「倫理」への欲望
2011/02/15/Tue
「倫理」も欲望されうる。
「倫理」への欲望を一概に欲動(的なるもの)としてはならない。
「美学」も「倫理」も、欲望が譲歩することなくなされ続ければ、それはやがて欲動化していく。
このときの様態が異なるだけである。
「美学」へのそれの欲動化はたとえば「破局」的なものであり、「倫理」へのそれの欲動化はたとえば「希薄化」的、という表現がいいだろうか。
カタルシスかナンセンスか、的な。違うか。ごめんボキャブラリー乏しい人間なので勝手に連想してくれ。
まあそりゃな、速度で言えば、「倫理」への欲望の方が欲動化していくのが速いのかもしれんよ? でもそれだけのことだろ。
どっちもいきつく先は抑鬱。
だから何度も言ってるのに。「想像的か象徴的か」という問題に囚われてはならない、と。「幻想的か現実的か」という問題だ。
いやお前が「想像的か象徴的か」を問題にするのはいい。しかしそれをあたかも「幻想的か現実的か」の問題のように語るのがだめなのだ。
思想は同じところをくるくる回るだけ。自分の尻尾を追いかける犬だ。あれを人間は笑うが、犬のああいった行動こそが「人間らしさ」の胚種であると気づけ。
ああいった動物学的行動が過剰になったのが、ファルスだ。
去勢済み主体たちが全員罹患しているパラノイアックな精神疾患だ。
フロイトの「現実原則」における「現実」とラカンの「現実界」はまったく別物だっつうのは常識なんじゃないのか?
「男性」たちは、ラカン的な意味あいの「幻想的か現実的か」という問題を、「想像的か象徴的か」として語りたがる。
そりゃそうだよな、お前らの象徴的なものへの欲望が認められることになるからな。
「ボクチンは「倫理」を欲望していいんだ!」
そこがいやらしいのだよ。オナニーしているのに「オナニーしていない」と言い張るガキみたいで。
「だあってパパがそう言ってるんだもーん」
そこが非常に不愉快だ。
そりゃ「モダンに還れ」って結論になるわな。父権的な時代に戻りたがる。
「だってだってパパがそう言ってるんだ!」
ジジイになっても少年ジャンプな奴が多すぎて困る。文系は。
柄谷なんか明らかにこのタイプじゃねえか。
フロイトも少年ジャンプだったんだろうな。だから現実原則やらエディプスコンプレックスなんて考え方をしてしまった。
ラカンは元シュルレアリストだったから、少年ジャンプの罠から逃れられた、ってことか。
あ、「少年ジャンプ」って単語「英雄神話」を代入して読んでくれてよいよ。
この手の奴らって、自分が議論しようとするしていることを保留して、自説を補強する論陣を優先することが多いように思う。
表面上自己批判をしているように見えて、その無意識にあるのは自己肯定だ。
ここがヤなんだよ、男社会あるいは象徴的社会も。欲望を表面的に否定しているだけで欲望バリバリ。ちんぽ汁垂れ流しまくり。
もちろん女社会あるいは想像的社会も反吐が出る。
わたしはどちらにいても不愉快に生きていくしかない。
エディプス論か対象関係論かじゃねえんだよ。
「男か女か」「存在しているかしてないか」なんて問題じゃねんだよ。
そういう考え方自体が、そういった対立軸でしか考えられないのが、真のファロセントリストだ。
木田原形而や笙野頼子から「狂気を欲望しているだけ」というような指摘を受けたことがある。
「狂気」と「欲動」は連鎖可能だよな。親近しているよな。
この指摘は柄谷にこそされるべきだろ。
なんで、実際にメンヘラと診断されて(診断されたのは精神分析を学びはじめる以前だ)、実際に心的苦痛が原因で社会生活もままならないわたしの「狂気論」あるいは「欲動論」が「それは欲望だ」になって、まともに社会生活を営めている柄谷の言説が「欲動を述べている」とされるんだ?
お前ら頭おかしいだろ?
わたしじゃなくてお前ら去勢済み主体たちの方が頭がおかしいんだよ。
もうちょっとまともに考えてみろよ。自分が見落としている矛盾について真摯になれよ。
ほんと人間の八割死ね。
「想像的か象徴的か」の問題を「幻想的か現実的か」の問題のように語ることは、「三人の囚人」における「俺は牢屋から出たい」とすることの根拠である「囚人生活は苦痛、牢屋の外の生活の方が快適」という幻想を助長する。
現実は、牢屋の中も外も地獄なのだ。
「牢屋の中も外もそう変わらんよ」
とつぶやく囚人。
この彼がその三人の中にいたら、「三人の囚人」の推論は成立しない。なぜなら彼は「走り出さないだろう」から。
彼は排除されなければならない。
お前たちは、自分の推論が揺るがされたくないから、この彼を「いやお前も牢屋から出たがっているはずだ!」と叱責するのではないか?
なあ、お前ら。
大人しく死刑を待ってろよ。
少なくとも、柄谷の言動(活動内容含む)の変遷を考慮すると、それはエディプスコンプレックスであり、フロイト的な意味での「現実への適応」であり、ラカン的な意味での「現実逃避」である。
症状としては、まったく欲動的とは言えない。
もしそれを「倫理」と言うのならば、それは少なくともラカン的な意味での「現実」的ではない。
ラカン的な意味での「現実的な象徴構造」を述べるならば、たとえば言語学になる。一般的な語義での「倫理」ではない。
もし、自然の理的なそれを、科学的なそれを「倫理」と言っているのならば、柄谷の症状には合致しない。彼の言説は「倫理を述べている」のではない。
自然の理的な「倫理」とは、「牢屋の中も外もそう変わらんよ」という理である。柄谷の口癖「終わり」とは牢屋の外へ出たがっている症状である。
自然そのものが理。この「自然」とは一般的語義ではなく、禅的な意味である。
これが現実的な理である。
というか、もし法的な意味での「倫理」なら、それが現実的なものではないのは明らかだ。
「女に法は作れない」
つまり、「倫理」において(も)「女」は存在しない。
しかし現実に女はいるだろ、バーカ。
したがって、少なくとも法的な意味での「倫理」は、現実的なものではない。
むしろ「女」が現実的ってことになってるだろうが、ラカン理論では。
「倫理」への欲望を一概に欲動(的なるもの)としてはならない。
「美学」も「倫理」も、欲望が譲歩することなくなされ続ければ、それはやがて欲動化していく。
このときの様態が異なるだけである。
「美学」へのそれの欲動化はたとえば「破局」的なものであり、「倫理」へのそれの欲動化はたとえば「希薄化」的、という表現がいいだろうか。
カタルシスかナンセンスか、的な。違うか。ごめんボキャブラリー乏しい人間なので勝手に連想してくれ。
まあそりゃな、速度で言えば、「倫理」への欲望の方が欲動化していくのが速いのかもしれんよ? でもそれだけのことだろ。
どっちもいきつく先は抑鬱。
だから何度も言ってるのに。「想像的か象徴的か」という問題に囚われてはならない、と。「幻想的か現実的か」という問題だ。
いやお前が「想像的か象徴的か」を問題にするのはいい。しかしそれをあたかも「幻想的か現実的か」の問題のように語るのがだめなのだ。
思想は同じところをくるくる回るだけ。自分の尻尾を追いかける犬だ。あれを人間は笑うが、犬のああいった行動こそが「人間らしさ」の胚種であると気づけ。
ああいった動物学的行動が過剰になったのが、ファルスだ。
去勢済み主体たちが全員罹患しているパラノイアックな精神疾患だ。
フロイトの「現実原則」における「現実」とラカンの「現実界」はまったく別物だっつうのは常識なんじゃないのか?
「男性」たちは、ラカン的な意味あいの「幻想的か現実的か」という問題を、「想像的か象徴的か」として語りたがる。
そりゃそうだよな、お前らの象徴的なものへの欲望が認められることになるからな。
「ボクチンは「倫理」を欲望していいんだ!」
そこがいやらしいのだよ。オナニーしているのに「オナニーしていない」と言い張るガキみたいで。
「だあってパパがそう言ってるんだもーん」
そこが非常に不愉快だ。
そりゃ「モダンに還れ」って結論になるわな。父権的な時代に戻りたがる。
「だってだってパパがそう言ってるんだ!」
ジジイになっても少年ジャンプな奴が多すぎて困る。文系は。
柄谷なんか明らかにこのタイプじゃねえか。
フロイトも少年ジャンプだったんだろうな。だから現実原則やらエディプスコンプレックスなんて考え方をしてしまった。
ラカンは元シュルレアリストだったから、少年ジャンプの罠から逃れられた、ってことか。
あ、「少年ジャンプ」って単語「英雄神話」を代入して読んでくれてよいよ。
この手の奴らって、自分が議論しようとするしていることを保留して、自説を補強する論陣を優先することが多いように思う。
表面上自己批判をしているように見えて、その無意識にあるのは自己肯定だ。
ここがヤなんだよ、男社会あるいは象徴的社会も。欲望を表面的に否定しているだけで欲望バリバリ。ちんぽ汁垂れ流しまくり。
もちろん女社会あるいは想像的社会も反吐が出る。
わたしはどちらにいても不愉快に生きていくしかない。
エディプス論か対象関係論かじゃねえんだよ。
「男か女か」「存在しているかしてないか」なんて問題じゃねんだよ。
そういう考え方自体が、そういった対立軸でしか考えられないのが、真のファロセントリストだ。
木田原形而や笙野頼子から「狂気を欲望しているだけ」というような指摘を受けたことがある。
「狂気」と「欲動」は連鎖可能だよな。親近しているよな。
この指摘は柄谷にこそされるべきだろ。
なんで、実際にメンヘラと診断されて(診断されたのは精神分析を学びはじめる以前だ)、実際に心的苦痛が原因で社会生活もままならないわたしの「狂気論」あるいは「欲動論」が「それは欲望だ」になって、まともに社会生活を営めている柄谷の言説が「欲動を述べている」とされるんだ?
お前ら頭おかしいだろ?
わたしじゃなくてお前ら去勢済み主体たちの方が頭がおかしいんだよ。
もうちょっとまともに考えてみろよ。自分が見落としている矛盾について真摯になれよ。
ほんと人間の八割死ね。
「想像的か象徴的か」の問題を「幻想的か現実的か」の問題のように語ることは、「三人の囚人」における「俺は牢屋から出たい」とすることの根拠である「囚人生活は苦痛、牢屋の外の生活の方が快適」という幻想を助長する。
現実は、牢屋の中も外も地獄なのだ。
「牢屋の中も外もそう変わらんよ」
とつぶやく囚人。
この彼がその三人の中にいたら、「三人の囚人」の推論は成立しない。なぜなら彼は「走り出さないだろう」から。
彼は排除されなければならない。
お前たちは、自分の推論が揺るがされたくないから、この彼を「いやお前も牢屋から出たがっているはずだ!」と叱責するのではないか?
なあ、お前ら。
大人しく死刑を待ってろよ。
少なくとも、柄谷の言動(活動内容含む)の変遷を考慮すると、それはエディプスコンプレックスであり、フロイト的な意味での「現実への適応」であり、ラカン的な意味での「現実逃避」である。
症状としては、まったく欲動的とは言えない。
もしそれを「倫理」と言うのならば、それは少なくともラカン的な意味での「現実」的ではない。
ラカン的な意味での「現実的な象徴構造」を述べるならば、たとえば言語学になる。一般的な語義での「倫理」ではない。
もし、自然の理的なそれを、科学的なそれを「倫理」と言っているのならば、柄谷の症状には合致しない。彼の言説は「倫理を述べている」のではない。
自然の理的な「倫理」とは、「牢屋の中も外もそう変わらんよ」という理である。柄谷の口癖「終わり」とは牢屋の外へ出たがっている症状である。
自然そのものが理。この「自然」とは一般的語義ではなく、禅的な意味である。
これが現実的な理である。
というか、もし法的な意味での「倫理」なら、それが現実的なものではないのは明らかだ。
「女に法は作れない」
つまり、「倫理」において(も)「女」は存在しない。
しかし現実に女はいるだろ、バーカ。
したがって、少なくとも法的な意味での「倫理」は、現実的なものではない。
むしろ「女」が現実的ってことになってるだろうが、ラカン理論では。
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