現実と倒錯は別物
2011/03/23/Wed
あ、一応誰にともなく言っておくが、あたしこのブログにコメントしたことないからね。なんかコメントする気にならない。なんていうのかな、お笑いのステージに立っているお笑い芸人を客が舞台にあがってハリセンで叩くのはおかしいだろ。
客席で「あほかwww」ってつっこみを入れるのはありにしても。
はてさて。
=====
蓮實重彦批判が語られるときに、衒学的だからきらいとか、「表層的」「構造主義的」だから、とか、ひどいのになると家柄が良すぎるからきらい、東大総長になったからきらい、というのがある。
=====
あああたし「家柄が良すぎるからきらい、東大総長になったからきらい」だなあ、と思った。
「衒学的」は京極夏彦やら荒俣宏とか好きだし、根っからの「構造主義」者だし、演劇人ってことは「表層的」であることだし、そこら辺は別にどうでもいいんだよな。むしろあたしに近い。
ああ、近親憎悪なのかもな。近くにいるから奴との差異が目立つ。そして人間の心とは他者をコピーする傾向がある。結果、あたしの周りには「蓮實に似た人間」が増える。
いや我慢してたよ。そういうもんだって。でもそろそろ「ええ加減にせいや」と言ってもいいだろ、と。
さて、これをルサンチマンだと解釈してもらっても構わないんだが、一応自分で考えてみよう。
「東大総長になったからきらい」は簡単だ。
科学とは欲動であるのは君もこの記事で書いているよな。
で、蓮實は倒錯者である。
倒錯と欲動は別物だ。倒錯は欲動を目指すが欲動ではない。あくまで欲望の範疇で欲動に向かうことである。
欲動は欲望を脅かすものである。であるから科学者の態度はつねに「集団のリビドー的な構造」を脅かしている。
その仲介者としては、妥協的な態度ではあるのかもしれない。倒錯的であることとは。
しかし、その妥協が、科学の実践を、「リビドー的な構造」に支配された「集団」に対し、誤訳していくこととなる。
誤訳であることをよしとするのは学者としてだめだろ。
この時点で蓮實は東大総長になどなってはならなかった。
別に東大総長でもなく学者でもなければこんなおっさんいてもなんとも思わないんだがな。わたしに関係してこなければ。
また、このブログ主も主張している通り、「科学」も「不安」もラカン的な意味での現実的なものだ。しきりに繰り返されている「形式の亀裂」などもそういうものだ。
この現実的なものに対して、倒錯的であるこの態度は、自らの家柄のよさ、つまり自身がおぼっちゃんであることの否認だろう、と思える。
だから、「家柄が良すぎるからきらい、東大総長になったからきらい」だ。
家柄がよくていいじゃん。東大総長であってもいい。
彼のそれは、すべて自らの倒錯症状によるものだ。
蓮實のテクストはなべて「形式の亀裂を承認しようとする彼の症状」でしかない。
それは「去勢の否認を承認しよう」などと言っているようなことだ。
承認しなくても幸福ならしなくていいじゃん。機能的に考えて。
ラカン派はその理屈から蓮實の症状には批判的になるもんだと思っていたが、そうではないのがちょっとびっくりしたところもある。
あれか、「男のくせに女を(倒錯的に)欲望すんなよ」と言っているようなもんか。
結局さ、現実的な営為である科学に対し倒錯的に接するということは、会社で言えば研究所に対し倒錯的に接するということになる。
これ違うと思うんだよなあ。
研究所で行われた研究は、すべて道具として用いられなければならない。会社のためならば、利益を増やすための道具として用いられなければならない。
しかし、倒錯的に接するということは、道具として用いること以外の、なんらかのそいつの心的作用が影響している、ということだ。
東大総長なら、東大の理系の研究を、道具として用いればよかった。
そうではなく、倒錯的に接するところが、いわば蓮實が「対象関係論者」であったという証拠だ。
蓮實の脳内「形式の亀裂」から滲み出てくるものは、クラインが主に研究した「投影」による症状だろうな。
象徴界の穴から漏れてきたのは現実界ではなく想像界でした、って臨床的にはよくある話。フロイトの「嫉妬深い男」の話もそういうもんだろ。
簡単な話だよ。物にお前の心のなんらかをなすりつけんな、と言っているにすぎない。
わたしはこのブログが滑稽に見えてしょうがないんだよな。
だから「つっこみ」って言っているわけだ。ぼけにはつっこみがなくちゃだろ。
つかさー、「人物批評」こそが精神分析だろうが。「人物批評を精神分析的に行ってはならない」ってのは「臨床するな」と言っていることと同じだ。
この記事で言えば、
=====
彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。
=====
であり、これはパラノイア患者のことについてフロイトがそう述べているわけだが、「他人の無意識なもの」を解釈するのが精神分析の臨床でもあるだろ、って話だ。
そもそもさ、
=====
好きな女(男)と嫌いな女(男)がいて、蓮實はキライなタイプだ、といっている以上にはわからないことが多い。「神学的」でさえなく《私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」》(蓮實)にしか見えない。
=====
って会話のネタが、「なぜあなたは蓮實がきらいなのか。蓮實に対し自分はどうなのか」って話にならず、「神」なんて第三者が出てくるのかが理解できんわ。
なんかもう根本的な思考回路が違うんだなあ、としみじみ思った。
こう、「俺は煽られないよ」なんて笑って言う奴に限って煽りに弱いんだよな。
こいつもそんな感じ。
煽りに弱い自分の姿をさらけ出せばいいじゃん。
ブログなんだし。
蓮實もこいつも、本性は信仰者なのに、社会的に無神論的になっちゃったから、倒錯してみました、ってだけな気がするなあ。
最初から無神論者であればそんな動揺はしない。
つーか、
=====
上の例にあるように、間主観的な、あるいは鏡像関係の泥沼にはまってしまうのはウンザリだし、仲良しこよしの頷き合いだけにみえる井戸端会議風は鳥肌が立つ
=====
それ想像界の否認にすぎないじゃん。精神分析的でも芸術的でもまったくない。
現実を描きたければ、想像界も象徴界も否認しろ。現実から逃れたくば、想像界も象徴界も承認しろ。
逆に言えば、こいつの「対象関係論アレルギー」みたいな「想像界の否認」こそが、対象関係論の方がもっとラディカルなレベルで精神分析できる、って推測の一根拠にならんか? こいつにとって。
つか、
=====
この今の私の人格は「対象関係」論でもいいんだから、近いうちプレゼントあげるわ。
=====
「女言葉使えば想像界を承認できる」って単純な脳みそがうらやましいわ、と素で思えた。
どうでもいいことかもしれないが、
=====
だがすくなくとも70年代後半から80年代の蓮實重彦のテキストは、フーコー的倫理に限りなく近いものに思われるのだが。
=====
その時期って蓮實が教養学部長に就任して「東大改革」を加速させた時期の直前だよな。
「後年過度に倒錯的になった」以降の話をわたしはしている。
実際にその時期に接した人間として。
彼自身は「倒錯的」としているつもりだったその行動が、社会的には倒錯として認識してもらえなかった、って原因はあるのかもな。「過度に倒錯的になった」のは。
もしそうならば、彼はまず、自身の「倒錯性を積極的にうけいれる」戦略が失敗したという主観的事実を承認すべきだろう。
その「倒錯という戦略」は自らの否認という症状であったことを。
むしろ「倒錯性を積極的にうけいれる」ことで避けたつもりであった(つまり彼が倒錯ではないと考えていた)自身のその性質こそが、ラカン的に言えば、フーコー的男性同性愛的な倒錯だった、と。
韜晦にごまかされてるだけだろ。
どこかのコメントで「ラカンの文章はダンスしている」って書いたことあるんだけど、それはこのブログ主が主張する「『セミネール』はヒステリー症状だ」というのとほぼ同じ意味だとわたしは解釈している。
では蓮實の文章は。
ダンスしてないんだよな。韜晦はしているけど。ラカンも小難しい言い回しをしているが、あれはダンスだと思える。蓮實のはどう韜晦してもただの会話だ。
何が違うのか。
ラカンは「科学的欲動」を目指していたが、蓮實は「倒錯」で妥協した、って違いだろうな、と思った。
いやまあ、本じゃないところではぴょんぴょん飛び跳ねていた気はするけどね。蓮實も。
言葉はすべてダンスをするものだ。まずそれを承認すればいいのに、って話。
現実的な主体として語るとき、その言葉はすべて、象徴的構造を揺るがすがごときダンスとなる。アルトーが「残酷演劇」を思いついたがごときダンスとして。
「承認できない苦労を」なんて承認できていると思っている人間に言われてもな、と。
ああちなみに。
=====
世界も、映画も、それほど単純なものでは ない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、 「réel」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、 「réel」など論じてほしくない。
=====
わたしもジジェクは現実を語る資質はないと考えている。
だが、蓮實もそうだ、と言っている。
二人とも「大文字の他者主義者」だ。
わたしから見れば蓮實のこの文章は近親憎悪に見える。
わたし? わたしはメンヘラですけど。
どっちかましか、って言われると……あ、答えられねえな。どっちも語るな、と。芸術を語る資質がない、とだけ。
そこから「倒錯」だ、「遊戯」だ、って発想になるのかがわかんねえんだよな。
つか蓮實のこの「ジジェクに対する人物批判」を学術的にやりたければ、精神分析を学ぶべきだろ、って話でもあるな。
むしろ「ごく単純に言語記号の配置が読めない」から「表象不可能なもの」だろ。文脈が読めない自閉症などは正常人にとってそういうものとなるだろう。
お前は「読める」から「表象不可能なもの」にならない、ってだけの話だろ。
あと、このブログ主以前「蓮實ってバルト好きなんじゃねえの?」とかギャグっぽく言ってたが、そうだと思うわ。
バルトも「形式の亀裂」に対し、想像界で、つまり対象関係論的思想で救われたタイプだろ。
蓮實もなんだかんだ言ってそういうタイプだと思うんだよな。想像界と距離が取れていない人。金子邦彦とかと比べるとすごいわかりやすい。
お前とおんなじでな。
ああ、草野進も「女として書いておけば想像界を承認したことになる」って単純脳によるものか。
この二人にとって「女」とは、ラカンが「存在しない」と言った「女」、つまり現実的なものとしての「女」ではなく、想像的な「女」である。
そういう話だな。
あああとあたし記憶障害チックなところがあるって前にも書いたけど、そういうわけで、コメント非公開になると会話にならないって自信ががあるのよね。
むしろそういった非公開制のコメント欄に書き込むなんてことがわたしの精神衛生上よくないな。いやわたしについて言ったんじゃないかもしれないが。
だから書き込まない。
お、いい言い訳だ。
客席で「あほかwww」ってつっこみを入れるのはありにしても。
はてさて。
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蓮實重彦批判が語られるときに、衒学的だからきらいとか、「表層的」「構造主義的」だから、とか、ひどいのになると家柄が良すぎるからきらい、東大総長になったからきらい、というのがある。
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あああたし「家柄が良すぎるからきらい、東大総長になったからきらい」だなあ、と思った。
「衒学的」は京極夏彦やら荒俣宏とか好きだし、根っからの「構造主義」者だし、演劇人ってことは「表層的」であることだし、そこら辺は別にどうでもいいんだよな。むしろあたしに近い。
ああ、近親憎悪なのかもな。近くにいるから奴との差異が目立つ。そして人間の心とは他者をコピーする傾向がある。結果、あたしの周りには「蓮實に似た人間」が増える。
いや我慢してたよ。そういうもんだって。でもそろそろ「ええ加減にせいや」と言ってもいいだろ、と。
さて、これをルサンチマンだと解釈してもらっても構わないんだが、一応自分で考えてみよう。
「東大総長になったからきらい」は簡単だ。
科学とは欲動であるのは君もこの記事で書いているよな。
で、蓮實は倒錯者である。
倒錯と欲動は別物だ。倒錯は欲動を目指すが欲動ではない。あくまで欲望の範疇で欲動に向かうことである。
欲動は欲望を脅かすものである。であるから科学者の態度はつねに「集団のリビドー的な構造」を脅かしている。
その仲介者としては、妥協的な態度ではあるのかもしれない。倒錯的であることとは。
しかし、その妥協が、科学の実践を、「リビドー的な構造」に支配された「集団」に対し、誤訳していくこととなる。
誤訳であることをよしとするのは学者としてだめだろ。
この時点で蓮實は東大総長になどなってはならなかった。
別に東大総長でもなく学者でもなければこんなおっさんいてもなんとも思わないんだがな。わたしに関係してこなければ。
また、このブログ主も主張している通り、「科学」も「不安」もラカン的な意味での現実的なものだ。しきりに繰り返されている「形式の亀裂」などもそういうものだ。
この現実的なものに対して、倒錯的であるこの態度は、自らの家柄のよさ、つまり自身がおぼっちゃんであることの否認だろう、と思える。
だから、「家柄が良すぎるからきらい、東大総長になったからきらい」だ。
家柄がよくていいじゃん。東大総長であってもいい。
彼のそれは、すべて自らの倒錯症状によるものだ。
蓮實のテクストはなべて「形式の亀裂を承認しようとする彼の症状」でしかない。
それは「去勢の否認を承認しよう」などと言っているようなことだ。
承認しなくても幸福ならしなくていいじゃん。機能的に考えて。
ラカン派はその理屈から蓮實の症状には批判的になるもんだと思っていたが、そうではないのがちょっとびっくりしたところもある。
あれか、「男のくせに女を(倒錯的に)欲望すんなよ」と言っているようなもんか。
結局さ、現実的な営為である科学に対し倒錯的に接するということは、会社で言えば研究所に対し倒錯的に接するということになる。
これ違うと思うんだよなあ。
研究所で行われた研究は、すべて道具として用いられなければならない。会社のためならば、利益を増やすための道具として用いられなければならない。
しかし、倒錯的に接するということは、道具として用いること以外の、なんらかのそいつの心的作用が影響している、ということだ。
東大総長なら、東大の理系の研究を、道具として用いればよかった。
そうではなく、倒錯的に接するところが、いわば蓮實が「対象関係論者」であったという証拠だ。
蓮實の脳内「形式の亀裂」から滲み出てくるものは、クラインが主に研究した「投影」による症状だろうな。
象徴界の穴から漏れてきたのは現実界ではなく想像界でした、って臨床的にはよくある話。フロイトの「嫉妬深い男」の話もそういうもんだろ。
簡単な話だよ。物にお前の心のなんらかをなすりつけんな、と言っているにすぎない。
わたしはこのブログが滑稽に見えてしょうがないんだよな。
だから「つっこみ」って言っているわけだ。ぼけにはつっこみがなくちゃだろ。
つかさー、「人物批評」こそが精神分析だろうが。「人物批評を精神分析的に行ってはならない」ってのは「臨床するな」と言っていることと同じだ。
この記事で言えば、
=====
彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。
=====
であり、これはパラノイア患者のことについてフロイトがそう述べているわけだが、「他人の無意識なもの」を解釈するのが精神分析の臨床でもあるだろ、って話だ。
そもそもさ、
=====
好きな女(男)と嫌いな女(男)がいて、蓮實はキライなタイプだ、といっている以上にはわからないことが多い。「神学的」でさえなく《私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」》(蓮實)にしか見えない。
=====
って会話のネタが、「なぜあなたは蓮實がきらいなのか。蓮實に対し自分はどうなのか」って話にならず、「神」なんて第三者が出てくるのかが理解できんわ。
なんかもう根本的な思考回路が違うんだなあ、としみじみ思った。
こう、「俺は煽られないよ」なんて笑って言う奴に限って煽りに弱いんだよな。
こいつもそんな感じ。
煽りに弱い自分の姿をさらけ出せばいいじゃん。
ブログなんだし。
蓮實もこいつも、本性は信仰者なのに、社会的に無神論的になっちゃったから、倒錯してみました、ってだけな気がするなあ。
最初から無神論者であればそんな動揺はしない。
つーか、
=====
上の例にあるように、間主観的な、あるいは鏡像関係の泥沼にはまってしまうのはウンザリだし、仲良しこよしの頷き合いだけにみえる井戸端会議風は鳥肌が立つ
=====
それ想像界の否認にすぎないじゃん。精神分析的でも芸術的でもまったくない。
現実を描きたければ、想像界も象徴界も否認しろ。現実から逃れたくば、想像界も象徴界も承認しろ。
逆に言えば、こいつの「対象関係論アレルギー」みたいな「想像界の否認」こそが、対象関係論の方がもっとラディカルなレベルで精神分析できる、って推測の一根拠にならんか? こいつにとって。
つか、
=====
この今の私の人格は「対象関係」論でもいいんだから、近いうちプレゼントあげるわ。
=====
「女言葉使えば想像界を承認できる」って単純な脳みそがうらやましいわ、と素で思えた。
どうでもいいことかもしれないが、
=====
だがすくなくとも70年代後半から80年代の蓮實重彦のテキストは、フーコー的倫理に限りなく近いものに思われるのだが。
=====
その時期って蓮實が教養学部長に就任して「東大改革」を加速させた時期の直前だよな。
「後年過度に倒錯的になった」以降の話をわたしはしている。
実際にその時期に接した人間として。
彼自身は「倒錯的」としているつもりだったその行動が、社会的には倒錯として認識してもらえなかった、って原因はあるのかもな。「過度に倒錯的になった」のは。
もしそうならば、彼はまず、自身の「倒錯性を積極的にうけいれる」戦略が失敗したという主観的事実を承認すべきだろう。
その「倒錯という戦略」は自らの否認という症状であったことを。
むしろ「倒錯性を積極的にうけいれる」ことで避けたつもりであった(つまり彼が倒錯ではないと考えていた)自身のその性質こそが、ラカン的に言えば、フーコー的男性同性愛的な倒錯だった、と。
韜晦にごまかされてるだけだろ。
どこかのコメントで「ラカンの文章はダンスしている」って書いたことあるんだけど、それはこのブログ主が主張する「『セミネール』はヒステリー症状だ」というのとほぼ同じ意味だとわたしは解釈している。
では蓮實の文章は。
ダンスしてないんだよな。韜晦はしているけど。ラカンも小難しい言い回しをしているが、あれはダンスだと思える。蓮實のはどう韜晦してもただの会話だ。
何が違うのか。
ラカンは「科学的欲動」を目指していたが、蓮實は「倒錯」で妥協した、って違いだろうな、と思った。
いやまあ、本じゃないところではぴょんぴょん飛び跳ねていた気はするけどね。蓮實も。
言葉はすべてダンスをするものだ。まずそれを承認すればいいのに、って話。
現実的な主体として語るとき、その言葉はすべて、象徴的構造を揺るがすがごときダンスとなる。アルトーが「残酷演劇」を思いついたがごときダンスとして。
「承認できない苦労を」なんて承認できていると思っている人間に言われてもな、と。
ああちなみに。
=====
世界も、映画も、それほど単純なものでは ない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、 「réel」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、 「réel」など論じてほしくない。
=====
わたしもジジェクは現実を語る資質はないと考えている。
だが、蓮實もそうだ、と言っている。
二人とも「大文字の他者主義者」だ。
わたしから見れば蓮實のこの文章は近親憎悪に見える。
わたし? わたしはメンヘラですけど。
どっちかましか、って言われると……あ、答えられねえな。どっちも語るな、と。芸術を語る資質がない、とだけ。
そこから「倒錯」だ、「遊戯」だ、って発想になるのかがわかんねえんだよな。
つか蓮實のこの「ジジェクに対する人物批判」を学術的にやりたければ、精神分析を学ぶべきだろ、って話でもあるな。
むしろ「ごく単純に言語記号の配置が読めない」から「表象不可能なもの」だろ。文脈が読めない自閉症などは正常人にとってそういうものとなるだろう。
お前は「読める」から「表象不可能なもの」にならない、ってだけの話だろ。
あと、このブログ主以前「蓮實ってバルト好きなんじゃねえの?」とかギャグっぽく言ってたが、そうだと思うわ。
バルトも「形式の亀裂」に対し、想像界で、つまり対象関係論的思想で救われたタイプだろ。
蓮實もなんだかんだ言ってそういうタイプだと思うんだよな。想像界と距離が取れていない人。金子邦彦とかと比べるとすごいわかりやすい。
お前とおんなじでな。
ああ、草野進も「女として書いておけば想像界を承認したことになる」って単純脳によるものか。
この二人にとって「女」とは、ラカンが「存在しない」と言った「女」、つまり現実的なものとしての「女」ではなく、想像的な「女」である。
そういう話だな。
あああとあたし記憶障害チックなところがあるって前にも書いたけど、そういうわけで、コメント非公開になると会話にならないって自信ががあるのよね。
むしろそういった非公開制のコメント欄に書き込むなんてことがわたしの精神衛生上よくないな。いやわたしについて言ったんじゃないかもしれないが。
だから書き込まない。
お、いい言い訳だ。
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