「運動」のシニフィエ
2011/02/17/Thu
違和感というか不思議だ。というかよくわからん。異世界の人と話しているみたいだ。
結局ここだな。
=====
権利主義的でない「運動」が可能か、どうかは、わからない。
=====
「政治運動」=「運動」か。
自由連想として、理系のわたしなんかは「運動」と言われると、まず物理的なイメージが惹起する。ぱっと浮かぶのは「ブラウン運動」。谷山浩子『魔法使いの恋人が逃げた』における「人たちはそれぞれ別々の舟、ときに近よりまた遠ざかる」だ。
「運動」という単語のイメージとして、エントロピー増大的なイメージがある。
そうだな。
わたしは散々このブログで「わたしの言葉は他の多くと人とシニフィエが違う」と言ってきた。
「運動」もそうだ。
他の人たちは「運動」というと、この人みたいに「社会運動」を連想したり、そうではない物理的イメージでも、たとえば「川の流れ」のごとき、ネゲントロピー的イメージを連想する。
もうここが違う。わたしからすれば別人種だ。
シニフィエが違うのだから、会話が成立するわけがない。
むしろこのシニフィエの違いを無視することが、会話が成立するということだ。わたしにとって。
あ、一応注意しておくと、このイメージは、拡散ではあるが「均一的な拡散」ではないことに注意。均一に拡散すればそれはすでにネゲントロピーだ。
局所的にエントロピーが減少する場もある。
それらを含めた「拡がり」だ。この記事から。
=====
去勢されてない赤ん坊にとって死の欲動即ちエントロピー増大も生の欲動即ちネゲントロピーも両方ある。せめぎ合っている。たとえば宇宙空間を考えてみよう。エントロピー増大の法則に従って粒子たちはエントロピーの大きい状態にあるが、局所的に見れば、たとえば複数の粒子が衝突し大きな質量の粒子になり万有引力によって他の小さな粒子を引き寄せ星になることがある。この星周辺に限ってはエントロピーが減少している。ネゲントロピーが存在する。エントロピー増大とネゲントロピーがせめぎ合っている。
=====
わたしは別に「社会運動」や「川の流れ」を否定しているわけではない。
ただ「それは局所的なものだろ」と言っているだけ。
そういえば柄谷って「プラネタリー」とか言ってなかったっけ。「胡散臭い」としか思わなかったけど。
「惑星」じゃなくて「宇宙」だよ、バーカ。
「宇宙」も胡散臭いがな。
また、それは「収縮」してもよい。「収縮」とネゲントロピーは別物だ。
たとえば、ゴムの弾性なんてそうだぞ。伸びているときの方が分子構造は規則的になる。ゴムは「収縮」しているときすなわち弛緩しているときの方が分子構造は規則的ではない。
「自ずと然り」ってなこういうことだ。
作為と自然。
そゆことかな。
この場合の「運動」は作為だ。自然ではない。
フーコーはわたし生理的に嫌いだったからほとんど読んでなくてよくわかんないけれど、「死の欲動が倫理となる」ってのは、どうだったのだろうかね。
作為というか、人為の果てに自然がある、という意味かね。
そりゃそうだろ。人間だって自然の産物なんだから。
ただし、エディプスコンプレックスは自然の理ではない。
そうしたのがフロイトなわけだろ。
ああそうそう言い忘れてた。
=====
そうはいっても人は「主人の言説」「知の言説」を捨てて「芸術」ばかりやっているわけにはいかない。
=====
そこは「人」じゃなくて「男」だろ、ラカニアンなら。
いやただのギャグです。
あ、一応。
=====
自分の言葉が他人の言葉とは違った意味を担っているとする錯覚である。
=====
ここはラカニアンなら「自分の言葉が他人の言葉と同じ意味を担っているとすることが錯覚である(現実ではない)」と言うべきところだろ。
あれか、「倒錯」で精神分析やってるだけか。なんとなくわかった。
それと、
=====
議会では、物理学用語の「運動」だの「抵抗」だのがそのまま情勢判断の流行語となり、そんなわけのわららぬ言葉を口にする連中の演説は、「手相見のわけのわからぬおまじないだ」と小説家バルザックを嘆かせる。
=====
そうそうこの辺。だから蓮實重彦が嫌い。「議会」にいるのはどっちだよ、と。お前政治が大好きじゃん、と。「説話論的磁場」にしがみついているのは議員たちだろうが。
そこに「物理学用語の「運動」だの「抵抗」だの」を使っている科学者はいない。
彼の主観世界に「魔女としての科学者」は存在しないのだろう。理系を軽視した彼の大学政治からもそうであることがうかがえる。
ねえねえ、質問なんだけど、今しているこういった会話も「議会」の発言なわけ?
もしそうなら、「議会」で「科学である精神分析」用語を使っているわけだから、その文章が「議会では、物理学用語の「運動」だの「抵抗」だのがそのまま情勢判断の流行語となり、そんなわけのわららぬ言葉を口にする連中の演説」だとならないか?
ごめん、「科学である精神分析」をやってる人だと思ってたよ。わたしの勘違い。
大学は、学問の議論をする場は、「議会」じゃないぞ。
蓮實は「議会」の一員である自分についての自己批判をしている、とも言えるが、自己批判に他人を巻き込むなよ。だから「倒錯」なんだよ。
他者のためにする自己批判は自己批判ではない。字義通りに考えたらそうだろ。
彼は大学を「議会」化することで、「魔女としての学者」を殺してきたのだ、とも言える。
では「学問の議論をする場」とは、と言うとぱっと浮かぶのが「大学のディスクール」なわけだが、あたしあれ違うと思うんだよな。真理にファルスがあるだろ? この記事から。
=====
「学者は真理を探究しているのではない。ただ目の前にある物質を研究するのみ。その結果真理が見えてくる場合もあろう。しかし先に真理を追い求めるのは間違っている。真理はあとからついてくるものだ。特に哲学者などはここを理解できていない。」
=====
なので、向井雅明の言う「精神分析家同士のディスクールはヒステリーのディスクールであるべきだ」ってのが近いように思える。「精神分析家」のところに「魔女としての学者」を代入すればよい。
あ、なんかすげえしっくりwww
研究室の中の学者同士の議論なんてそういうもんだろ。
あ、ごめん。
=====
ここはラカニアンなら「自分の言葉が他人の言葉と同じ意味を担っているとすることが錯覚である(現実ではない)」と言うべきところだろ。
=====
これ自分で言っているのな。ここんところ。
=====
あらかじめ翻訳を禁じられているものへと向かう翻訳への意志がなお意志として維持されうるのは、あくまでこうした錯覚の内部においてである。
=====
「翻訳」ってのは「「自分の言葉が他人の言葉と同じ意味を担っているとすること」だよな。それは「自分の言葉が他人の言葉とは違った意味を担っているとする錯覚」の内部にあるものだ、ってことか。
自分の言葉の意味と他人の言葉の意味は、大体同じであることはあっても、完全に同じにはならないだろ。現実的に。意味自体が主観による妄想なんだから。
だとすれば「自分の言葉が他人の言葉とは違った意味を担っているとする錯覚」は、ラカン的な現実を反映した錯覚だ、とも言えような。
『物語批判序説』は読んだんだけどあんまり覚えていないんだが、その文脈で「自分の言葉が他人の言葉とは違った意味を担っているとする錯覚」をしている人ってのは、「私の言葉は下々のお前らより高等な言葉だ」って言う感じの人なんだろうな、と思った。つまりパラノイアックな人。
パラノイアもスキゾフレニーもラカン的な意味での現実に向かってるんだよね。
『物語批判序説』とか渡邊守章にしてみれば、観劇が終わって高級なバーで垂れ流されている評論家の講釈にすぎないだろうな。
その頃演出家は劇場内に残って作業着のまま役者やスタッフにダメダシをしているだろう。
いや当時バリバリ演劇人だったしね。そんな印象しかなかった。
あと、
=====
が、彼(ラカン)はまず身ぶり(身体の表現)を、その次に観念(文化の、テクスト関連の、表現)を、見つける。
=====
これはそうだと思うよ。「私は臨床家である」だからな。患者の「身ぶり」を見ている。
渡邊もそうだ。その「身ぶり」をしている臨床素材が精神疾患者ではなく演者なだけで。
蓮實は違う。そこで書かれている通り。
=====
ともかく、脳内解釈だけを先に主張してしまうのが、まずいんじゃないか。
=====
蓮實の思考には、徹底的に「臨床の知」(ばーい中村雄二郎)が欠けている。
対象に纏わる意味・シンボルしか見ていない。意味やシンボルだけで文学も演劇も成り立っているわけではないのに。
もしそうならもっとスタッフの仕事なんて軽視されているだろう。たとえば礼拝堂の舞台装置など、観客にそうだと思わせればいいのだから、意味が通じればいいのだから、書割で充分だ。照明など凝る必要もない。
そういう話だろうな。
結局ここだな。
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権利主義的でない「運動」が可能か、どうかは、わからない。
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「政治運動」=「運動」か。
自由連想として、理系のわたしなんかは「運動」と言われると、まず物理的なイメージが惹起する。ぱっと浮かぶのは「ブラウン運動」。谷山浩子『魔法使いの恋人が逃げた』における「人たちはそれぞれ別々の舟、ときに近よりまた遠ざかる」だ。
「運動」という単語のイメージとして、エントロピー増大的なイメージがある。
そうだな。
わたしは散々このブログで「わたしの言葉は他の多くと人とシニフィエが違う」と言ってきた。
「運動」もそうだ。
他の人たちは「運動」というと、この人みたいに「社会運動」を連想したり、そうではない物理的イメージでも、たとえば「川の流れ」のごとき、ネゲントロピー的イメージを連想する。
もうここが違う。わたしからすれば別人種だ。
シニフィエが違うのだから、会話が成立するわけがない。
むしろこのシニフィエの違いを無視することが、会話が成立するということだ。わたしにとって。
あ、一応注意しておくと、このイメージは、拡散ではあるが「均一的な拡散」ではないことに注意。均一に拡散すればそれはすでにネゲントロピーだ。
局所的にエントロピーが減少する場もある。
それらを含めた「拡がり」だ。この記事から。
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去勢されてない赤ん坊にとって死の欲動即ちエントロピー増大も生の欲動即ちネゲントロピーも両方ある。せめぎ合っている。たとえば宇宙空間を考えてみよう。エントロピー増大の法則に従って粒子たちはエントロピーの大きい状態にあるが、局所的に見れば、たとえば複数の粒子が衝突し大きな質量の粒子になり万有引力によって他の小さな粒子を引き寄せ星になることがある。この星周辺に限ってはエントロピーが減少している。ネゲントロピーが存在する。エントロピー増大とネゲントロピーがせめぎ合っている。
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わたしは別に「社会運動」や「川の流れ」を否定しているわけではない。
ただ「それは局所的なものだろ」と言っているだけ。
そういえば柄谷って「プラネタリー」とか言ってなかったっけ。「胡散臭い」としか思わなかったけど。
「惑星」じゃなくて「宇宙」だよ、バーカ。
「宇宙」も胡散臭いがな。
また、それは「収縮」してもよい。「収縮」とネゲントロピーは別物だ。
たとえば、ゴムの弾性なんてそうだぞ。伸びているときの方が分子構造は規則的になる。ゴムは「収縮」しているときすなわち弛緩しているときの方が分子構造は規則的ではない。
「自ずと然り」ってなこういうことだ。
作為と自然。
そゆことかな。
この場合の「運動」は作為だ。自然ではない。
フーコーはわたし生理的に嫌いだったからほとんど読んでなくてよくわかんないけれど、「死の欲動が倫理となる」ってのは、どうだったのだろうかね。
作為というか、人為の果てに自然がある、という意味かね。
そりゃそうだろ。人間だって自然の産物なんだから。
ただし、エディプスコンプレックスは自然の理ではない。
そうしたのがフロイトなわけだろ。
ああそうそう言い忘れてた。
=====
そうはいっても人は「主人の言説」「知の言説」を捨てて「芸術」ばかりやっているわけにはいかない。
=====
そこは「人」じゃなくて「男」だろ、ラカニアンなら。
いやただのギャグです。
あ、一応。
=====
自分の言葉が他人の言葉とは違った意味を担っているとする錯覚である。
=====
ここはラカニアンなら「自分の言葉が他人の言葉と同じ意味を担っているとすることが錯覚である(現実ではない)」と言うべきところだろ。
あれか、「倒錯」で精神分析やってるだけか。なんとなくわかった。
それと、
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議会では、物理学用語の「運動」だの「抵抗」だのがそのまま情勢判断の流行語となり、そんなわけのわららぬ言葉を口にする連中の演説は、「手相見のわけのわからぬおまじないだ」と小説家バルザックを嘆かせる。
=====
そうそうこの辺。だから蓮實重彦が嫌い。「議会」にいるのはどっちだよ、と。お前政治が大好きじゃん、と。「説話論的磁場」にしがみついているのは議員たちだろうが。
そこに「物理学用語の「運動」だの「抵抗」だの」を使っている科学者はいない。
彼の主観世界に「魔女としての科学者」は存在しないのだろう。理系を軽視した彼の大学政治からもそうであることがうかがえる。
ねえねえ、質問なんだけど、今しているこういった会話も「議会」の発言なわけ?
もしそうなら、「議会」で「科学である精神分析」用語を使っているわけだから、その文章が「議会では、物理学用語の「運動」だの「抵抗」だのがそのまま情勢判断の流行語となり、そんなわけのわららぬ言葉を口にする連中の演説」だとならないか?
ごめん、「科学である精神分析」をやってる人だと思ってたよ。わたしの勘違い。
大学は、学問の議論をする場は、「議会」じゃないぞ。
蓮實は「議会」の一員である自分についての自己批判をしている、とも言えるが、自己批判に他人を巻き込むなよ。だから「倒錯」なんだよ。
他者のためにする自己批判は自己批判ではない。字義通りに考えたらそうだろ。
彼は大学を「議会」化することで、「魔女としての学者」を殺してきたのだ、とも言える。
では「学問の議論をする場」とは、と言うとぱっと浮かぶのが「大学のディスクール」なわけだが、あたしあれ違うと思うんだよな。真理にファルスがあるだろ? この記事から。
=====
「学者は真理を探究しているのではない。ただ目の前にある物質を研究するのみ。その結果真理が見えてくる場合もあろう。しかし先に真理を追い求めるのは間違っている。真理はあとからついてくるものだ。特に哲学者などはここを理解できていない。」
=====
なので、向井雅明の言う「精神分析家同士のディスクールはヒステリーのディスクールであるべきだ」ってのが近いように思える。「精神分析家」のところに「魔女としての学者」を代入すればよい。
あ、なんかすげえしっくりwww
研究室の中の学者同士の議論なんてそういうもんだろ。
あ、ごめん。
=====
ここはラカニアンなら「自分の言葉が他人の言葉と同じ意味を担っているとすることが錯覚である(現実ではない)」と言うべきところだろ。
=====
これ自分で言っているのな。ここんところ。
=====
あらかじめ翻訳を禁じられているものへと向かう翻訳への意志がなお意志として維持されうるのは、あくまでこうした錯覚の内部においてである。
=====
「翻訳」ってのは「「自分の言葉が他人の言葉と同じ意味を担っているとすること」だよな。それは「自分の言葉が他人の言葉とは違った意味を担っているとする錯覚」の内部にあるものだ、ってことか。
自分の言葉の意味と他人の言葉の意味は、大体同じであることはあっても、完全に同じにはならないだろ。現実的に。意味自体が主観による妄想なんだから。
だとすれば「自分の言葉が他人の言葉とは違った意味を担っているとする錯覚」は、ラカン的な現実を反映した錯覚だ、とも言えような。
『物語批判序説』は読んだんだけどあんまり覚えていないんだが、その文脈で「自分の言葉が他人の言葉とは違った意味を担っているとする錯覚」をしている人ってのは、「私の言葉は下々のお前らより高等な言葉だ」って言う感じの人なんだろうな、と思った。つまりパラノイアックな人。
パラノイアもスキゾフレニーもラカン的な意味での現実に向かってるんだよね。
『物語批判序説』とか渡邊守章にしてみれば、観劇が終わって高級なバーで垂れ流されている評論家の講釈にすぎないだろうな。
その頃演出家は劇場内に残って作業着のまま役者やスタッフにダメダシをしているだろう。
いや当時バリバリ演劇人だったしね。そんな印象しかなかった。
あと、
=====
が、彼(ラカン)はまず身ぶり(身体の表現)を、その次に観念(文化の、テクスト関連の、表現)を、見つける。
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これはそうだと思うよ。「私は臨床家である」だからな。患者の「身ぶり」を見ている。
渡邊もそうだ。その「身ぶり」をしている臨床素材が精神疾患者ではなく演者なだけで。
蓮實は違う。そこで書かれている通り。
=====
ともかく、脳内解釈だけを先に主張してしまうのが、まずいんじゃないか。
=====
蓮實の思考には、徹底的に「臨床の知」(ばーい中村雄二郎)が欠けている。
対象に纏わる意味・シンボルしか見ていない。意味やシンボルだけで文学も演劇も成り立っているわけではないのに。
もしそうならもっとスタッフの仕事なんて軽視されているだろう。たとえば礼拝堂の舞台装置など、観客にそうだと思わせればいいのだから、意味が通じればいいのだから、書割で充分だ。照明など凝る必要もない。
そういう話だろうな。
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