ノニジュースって一回飲んでみたい。
2011/02/23/Wed
この記事に書かれている詩。わたしは感銘もなくただ「ふうん」となるだけだが。
最後の文章。
=====
たくさんの男(ひと)を知りながら
ついに一人の異性にさえ逢えない女(ひと)も多いのに
=====
「一人」である必要があるのだろうか?
この詩で謳われているのは、「たった一人の男」の中に「たくさんの異性」を見出していることだ。
筆者が歌いたいのは「たくさんの異性」だ。
ならば、なぜ「一人の男」である必要がある?
「たくさんの男」を知って「たくさんの異性」と出逢うこともあるだろう。
「たくさんの異性」は知っているが、それが「一人の男」ではなかった、というだけの話ではないだろうか。
なのになぜ「のに」になるんだ?
ここがわからない。「のに」がわからない。
「たくさんの男を知ってたくさんの異性と出逢う女」も、このババアにとっては「異性」なのだろう。
このババアの「異性」に対する知識は不十分だ。
しかし、一人の人間の中に、にさまざまな(ジェンダー論的意味からさらに拡大して、「性質」という意味での)「異なる性」がある、というのは精神分析でも言われていることだ。
「主体は分裂している」
一人に一つの特定の「性」を期待するのが間違っている、という意味では、この詩に賛同しなくもない。
一人の中に無数の「異なる性」がある。
しかしそれは多数の人間を相手にしている場合も同じである。
このとき(有限の中の)「無限の性」が(その外部の)「無限の性」と相関している。イメージ的には複雑系の世界と照応するだろう。
そういう話じゃないの? 何が「のに」なのだろう?
さっぱりわからん。
まあ「無限が無限と相関している」状態なんてまったく心地よいものなんかじゃないけどな。
無限かける無限なんだから、迷子になる。
混乱する。
被害妄想になる。
ああ、適当にリンクしたけど、大野さんにケンカ売ってるときの方がわたしいいこと言っているじゃん。
ケンカしなければ脳みそが回転しない人だと思ってください。どうもすみません。
コンラン、サンラン、イッコンニコンサンコンデース。
「引用の散乱」じゃないよな、基本。本当に「散乱」ならもっと癒されたろうに。
この引用の隙間には、心の奥底で作為が、ネゲントロピーが垣間見える。
あ、でも「散乱してるな」ってときもあるから、見てる。
ネット自体が全体で見れば本当の「引用の散乱」だしな。
癒されない局所的な部分もあるが、全体として癒されている気がする。
ラカン理論や哲学は別にそいつの「イマジネール恐怖症」から目をそらさせるためにあるんじゃないぞ。
対象関係論だって逆にそうだ。「イマジネールへの欲望」を煽るためにあるのではない。
まあ確かに、対象関係論者の多くは自分の「イマジネールへの欲望」を肯定するためにそう言っている、って気はするがな。ここだろ、ひっかかるのは。
それはわからなくもない。そんな対象関係論者にはわたしはこう言うだろう。「問題にしているのは(学説ではなく)お前の症状だ」と。
おっぱいはお父ちゃんのためにあるんやないでえ。
その理論についてと相手の症状についての嫌悪を混同してないか? それらは別物だろ。
わたしは、「イマジネールをシニフィアンで(象徴するのではなく)解体する道具」として、ラカン理論よりクライン派を評価しているんだけどな。
言葉を言葉で解体する、シンボルをシニフィアンで解体する過程において、対象関係論が主に論じている二者関係は非常に重要なポイントであると思う。科学としての言語学の研究対象物である「言語」が「大文字の他者」になってしまうのは、この過程が原因となっている。ラカンはここを対象aと鏡像段階などという概念で「象徴してしまった」。いやこの象徴化自体はすげーと思うけど。ラカンもクラインもすごい。
って「解体」は「欲望」になるの? 生まれたばかりの子犬をいじくり倒して殺しかけたりするのは、ラカン的な意味での「欲望」? 鏡像関係としての「欲望のシーソー」がわたしと子犬のあいだにあったわけ?
まあ「欲望」ゆえに「解体」するってのもありうるかもしれんが。
そこに鏡像関係があるかないか、対象aが奥底にあるかないかだろ、それが「欲望」になるかどうかは。ラカン的には(この解体はクラインにはないな、確かに)。
子供の頃のわたしと子犬とは鏡像関係だったのかねえ。
人形とかもよく分解して遊んでいたのだが、まあそれは状況的に鏡像的とは言えるだろうな。
でもここら辺考えるとどうしてもクラインの「部分対象」に帰着してしまう。「男」たちが最終的に「父」に帰着するのと同じか。
んー。
「天才臓物商人」か。いいフレーズだ(笑)。わたしは生まれつきそうらすい。
わたしが化粧をするのは、すっぴんだと目立つからです。
注目されたくないから化粧しているのです。
「子犬をいじくり倒して殺しかけた」という素顔を隠すために。
わたしは今でもそうです。
わたしにとっての言語とは化粧と同じです。
イマジネールを言葉で語るのが問題なんじゃない。(言語学の研究対象物としてではなく大文字の他者としての)言語に常にすでに潜在しているイマジネールが問題なのだ。
ラカンはここを主張している。ここを忘れがちなのが対象関係論者たちだ、とも言えよう。
しかし両方間違っている。
斜線がひかれていないエスに作用するのは、「大文字の他者」ではなく、「大文字の物」である。
多くのラカニアンがしているここの勘違いが、ラカン理論が分裂病を解釈できない原因であると思う。ラカニアンたちは(新宮一成もそうである)みんな分裂病を神経症理論でしか解釈できない。
むしろ、「大文字や小文字の他者」になりきれなかった「大文字の物」たち。
分裂病者たちは、それを知っているからこそ、(未完成な)「大文字や小文字の他者」を恐れる。
最後の文章。
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たくさんの男(ひと)を知りながら
ついに一人の異性にさえ逢えない女(ひと)も多いのに
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「一人」である必要があるのだろうか?
この詩で謳われているのは、「たった一人の男」の中に「たくさんの異性」を見出していることだ。
筆者が歌いたいのは「たくさんの異性」だ。
ならば、なぜ「一人の男」である必要がある?
「たくさんの男」を知って「たくさんの異性」と出逢うこともあるだろう。
「たくさんの異性」は知っているが、それが「一人の男」ではなかった、というだけの話ではないだろうか。
なのになぜ「のに」になるんだ?
ここがわからない。「のに」がわからない。
「たくさんの男を知ってたくさんの異性と出逢う女」も、このババアにとっては「異性」なのだろう。
このババアの「異性」に対する知識は不十分だ。
しかし、一人の人間の中に、にさまざまな(ジェンダー論的意味からさらに拡大して、「性質」という意味での)「異なる性」がある、というのは精神分析でも言われていることだ。
「主体は分裂している」
一人に一つの特定の「性」を期待するのが間違っている、という意味では、この詩に賛同しなくもない。
一人の中に無数の「異なる性」がある。
しかしそれは多数の人間を相手にしている場合も同じである。
このとき(有限の中の)「無限の性」が(その外部の)「無限の性」と相関している。イメージ的には複雑系の世界と照応するだろう。
そういう話じゃないの? 何が「のに」なのだろう?
さっぱりわからん。
まあ「無限が無限と相関している」状態なんてまったく心地よいものなんかじゃないけどな。
無限かける無限なんだから、迷子になる。
混乱する。
被害妄想になる。
ああ、適当にリンクしたけど、大野さんにケンカ売ってるときの方がわたしいいこと言っているじゃん。
ケンカしなければ脳みそが回転しない人だと思ってください。どうもすみません。
コンラン、サンラン、イッコンニコンサンコンデース。
「引用の散乱」じゃないよな、基本。本当に「散乱」ならもっと癒されたろうに。
この引用の隙間には、心の奥底で作為が、ネゲントロピーが垣間見える。
あ、でも「散乱してるな」ってときもあるから、見てる。
ネット自体が全体で見れば本当の「引用の散乱」だしな。
癒されない局所的な部分もあるが、全体として癒されている気がする。
ラカン理論や哲学は別にそいつの「イマジネール恐怖症」から目をそらさせるためにあるんじゃないぞ。
対象関係論だって逆にそうだ。「イマジネールへの欲望」を煽るためにあるのではない。
まあ確かに、対象関係論者の多くは自分の「イマジネールへの欲望」を肯定するためにそう言っている、って気はするがな。ここだろ、ひっかかるのは。
それはわからなくもない。そんな対象関係論者にはわたしはこう言うだろう。「問題にしているのは(学説ではなく)お前の症状だ」と。
おっぱいはお父ちゃんのためにあるんやないでえ。
その理論についてと相手の症状についての嫌悪を混同してないか? それらは別物だろ。
わたしは、「イマジネールをシニフィアンで(象徴するのではなく)解体する道具」として、ラカン理論よりクライン派を評価しているんだけどな。
言葉を言葉で解体する、シンボルをシニフィアンで解体する過程において、対象関係論が主に論じている二者関係は非常に重要なポイントであると思う。科学としての言語学の研究対象物である「言語」が「大文字の他者」になってしまうのは、この過程が原因となっている。ラカンはここを対象aと鏡像段階などという概念で「象徴してしまった」。いやこの象徴化自体はすげーと思うけど。ラカンもクラインもすごい。
って「解体」は「欲望」になるの? 生まれたばかりの子犬をいじくり倒して殺しかけたりするのは、ラカン的な意味での「欲望」? 鏡像関係としての「欲望のシーソー」がわたしと子犬のあいだにあったわけ?
まあ「欲望」ゆえに「解体」するってのもありうるかもしれんが。
そこに鏡像関係があるかないか、対象aが奥底にあるかないかだろ、それが「欲望」になるかどうかは。ラカン的には(この解体はクラインにはないな、確かに)。
子供の頃のわたしと子犬とは鏡像関係だったのかねえ。
人形とかもよく分解して遊んでいたのだが、まあそれは状況的に鏡像的とは言えるだろうな。
でもここら辺考えるとどうしてもクラインの「部分対象」に帰着してしまう。「男」たちが最終的に「父」に帰着するのと同じか。
んー。
「天才臓物商人」か。いいフレーズだ(笑)。わたしは生まれつきそうらすい。
わたしが化粧をするのは、すっぴんだと目立つからです。
注目されたくないから化粧しているのです。
「子犬をいじくり倒して殺しかけた」という素顔を隠すために。
わたしは今でもそうです。
わたしにとっての言語とは化粧と同じです。
イマジネールを言葉で語るのが問題なんじゃない。(言語学の研究対象物としてではなく大文字の他者としての)言語に常にすでに潜在しているイマジネールが問題なのだ。
ラカンはここを主張している。ここを忘れがちなのが対象関係論者たちだ、とも言えよう。
しかし両方間違っている。
斜線がひかれていないエスに作用するのは、「大文字の他者」ではなく、「大文字の物」である。
多くのラカニアンがしているここの勘違いが、ラカン理論が分裂病を解釈できない原因であると思う。ラカニアンたちは(新宮一成もそうである)みんな分裂病を神経症理論でしか解釈できない。
むしろ、「大文字や小文字の他者」になりきれなかった「大文字の物」たち。
分裂病者たちは、それを知っているからこそ、(未完成な)「大文字や小文字の他者」を恐れる。
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