2011/01/22/Sat
ふと思ったんだけどさ、もう「日本の最高学府」って京都大学だって定義し直さないか? 実績を考えたら明らかにそっちのが上だろ。いや理系しか知らないが。
東大がその座から落ちた戦犯はまあいろいろといるんだろうが、決定的だったのは
「社会に開かれた大学にする東大改革」だったとは思うよ。京大なんかきちんと一線ひいてるだろ、愚民どもと。京都って地域文化もあるのかもしれんが。
「ぶぶづけいかがどすか?」
まあわかるんだよ。「東大は浮世離れしている」って批判がうるさかったのも。よく知らないけど。
そこで「わかりました。じゃあ浮世に染まりましょう」ってのがアホだっつってるんだよ。そこでこそ「ぶぶづけでも」って言うべきだったんだよ。
東大に今必要なのは「ぶぶづけ改革」だ。
東大なんかもう二番でいいじゃん。実績がそうなんだし。予算たくさんくれるからカミオカンデとか作れるだけで。
その予算京都大学に回した方が(国家的に考えて)効率いいと思うぞ。少なくとも物性物理は。
東大の人間は営業脳で大学として腐らせた蓮實一派を恨んどけ。
いくら世間知らずな学者でも内部批判を怠った罰だ。
まあ多少予算減るだけだからいいんじゃね。
ああそうそう、
ここ。ラカンのララングって胡散臭いと思うんだよな。サントームとつなげるには便利だとは思うが、喃語との関連が非常に粗雑だと思える。
喃語を考えるならやはりクラインやクリステヴァを参照すべきだと。
わたしはブログではそれを「完語文」と述べているが、以下こっちを使う。
簡単に言えば、完語文には「意味がある」という前提でしかラカン派は考えられない。
しかし完語文には「ぶーぶー」などとオノマトペ的なものも多い。
はたしてそれは意味なのか。
こういう風に「先史」を遡っていくならば認知科学的な考えをしなければならない。クリステヴァなどは結構認知系好きなんだよな、意外と。
で、彼女は、
「不快によって筋肉は収縮する。この筋肉の収縮が肛門だった場合糞便となり、喉や口だった場合が発声となる」
とした。
赤ん坊が生きるこの次元では、糞便も発声も同じものだ。不快に対する結果。それは物理的なものであり、比喩的に言うならば作用に対する反作用としてある。
この反作用に、「模倣」という要素が加わったのが「完語文のオノマトペ」である。難しく考えなくてもガキがロボットのおもちゃで遊ぶところ思い出してみろよ。「ぶぎょーん、どぅぐわあああん、びしゅっびしゅっ」とかよくわかんねー擬音使って遊んでるだろ?
ではこれは意味なのか。
ジジェクが言うように、赤ん坊は聞こえてきた音に「同一化」しているのだろうか。
わたしはそれは「同一化」ではないと思う。
それはむしろ「世界の再現」だ。「模倣」ではあるが、「自」がない「模倣」だ。
「自」がないのだから、そういう意味で「同一化」と述べているなら、それは誤りだ。
また、ロボットで遊ぶガキが言う「ぶぎょーん、どぅぐわあああん、びしゅっびしゅっ」とか、それを聞いた直後の「私」が何かに同一化させてるか? そんなオノマトペ「言いっぱなしジャーマン」だろ。「ぶぎょーん、どぅぐわあああん、びしゅっびしゅっ」って擬音で、そのロボットごっこの妄想シーンを同定しているわけじゃないだろう。
なので、こういった意味でも誤りである。
「完語文」は「同一化」だとは限らない。
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こうした喃語は、『親しみの繋留索』、その実際の意味とは独立した『同じもの』として同一化/理解される、潜在的な意味の結び目を与える。-『ある言葉は、たとえそれが理解されることがなくても、親しいものとなりうる』の である。喃語は、こうして、意味それ自体を欠いていなければならない-シニフィアンは、まず、同一化可能な実在として結晶化されねばならない。
=====
について、そういったものじゃない「幼児語」もあるだろ、って反論だ。
つか「ぶぎょーん、どぅぐわあああん、びしゅっびしゅっ」なんて妄想の「爆発シーン」や「ビーム発射シーン」に「親しみ」を感じているわきゃないだろ。敵を破壊したりビームを発射するロボットには親しみを感じておろうが。
だからジジェクは馬鹿なんだよ。ラカン派の赤ん坊に対する分析がまったく的外れであることを喧伝しているようなもんだ。
ともかく、「完語文」が意味がどうかわからない。わたしは。ただ、「意味である」とは断言できない、と考える。
しかしだからこそ、この辺りに、クリステヴァ論の主要概念である「シニフィアンス(意味生成性)」があり、芸術(の作用)の本質をあぶり出す概念ではないかと思っている。意味のない場所から意味が生まれるのが意味生成なわけだから。
つかジジェクの精神病論や赤ん坊論はほんと信用しない方がいいぞ。未去勢を去勢済み主体として解釈したがっている。ジジェクとかほんと『アンチ・オイディプス』の批判があてはまる分析家だとわたしは思うぞ。
「お前たちはオイディプスではない者ですらオイディプスにしている。お前ら自身がオイディプスであるゆえに」
ラカン派でこの批判にあてはまるのってだあれ? って聞かれたら、ぱっと浮かぶのジジェクだもん。
ジジェクって「精神分析」「ラカン」に拘りすぎじゃないか? 対象の研究において使えなければ別の学説を使えばよい。前オイディプスな赤ん坊を解釈したければ十川幸司も言っていたように認知科学を使えばよい。
ジジェクは去勢済み主体論だけ読んでればよろし。未去勢に関する論は眉唾っていうか馬鹿だと思って読むべき。
つかさ、ここがわかんなければ、わたしの論である
「サントームの臨床実体は自閉症のエコラリアである」ってのが理解できないと思うよ。逆にこの論を採用した方が、ララングと喃語の関連が明確になっていくだろう。
エコラリアすることによって自閉症者は相手やその物に「親しみ」を感じているのか。逆だ。「親しみ」が感じられないからエコラリアを続けるのだ。相手やその物を確信できないから確認しているのだ。
自閉症のエコラリアは、「言述は自分を表象=代理するものであり、それどころか、言述は自己の表象=代理そのものであるのだ。」とされるところの「言述」であると言えるだろうか。
あーあ、去勢済み主体ってほんとめんどくせえ。
うざくなってきた、そのブログ。いやあたしが見なきゃいいんですけどね。
博覧強記っぷりに圧倒されましたが、結論に至るまでの説得が混沌としていて素直に理解できないですね…なぜ馬鹿という言葉を使うのですか?メランコリックな精神病患者というのならまだわかる気がしますがf^_^;
2011-07-24 日 08:03:53 /URL /
※初心者です /
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はじめてのブログでそんな傲慢なことを言えるあなたみたいな人の指摘は聞くつもりはありません。
2011-07-25 月 23:57:21 /URL /脂 /
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引き続き…
すみませんでした、昨日脂さんのブログをいくつか拝見しましたよ!心理学だけでなく、自分の体験や数学にまで敷延して書いてらした態度が、ただの独り言と(私にとって)思えないくらい、世界を論理化しようという知的な試みに溢れていると思い、いたく感動しました(^_^)/
ところで、人というのは生活に密着してて自分の腑に落ちるような範囲でしか理解しないものですよね。だから一般に、フェルメールやシェイクスピアなどは素直に感動されうるんだろうと思っています。一方、私はアウトサイダーと呼ばれる絵画や小説が好きなのですが、周りの健康的な(?)人にすすめてみて共感されたことがないんですね(゜゜笑;
地に足ついた現実世界の人々を狂気に陥らせるには、言語を駆使して彼らの頑なな共感能力をコントロールする必要があると思います。脂さんはライトノベルに興味をお持ちのようですが、どんなものを書いてらっしゃるのかとても気になってますm(._.)m
脂さんほどの洞察力と探究心がある方なら、知の喜びが死にも勝るとお見受けしたのですが、これは脂さんの礼儀に反する言い方かもしれないので、とりあえずは今後の動向を楽しみにしてますということで…p(^^)q
2011-07-26 火 05:04:54 /URL /
※初心者です /
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携帯からそんな長文をニチニチ打っているのがすごい気持ち悪いのでドコモコメ禁な。
2011-07-26 火 14:21:50 /URL /脂 /
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はじめまして。
2ヶ月前から読ませてもらっています。
ひょっとしてほんとに壊れた?
もう戻ってこないのかな。
心配だな。待ってるよー。
2011-07-29 金 13:37:38 /URL /世間 /
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わかった。待たない。
喫茶に行っていたのね。
2011-08-03 水 12:11:51 /URL /世間 /
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『腐ったガスは腐るのか』なんてことを前に書き込んだが、腐った空気も腐るなって思った。
ジュースをほったらかしにしておくと、アルコール発酵を起こしてアルコールが出来、乳酸菌が働いて乳酸になっていく。ここだ。ここが問題なのかも知れない。腐敗と発酵はイコールで結べるのだ。普通の感覚だと、通常は腐った肉とヨーグルトは同じではない。しかし猫やサルなんかは忌避する。匂いが似てるから(ああ、ヨーグルトを食べるサルはよく飼われているかも知れないな;
それに、ある物質が生物に取り込まれて別の物質になるって反応なのだし、広義的に解釈すれば二酸化炭素もうんこみてーなもんなのよな。
そういやあ、デジタル時計とアナログ時計の話をちらとここで読んだ覚えがあるのだが、重度の自閉症者になるとアナログ時計はデジタル時計よりも、換気扇や扇風機の方に似ていると思うのかな? と、思った。
2011-08-16 火 11:31:02 /URL /ちょび /
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扇風機なんかはモーターそのまんまだしな。
自閉症者の思考はそう考えれば単純。
ただ正常という精神疾患における集団心理異常症状としてある集団妄想が、モーターという単純な原理の機械を、何か複雑な物に思わせているだけ、というのは自分勝手に思った。
2011-08-17 水 18:17:38 /URL /脂 /
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設計者なら「扇風機という機械」だけ考えればいいが、人間は「風があたって気持ちいい」「どういうあたり方が一番気持ちいいのか」を考えなきゃならないからなあ。
一時期扇風機に「ファジー機能」とかついた時期あったろ。なんかワロタわ。
2011-08-21 日 20:06:49 /URL /脂 /
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つまり、「人間の心」を考えなければならない。扇風機ですら。
最近の技術者もそういう教育されてるけどな、CSとか。
技術者に「人間の心」を考えさせたらそりゃ「人間の心」にとっちゃ不愉快なものになるだろう。「心」を機械的に考えちゃ。
「人間の心」とは「物語」であって「理論」ではないから。
「物語」を「理論」化されたらつまらない。よって「お前の心はつまらない」と言われていると思い込む。
そういうことなんじゃねえのかなあ。
2011-08-21 日 20:09:41 /URL /脂 /
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>一時期扇風機に「ファジー機能」とかついた時期あったろ。
これとかただの流行だったろ。
この「ファジー機能」とか要するに「1/fゆらぎ理論」だったわけだが、購買者にとっては「理論」ではなく「物語」だった証拠だな。
新記事にも似たようなこと書いているが
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-950.html
=====
安愚楽牧場大爆笑。
「オーナー制度」とかただの宣伝文句なんだよ、出資者の所有欲を煽るための。(本来の)株式制度と何が違うんだ、って議論を市況板でしたことがあるわ。
人間ってほんとアホだ。
どんなに理屈ぶっても最終的には気分で考えている。
=====
って話と同じ。
「気分」=「物語」。
2011-08-21 日 20:12:14 /URL /脂 /
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>「物語」を「理論」化されたらつまらない。よって「お前の心はつまらない」と言われていると思い込む。
山岸さんが「「心の理論」とは何か感動的なものであると言われているが、理論なんだ」と言っていたが、「心を理論化されるのを嫌悪する」んだよ、正常という精神疾患者たちは。
だからアスペは嫌われる。
「心の理論」って言った人が「エライ学者」だったから怒らないだけ。それを一般人のアスペ自身が言ったら怒る。
この時点でそれは「理論」ではなく「物語」。
正常人の受け取り方が。
2011-08-21 日 20:15:39 /URL /脂 /
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「理論」を「物語」化しちゃうのが正常人。
印象操作にしたがるのが。
大野さんの言なら「理論」に「言説効果」を読み込むのが正常という精神疾患。
2011-08-21 日 20:39:13 /URL /脂 /
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「言説効果」を信じて疑えないのが大野さんのパラノイアックな、男性原理主義な症状だ、とも言えような。
「「物語」とはすべてビルドゥングスロマンだ」とある評論家が言っていたが、それは間違っていない。
「物語」という辞書的な意味ではなく「言説効果」的な意味が、ビルドゥングスロマンだ。
2011-08-21 日 20:41:11 /URL /脂 /
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「大人になりたがり病」の媒介としての「物語」な。
2011-08-21 日 20:42:03 /URL /脂 /
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>「物語」を「理論」化されたらつまらない。よって「お前の心はつまらない」と言われていると思い込む。
ネカマブログんちに書いてあった話。
ある田舎の村に、「あかずの家」みたいなんがあった。そこには悪魔が住んでいるとか住民たちは噂していた。
その村によそから技師かなんかがやってきたんだな。
で、村の「あかずの家」の話を聞きつけ、実際にそこに足を踏み入れた。調査した。
結果、ただの廃屋だった。
それを村民に言ったら、彼らはどうしたと思う?
その技師を村八分にした。
結局、村人たちは、彼らの心の「物語」として「あかずの家」を共有していた。
そこへ技師が、「理論化」ではないが、科学的な調査結果を行うと、彼を村八分にした。
そういう話。
科学者は村八分にされるべき存在である。
「「メタ視点」じゃなくて「村八分視点」」っていうわたしの主張はそういう意味だ。
http://atratith.blog19.fc2.com/blog-entry-167.html
のコメント欄。
2011-08-21 日 20:48:50 /URL /脂 /
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スゲー納得したんだけど、今日は眠いから思いついたことだけ書く(脂さんの脳内を想定するだけの気力が無いので“返事”は打てない。伝わるかどうかは解らないが、返事として私が書く文章を書ける状態に無い;
物語って連関でしょう?
『ここをこうしたらこうなる』って物語、例えば時計が動くのと一日の動きを関連付けて正常人は捕らえることが出来る。(主に象徴的な)連関を捉えることが出来ないから、自閉症者に社会性を叩き込むのは難しい。ラブホに行けばセックスがよう解らない、と、私は喫茶店(管理人の名前が正しく打てない、英語弱い;)で書いた訳だが、そこ(ラブホ)は象徴的な、想像的な場だった、と。
自閉症も現実界的なことなら連関を見出せるんじゃないか? あまり自閉症者を観察したことは無いが『コップが落ちる』とか『火が熱い』は理解していそうなんだ『コップが落ちて割れて困る』とかまでは想像できてんか解らんけど。
アナログ時計、デジタル時計、日時計、から全部時間を連想出来るこの能力は一体なんなんだろうな? あと、連想だけでは無くそれを各自が連想し共有しているような状態になる。共有してんのか、別個に思いついているだけなのか知らんけど( ̄  ̄;
テーブルで母親が自閉症子に『塩取って』って話も不思議「塩渡して」も「塩とって」も「おい、塩」も厳密に考えれば意味は伝わらないはずなのに食卓だと多くの場合内容は通じている。「塩渡して」だったら「誰に?」ってなるはずなのにな。『全部が言葉』ってのはこういうことなのかも知れないな、「おい、塩!」以外にも様々な言葉にあふれてる、テーブルとか声色とか相手の動作とか色々。
2011-08-25 木 01:58:12 /URL /ちょび /
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そういやあ、扇風機の糞うざい揺らぎ機能についての説明で思い出したんだが放射能とか農薬とかもこれだよなって思った。
放射能対策や農薬忌避がある種の“言葉”になっちゃってる、そして物語が始まる、安全ですよって物語から「私は考えている」という物語とか色々な気分が発生する。
出来すぎたキャラ弁とか作る親の元に生まれなくて良かったよホント、小学校抜け出してもある程度は方って置かれたからまだマシだった。親は(私が)中学生になったらジッとするようになった、てことで「まだマシだった」て思ったかも知らんけど(。△。*
2011-08-25 木 02:19:36 /URL /ちょび /
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『「人間という動物の動物行動学的習性」』から「あいつは今はああだが、いずれ大人物になる」的な妄想をよくされたわそういえば;
中学校卒業する時、私、拍手されたんだよ皆に、マジ意味不明だったわその時。『えっ? 何なにどうしたの??』ってなった、校長先生泣いてたし、びびったのをよく覚えている。
……その妄想に乗っかって生きてんだなあーってのを、意識して生きんのはダルかったりする。
学校ではイケッチって呼ばれて居るんだが、この呼称にさえも何かを期待されているのを感じるからな( ̄  ̄;
マスコット的ポジションになってるよ学校では、「可愛い~!」って言われている。高校の頃は女子から飯食わされてたは、あ~んって。マジであんなんあるんだなと思った、意外だった。猫被ってることに気付かない猫被りって感じだ私からしたら正常人は。私は意図的に猫被って生きてんで疲れる、と。で、猫被んなきゃどうにも楽に生きれそうに無いなと思っている、精神病院通いながら(別に通わなくても良いが)仕事もせず植物を弄りカードゲームして暮らせたら万歳なんだが、世間(笑)は、それを許さないだろうことを解ってるから猫被って生きるのだわ。elveさんのお酒の席での半笑いとかもこういうもんなのかな、女を被ると言うか???
2011-08-25 木 02:30:42 /URL /ちょび /
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キャラ弁も技術と考えたらおもしろいけどな。
そういうHPちらっと見たことあるけど、色別で食材とか分類されててすごいわーと思ったわ。
ここまでくるなら風景画弁当とかあってもよさそうだけどな。
2011-08-25 木 09:40:08 /URL /脂 /
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こういう「技術としての弁当の彩り」より「好き嫌いをなくそうとする料理技術」の方が「正常という精神疾患」がよく表れている気がする。
要するにそれ「欲望の誘導」だろ。
健康状態がどうのこうの言うなら死なせてあげればよい。
2011-08-25 木 09:42:23 /URL /脂 /
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>放射能対策や農薬忌避がある種の“言葉”になっちゃってる、
「無意識は言語のように構造化されている」ですよ。
「構造主義」の「構造」も当該文化に属する人々にとっては無自覚なもの、つまり無意識的なものだ。
2011-08-25 木 09:43:56 /URL /脂 /
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わたし絵壊滅的に下手だからな。
だけど機械のポンチ絵とかは「うまい」つか「わかりやすい」ってよく言われたわ。
技術営業してたときも客先の前で製品の原理的なことをささっと絵に描いたりして「うまいですねー」とか感心されたことがある。
あれだ、遠近法とかが壊滅的にだめなんだよな。三点透視法か。あれ知ったときすげーと思ったもんな。あれ使えばわたしでも遠近法は表現できる。
2011-08-25 木 09:54:19 /URL /脂 /
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2011-08-29 月 00:29:46 / / /
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ほい。自分としては、面白そうな記事を拾ってきた。
http://sites.google.com/site/jun1sboardgames/blog/whyluckgamesinjapan
大野さんがしている考察と近い感じを受けるけれど、外国での精神様式(こんな表現で良いのか??)をゲームを通して解釈出来そうなんで脂さんの解釈の足しになる(?)かなあ、と、思い、報告。(記事の内容が良いと言うよりは、内容が表しているゲームの方が精神性を表している感じ。あと『カタンの開拓者たち』を少し、欲しいと思った
しかし、ゲームから心理を分析するのは実験体との距離が離れてしまっているだろうか? なんか人間一人一人の精神を木だとするなら、社会は森って感じがする。木と森は違う役割(この単語しか思いつかなかった。木に役割なんて無いのにな;)を果たしているが、森は木で出来ていると言うか。木が精神で森が構造な感じがする。人が多くなると木が生い茂って辺りが暗くなり棲みにくくなる。そんな印象があるな学校とかだと。しかし、木が少なくても今度は逆に木一本一本が大きくなり棲み辛くなる感じがする。ただの連想。
2011-08-31 水 02:23:51 /URL /ちょび /
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正常人の言葉っておまきんさんのようには『仮定義』されていないみたいだなあ。って、最近実感した。
幾ら言葉を尽くしても、何かに回収されてしまっている。例えば、その日のことを色々考えることや、辛い体験なんかは人生って記号に回収されてしまっていて、瞬間では無くなっている。なんか、積分されて瞬間瞬間を無かったことにしているように物事を繋げていくから不思議だ。
自閉症者だと『それについて語った言葉、行動』にしかならないのに。正常人だと瞬間しゅんかん、概念がいねんが大きな観念の一部になってしまっている。価値観とでも言うか。
2011-08-31 水 02:30:31 /URL /ちょび /
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>しかし、ゲームから心理を分析するのは実験体との距離が離れてしまっているだろうか?
会話、つまり言語のやり取り自体がゲームだからなあ。「言語ゲーム」。
言語とはすべてヒントでしかない。
そういう意味で実験体との距離はつねに離れているし、言語で物事を考えている限り、離れている。
ゲームも言葉も同じだと思う。
そんで読んだ。
なんか最初の具体例が「電気を使わず盛り上がる家ゲームランキング」にも関わらず、
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「運ゲーが人気なのはパーティーゲームで重宝するからでは?」という指摘が結構あるようなので、文章にいくつか手を加えました。この記事で考察しているのはそこではなくて(それは当たり前なので)、「じゃあ、どうしてパーティーゲームとしての需要しかないの?」というところです。パーティー以外にもボードゲーム・カードゲームを遊ぶシチュエーションはあるはず。それは麻雀や将棋、オセロなどの存在が証明している。にもかかわらず、日本ではそれら「博打・競技・パーティーゲーム」以外のゲームが殆ど遊ばれていないのはなぜなのか?ということです。「運ゲー」という(割とネガティブな)言葉を使ってしまったのが問題だったようです。最初から「パーティーゲーム」と書いておけばよかったですね(汗)
=====
ってのが意味わからんな。
「日本ではそれら「博打・競技・パーティーゲーム」以外のゲームが殆ど遊ばれていない」って本当か?
わたしよくいってた飲み屋さんとか別に雀荘経営してたし、将棋センターだってちょこちょこあるだろ。
なんと比較して「遊ばれてない」のかがわからない。
この筆者が考える「ボードゲームが遊ばれていない」具体がわからない。
2011-08-31 水 04:14:24 /URL /脂 /
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この筆者があげているような「ボードゲームの作品数が少ない」ってことなら、そりゃマージャンや将棋があるからじゃねえの。
マージャンゲーとか結構リリースされてるし。西原もそれで一儲けしたらしいし。
なんかこの筆者もこの筆者の「脳内物語」に囚われてる気がするな。
2011-08-31 水 04:17:25 /URL /脂 /
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こういう「自分の脳内物語」を信じ込んでる人って苦手。
2011-08-31 水 04:19:34 /URL /脂 /
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「電気を使わず盛り上がる家ゲーム」って指定があってのランキングで、それを論拠に「頭を使うボードゲームは遊ばれていない」って理屈が頭悪いだろ。
この筆者は「言語ゲーム」でミスをしてる。
2011-08-31 水 04:21:52 /URL /脂 /
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>「電気を使わず盛り上がる家ゲーム」って指定があってのランキングで
これとかいわば「仮定義」で、その「仮定義」を、自分の「日本ではそれら「博打・競技・パーティーゲーム」以外のゲームが殆ど遊ばれていない」という「脳内物語」で覆いかぶせて無視してる、とも言えるな、この筆者は。
2011-08-31 水 04:24:20 /URL /脂 /
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「言語ゲーム」でもっと頭使えよな、と思ったわ。
2011-08-31 水 04:25:36 /URL /脂 /
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もしそれを論拠として考察するなら、「なぜ「電気を使わず盛り上がる家ゲーム」で「頭を使うボードゲーム」は遊ばれていないのか」って考察になるだろ。
その考察はされていない。
いきなり話が一般化されている。
論文とか学者の議論なんてそれこそ「言語ゲーム」なんだけど、論文として「頭を使ってない」文章だ、となるな。
2011-08-31 水 04:29:19 /URL /脂 /
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>この筆者があげているような「ボードゲームの作品数が少ない」ってことなら、そりゃマージャンや将棋があるからじゃねえの。
ゲーム業界の話なら、人口比と人口数の違いの問題がある。
たとえば日本で、あるAというジャンルのゲームをする人口比が、アメリカより高いとしよう。
その場合「アメリカより日本でAはより遊ばれている」という理屈は成立するだろう。
しかし、アメリカのゲーム人口の方が格段に多いわけだ。
すると、人口比が少ないアメリカの方が、Aというジャンルのゲームの売上はよくなる場合もありえるだろうな。
そしたら、さまざまなタイトルが製作されるだろう。ペイできるんだから。
一方、いくら人口比が多くても、人口数が少ない日本では、売上は悪くなるかもしれない。
どの国で売ろうがある一つのゲームにかかるコストは同じだ。
であれば、日本での販売は控えよう、となる場合もあるだろう。
もっと頭使おうぜ、と言いたい。
2011-08-31 水 04:35:40 /URL /脂 /
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こいつの論の前提である「日本では頭の使うゲームが遊ばれていない」ってのが論証されていないから、「言語ゲームでミスをしている」となるわけだ。
具体的にどう遊ばれていないのか。どういうシチュエーションにおいて遊ばれていないのか。人口比の問題なのか、人口数の問題なのか。
「考察」としては全然甘い。
「妄想」なら別にええけど。
2011-08-31 水 04:45:04 /URL /脂 /
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大野さんは自分の文章が「妄想」だと自覚してはいるんじゃね。
つか「論証」とか考えてないだろうし。
「妄想」っつか「主観論である」という自覚。
だから「客観性信者」たちにつっこまれるんだろうけどさ。
わたし大野さんに言った記憶があるわ。「ここで書かれている記事はすべて筆者の主観によるものです」みたいな断り書きしとけば、って。
2011-08-31 水 04:46:43 /URL /脂 /
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「主観論」だと自覚できていないから、妙な「客観性」を得ようとしている気がするな、この筆者。
そこが頭悪い。
2011-08-31 水 04:50:05 /URL /脂 /
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「考察」じゃなくて「妄想」だな、この文章。
2011-08-31 水 04:55:40 /URL /脂 /
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余談だが「言語ゲーム」において「戦略」を考えることは一般的に「被害妄想」と言われることになるだろうな。
2011-08-31 水 07:30:20 /URL /脂 /
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