お金のゴミ箱
2011/03/20/Sun
断っておくが、わたしは「助けるな」と言っているんじゃない。
それは本当に「助け」なのか? と問うているだけ。
たとえば、口では「見返りなんていらないよ」なんて言いながら、弱者を助けた奴がいたとしよう。
そいつは、本当に「見返りなどいらない」と思っているのか。
笑顔で「ありがとう」と言われることを望んでいないか。
自分にへりくだった態度をする弱者の姿を求めていないか。
そう言われることで、そういった態度をされることで、お前の心にとっての、なんらかの報酬を得ていないか。
もし、本当に「見返りなどいらない」と思うなら、「ありがとう」と言わなくても、へりくだらなくても、そいつはなんとも思わないはずだ。
しかし、大概の人間は、弱者のそういった言葉や態度がないと、不愉快に思うだろう。
その時点でそれは「助け」ではない。「取引」だ。
「見返りなどいらない」と言うのは、嘘だ。
物乞いの老婆が独り言を言っている。
助けられて「ありがとう」も言えない、へりくだった態度もできない奴なんか、人間としておかしい。
おかしいよ。「取引」を裏切っているんだから。
ただ、お前らも「これは取引ではない」などと言って詐欺を犯している。
お前らも人間としておかしい。
「純粋贈与」の困難さ。
お前たちはまずそれを自覚しろ。
「ありがとう」と言われなくて、へりくだってくれなくて、むっとするお前の症状が、この困難さを示している。
ときどきねえ、わりと大きなお金をいれてくる人がいるんだよ。
そういう奴らは多分、うしろめたいことがあるんだろうねえ。
わたしにお金を払うことで、なんらかの許しを得ようとしているんだろうねえ。
そういう奴らはほんと意地汚いと思うよ。あたしなんかに言われたかないだろうけどさ。
でもさ。人間そんな奴らばかりじゃないと思うんだよ。
たとえばさ、ポケットに入れておいた小銭を、そのときたまたま邪魔に思って、たまたまあたしがいて、このカンカンにその小銭を放り投げた奴なんかは。
そういう奴らは別に許しを求めちゃいないだろうね。
奴らはただ小銭が邪魔だったから捨てただけ。
いやあたしも昔は多少いい暮らししてたからね。
そういうのがいい。
あたしはお金のゴミ箱なんだよ。
ゴミ箱なのに、そこから何か取り出そうとする奴らも、乞食と変わらないんじゃないかい?
ほれ、あんちゃんも、お金を捨てていかないかい?
あたしというお金のゴミ箱に。
「ありがとう」なんてもちろん言わないよ。
ゴミ箱がそんなこと言うわけないだろうが。
象徴的社会からも、想像的社会からも、落ちぶれることってのは、本当に難しいよ。
キチガイになんないと。
「象徴界か想像界か」なんて議論に囚われているようじゃ。
ラカンもあれだね。「精神分析家のあるべき欲望は純粋欲望ではない」とした時点で、精神分析家のあるべき姿はこの老婆のようなものだ、と認めちゃってるんだよな。
くだらない笑い話だ。
キチガイを分析したくば自分がキチガイになれ、って簡単な話なんじゃねえのかい。向井雅明の言う「精神分析家はヒステリーであれ」なんてのも。
精神分析を笑い話にしたくないからそう言えないだけで。
そりゃあさ、「ありがとう」と言うことやへりくだる態度を「取引だ」なんて言うのは、言われる方にとっちゃ「苛烈」だろうよ。
でもさ、象徴的社会からも想像的社会からも落ちぶれちゃうと、それは「苛烈」でもなんでもないんだよ。
ただそうであるだけ、になる。
「純粋贈与」など「至高」でもなんでもなく、ただお金をゴミ箱に捨てること、になる。
それだけ。
ちなみにこの物乞い老婆は、どこにでもある石を売っているんだよな。ここから。
=====
ババアが代わりに差し出すのは汚らしいただの小石だ。一ドルの価値もない。それを社会に役立つものへと磨き上げるのは、お前らだ。その物乞いババアを、自分の気に入らないところまでも映し出す真実の鏡と見るかは、お前ら次第だ。
=====
今日見たテレビで柴田理恵が「うちの劇団多摩川で拾った石を売ろうって言って売れたんだよ」って話をしてたの思いだした。
さすがワハハ本舗。
マヨネーズが言ってる「脱臼」ってのはこういうことなんじゃねえのかい? まあその記事の間違いを指摘するなら、「脱臼させる愛」などと言っているがそれは「愛」などではない、ってことになるが。
ただそうやってることが「脱臼している」って思われるだけだがな。ワハハだって貧乏だからそうやっただけで。劇団の貧乏さってすごいからね。あたしがやってた頃もうワハハそこそこ売れてたけど。佐藤さんのなんかスズナリで見たな。
精神分析家の仕事ってな、このワハハがやってたような「多摩川で拾った石を売る」ことだよ。
お笑いって売れるとつまんなくなるところあるじゃん。
あれって、「ありがとう」って感謝の笑顔じゃない(つまり「愛」などではない)、お笑いが売ってる「笑い」は、そもそもが想像的社会かつ象徴的社会の外部に位置づけられるものだからだと思うんだよね。
お笑いの本質そのものが一銭の価値もないもの、ってこと。価値があると劣化する、ってこと。
だから「取引」の対象とならない。
そんな話じゃねえの。
仕事としての精神分析も、売ってるものはそういうものだと思うがなあ。
その物乞い老婆だって、小学生たちから笑われてたりするだろうよ。
「超自我=ユーモア」なんて甘っちょれえよ。想像界すらギャグにしねえと。
精神分析家の仕事を想像界方向にスライドさせたら熟女キャッツアイとかになるんじゃねえの。
象徴界からも想像界からも落ちこぼれたものを発見していく知の道具が精神分析なんだから。
ああそうか、だからわたしバタイユってギャグ小説だと思えたんだろうなあ。
ワハハ本舗っつかもちっとアナーキーな大人計画系のギャグ。
それは本当に「助け」なのか? と問うているだけ。
たとえば、口では「見返りなんていらないよ」なんて言いながら、弱者を助けた奴がいたとしよう。
そいつは、本当に「見返りなどいらない」と思っているのか。
笑顔で「ありがとう」と言われることを望んでいないか。
自分にへりくだった態度をする弱者の姿を求めていないか。
そう言われることで、そういった態度をされることで、お前の心にとっての、なんらかの報酬を得ていないか。
もし、本当に「見返りなどいらない」と思うなら、「ありがとう」と言わなくても、へりくだらなくても、そいつはなんとも思わないはずだ。
しかし、大概の人間は、弱者のそういった言葉や態度がないと、不愉快に思うだろう。
その時点でそれは「助け」ではない。「取引」だ。
「見返りなどいらない」と言うのは、嘘だ。
物乞いの老婆が独り言を言っている。
助けられて「ありがとう」も言えない、へりくだった態度もできない奴なんか、人間としておかしい。
おかしいよ。「取引」を裏切っているんだから。
ただ、お前らも「これは取引ではない」などと言って詐欺を犯している。
お前らも人間としておかしい。
「純粋贈与」の困難さ。
お前たちはまずそれを自覚しろ。
「ありがとう」と言われなくて、へりくだってくれなくて、むっとするお前の症状が、この困難さを示している。
ときどきねえ、わりと大きなお金をいれてくる人がいるんだよ。
そういう奴らは多分、うしろめたいことがあるんだろうねえ。
わたしにお金を払うことで、なんらかの許しを得ようとしているんだろうねえ。
そういう奴らはほんと意地汚いと思うよ。あたしなんかに言われたかないだろうけどさ。
でもさ。人間そんな奴らばかりじゃないと思うんだよ。
たとえばさ、ポケットに入れておいた小銭を、そのときたまたま邪魔に思って、たまたまあたしがいて、このカンカンにその小銭を放り投げた奴なんかは。
そういう奴らは別に許しを求めちゃいないだろうね。
奴らはただ小銭が邪魔だったから捨てただけ。
いやあたしも昔は多少いい暮らししてたからね。
そういうのがいい。
あたしはお金のゴミ箱なんだよ。
ゴミ箱なのに、そこから何か取り出そうとする奴らも、乞食と変わらないんじゃないかい?
ほれ、あんちゃんも、お金を捨てていかないかい?
あたしというお金のゴミ箱に。
「ありがとう」なんてもちろん言わないよ。
ゴミ箱がそんなこと言うわけないだろうが。
象徴的社会からも、想像的社会からも、落ちぶれることってのは、本当に難しいよ。
キチガイになんないと。
「象徴界か想像界か」なんて議論に囚われているようじゃ。
ラカンもあれだね。「精神分析家のあるべき欲望は純粋欲望ではない」とした時点で、精神分析家のあるべき姿はこの老婆のようなものだ、と認めちゃってるんだよな。
くだらない笑い話だ。
キチガイを分析したくば自分がキチガイになれ、って簡単な話なんじゃねえのかい。向井雅明の言う「精神分析家はヒステリーであれ」なんてのも。
精神分析を笑い話にしたくないからそう言えないだけで。
そりゃあさ、「ありがとう」と言うことやへりくだる態度を「取引だ」なんて言うのは、言われる方にとっちゃ「苛烈」だろうよ。
でもさ、象徴的社会からも想像的社会からも落ちぶれちゃうと、それは「苛烈」でもなんでもないんだよ。
ただそうであるだけ、になる。
「純粋贈与」など「至高」でもなんでもなく、ただお金をゴミ箱に捨てること、になる。
それだけ。
ちなみにこの物乞い老婆は、どこにでもある石を売っているんだよな。ここから。
=====
ババアが代わりに差し出すのは汚らしいただの小石だ。一ドルの価値もない。それを社会に役立つものへと磨き上げるのは、お前らだ。その物乞いババアを、自分の気に入らないところまでも映し出す真実の鏡と見るかは、お前ら次第だ。
=====
今日見たテレビで柴田理恵が「うちの劇団多摩川で拾った石を売ろうって言って売れたんだよ」って話をしてたの思いだした。
さすがワハハ本舗。
マヨネーズが言ってる「脱臼」ってのはこういうことなんじゃねえのかい? まあその記事の間違いを指摘するなら、「脱臼させる愛」などと言っているがそれは「愛」などではない、ってことになるが。
ただそうやってることが「脱臼している」って思われるだけだがな。ワハハだって貧乏だからそうやっただけで。劇団の貧乏さってすごいからね。あたしがやってた頃もうワハハそこそこ売れてたけど。佐藤さんのなんかスズナリで見たな。
精神分析家の仕事ってな、このワハハがやってたような「多摩川で拾った石を売る」ことだよ。
お笑いって売れるとつまんなくなるところあるじゃん。
あれって、「ありがとう」って感謝の笑顔じゃない(つまり「愛」などではない)、お笑いが売ってる「笑い」は、そもそもが想像的社会かつ象徴的社会の外部に位置づけられるものだからだと思うんだよね。
お笑いの本質そのものが一銭の価値もないもの、ってこと。価値があると劣化する、ってこと。
だから「取引」の対象とならない。
そんな話じゃねえの。
仕事としての精神分析も、売ってるものはそういうものだと思うがなあ。
その物乞い老婆だって、小学生たちから笑われてたりするだろうよ。
「超自我=ユーモア」なんて甘っちょれえよ。想像界すらギャグにしねえと。
精神分析家の仕事を想像界方向にスライドさせたら熟女キャッツアイとかになるんじゃねえの。
象徴界からも想像界からも落ちこぼれたものを発見していく知の道具が精神分析なんだから。
ああそうか、だからわたしバタイユってギャグ小説だと思えたんだろうなあ。
ワハハ本舗っつかもちっとアナーキーな大人計画系のギャグ。
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