疑え
2011/03/22/Tue
またまた野暮なつっこみ。この記事。いや大筋は「そーそーそーゆーことラカニアンとして一歩前進した(キチガイに近づいたとも言える)んじゃね君」って感じなんだけど。
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今回の災難の直後から、芸術、あるいは文学などの仕事に携わる人自身から、無力感を表出するような言葉が洩れ出ているのを散見するが、そもそも本来、優れた「芸術作品」は、この表象不可能なものへの苛立ちから生まれたものといってもよいかもしれない。
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であるならば、その「無力感を表出するような言葉が洩れ出ている」「芸術、あるいは文学などの仕事に携わる人」たちの芸術という仕事は、そうじゃなかったんだろうよ。
表象不可能なものへの苛立ちは、演繹すると表象不可能なものをいかに棄却するかという行動になる。わたしが「表象」に拘る奴らへの懐疑は大体ここから生まれる。倒錯はしょせん倒錯である。現実界を代替するものに到達するにすぎない。蓮實重彦なんかがそうだ。
表象不可能性とは、人間が表象するから表象不可能性となるのであって、表象不可能なものが元から持っている性質ではない。
要するに「表象不可能性」って言葉自体が表象だろうが、って話だ。
こうして倒錯者は「表象不可能なもの」という表象に囚われる。人間が表象するからそう言ってるだけなのに。
まああれだ、君はアーティストを信頼しすぎなんじゃねえの、って話だ。
表象不可能性を覆い隠すためだけの仕事をしている奴らだって多いよ。
そいつらは「苛立ち」などと言うと否認するだろうな。
つかお前東大の表象文化論行ってみろよ。肌で感じてみろよ。そらまあ松浦みたいなわかってそうなのもいるんだろうが。わたしにとってはそれが渡邊守章だっただけ。
全然奴ら「この表象不可能なものへの苛立ちから生まれたものといってもよいかもしれない。」じゃねえよ。内心「なんで渡邊は内ゲバしないんだろう」と不思議だったわ。蓮實の悲劇をコバカにした態度とか。何も言わずに去ったけどな。ほんと政治しねえ人だと思ったわ。なんだかんだ言って東大表象文化論はただの主人のディスクールです。
やっぱ芸術の現場やってない奴はだめだと心底思ったもん。現場スタッフなんかはてんてこまいでお前みたいにしたり顔で災害を考察している暇なんてないだろうな。
現場やってない奴が想像上の現場についてとやかく言っているだけ。
おー揺れてる揺れてる。つか長い。
結局さ、このブログ主の「大いなる他者」たる「大文字の他者」から解放されようとしている症状にすぎないんだよな。思春期の反抗期と構造は一緒。
おそらくラカンは、このブログ主の現在の症状から、精神分析をはじめたのではなかろうか。学生時代シュルレアリスムにはまってたんだろ、奴。
このブログ主の年齢は知らないが、悩みごとは少なく育ったんだろうな、と思うわ。「いやあった」とか言うんだろうが、それを隠蔽(抑圧)できてたんだろうな、と。
おぼっちゃんがにゃーにゃー鳴いてるだけ。蓮實もこのブログ主も。
簡単に言うとさ、お前松浦のテクストは、「知」であると同時に症状として読めているのかもしれないが(小説とはなべてその作家の症状だ)、蓮實はそう読めていたかい?
松浦も蓮實も言っていることは表象の有限性、表象外部の重要さだが、症状として読めば別であることもありうる。松浦は読み込んでいないからなんとも言えないが。
忙殺ってステキよ。
現実と妄想の軋轢という苦痛から、いっときは逃れられる。
現実の妄想への反抗。
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今回の災難の直後から、芸術、あるいは文学などの仕事に携わる人自身から、無力感を表出するような言葉が洩れ出ているのを散見するが、そもそも本来、優れた「芸術作品」は、この表象不可能なものへの苛立ちから生まれたものといってもよいかもしれない。
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であるならば、その「無力感を表出するような言葉が洩れ出ている」「芸術、あるいは文学などの仕事に携わる人」たちの芸術という仕事は、そうじゃなかったんだろうよ。
表象不可能なものへの苛立ちは、演繹すると表象不可能なものをいかに棄却するかという行動になる。わたしが「表象」に拘る奴らへの懐疑は大体ここから生まれる。倒錯はしょせん倒錯である。現実界を代替するものに到達するにすぎない。蓮實重彦なんかがそうだ。
表象不可能性とは、人間が表象するから表象不可能性となるのであって、表象不可能なものが元から持っている性質ではない。
要するに「表象不可能性」って言葉自体が表象だろうが、って話だ。
こうして倒錯者は「表象不可能なもの」という表象に囚われる。人間が表象するからそう言ってるだけなのに。
まああれだ、君はアーティストを信頼しすぎなんじゃねえの、って話だ。
表象不可能性を覆い隠すためだけの仕事をしている奴らだって多いよ。
そいつらは「苛立ち」などと言うと否認するだろうな。
つかお前東大の表象文化論行ってみろよ。肌で感じてみろよ。そらまあ松浦みたいなわかってそうなのもいるんだろうが。わたしにとってはそれが渡邊守章だっただけ。
全然奴ら「この表象不可能なものへの苛立ちから生まれたものといってもよいかもしれない。」じゃねえよ。内心「なんで渡邊は内ゲバしないんだろう」と不思議だったわ。蓮實の悲劇をコバカにした態度とか。何も言わずに去ったけどな。ほんと政治しねえ人だと思ったわ。なんだかんだ言って東大表象文化論はただの主人のディスクールです。
やっぱ芸術の現場やってない奴はだめだと心底思ったもん。現場スタッフなんかはてんてこまいでお前みたいにしたり顔で災害を考察している暇なんてないだろうな。
現場やってない奴が想像上の現場についてとやかく言っているだけ。
おー揺れてる揺れてる。つか長い。
結局さ、このブログ主の「大いなる他者」たる「大文字の他者」から解放されようとしている症状にすぎないんだよな。思春期の反抗期と構造は一緒。
おそらくラカンは、このブログ主の現在の症状から、精神分析をはじめたのではなかろうか。学生時代シュルレアリスムにはまってたんだろ、奴。
このブログ主の年齢は知らないが、悩みごとは少なく育ったんだろうな、と思うわ。「いやあった」とか言うんだろうが、それを隠蔽(抑圧)できてたんだろうな、と。
おぼっちゃんがにゃーにゃー鳴いてるだけ。蓮實もこのブログ主も。
簡単に言うとさ、お前松浦のテクストは、「知」であると同時に症状として読めているのかもしれないが(小説とはなべてその作家の症状だ)、蓮實はそう読めていたかい?
松浦も蓮實も言っていることは表象の有限性、表象外部の重要さだが、症状として読めば別であることもありうる。松浦は読み込んでいないからなんとも言えないが。
忙殺ってステキよ。
現実と妄想の軋轢という苦痛から、いっときは逃れられる。
現実の妄想への反抗。
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