マシというかヘタレ。
2011/01/23/Sun
わたしの言葉すべてがうんこだと言っているわけじゃない。ただわたしの言葉にはうんこが、吐瀉物が混じっている。
うんことは他者がいない言葉だ。生まれたばかりの赤ん坊の泣き声だ。
「お前に助けてもらいたくて泣いているわけじゃない」
しかしわたしはまるっきり赤ん坊というわけではない。わたしだって普通の生活をしていた時期はある。会話はできる。他者のいる言葉を吐くこともできる。
あとで自分が気持ち悪くなるが。
わかってんだよ。
別にわたしは評論そのものを批判しているわけじゃない。評論は芸術性を解体するものだ。
蓮實重彦の評論は表層を破壊しようとしている。しかも精密なやり方で。それは解体だと言える。
だがそのやり方を読む読者たちは、むしろ表層という妄想を脳内で生産してやがる。
蓮實重彦のテクストは、「究極の鈍感者」である己の鈍感さを破壊しようというものだと思う。倒錯症状を原理的に言えばそういうもんだろ? いや他の誰かも似たようなこと言ってた記憶があるが。
だがそれで、その読者たちが仮に蓮實と似たような「鈍感者」であったとして、彼らは己の鈍感さを破壊とまでは言わずともどうにかしようと思って読んでいるのか。
蓮實の、芸術に関与する人間として不適切な己の人格を破壊するような倒錯的なテクストは、むしろ芸術に関与する人間として不適切な鈍感者たちを再生産していないだろうか。
北野武と蓮實の対談を見た。北野は蓮實に毒舌を言いたくてうずうずしているように見えた。
そらそうだ、下町育ちの北野からすれば、蓮實のやってることは、生活に苦しんで心を傷つけてきたストリッパーに恋して、「自分も傷つけなければ」とたとえば会社をやめるような馬鹿男と同じことだからだ。『京極堂シリーズ』で風俗嬢のヒモに落ちぶれたフロイトコンプレックスの分析医のようなものだ。なんだっけ名前、降旗ってキャラだ。
そりゃ嫌味の一つも言いたくなるだろう。
蓮實のテクストは倒錯的な自己防衛でしかない。
彼の評論は、芸術家に対して向けられたものだと解釈されてはならない。あれは芸術の受取手に向けた文章だ。芸術に関与する人間として適切な傷つきやすい人間たちを切り刻むことになる。
蓮實は自分でここがわかっていないように思える。彼のような人間は気軽に芸術家と対談などしてはならない。
いや、わかってるのか。芸術家に対するあの気持ち悪いまでの優しさ、媚は一体なんだろう、と思える。素でパワハラしてしまう、kyupinさん曰く「サイコパス」な彼とは本当に正反対だ。気持ち悪い。
まあ、そういう意味では確かにラカンよかマシなのかもな。
マシというかヘタレ。
ああ、この「芸術家に対して卑屈になってしまう症状」の一種だったのかもしれないな。中沢新一招聘事件のときの彼の態度は。芸術家と宗教家の極点は似たようなもの、ってか。
そのくせスタッフにはパワハラするんだろうな。芸能人ですらスタッフに敬意払ってるもんだぞ。ある音楽番組の仕事してて、大道具のきったねー控え室にキンキキッズとかちゃんと挨拶しにきたしな。ジャニーズのすごさはこういう教育が徹底しているところなんだろうな、と思ったわ。すげー背低かった。細かった。
蓮實にはこういった「芸術の汚らしい現場」に対する敬意が決定的に欠けている。そしてこの症状はおそらく、彼の大学政治における「社会的に自閉傾向がある学者」の軽視と通じている。
ほんとこういう奴ら、劇場に連れてってブリッジから1kwの照明落としてやりたいわ。
「あ、すみませーん。劇場ってほんと危険な場所なんで(笑)」
妄想を暴走させるなら、迫りが降りてる状態で、演出に熱中して周りが見えなくなっていた演出家が、見学していた「鈍感者」たちを背中で押してしまって、「ああああああ」と落下してく、ってのが最高のシチュエーションだな。
いやまあもう先長くなさそうだからどうでもいいけど。
あの世でアルトーに殺されろ。
自動詞か他動詞か、なんてどうでもいい。多くの人間の言葉は他動詞だが、自動詞を吐いてしまう人間がたとえば精神疾患者として少数派だがいる、ってだけの話にすぎん。
自動詞を吐いてしまう人間を他動詞しか吐けない人間がどう扱うか、って話だろ。
他動詞しか吐けない正常人が自動詞を殺しているんだよ。
自動詞は体の一部だから、自動詞を吐いてしまう人間からすればそれは傷害だ。
自動詞をどう制御するか、だろ。
自動詞を吐きたがるだけの人間は死んでいいよ。存在価値はない。自動詞を吐いて【しまう】のが問題なんだ馬鹿。
共有できない前提を共有してからの、その次だ。
表層は表層としてある。それは回避不可能だ。
その次だ。
その次を芸術家はやっている。スタッフも。
ただ共有できない状態を目指している馬鹿に存在価値はない。
肩書きだけの価値しかない奴ら。
表層は表層としてあり、その次だ、ってことについて。ここの記事のコメント欄が参考になるかもしれない。
=====
こういったことを考えると、一般の人が言う「演技」とは、「自分が自然とそうしてしまうクセを、自分がクセと認知している」ことであり、舞台演劇における「演技メソッド」とは、「自分を束縛するクセは常に既に存在する。当然のこととして。その上で、それとどう関係していくか」である、という違いになるでしょう。
=====
こういう話だよ。ここが蓮實重彦と渡邊守章との差異だ。
蓮實は「一般の人が言う「演技」」としてしかそれを認識していない。こういった「演技」を「演技だ」と指摘して悦に入っているだけ。またこういった「演技」を「演技だ」と指摘するのが精神分析だ。
=====
人格批判ねー。それは、たくさんの人がやられてるわよね、蓮實重彦の批評で。口が悪いわ、ほんと。まあ、でもラカンやゴダールに比べたら、まだましじゃあないかしら? あの二人は、ほんとに弱っている人の背中から、鉄砲打ちそうだわ。
=====
その通りだ。蓮實なんかよりラカンの方が「演技」を解体できている。
だが芸術の話ならば、そんな問題じゃない。舞台芸術の「演技」はそうじゃない。
「魂」がゴールじゃない。「魂」がスタート地点だ。
「魂」って表現も気に入らないけどな。「魂」は表層の根本であり、非表層ではない。
非表層の何かが「魂」に触れるのがクリステヴァの言う「シニフィアンス」だ、って感じか。
お前たちが目指しているところから芸術は始まるんだよ。
自分で引用しているじゃないか。
=====
認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…
=====
「魂」なんてのもないんだ。
そこにあるのは物質だけ。真っ白いカンバスだけ。ここのコメント欄から。
=====
ナイフで絵の具を全部削り取ってしまうと絵は消滅し、剥き出しのカンバスという物体になるが、それを人は態々見ようとはしない。‥‥というような話。
=====
「剥き出しのカンバスという物体」に「魂」はあるか?
もし「ある」って言うならそりゃお前パラノイアだ。
まあ「物の怪」はいようがな。正常人たちが幼児期に「物の殺害」によって殺した物が。
「ゴール」のその向こうにある「剥き出しのカンバスという物体」「物の怪」こそが芸術の母体だ。
芸術そのものではないが。
って今はじめて知ったんだけど大野さんてはてなキーワードに収録されてんのな。
え、もしかして結構な人だったりするの?
あ、こええ。こえくなった。
やばいやばいやばい。
それは「逃走」などではない。
「表層」の根本たる「魂」を、作品という「表層」に収めるべく、「魂」と対峙しながら、「あとずさり」しているのが芸術家である。少なくとも大野さんはそうだろう。
いやもちろん実際に「造形」する作業の際は前に踏み出したりするだろうが。
しかし、「魂」を「表層」に収めることに真摯な芸術家ほど、「魂」を捉えるべく「あとずさり」してしまう。
このとき、芸術家の背後にあるのは「剥き出しのカンバスという物体」であり「死の危険すらある舞台裏」であり「過熱した工場」である。
だからアルトーは、「治療として」ゴッホに写生に行かせた精神科医について、「彼こそがゴッホを殺したのだ」と言っているのである。
絵を描くこととは、画家であることに過剰に真摯だったゴッホにとって、「魂」をカンバスに収めるための「あとずさり」だったからである。
もちろん、だからと言って「ゴッホに絵を描かせるべきではなかった」としているのではない。
アルトーはこう述べることで「芸術の現実」を告発しようとしたのだ。
それが「残酷演劇」なのだ。
真摯であればあるほど、残酷なものとなる。
うんことは他者がいない言葉だ。生まれたばかりの赤ん坊の泣き声だ。
「お前に助けてもらいたくて泣いているわけじゃない」
しかしわたしはまるっきり赤ん坊というわけではない。わたしだって普通の生活をしていた時期はある。会話はできる。他者のいる言葉を吐くこともできる。
あとで自分が気持ち悪くなるが。
わかってんだよ。
別にわたしは評論そのものを批判しているわけじゃない。評論は芸術性を解体するものだ。
蓮實重彦の評論は表層を破壊しようとしている。しかも精密なやり方で。それは解体だと言える。
だがそのやり方を読む読者たちは、むしろ表層という妄想を脳内で生産してやがる。
蓮實重彦のテクストは、「究極の鈍感者」である己の鈍感さを破壊しようというものだと思う。倒錯症状を原理的に言えばそういうもんだろ? いや他の誰かも似たようなこと言ってた記憶があるが。
だがそれで、その読者たちが仮に蓮實と似たような「鈍感者」であったとして、彼らは己の鈍感さを破壊とまでは言わずともどうにかしようと思って読んでいるのか。
蓮實の、芸術に関与する人間として不適切な己の人格を破壊するような倒錯的なテクストは、むしろ芸術に関与する人間として不適切な鈍感者たちを再生産していないだろうか。
北野武と蓮實の対談を見た。北野は蓮實に毒舌を言いたくてうずうずしているように見えた。
そらそうだ、下町育ちの北野からすれば、蓮實のやってることは、生活に苦しんで心を傷つけてきたストリッパーに恋して、「自分も傷つけなければ」とたとえば会社をやめるような馬鹿男と同じことだからだ。『京極堂シリーズ』で風俗嬢のヒモに落ちぶれたフロイトコンプレックスの分析医のようなものだ。なんだっけ名前、降旗ってキャラだ。
そりゃ嫌味の一つも言いたくなるだろう。
蓮實のテクストは倒錯的な自己防衛でしかない。
彼の評論は、芸術家に対して向けられたものだと解釈されてはならない。あれは芸術の受取手に向けた文章だ。芸術に関与する人間として適切な傷つきやすい人間たちを切り刻むことになる。
蓮實は自分でここがわかっていないように思える。彼のような人間は気軽に芸術家と対談などしてはならない。
いや、わかってるのか。芸術家に対するあの気持ち悪いまでの優しさ、媚は一体なんだろう、と思える。素でパワハラしてしまう、kyupinさん曰く「サイコパス」な彼とは本当に正反対だ。気持ち悪い。
まあ、そういう意味では確かにラカンよかマシなのかもな。
マシというかヘタレ。
ああ、この「芸術家に対して卑屈になってしまう症状」の一種だったのかもしれないな。中沢新一招聘事件のときの彼の態度は。芸術家と宗教家の極点は似たようなもの、ってか。
そのくせスタッフにはパワハラするんだろうな。芸能人ですらスタッフに敬意払ってるもんだぞ。ある音楽番組の仕事してて、大道具のきったねー控え室にキンキキッズとかちゃんと挨拶しにきたしな。ジャニーズのすごさはこういう教育が徹底しているところなんだろうな、と思ったわ。すげー背低かった。細かった。
蓮實にはこういった「芸術の汚らしい現場」に対する敬意が決定的に欠けている。そしてこの症状はおそらく、彼の大学政治における「社会的に自閉傾向がある学者」の軽視と通じている。
ほんとこういう奴ら、劇場に連れてってブリッジから1kwの照明落としてやりたいわ。
「あ、すみませーん。劇場ってほんと危険な場所なんで(笑)」
妄想を暴走させるなら、迫りが降りてる状態で、演出に熱中して周りが見えなくなっていた演出家が、見学していた「鈍感者」たちを背中で押してしまって、「ああああああ」と落下してく、ってのが最高のシチュエーションだな。
いやまあもう先長くなさそうだからどうでもいいけど。
あの世でアルトーに殺されろ。
自動詞か他動詞か、なんてどうでもいい。多くの人間の言葉は他動詞だが、自動詞を吐いてしまう人間がたとえば精神疾患者として少数派だがいる、ってだけの話にすぎん。
自動詞を吐いてしまう人間を他動詞しか吐けない人間がどう扱うか、って話だろ。
他動詞しか吐けない正常人が自動詞を殺しているんだよ。
自動詞は体の一部だから、自動詞を吐いてしまう人間からすればそれは傷害だ。
自動詞をどう制御するか、だろ。
自動詞を吐きたがるだけの人間は死んでいいよ。存在価値はない。自動詞を吐いて【しまう】のが問題なんだ馬鹿。
共有できない前提を共有してからの、その次だ。
表層は表層としてある。それは回避不可能だ。
その次だ。
その次を芸術家はやっている。スタッフも。
ただ共有できない状態を目指している馬鹿に存在価値はない。
肩書きだけの価値しかない奴ら。
表層は表層としてあり、その次だ、ってことについて。ここの記事のコメント欄が参考になるかもしれない。
=====
こういったことを考えると、一般の人が言う「演技」とは、「自分が自然とそうしてしまうクセを、自分がクセと認知している」ことであり、舞台演劇における「演技メソッド」とは、「自分を束縛するクセは常に既に存在する。当然のこととして。その上で、それとどう関係していくか」である、という違いになるでしょう。
=====
こういう話だよ。ここが蓮實重彦と渡邊守章との差異だ。
蓮實は「一般の人が言う「演技」」としてしかそれを認識していない。こういった「演技」を「演技だ」と指摘して悦に入っているだけ。またこういった「演技」を「演技だ」と指摘するのが精神分析だ。
=====
人格批判ねー。それは、たくさんの人がやられてるわよね、蓮實重彦の批評で。口が悪いわ、ほんと。まあ、でもラカンやゴダールに比べたら、まだましじゃあないかしら? あの二人は、ほんとに弱っている人の背中から、鉄砲打ちそうだわ。
=====
その通りだ。蓮實なんかよりラカンの方が「演技」を解体できている。
だが芸術の話ならば、そんな問題じゃない。舞台芸術の「演技」はそうじゃない。
「魂」がゴールじゃない。「魂」がスタート地点だ。
「魂」って表現も気に入らないけどな。「魂」は表層の根本であり、非表層ではない。
非表層の何かが「魂」に触れるのがクリステヴァの言う「シニフィアンス」だ、って感じか。
お前たちが目指しているところから芸術は始まるんだよ。
自分で引用しているじゃないか。
=====
認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…
=====
「魂」なんてのもないんだ。
そこにあるのは物質だけ。真っ白いカンバスだけ。ここのコメント欄から。
=====
ナイフで絵の具を全部削り取ってしまうと絵は消滅し、剥き出しのカンバスという物体になるが、それを人は態々見ようとはしない。‥‥というような話。
=====
「剥き出しのカンバスという物体」に「魂」はあるか?
もし「ある」って言うならそりゃお前パラノイアだ。
まあ「物の怪」はいようがな。正常人たちが幼児期に「物の殺害」によって殺した物が。
「ゴール」のその向こうにある「剥き出しのカンバスという物体」「物の怪」こそが芸術の母体だ。
芸術そのものではないが。
って今はじめて知ったんだけど大野さんてはてなキーワードに収録されてんのな。
え、もしかして結構な人だったりするの?
あ、こええ。こえくなった。
やばいやばいやばい。
それは「逃走」などではない。
「表層」の根本たる「魂」を、作品という「表層」に収めるべく、「魂」と対峙しながら、「あとずさり」しているのが芸術家である。少なくとも大野さんはそうだろう。
いやもちろん実際に「造形」する作業の際は前に踏み出したりするだろうが。
しかし、「魂」を「表層」に収めることに真摯な芸術家ほど、「魂」を捉えるべく「あとずさり」してしまう。
このとき、芸術家の背後にあるのは「剥き出しのカンバスという物体」であり「死の危険すらある舞台裏」であり「過熱した工場」である。
だからアルトーは、「治療として」ゴッホに写生に行かせた精神科医について、「彼こそがゴッホを殺したのだ」と言っているのである。
絵を描くこととは、画家であることに過剰に真摯だったゴッホにとって、「魂」をカンバスに収めるための「あとずさり」だったからである。
もちろん、だからと言って「ゴッホに絵を描かせるべきではなかった」としているのではない。
アルトーはこう述べることで「芸術の現実」を告発しようとしたのだ。
それが「残酷演劇」なのだ。
真摯であればあるほど、残酷なものとなる。
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