「消費者」という権力者
2007/04/21/Sat
以下は、私が「今の」オタクたちを現実あるいはネットにおいて、精神分析的な視点で観察し続けてきた経験を元に述べている。
オタクたちは、「権力」を連想させるシニフィアンに対しアレルギー的な拒否反応を示す。それは例えば「芸術」だったり「学問」だったり「知」であったり「純文学」であったりする。オカタく自身を抑圧しそうなシニフィアンに対し、面白いほど、被害妄想と言ってよいほど反応する。オタクたちと議論した者なら誰でも経験あるだろう。ただし、向こうから擦り寄ってくる相手にはだらしなく無防備になる。「芸術」や「学問」や「知」や「純文学」というシニフィアンを利用して「オタク」というシニフィアンを肯定あるいは擁護する言述には、その文章に自分たちを同一化させるほど喜んで受け入れる。例えば最近ヨーロッパなどでオタク文化の表現作品が広まりつつあるが、外国人に愛される作品と自分たちを同一化したような言動をする。まるで自分自身が世界デビューしたような言動、と言えば想像できるだろうか。これを東浩紀氏がしたように西欧コンプレックスと読み解いても構わないが、私が今述べようとしている論点から言うといささか的外れになるだろう。西洋人だろうが東洋人だろうが他人と繋がりを持ちたがる欲望は人間として正当なものだからだ。それより私が注目したいのは「同一化」的言動である。オタク文化とオタクたちは、「オタク」というシニフィアンの下固く同一化しているのだ。そして、自らを否定する対象に「反発」あるいは「排除」し、自らを肯定する対象には過剰ともいえる同一化的感情を抱く。これは境界性人格障害の症状に似ていると言える。対人関係において敵に対する不信と味方に対する信頼の振幅がとても大きいのだ。境界性人格障害は精神分析においてはヒステリーあるいは神経症の文脈で語られる。ヒステリーは女性に多く発症し、その精神状態を象徴的に表現するなら「男か女かという性への問いかけ」である。「オタクは女性化している」という一部の論にも合致するだろう。
別に私はオタクたちのそういった傾向を批判するわけではない。人間誰しも神経症でパラノイアで倒錯者なのだ。私だって自分はヒステリーでマゾっぽい、なんてうっすら思っている。また、思春期に境界性人格障害の症状に類似する言動が散見されることはよく言われている。
このオタクたちの「権力アレルギー」なるものは、単純に象徴的去勢の否認であることが多い。若者に普遍的に見られる大人社会への反発心と同種である。不良たちが学校や警察に反発するようにオタクたちは「芸術」「学問」「知」「純文学」などという大人の世界に反発しているのである。社会人にもなってそういった態勢でいるのはさすがに社会的生活を送る上で心配なところもなきにしもあらずだが、私はこういった成長過程としての象徴的去勢の否認は否定しない。現代が簡単に承認できるほど単純な社会でなくなっているのは私も実感としてわかるからだ。こういった状況を「幼稚」と言って批判するのは簡単だが、人は誰しも幼稚な時代を過ごしてきたものだ。むしろこの否認は承認への準備段階であり、あって当然のことなのだ。大人になっても否認と承認を行き来しているのが普通である。否認の度合い、回数が減っていくだけだ。去勢を完全に承認している大人なんて、共産主義の「美しき労働者」のようなものだ。そんなことよりも、彼らが反発しているのは「権力」ではなくて、第二次反抗期における象徴的父、即ち「大人」だということが重要である。
オタクたちは、社会学的に「権力」に抑圧されているのではなく、精神分析的に象徴的「大人」に抑圧され、反発しているのだ。
だから、彼らが思っている「権力」に対する彼らの反発の言述は、社会学的に相手されない。行間などから彼ら自身の心理学的精神分析的な問題だと大人たちは見抜いてしまうからだ。大人たちだって若者時代にそんな心情を経験してきたわけだから、見抜くのは簡単なことである。とはいえもちろん、そういった精神分析的問題から重心をずらしたネット世界の社会学などのようなものは研究されているし、私もそういった研究は必要だと思っている。
と、ここまで読まれて、「何だ、他でよく見るオタク批判と文脈同じじゃねーか」と思う方もいるかもしれない。
うん、その通り。
いーじゃんよー、別にブログだしー。ってゆーか人のフィーリングとか印象って結構重要だったりするのさ。文化傾向などを精神分析理論で分析した結果が、世間で大体言われている印象と合致していた、なんてよくあることだし。フロイトは、精神分析がたくさんの臨床と思考を通じて発見したことを、詩人があっさりと表現していることに驚きを隠していない。人は現代でも結構詩人であり詩を読んでいるのだよ。とかカッコいいことゆってみたり。んでも宮台真司氏とか「強迫的アイロニズム」みたいな言葉の鋭利さっていうか、そこが上手いと思う。社会学よくわからんけど。彼社会学者っていうより詩人だよ、なんて思ってたりする。っていうかコギャルフィールドワークで自らを対象aの立場に持ってくる「分析家の語らい」を意識的にしろ無意識的にしろしていたからこういい感じの言葉が出てくるんだろうなあ、とかなんとか。
――話を戻そう。
オタクたちは、第二次反抗期的に、象徴的父即ち「大人」に対して反発している。それがたまたま「権力」というシニフィアンに連鎖しているのだ。
では、現代における権力者とはなんだろう? ナンダロウ? とかゆってタイトルに答え書いてあるんだけどね。
現代社会は、共産主義と資本主義というイデオロギー対立の構図が、資本主義の勝利によって解消された結果形成されたものだ。資本主義とは商業主義である。マルクスの言ったように、モノだけではなく労働力などといった人間さえも「商品化」してしまう社会だ。
商業主義を考えよう。商売の基本は、「お客様は神様です」である。硬い言葉でいうなら「顧客満足主義」とか「CS論」とかあの辺である。新入社員が居眠りしながら教わるアレだ。商品は、つねにお客様に欲望されなければならない。商品を売る側即ち企業は、お客様が欲望する商品を生産し続けなくてはならない。
これを精神分析理論で大雑把に捉え直してみよう。「商品」とは対象aが身に纏う「要求」というシニフィアンである。シニフィアンは全て代理表象なので、ホントに欲しいものは「商品」には欠如している。欠如しているものを求めるのが欲望なのだ。だから欲望は満足されない。際限がない。連鎖する。「商品」という象徴的代理物を掴み続ける。象徴的代理物というヴェールの向こう側にはそれを生産している企業がいるはずだが、お客様にとってホントに欲しいものは別に企業じゃない。対象aという母と赤ん坊の関係性に象徴される領域である。しかし、企業はお客様にとっての対象aであろうとする。自らが対象aに近ければ近いほどお客様の欲望は自らに向けられ、商品がよく売れるからだ。自らを対象aの立場に持っていって行う語らいを、ラカンは「分析家の語らい」と呼んだ。分析家は、対象者の欲望を自らに転移させなければならない。対象aの立場とは、欲望される立場である。企業もこの位置を目指していると言ってよいだろう。「顧客満足主義」や「CS論」などというのはお客様を分析している行為に他ならない。また、「企業ブランド」や「CI(企業イメージ)戦略」などはそのまま企業自らがお客様から欲望される立場に立とうという戦略である。企業は、お客様に欲望されたがっているのだ。
一方、お客様側はというと、彼らは自身が企業に欲望されていることを知っている。企業にとっての対象aだ。だからお客様は商品を値踏みする。そのヴェールの裏にいる企業を値踏みする。そして商品を選択し、購買する。彼にとってこの時選択から外れた企業は対象aではない。何故なら商品のヴェールの向こうにある彼にとってホントに欲しいものは企業とは限らないからだ(ブランドなどはそうかもしれないが)。つまり、興味のないモノは「別にイラネ」となるわけだ。
以上のように、企業と対象aという立場のズレがそこには必ず存在する。ズレがあるから欠如が生じ、欲望は連鎖し続けるのだ。企業は永遠にお客様即ち消費者の対象aには辿り着けない。しかし対象aに近づかなければ商売にならない。これはまさに「お客様は神様」ならぬ、消費者の権力者化である。
しかし違和感を覚える方も多いだろう。現代では人間は生きている限りにおいて多少なりとも消費者である。モノを買わなくては生きていけない。じゃあ我々個々人が権力者というのはおかしいではないか、と。確かにそうだ。私だって消費者だが私個人が権力者だとは思わない。個々人が権力者なわけではなく、集団になった時に、多数決的に権力になるのだ。多数派の権力とでも言おうか。例えばあるトレンドが生じ、ある特定の商品群が大量に売れたりする。この時その商品を購入する、消費者一人一人ではなく「多数の消費者」が権力者となっているのだ。多数決と言っても民主主義だからというわけではない。企業にとっては商品が大量に売れる方がいいに決まっているからだ。資本主義のルールにのっとって、多数の消費者が権力者になるのだ。
企業側が対象aに近づいていれば近づいているほど、消費者の権力者化は進んでいると言えよう。企業側も消費者側も選択の余地がなく、純粋に企業側が対象aとして振舞えるからだ。消費者を分析し彼の欲望にコーディネイトした商品を企業は生産する。この時企業を一人の想像的人間と仮定して言うなら、彼はマゾヒストであると言える。自らの主体を対象aと同一化し、身体は現実界的なモノとなる。身体的痛みの代わりに商品でもってサディストである消費者と語らい、彼らは同一化する。
そんな企業と消費者の関係なんて存在するわけがない。存在しないが、その状態に近似している関係なら存在する。
それは、オタク文化にある。
消費者はオタクたち。では企業側とは? 私はそこに「同人作家」というシニフィアンを当てはめた。この場合の「同人作家」とはコミケなどで同人誌を販売する方たちのみならず、プロアマ問わずに、オタクなる者たちに自分の作品が欲望されていることを自覚しつつ、そのオタクたちを受取手に想定して作品を発表している作家たちを指す。だから、この条件が当てはまるならば、ライトノベル作家でも商業誌に連載を持っているマンガ家でも「同人作家」である、ということになる。
消費者であるオタクたちと企業である「同人作家」やその周辺(出版社など)が共犯的かつ無意識的に「分析家の語らい」の関係を持ち、純化してしまうことで袋小路に陥ってしまう。外界から閉じた関係の中で行われる語らいは、長年連れ添った夫婦のように「ツーカー」となる。会話が単純化してしまう。その結果、オタク文化の「幻想」は「縮小再生産」されていくということをこの記事で書いた。この「分析家の語らいの末の袋小路」の一例として精神科医の林公一氏が言う「お助けおじさん」を紹介しているが、「同人作家」たちはオタクという境界性人格障害的な対象者の「お助けおじさん」となってしまっているのだ。
「分析家の語らいの末の袋小路」に近似した関係にある、オタクたちと「同人作家」たち。「同人作家」たちは一般の企業より対象aに近い立場にいると言えるだろう。ということは、オタクたちは一般的な消費者よりより権力者化しているということになる。そこでは「同人作家」たちがマーケティングやアンケートなどでオタクたちの好みを分析しそれに基づいて作品を生産している。オタクたちの好むものしか流通しなくなっている。この状態は、まさに「オタクたちは権力者である」と言えないだろうか。
この文章が腑に落ちないオタクたちも多いだろう。しかし先に述べた「個々の消費者ではなく「多数の消費者」が権力者である」という文章を思い出そう。その時とは違った感情が浮かばないだろうか。その時より自分の気持ちが強く反応していないだろうか。それが、「オタク」というシニフィアンの下オタク文化と自らという「個」が同一化してしまっていることを示す症状なのである。自我がオタク文化と想像的に同一化してしまっているのだ。自我が人間ではない、共同体の傾向としての文化と同一化してしまう。これは、ポップミュージック界への言及ではあったが、宮台氏の言う「主語の欠落」と呼応する。
これまでの論をざっくりとまとめてみる。
オタクたちは「権力」アレルギーだと書いた。しかしそれは社会学的な権力の抑圧ではなく、第二次反抗期的な象徴的父や「大人」から受ける抑圧への反発であると分析した。
そして資本主義の企業と消費者の関係を分析し、資本主義的な「多数の消費者」が権力者化してしまう傾向が、オタク文化では強く表れている、とした。
つまり、オタクたちは「権力」を嫌い被権力者のような言述をしているが、実は集団としての彼らこそが権力者である、ということだ。
オタクたちが「権力」とみなしている「学問」「知」「芸術」「純文学」などは、資本主義に覆われた現代においては、実は被権力者なのだ。
その例をいくつか挙げてみよう。
私が実際オタクたちと会話している時の話になる。私は普通の会話でもうっかりと専門用語を使ってしまうことがある。頭の中でその言葉を用いて思考しているのだから仕方ないという言い訳はさておき、その時の彼らの反応は、それについて「教えてくれるのが当たり前」なのだ。いや、むしろ自分が知らないことについては誰かが「教える義務がある」という態度を示す。もちろん「無知」は恥ではないのだが、彼らにとっては「無知」であることが「権力」になる。こういったことは一対一の会話ではあまりないが、多数集うチャットなどではこの傾向が顕著になる。無意識的にか意識的にか知らないが、彼らは「多数の消費者」としての権力の使い方を心得ているのだ。
次に、「純文学」というシニフィアンを取り上げてみよう。「オタクvs純文学」という図式でピンとくる方は多いだろう。そう、笙野頼子氏の作品『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』である。作中で「知感野労」と呼ばれるオタクたちは、自分は反権力だと言いながら権力を手中に収めている。――告白しよう、今回これまで私が述べてきたことは、笙野氏が作中で描いていることを少し精神分析用語でデコレーションして評論風に再話しているだけだったりする。
この作品は大塚英志氏との論争を題材にして書かれているとされており、その繋がりで権力者である「知感野労」のモデルがオタクになった、と思っている方は多いだろうが、私は違うと考える。もちろんそういった文脈もあると思うが、その時の論争テーマは「純文学とその商品価値」である。「商業主義(資本主義)vs純文学」という図式だ。だが当の大塚氏は「商品価値だけではない文学の価値」も認めている。それにも関わらず笙野氏の論は熱かった。それは、純文学が形だけ権威化していて、実際は被権力側であるということを笙野氏は知っていたからだ。そして商業主義における権力者とは、「多数の消費者」であることも。そういった構図が今の日本で最も明確に表出しているのが、先にも書いたように供給側である「同人作家」が対象aにより近似しているオタク文化なのだ。被権力者側から権力者を告発する小説を書くために、彼女がオタク文化をモデルに選んだのは、至極当然のことなのである。
笙野氏のこの作品について、町田康氏が書評を書いている。少しだけ引用しよう。
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この小説をただただ笑って読める人はけっこうヤバいかも知れない。まったく読めない人はもっとヤバいけど。
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また、佐藤亜紀氏の言う「エモい人」。こちらも引用しよう。
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ちなみにエモい人の場合、条件反射以上の対処を要求されると「どうしてもこの小説の世界に入り込むことができなかった」とか言うことになっている。
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何故小説の世界に入り込むことができないのだろう。簡単だ。「同人作家」たちがオタクたちを分析し、オタクたち専用に配合した作品を生産し、オタクたちはそれを享受し、それに慣れてしまっているからだ。自分たち専用に配合されていない、オタク文化の文脈で「理解できない」作品は「わからない」と言って排除してしまう。「理解できない」を「欠如」と捉えると、精神分析的には「理解できない」からそれを欲望してしまうもの、ということになる。しかしオタクたちは「理解できない」ものを欲望しない。それは彼らがフェティシストだからだ。象徴界に開いた穴。そこに湧く泉に映った自分の姿をナルキッソスのように愛してしまい、その泉の周りでしか生きられなくなっている。欲望が(その象徴的代理物が)泉の周辺以外へと連鎖しなくなってしまっている。
とはいえ、彼らは泉に映っている姿が自分かもしれないという疑いも持っている(人もいる)。泉の底には原光景があることを知っている。原光景とは両義的なものだ。即ち泉に映し出されている幻想が魅惑的であればあるほど、泉の底にはおぞましい幻想があることを予感してしまう。自分の姿を愛してしまうほど、不安は大きくなる。それを拭い去るために泉の周りを歩き続ける。違う角度で見れば不安から逃れるだろうと思っている。実際には逃れられないのだが、それでも違う角度を求めてメタ視点を繰り返す。繰り返してしまうのは強迫神経症の精神的力動が働いているからであろう。それが宮台氏の言う「強迫的アイロニズム」という症状だ。
実は、笙野氏の「知感野労」、町田氏の「ヤバい人」、佐藤氏の「エモい人」、宮台氏の「強迫的アイロニズム」「主語の欠落」、これらは現代の文化傾向における、一つの同じ特徴について言及しているシンボルなのだ。私の言葉なら、「フェティシスム」「スタイリッシュ主義」「クール主義」「スキゾ的仮面」などになるだろう。
これらの説明には、オタク文化が主に取り扱われているが、話はオタク文化に限ったことではない。町田氏も「これはほぼそのまま私たちの社会の一面である」と言っている。佐藤氏もカズオ・イシグロ氏作『わたしを離さないで』の批評において「エモい人」の文脈を使用している。「強迫的アイロニズム」は2ちゃんねるを語っている文脈での言葉だし、「主語の欠落」は先に述べた通りだ。
全体としての文化的傾向に潜む、(一部の)表現者たちを不安にさせているある傾向が、たまたまオタク文化においてデフォルメされた形で存在しているのだ。
それは、資本主義の論理に裏打ちされた商業主義的な「多数の消費者」の権力者化が原因となっている、とこの記事では(笙野氏の論を模倣することで)示すことができた。もちろんこの一つの傾向を違った視点で見るならば他にもいろんな表現が可能だろう。
この傾向が権力的であるのは、資本主義という超自我に従属する多数派を相手取っているからだ。多数だからそれは権力になる。我々全員多かれ少なかれ、「知感野労」であり「ヤバい人」であり「エモい人」であり「強迫的アイロニズム」であり「主語が欠落」しているフェティシストなのだ。
精神疾患は、例えば神経症は、言葉を覚えている人間は全員そうであると(精神分析の文脈では)言える。程度の差である。その症状が社会的生活を困難にせしめていて初めて疾患と診断される。つまり、社会の様式によって疾患かそうでないかが変わってしまうのだ。多数派か少数派かで疾患かどうかが決まる一面がないとは言えない。
この傾向に不安を感じている表現者は、社会全体から言うと少数派である。そういった意味では、笙野氏や町田氏や佐藤氏や宮台氏の方が、「ヤバい人」であると言えるのかもしれない。
私もこの傾向に不安は感じている。この傾向を探るためにオタク文化を分析し、「記号のサイン化」などといった傾向を掘り起こし、思考を重ねてきた。
だけど。
私は……、媚びる、だろう、多分、こびりついてしまうだろう。
他力本願。
芸術の作用とは。
例えば供犠は、生贄を殺すことで社会的構造を再活性化させる。死の欲動を利用して逆説的に構造を強化する。
芸術は、構造を構築する生の欲動と、構造を無化する死の欲動双方を兼ね備えている。
芸術、表現文化、言葉は何でもいい。そういったものの、商品的ではない価値を、私たちはもう一度考え直さなければならない時期に来ているのかもしれない。
クリステヴァ女史の論を借りるならば、構造を脅かすセミオティック。その源泉としてのアブジェ。アブジェとは赤ん坊が一番最初に棄却する母のおぞましき側面だ。去勢によって捨て去った対象aの負の側面。精神世界に全く残っていないそれがアブジェクシオンだ。
構造を無化するのは、母性だ。
死の欲動を司る母。エロスじゃなくタナトスとしての母。不潔で悪意に満ちた母。唾棄すべき母。E・ノイマンの言うテリブルマザー。鬼子母神。般若面。笙野氏の作品ならば『母の発達』。全て、私たちが去勢と共に失った、しかしその面影におぞましくも魅惑されている母だ。男性には辿り着きにくい領域。女性が現実界から感じるうねり。
9・11テロが、芸術がすべき役割を果たしてしまう現代。
――私は、こびりつくけど。ヘタレだから。
オタクたちは、「権力」を連想させるシニフィアンに対しアレルギー的な拒否反応を示す。それは例えば「芸術」だったり「学問」だったり「知」であったり「純文学」であったりする。オカタく自身を抑圧しそうなシニフィアンに対し、面白いほど、被害妄想と言ってよいほど反応する。オタクたちと議論した者なら誰でも経験あるだろう。ただし、向こうから擦り寄ってくる相手にはだらしなく無防備になる。「芸術」や「学問」や「知」や「純文学」というシニフィアンを利用して「オタク」というシニフィアンを肯定あるいは擁護する言述には、その文章に自分たちを同一化させるほど喜んで受け入れる。例えば最近ヨーロッパなどでオタク文化の表現作品が広まりつつあるが、外国人に愛される作品と自分たちを同一化したような言動をする。まるで自分自身が世界デビューしたような言動、と言えば想像できるだろうか。これを東浩紀氏がしたように西欧コンプレックスと読み解いても構わないが、私が今述べようとしている論点から言うといささか的外れになるだろう。西洋人だろうが東洋人だろうが他人と繋がりを持ちたがる欲望は人間として正当なものだからだ。それより私が注目したいのは「同一化」的言動である。オタク文化とオタクたちは、「オタク」というシニフィアンの下固く同一化しているのだ。そして、自らを否定する対象に「反発」あるいは「排除」し、自らを肯定する対象には過剰ともいえる同一化的感情を抱く。これは境界性人格障害の症状に似ていると言える。対人関係において敵に対する不信と味方に対する信頼の振幅がとても大きいのだ。境界性人格障害は精神分析においてはヒステリーあるいは神経症の文脈で語られる。ヒステリーは女性に多く発症し、その精神状態を象徴的に表現するなら「男か女かという性への問いかけ」である。「オタクは女性化している」という一部の論にも合致するだろう。
別に私はオタクたちのそういった傾向を批判するわけではない。人間誰しも神経症でパラノイアで倒錯者なのだ。私だって自分はヒステリーでマゾっぽい、なんてうっすら思っている。また、思春期に境界性人格障害の症状に類似する言動が散見されることはよく言われている。
このオタクたちの「権力アレルギー」なるものは、単純に象徴的去勢の否認であることが多い。若者に普遍的に見られる大人社会への反発心と同種である。不良たちが学校や警察に反発するようにオタクたちは「芸術」「学問」「知」「純文学」などという大人の世界に反発しているのである。社会人にもなってそういった態勢でいるのはさすがに社会的生活を送る上で心配なところもなきにしもあらずだが、私はこういった成長過程としての象徴的去勢の否認は否定しない。現代が簡単に承認できるほど単純な社会でなくなっているのは私も実感としてわかるからだ。こういった状況を「幼稚」と言って批判するのは簡単だが、人は誰しも幼稚な時代を過ごしてきたものだ。むしろこの否認は承認への準備段階であり、あって当然のことなのだ。大人になっても否認と承認を行き来しているのが普通である。否認の度合い、回数が減っていくだけだ。去勢を完全に承認している大人なんて、共産主義の「美しき労働者」のようなものだ。そんなことよりも、彼らが反発しているのは「権力」ではなくて、第二次反抗期における象徴的父、即ち「大人」だということが重要である。
オタクたちは、社会学的に「権力」に抑圧されているのではなく、精神分析的に象徴的「大人」に抑圧され、反発しているのだ。
だから、彼らが思っている「権力」に対する彼らの反発の言述は、社会学的に相手されない。行間などから彼ら自身の心理学的精神分析的な問題だと大人たちは見抜いてしまうからだ。大人たちだって若者時代にそんな心情を経験してきたわけだから、見抜くのは簡単なことである。とはいえもちろん、そういった精神分析的問題から重心をずらしたネット世界の社会学などのようなものは研究されているし、私もそういった研究は必要だと思っている。
と、ここまで読まれて、「何だ、他でよく見るオタク批判と文脈同じじゃねーか」と思う方もいるかもしれない。
うん、その通り。
いーじゃんよー、別にブログだしー。ってゆーか人のフィーリングとか印象って結構重要だったりするのさ。文化傾向などを精神分析理論で分析した結果が、世間で大体言われている印象と合致していた、なんてよくあることだし。フロイトは、精神分析がたくさんの臨床と思考を通じて発見したことを、詩人があっさりと表現していることに驚きを隠していない。人は現代でも結構詩人であり詩を読んでいるのだよ。とかカッコいいことゆってみたり。んでも宮台真司氏とか「強迫的アイロニズム」みたいな言葉の鋭利さっていうか、そこが上手いと思う。社会学よくわからんけど。彼社会学者っていうより詩人だよ、なんて思ってたりする。っていうかコギャルフィールドワークで自らを対象aの立場に持ってくる「分析家の語らい」を意識的にしろ無意識的にしろしていたからこういい感じの言葉が出てくるんだろうなあ、とかなんとか。
――話を戻そう。
オタクたちは、第二次反抗期的に、象徴的父即ち「大人」に対して反発している。それがたまたま「権力」というシニフィアンに連鎖しているのだ。
では、現代における権力者とはなんだろう? ナンダロウ? とかゆってタイトルに答え書いてあるんだけどね。
現代社会は、共産主義と資本主義というイデオロギー対立の構図が、資本主義の勝利によって解消された結果形成されたものだ。資本主義とは商業主義である。マルクスの言ったように、モノだけではなく労働力などといった人間さえも「商品化」してしまう社会だ。
商業主義を考えよう。商売の基本は、「お客様は神様です」である。硬い言葉でいうなら「顧客満足主義」とか「CS論」とかあの辺である。新入社員が居眠りしながら教わるアレだ。商品は、つねにお客様に欲望されなければならない。商品を売る側即ち企業は、お客様が欲望する商品を生産し続けなくてはならない。
これを精神分析理論で大雑把に捉え直してみよう。「商品」とは対象aが身に纏う「要求」というシニフィアンである。シニフィアンは全て代理表象なので、ホントに欲しいものは「商品」には欠如している。欠如しているものを求めるのが欲望なのだ。だから欲望は満足されない。際限がない。連鎖する。「商品」という象徴的代理物を掴み続ける。象徴的代理物というヴェールの向こう側にはそれを生産している企業がいるはずだが、お客様にとってホントに欲しいものは別に企業じゃない。対象aという母と赤ん坊の関係性に象徴される領域である。しかし、企業はお客様にとっての対象aであろうとする。自らが対象aに近ければ近いほどお客様の欲望は自らに向けられ、商品がよく売れるからだ。自らを対象aの立場に持っていって行う語らいを、ラカンは「分析家の語らい」と呼んだ。分析家は、対象者の欲望を自らに転移させなければならない。対象aの立場とは、欲望される立場である。企業もこの位置を目指していると言ってよいだろう。「顧客満足主義」や「CS論」などというのはお客様を分析している行為に他ならない。また、「企業ブランド」や「CI(企業イメージ)戦略」などはそのまま企業自らがお客様から欲望される立場に立とうという戦略である。企業は、お客様に欲望されたがっているのだ。
一方、お客様側はというと、彼らは自身が企業に欲望されていることを知っている。企業にとっての対象aだ。だからお客様は商品を値踏みする。そのヴェールの裏にいる企業を値踏みする。そして商品を選択し、購買する。彼にとってこの時選択から外れた企業は対象aではない。何故なら商品のヴェールの向こうにある彼にとってホントに欲しいものは企業とは限らないからだ(ブランドなどはそうかもしれないが)。つまり、興味のないモノは「別にイラネ」となるわけだ。
以上のように、企業と対象aという立場のズレがそこには必ず存在する。ズレがあるから欠如が生じ、欲望は連鎖し続けるのだ。企業は永遠にお客様即ち消費者の対象aには辿り着けない。しかし対象aに近づかなければ商売にならない。これはまさに「お客様は神様」ならぬ、消費者の権力者化である。
しかし違和感を覚える方も多いだろう。現代では人間は生きている限りにおいて多少なりとも消費者である。モノを買わなくては生きていけない。じゃあ我々個々人が権力者というのはおかしいではないか、と。確かにそうだ。私だって消費者だが私個人が権力者だとは思わない。個々人が権力者なわけではなく、集団になった時に、多数決的に権力になるのだ。多数派の権力とでも言おうか。例えばあるトレンドが生じ、ある特定の商品群が大量に売れたりする。この時その商品を購入する、消費者一人一人ではなく「多数の消費者」が権力者となっているのだ。多数決と言っても民主主義だからというわけではない。企業にとっては商品が大量に売れる方がいいに決まっているからだ。資本主義のルールにのっとって、多数の消費者が権力者になるのだ。
企業側が対象aに近づいていれば近づいているほど、消費者の権力者化は進んでいると言えよう。企業側も消費者側も選択の余地がなく、純粋に企業側が対象aとして振舞えるからだ。消費者を分析し彼の欲望にコーディネイトした商品を企業は生産する。この時企業を一人の想像的人間と仮定して言うなら、彼はマゾヒストであると言える。自らの主体を対象aと同一化し、身体は現実界的なモノとなる。身体的痛みの代わりに商品でもってサディストである消費者と語らい、彼らは同一化する。
そんな企業と消費者の関係なんて存在するわけがない。存在しないが、その状態に近似している関係なら存在する。
それは、オタク文化にある。
消費者はオタクたち。では企業側とは? 私はそこに「同人作家」というシニフィアンを当てはめた。この場合の「同人作家」とはコミケなどで同人誌を販売する方たちのみならず、プロアマ問わずに、オタクなる者たちに自分の作品が欲望されていることを自覚しつつ、そのオタクたちを受取手に想定して作品を発表している作家たちを指す。だから、この条件が当てはまるならば、ライトノベル作家でも商業誌に連載を持っているマンガ家でも「同人作家」である、ということになる。
消費者であるオタクたちと企業である「同人作家」やその周辺(出版社など)が共犯的かつ無意識的に「分析家の語らい」の関係を持ち、純化してしまうことで袋小路に陥ってしまう。外界から閉じた関係の中で行われる語らいは、長年連れ添った夫婦のように「ツーカー」となる。会話が単純化してしまう。その結果、オタク文化の「幻想」は「縮小再生産」されていくということをこの記事で書いた。この「分析家の語らいの末の袋小路」の一例として精神科医の林公一氏が言う「お助けおじさん」を紹介しているが、「同人作家」たちはオタクという境界性人格障害的な対象者の「お助けおじさん」となってしまっているのだ。
「分析家の語らいの末の袋小路」に近似した関係にある、オタクたちと「同人作家」たち。「同人作家」たちは一般の企業より対象aに近い立場にいると言えるだろう。ということは、オタクたちは一般的な消費者よりより権力者化しているということになる。そこでは「同人作家」たちがマーケティングやアンケートなどでオタクたちの好みを分析しそれに基づいて作品を生産している。オタクたちの好むものしか流通しなくなっている。この状態は、まさに「オタクたちは権力者である」と言えないだろうか。
この文章が腑に落ちないオタクたちも多いだろう。しかし先に述べた「個々の消費者ではなく「多数の消費者」が権力者である」という文章を思い出そう。その時とは違った感情が浮かばないだろうか。その時より自分の気持ちが強く反応していないだろうか。それが、「オタク」というシニフィアンの下オタク文化と自らという「個」が同一化してしまっていることを示す症状なのである。自我がオタク文化と想像的に同一化してしまっているのだ。自我が人間ではない、共同体の傾向としての文化と同一化してしまう。これは、ポップミュージック界への言及ではあったが、宮台氏の言う「主語の欠落」と呼応する。
これまでの論をざっくりとまとめてみる。
オタクたちは「権力」アレルギーだと書いた。しかしそれは社会学的な権力の抑圧ではなく、第二次反抗期的な象徴的父や「大人」から受ける抑圧への反発であると分析した。
そして資本主義の企業と消費者の関係を分析し、資本主義的な「多数の消費者」が権力者化してしまう傾向が、オタク文化では強く表れている、とした。
つまり、オタクたちは「権力」を嫌い被権力者のような言述をしているが、実は集団としての彼らこそが権力者である、ということだ。
オタクたちが「権力」とみなしている「学問」「知」「芸術」「純文学」などは、資本主義に覆われた現代においては、実は被権力者なのだ。
その例をいくつか挙げてみよう。
私が実際オタクたちと会話している時の話になる。私は普通の会話でもうっかりと専門用語を使ってしまうことがある。頭の中でその言葉を用いて思考しているのだから仕方ないという言い訳はさておき、その時の彼らの反応は、それについて「教えてくれるのが当たり前」なのだ。いや、むしろ自分が知らないことについては誰かが「教える義務がある」という態度を示す。もちろん「無知」は恥ではないのだが、彼らにとっては「無知」であることが「権力」になる。こういったことは一対一の会話ではあまりないが、多数集うチャットなどではこの傾向が顕著になる。無意識的にか意識的にか知らないが、彼らは「多数の消費者」としての権力の使い方を心得ているのだ。
次に、「純文学」というシニフィアンを取り上げてみよう。「オタクvs純文学」という図式でピンとくる方は多いだろう。そう、笙野頼子氏の作品『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』である。作中で「知感野労」と呼ばれるオタクたちは、自分は反権力だと言いながら権力を手中に収めている。――告白しよう、今回これまで私が述べてきたことは、笙野氏が作中で描いていることを少し精神分析用語でデコレーションして評論風に再話しているだけだったりする。
この作品は大塚英志氏との論争を題材にして書かれているとされており、その繋がりで権力者である「知感野労」のモデルがオタクになった、と思っている方は多いだろうが、私は違うと考える。もちろんそういった文脈もあると思うが、その時の論争テーマは「純文学とその商品価値」である。「商業主義(資本主義)vs純文学」という図式だ。だが当の大塚氏は「商品価値だけではない文学の価値」も認めている。それにも関わらず笙野氏の論は熱かった。それは、純文学が形だけ権威化していて、実際は被権力側であるということを笙野氏は知っていたからだ。そして商業主義における権力者とは、「多数の消費者」であることも。そういった構図が今の日本で最も明確に表出しているのが、先にも書いたように供給側である「同人作家」が対象aにより近似しているオタク文化なのだ。被権力者側から権力者を告発する小説を書くために、彼女がオタク文化をモデルに選んだのは、至極当然のことなのである。
笙野氏のこの作品について、町田康氏が書評を書いている。少しだけ引用しよう。
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この小説をただただ笑って読める人はけっこうヤバいかも知れない。まったく読めない人はもっとヤバいけど。
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また、佐藤亜紀氏の言う「エモい人」。こちらも引用しよう。
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ちなみにエモい人の場合、条件反射以上の対処を要求されると「どうしてもこの小説の世界に入り込むことができなかった」とか言うことになっている。
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何故小説の世界に入り込むことができないのだろう。簡単だ。「同人作家」たちがオタクたちを分析し、オタクたち専用に配合した作品を生産し、オタクたちはそれを享受し、それに慣れてしまっているからだ。自分たち専用に配合されていない、オタク文化の文脈で「理解できない」作品は「わからない」と言って排除してしまう。「理解できない」を「欠如」と捉えると、精神分析的には「理解できない」からそれを欲望してしまうもの、ということになる。しかしオタクたちは「理解できない」ものを欲望しない。それは彼らがフェティシストだからだ。象徴界に開いた穴。そこに湧く泉に映った自分の姿をナルキッソスのように愛してしまい、その泉の周りでしか生きられなくなっている。欲望が(その象徴的代理物が)泉の周辺以外へと連鎖しなくなってしまっている。
とはいえ、彼らは泉に映っている姿が自分かもしれないという疑いも持っている(人もいる)。泉の底には原光景があることを知っている。原光景とは両義的なものだ。即ち泉に映し出されている幻想が魅惑的であればあるほど、泉の底にはおぞましい幻想があることを予感してしまう。自分の姿を愛してしまうほど、不安は大きくなる。それを拭い去るために泉の周りを歩き続ける。違う角度で見れば不安から逃れるだろうと思っている。実際には逃れられないのだが、それでも違う角度を求めてメタ視点を繰り返す。繰り返してしまうのは強迫神経症の精神的力動が働いているからであろう。それが宮台氏の言う「強迫的アイロニズム」という症状だ。
実は、笙野氏の「知感野労」、町田氏の「ヤバい人」、佐藤氏の「エモい人」、宮台氏の「強迫的アイロニズム」「主語の欠落」、これらは現代の文化傾向における、一つの同じ特徴について言及しているシンボルなのだ。私の言葉なら、「フェティシスム」「スタイリッシュ主義」「クール主義」「スキゾ的仮面」などになるだろう。
これらの説明には、オタク文化が主に取り扱われているが、話はオタク文化に限ったことではない。町田氏も「これはほぼそのまま私たちの社会の一面である」と言っている。佐藤氏もカズオ・イシグロ氏作『わたしを離さないで』の批評において「エモい人」の文脈を使用している。「強迫的アイロニズム」は2ちゃんねるを語っている文脈での言葉だし、「主語の欠落」は先に述べた通りだ。
全体としての文化的傾向に潜む、(一部の)表現者たちを不安にさせているある傾向が、たまたまオタク文化においてデフォルメされた形で存在しているのだ。
それは、資本主義の論理に裏打ちされた商業主義的な「多数の消費者」の権力者化が原因となっている、とこの記事では(笙野氏の論を模倣することで)示すことができた。もちろんこの一つの傾向を違った視点で見るならば他にもいろんな表現が可能だろう。
この傾向が権力的であるのは、資本主義という超自我に従属する多数派を相手取っているからだ。多数だからそれは権力になる。我々全員多かれ少なかれ、「知感野労」であり「ヤバい人」であり「エモい人」であり「強迫的アイロニズム」であり「主語が欠落」しているフェティシストなのだ。
精神疾患は、例えば神経症は、言葉を覚えている人間は全員そうであると(精神分析の文脈では)言える。程度の差である。その症状が社会的生活を困難にせしめていて初めて疾患と診断される。つまり、社会の様式によって疾患かそうでないかが変わってしまうのだ。多数派か少数派かで疾患かどうかが決まる一面がないとは言えない。
この傾向に不安を感じている表現者は、社会全体から言うと少数派である。そういった意味では、笙野氏や町田氏や佐藤氏や宮台氏の方が、「ヤバい人」であると言えるのかもしれない。
私もこの傾向に不安は感じている。この傾向を探るためにオタク文化を分析し、「記号のサイン化」などといった傾向を掘り起こし、思考を重ねてきた。
だけど。
私は……、媚びる、だろう、多分、こびりついてしまうだろう。
他力本願。
芸術の作用とは。
例えば供犠は、生贄を殺すことで社会的構造を再活性化させる。死の欲動を利用して逆説的に構造を強化する。
芸術は、構造を構築する生の欲動と、構造を無化する死の欲動双方を兼ね備えている。
芸術、表現文化、言葉は何でもいい。そういったものの、商品的ではない価値を、私たちはもう一度考え直さなければならない時期に来ているのかもしれない。
クリステヴァ女史の論を借りるならば、構造を脅かすセミオティック。その源泉としてのアブジェ。アブジェとは赤ん坊が一番最初に棄却する母のおぞましき側面だ。去勢によって捨て去った対象aの負の側面。精神世界に全く残っていないそれがアブジェクシオンだ。
構造を無化するのは、母性だ。
死の欲動を司る母。エロスじゃなくタナトスとしての母。不潔で悪意に満ちた母。唾棄すべき母。E・ノイマンの言うテリブルマザー。鬼子母神。般若面。笙野氏の作品ならば『母の発達』。全て、私たちが去勢と共に失った、しかしその面影におぞましくも魅惑されている母だ。男性には辿り着きにくい領域。女性が現実界から感じるうねり。
9・11テロが、芸術がすべき役割を果たしてしまう現代。
――私は、こびりつくけど。ヘタレだから。