には、精神障害者への差別心が含まれていませんか?
ちなみにわたしも知覚変容と称される症状がときたまあります。この記事で「わたしは歩き方を忘れることがある」としていることです。これも、運動感覚的な「認知の歪み」と言えるでしょう。
あなたはわたしを侮蔑しているのですか?
これはパニック障害の症状ではなく、個人的には統合失調症型人格障害の症状だとわたしは考えていますが、あなたはそういった人たちも差別しているのですか?
あなたは、売春婦差別は許さないが、精神障害者は差別されてもいい、と考えてらっしゃるのですか?
あ、ちなみにこれも精神障害者への差別的な意味あいが読み取れなくはないですね。
メンヘラへの差別は日常的に行われているから大丈夫なのですか?
みんなしているから平気なのですか?
赤信号みんなで渡れば怖くない、ですか?
このように精神障害者差別は日常会話の中にあふれている。正常人が気づいていないだけ。
そら被害妄想にもなるわ。集団ストーカー妄想にもなるわ。思考盗聴されるわ。
あ、すみません、一応断っておくと「あてこすり」です。
あ、前記事に書いちゃったけど大事なことなのでコピペしておくね。
=====
つーかさー。たとえば、だよ?
「つきあってる女が元売春婦だとわかった。むかついたので殴ってやった」なんてブログに書いた馬鹿がいて、2ちゃんなりはてななりで祭りになったとしよう。
あたしは殴った奴を批判する。実際に男に殴られたことあっしな。「被害妄想だ」と言われても構わない。んなこと言われなれておる。
また、殴った奴を擁護するようなコメントにも反論する。そのとき、フェミ論法で「これは差別問題だ」とわめくかもしれない。
そんな奴警察に捕まって罰を受けるべきだ。
しかし、そいつの心をどうにかする社会規制を訴えるなんてことはしない。男だろうが女だろうが、心を支配する社会規制など糞喰らえだって人だし。アナーキズムですか?
今回のケースは、そのような身体的苦痛の被害ではなく、心的苦痛だ。心的苦痛は客観では認識できない。フロイトが「心的外傷は客観的に明らかなものとは限らない」としたように。
今回の大野さんがしたような言動を受け、心を傷つける人がいる可能性は認める。そういったPTSD症状だと解釈するだろう。
であるならば、まずそいつの心の傷をどうにかするのが先である。トラウマが回帰するトリガーなど十人十色である。多数決で決まる社会構造がそんなことに対応できるわけがない。対応したとしたらみんな進んでPTSDになりたがるだろう。フリーライド問題が生じるだろうな。なんせそれは平たく言えば「自分を不愉快にする者がいない社会にすること」なんだから。王様だ。
差別問題に関する議論が目指す解決策とは、大体の場合、社会構造の調整である。社会構造を変革して差別をなくそう、というものである。
差別問題とは社会問題である。差別問題を個人間の感情のもつれに還元してはならない。それは単に好悪の問題となる。
今回の当該者の主張を読むと、大野さんという個人に対する指摘ばかりである。
したがって、これは差別問題ではない、とわたしは考える。
もちろんこれとは別に、社会に実際に存在している売春婦差別を論じるのはいい。しかしそれを、個人間の感情のもつれを一方的に解決するための道具として利用することには、わたしは反対する。
わたしには、今回のケースは、当該者が大野という人物との個人間の感情のもつれを一方的に解決するための道具として利用しているようにしか見えない。
それが腹立たしいのである。
メンヘラ差別という社会に実際に存在している差別を生きているわたしからすれば、実際に存在している差別問題に対する冒涜である。
もし当該者の心がそう考えていたならば、の話だが。
=====
日頃ブログ主が非実在社会問題を差別だと難癖つけるのは自分こそが実在してないから
=====
当該者はMidasさんのこの言葉の意味をもう一度よく考えてみるべきではないだろうか。
彼女が差別問題を語ることは、「被害の非現実化」になっていないだろうか。
=====
当該者の方が、「差別による被害」を非実在化させている。
それはむしろ、差別問題を骨抜きにしていることにならないか。
そこのコメント欄。あれ素です。
ほんとな、TPOってのがわからないんだよ。何度も繰り返し言ってるけど。
TPOが単純なケースなら調子こいてぺらぺらしゃべれるんだけど。
あのコメント欄の状況がいまいち把握できてないのだよ。だから嫌われるんだろうけどな。
「暗黙の了解」がわからない。「空気が読めない」って奴だ。いやまあ限定的なTPOなら随分と読めるようにはなったが。
まあそれだけ。
あと某さんちの日記から。某さんがぽろっといいこと言った。
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女の子コミュニティは「好き」以外の「興味」を気持ち悪がるからなぁ
=====
それに対する別の人の返事。
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そうなんですか。それはまた何故なんでしょうね?
女の子には「好きか嫌いか」しか無いから、客観的とか中立的とかそういうのは「好きじゃないなら嫌いってことだな」ってなるとか?
ていうか、こういう女の子コミュニティの常識(以下略)。
=====
これ重要だよな。女子中高生にはこの傾向が顕著だと思う。
他人をすべて敵か味方に区分したがるのは境界性人格障害の症状としてあるんだが、そういう意味で言うなら、女子は思春期になるとみんなボーダーチックになる、みたいな話になるな。
そうだよなあ、わたしはここでこんなことを書いている。
=====
穢れている女が、穢れている自分に傷ついていた。
それを、穢れている女からすれば穢れていないように思える女が、興味本位で見て、語っていた。
彼女は怒る。
「私の傷に興味本位に触れるな!」
では彼女はその傷を、穢れをどのように見てほしかったのだろう。
同情して欲しかったのだろうか。その傷を同情という転移関係の成立によって癒そうとしたのか。
それは癒しにはならない。ただの痛みどめ、モルヒネである。
根本的に治療してもらうならば、同情の視線だと傷自体が見えなくなる。それは見る方にとってもモルヒネだからだ。
だからわたしは、興味本位に見てくれた方がいい。
一方その女は、同情の目で見てほしかったのだろう。
むしろわたしの傷は、同情で悪化する。
=====
実際にその集団に属しているかは関係なく、「好きか嫌いか」という観点でされる区分けを拒絶してしまう。
わたしのそれは「興味」であり、「好きか嫌いか」ではない。どちらかと言えば「嫌い」の方が近い。それはいわば批判的に観察することだから。
あーそりゃ浮くわ。
い・ま・ご・ろ・気づきました。てへっ。
大野さんが売春婦差別問題に向けた視線は、おそらく「興味」であった。それは「分析的視線」とも言い換えることができるだろう。
この態度はけして「好き」というものではない。分析家はクライエントに転移してはならない。
しかし、一般的な「嫌悪」ではない。「拒絶」はしていない。「排他」ではない。
これは文化人類学者がある異文化をフィールドワークするときの態度と似ているだろう。この記事のコメント欄から。
=====
結局さ、科学村にしろなんにしろ、人の輪からはずれたところで、人の輪を見ることが大事なんだよ。「部外者視点」っつうかさ。
人類学で言う、「(フィールドワークをする)人類学者は、研究対象部族と友好的な関係を結ぶことが大事だが、学者視点を忘れてはならない」みたいなこと。顔では友好的に笑っていながら、内面では学者の冷静な視点を忘れてはならない、って。
=====
ここでの人類学者は、研究対象部族に対し、「好き」という仮面をかぶりつつ「興味」の視線を向けているわけだ。
発端となった大野さんの売春婦問題についての記事は、わたしはこういった態度で見つめて書かれたものだと思う。
彼女はあくまでそういった差別問題の部外者の立場から論じようとしている。
これが、そういった問題の渦中にいる人からすれば、カチンとくるのかもしれない。「好き」ではない「興味」の視線を「差別的な態度だ」と述べているのかもしれない。
「研究対象部族と友好的な関係を築く」のを怠ったせいで。「好き」という仮面の手入れを怠ったせいで。
この態度を「差別だ」と定義するならば、大野センセは売春婦(やそれに関係する人たち)を差別している、となるだろう。
文化人類学者は研究対象の部族を差別している、となる。
わたしなどはすべての人間を差別していることになる。
精神分析家(特にラカン派)もすべての人間を差別していることになる。
そういった話ではないだろうか。
ちなみにわたしはこの論戦については大野派と思われていようが、大野センセも批判してるぜ。「メールにしてくれ」って言われたからメールでやってるが。
ただ大野さん結構弱ってるのかわたしの批判には反応が薄い。前と比べて。
当該者の求める「反省」ってのがどういうのかわからんが、心にダメージは受けてると思うよ。平たく言えば「凹んでる」ようにわたしには見える。
まあ別にどうでもいいが。凹むこともアーティストにとっちゃ有益なことだからな。
つかあれなんだっけ、おーとっこっのっことちがうっおんなのこって♪ ってなんだっけと思ったら『クリィミーマミ』だった。
すーきっときっらいだけっで ふつうがないのっ
これいわば「女の子はボーダーであれ」って意味になるよな(笑)。
デリケートに好きして デリケートに 好きして 好きして 好きして
結局こういう要求だったりするのかもしれんな。
わたしはごめんこうむりますが。『世界名作劇場』の方が好きだったし。これいまだに歌えるわ。
『ミーム』みたいな科学教養アニメが一番好きだったんだよなあ。今だと『飛び出せ! 科学くん』みたいな。
ああいうのをアニメでやれよー。大人ですら「ほうほう」って思えるような科学教養をアニメにさー。でんじろうみたいなおっさんじゃなくてさー。いやでんじろうが監修してくれていいけどさー。
もう京極夏彦だけ読んじゃうよ? それ以外は糞だって言っちゃうよ?