蝿はかまってほしくてうんこにたかってるのか?
2011/03/24/Thu
わたしいつ「テクスト論者」になったんだろう。
あー、こいつが勝手にわたしを「テクスト論者」に仕立てあげて転移してただけか。
つかブログなんて「自分の考え」を書くところだろ。分析主体ってそういうもんじゃねえの。
まさか文献を読むことが分析だなんて思ってないだろうな。文献を読むことは道具として必要だからであって、そういった機能的なこと以外の何かをわたしに期待している、と。
「かまってほしい」なあ。わたしよくそう思われるんだよな。そう思うことがわたしに対する転移だろ、って思うんだが。
ほっとけよ、ほっとくなら、って素で思う。中坊さんとのケンカだって無視してたら勝手に収まった。そういうものだ。
わたしはそれこそ蝿だからね。蝿はかまってほしくてうんこにたかってるのか?
あああと、ime.nuからきてたから検索してみたんだが、なんか2ちゃんにさらされてたよ。わたしとあんたのブログ。そっからの野次馬もきてるんじゃね。全然関係のないスレだったからあたしはどうでもいいが。
蝿は蝿だからね、人間の言うことなんか聞きやしないだろ。
まあ、うんこを置いて誘い出すことはできるかもしれないが。
ぽつぽつと。
=====
下にあなた用に蓮實重彦の文を引用するけど、そこに書いてるように、私はときにあなたのテキストが《「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞うような人の書いたものに見えるわけ。
=====
これはもっとラディカルなレベルで「同義語」だよ。「理解すること」自体が「気分」だから。逆に言えば、「気分」ではない「理解」などない。
蓮實のこの文章は逆から言えば彼の「真理に対する期待」という症状だ。
ここ素で意味がわからない。
=====
つまり《ラカンは精神分析が想像的な二者関係への還元に陥っていると再三警告しているが、ここでは特にクラインの対象関係論を批判している。ラカンにとって治療に重要なのは、患者を象徴的な関係へと導くこと》などと言われることに反論してみたらどう?
=====
ラカンはラカンの言っていることで、クラインはクラインの言っていること、だろ。わたしはラカンでもクラインでもない。彼らの論を道具として利用はするが。
あれだ、「蓮實はジジェクを批判している、だから並列に引用するな」と言われたわけだろ。わたしもあれ意味わからん。なんで批判していたら並列に引用したらいかんのか。
ここはなぜお前はこういう風に言ったのだい? お前は「自分の考え」によってこう言ったわけだろ。そのお前の「自分の考え」を聞いている。
わたしは「意味がわからん」という「考え」。
あれか、反論になっているか知らないが、藤田博史に対するケンカが、「ラカンにとって治療に重要なのは、患者を象徴的な関係へと導くこと」への反論になっていないか?
お前の「象徴的な関係」とやらは「想像的関係」を土台にしてるんじぇねえの、って。
「象徴的な関係」ってのは表層的なことであって、その原因としてファルスという概念化をして父の名あたりにいきついた、ってことなんじゃねえの。
すまんね、エセラカニアンだから、あたしも。わたしにとって重要なのはラカン理論なんかじゃなく自分の症状だから。ラカン理論は道具として利用するがラカン教に入信するつもりはない。いやまあ、ときどきは義理立てすることがあるがな。
ラカンは「象徴的な関係」を主に研究した。クラインは「想像的な関係」を主に研究した。
それだけの話だろ。
ラカンの「象徴的な関係」もクライン派の「ほどほどによくない母」を原因にしているとあたしゃ思うんだがな。
でもまあこれだけじゃ確かになぜこれだけ多くの人間の精神構造にファルスがあるのか説明できていないと思うけど。陰陽論とか持ってきたくなるわ。エセラカニアンとしては。非現実的な作用によりどちらか一極になることを事後的・二次的に防ごうとする作用がファルスとなった、とかって。これならラカンの言う「現実の二乗」って表現にもあわなくない。
蝿を追い払うコツ教えてあげよっか。
つねに動いていればいいんだよ。
わたしブログでもそうだろ。蝿がきたらいちいち追っ払っている。ここのコメント欄とかな。
まあわたしより「人間」には転移されやすいタイプじゃろうの。リビドー構造が刷り込まれている人間みたいだからな。実際の女より男が考えた「女」の方が男ウケするのはオタク文化見れば一目瞭然。
蝿は転移しないがな。
つかさ、わたしにとっちゃ「ぼけとつっこみ」なんだから、お菓子ではあるよ。蝿っつうより蟻。
そらお前の「予測どおり」になるわな。わたしはそういうつもりでつっこんでんだから。お笑いの基本構造。
あとここも意味がわからない。
=====
あなた、私が「精神病」と「神経症」って書いたの見てそれを受けて、「精神病」についてぐたぐた初歩的な教科書のようなこと書いたでしょ、フロイトやラカンが固執する「構造的」見方を全く失念して―――「失念」でしょうね、まさか知らなかったわけじゃないでしょうね、ちょっとそう見えたこともあるのだけれど―――、観察による症状の区別のみを延々と書き続けたときには、なかなかあいた口がふさがらなくてね
=====
えっと、君は臨床することに対して「あいた口がふさがらない」と言っているのか?
あとさ、わたしは君の言うような「構造的」見方をしたいとは思っていない。そのような見方をすることこそが(ラディカルなレベルじゃない)「「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞う」ことだと思っている。
わたしは、「人間という動物の集団傾向として共通する心理的構造がある」と主張する限りにおいて、構造主義者だ。
そしてその構造は外部からではないと見渡せない。内部にいると見えなくなる。
わたしは生まれてこの方ずっと外部を生きてきたと思っている。精神分析を学ぶ以前から「(他の人間たちにはできてわたしにはできない)テレパシーみたいなもの」と言っていたことがこの「構造」だなと最近推測している。
つまり、わたしは「構造」の外部にいる構造主義者だ、ってことだ。
逆に言えば「構造」の内部のことなんてわからん。それは「知らなかった」だと思うよ。フロイトはそうじゃないかもとは思うが、ラカンの言う「精神分析家たる者」ってのは、そういう存在だと思っているから。
そうじゃなければ向井雅明の言う「分析家はヒステリーであれ」なんて主張を理解できないはずだが。
お前の脳内ラカン、脳内フロイトからすれば「知らなかった」になるんだろう。
いやもちろんこれもわたしの脳内ラカン、脳内フロイトだがな。別にお前の脳内ラカン、脳内フロイトでもいいよ? ラカン本人、フロイト本人だってただの臨床素材だし。そこいらにいる(「人間はすべて神経症者である」という意味での)「神経症者」の一人。
なんかこう「ぼくのかんがえるさいきょうのらかんをけがすな」とか言われている気分だ。「ラカン理論の苛烈さ」とか言っているのはそういうこったろ。
そらお前、ラカンを大文字の他者的な何かとして転移しているお前の症状だ。
そらまあ、あたしにとっちゃラカン理論もただの道具でしかないからな。クライン理論もそうだが。わたし自身の症状を考えるための。
ここがお前の臭いところなんだよ。だから蝿になっちゃうの。
あれだな、わたしじゃないコメント者への反論とかもそうだが、お前の反論って大体「僕はそんなこと知っている!」だよな。
知っていたからどうなの、って話なんだが。
わたしが「「精神病」についてぐたぐた初歩的な教科書のようなこと書いた」のも、「お前はこんな簡単なことを知らないのか」とか言ったつもりはないんだが。それこそ「失念してるんじゃね?」と言っているだけ。
何、「「構造的」見方」って「初歩的な教科書のようなこと」は考えなくていい「見方」なの?
逆だろ、レヴィ=ストロースの「構造」はむしろ「簡単なこと」だ。いわば幼児の発想だ。「かたいものとやわらかいもの」とかそうだろ。
わたしはこんな「簡単なこと」が、いやそれ自体はわかるんだが、そこからまるで積木を組み立てたかのような「一般にある「構造」の症状」がわからない、ということになるか。
そんな「おがくず」みたいな知を頭につめこんでても意味ないだろ。これこそ(ラディカルなレベルではない)「「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞う」ということの具体的症状だと思うんだが。
頭につめこんだ「おがくず」の量を競いあっているだけに見えるわ。お前一人で。
その「おがくず」を道具として利用しているだけ、わたしは。
ああ、わたしの「「精神病」についてぐたぐた初歩的な教科書のようなこと書いた」ことを、そういう「振舞い」だと指摘されたと思い込んだのか。
そう思ってしまったことの自白か。これは。
どうよ?
人間一皮むけば中二病者。これ真理とまではいかなくても定理だと思うんだがな。
つか
=====
「ほどよくからかってください」なんて言ってくるのよ。「グサっ」てやっちゃだめで、ネタを提供し続けて、あなたに書かせてください、ということらしいわ。どうする?
=====
その「蝿」は文脈を読めてるんじゃね。わたしの「ぼけとつっこみ」ってつもりの文脈を。
わたしにとってのお笑いってハイレグジーザスやら大人計画とかありだから「グサッ」はありだけど。
なんでもありの総合格闘技とかギャグになることあるじゃん。マケボノとかさ。
なんかこう、藤田博史にも言ったじゃん、「じゃれあい」って。
それと似たような感覚なんだけどなあ。
言われる本人は違うのかね。
まあでもあれよ、精神衛生上はいいと思うよ。「じゃれあい」だから。前にも書いたじゃん、(ラカン的な意味ではない一般的な意味での)「リアル」からの逃避としてやってる部分はある。
「じゃれあい」される方がたまったもんじゃない、って話なわけか。
そりゃねえ、別に(「リビドー的な構造への組み入れ」としての)転移なんてしてないからのう。
蝿がうんこにたかるようにじゃれあってるだけだからねえ。
だからあれよ、お前が「わたしに対して」反応しようがしてまいが関係ないんだわ。
たまたま近くにあったうんこにたかっただけだから。
つまり、滑稽なお前につきあって滑稽になれるから、お前の文章へのつっこみはわたしにとってはお笑い的な予定調和だから、精神衛生上よい。
エチュードとかやってても「あああのパターンか」とわかった方がノリよくなるもんだろ。
いやさ、「リアル」でこんな屁理屈はこねられんだろ。グーが飛んでくるわグーが。経験論。結構暴力ふるわれるタイプ。
ネットだからです、ええ、ええ。
男の「リビドー的な構造の弛緩」に対する拒絶反応ってすごいもんだよ。「リアル」では。「リアル」でも、か。
そうそう、あれ、「ブリコラージュ」って概念知ってる? お前の主張する「知」は「ブリコラージュ」っぽくないんだが。
そこいらにあるものを利用するのが「ブリコラージュ」だろ。別に「原典」だろうが「三文解説」だろうが同じものだ。
そういうのが「構造的」見方だと思ってたんだけど、君の言うそれは違うの?
別に批判じゃなくて素で聞いてる。
いや別に「原典」をあたってもいいし「三文解説」で論じてもいいと思ってる人だけど。この記事でも書いている通り。
それになんの差があるのかがわからない。素で。いや、大文字の他者的な転移している君にとっちゃー差があるんだろうけれど。
頭ではわかるけどピンとこないんだよなー、ここら辺が。
つか君の言う「あずまんの転回」ってのも「原典の方が大事」ってこととおんなじじゃねえの。わたしはあずまんの本性が出てきたと思ったけどな。つか前からつかここ最近「権威は大事」みたいなことは言ってるじょ? 父性的なことへの転回、っつか。まあガキもできたしな。転回してもしゃああんめえ。
わたしはそんなところを問題にしているんじゃない。「原典」だろうが「三文解説」だろうが、「専門家の言うこと」であろうが「にわかジャーナリスト」の言うことであろうが、「リビドー的な構造」を押しつけるのが問題だ、としている。それがこの記事。「原典か三文解説か」「専門家の言うことかにわかジャーナリストの言うことか」なんて判断はお前らが勝手にしてくれて構わない。「どちらに大文字の他者的な転移をすべきか」なんて議論は。
その「転移」自体が問題なのだ。
いわゆる技術系の専門家の社会で生きてきたわたしからすれば「専門家だってただの人間だぜ」って思うんだがな。結構幼稚な思考回路してる奴らばっか。専門のことについても。いやまじで。
「言ってることは複雑だけど思考回路っつかバックグラウンド的な何かがすげー単純、これってなんだろう?」って考えてレヴィ=ストロースの「簡単なこと」による構造主義が「おお」と思えるようになった、って感じ。
幼稚になっちゃうもんだと思うよ、専門家になればなるほど。専門家じゃない営業畑の人たちの方が複雑な、っていうか葛藤丸出しの思考してたと今思った。
まあその葛藤はきらいじゃないがな。無自覚的にたかってしまう。葛藤という腐臭に。
つかお前わたしの「単純脳」って言葉に対しオウム返しで「単純な蝿頭」と言っているようだが、これを「僕は単純脳じゃない」という否認の意味だと考えれば(わたしが「単純脳」としたのは女言葉を使っている点であり、それについてどーのこーの言っているところからもそういう意味だと推測できる)、「僕の葛藤をわかって」って意味だと解釈できなくはないな。
「かまってほしい」のはお前の方なんじゃないか? もちろん相手はわたしじゃないかもしれないが。「人間」に。
ああこの「単純脳」が「侮蔑」になるのかね。わたし「うらやましい」って書いてるんだけど。「素で」とも書いているな。
=====
「女言葉使えば想像界を承認できる」って単純な脳みそがうらやましいわ、と素で思えた。
=====
な?
ほんとあれだ、もっと素直に受け取ってくれよ。それこそ「蝿頭」が言うことなんだから。
字義通りに受け取ってくれ。
ふと思ったが、構造主義って二項対立だろ、基本。二者関係の方が「構造的」見方じゃね。「人間」を「物」と考えれば。
ああでもソシュール言語学は三角形だな。
まあどっちでもいいけど、あたしゃ。使える方を使う。そのときどきによって。
お前の脳内わたしは「テクスト論者」らしいんだが、
=====
なかには「テキスト論者」への愛を語る人なのに、人物批判ばかりしている輩もいる
=====
これわたしのことだった?
ごめん、わたし自分を「「テキスト論者」への愛を語る人」だとは思ってなかったから、「え、もしかして自分かなあ、蓮實は批判してるけど、でもまあまともに読んでたら「「テキスト論者」への愛を語る人」とは思わないはずだけどなあ」とか思ってたんだけど。
ふうん、これが「愛」になるのか。だから「かまってほしいんだな」と思うんだろうな。
君ずばり言ってるじゃん、「蝿」と。
蝿にとっちゃー人間もただのそういう物だろうな。
蝿にも「愛」はあるのかい?
蝿はうんこにかまってほしくてうんこにたかっているのかい?
ああそうか、クリステヴァ論者だから「テクスト論者」だと思っていたのか。
うーんと。
あたし文学論者としてのクリステヴァってまったく興味ないのだよ。精神分析理論を文学に適用した本がおもしろいから読んでるだけで。むしろ文学評論家って考えたら自分の好みを最優先してしまう傾向があるからだめなんじゃね、って思うけどな。でもそこがヒステリーっぽくておもしろくはあるんだが。
つまりクリステヴァもわたしにとっちゃー臨床素材の一つだ。
あと晩年クラインと同様に「リビドー肯定」に走ったのは「つまんね」と思う。だからその辺ざっとは読んだが読み返してない。
それだけなんだけど。
お前にあるラカンあるいは蓮實への転移が、相手は違えど誰かに対して、わたしにもある、って思い込んでるんじゃねえの?
もしそうなら、「俺が欲望しているんだからお前も欲望しているはず」だよな。
このストーカー心理こそが人間の基本的精神構造だと思えるんだが。
なあなあ、素で質問なんだが、わたしのどの文章をどう解釈して「「テキスト論者」への愛を語る人」だと思ったの?
いや、そんな思わせぶりな発言があるなら自覚しといた方がいいと思うから。
それと逆にどこがどう
=====
まるで一つ一つの言葉が「テキスト論者」への侮蔑になっているかのように。
=====
と思ったのか。いあ両方もしこれがわたしについて言っているのなら、だけど。
「侮蔑」ねえ。まあ「侮蔑」ではあるがなあ。「じゃれあい」なんだよなあ。
「侮蔑しあうじゃれあい」って普通の文化で育っちゃったからなあ。アングラ演劇とか。
つか「自分の考え」を述べているテクストに興味をなくす人だとは思わなかったわ。「ラカンはセミネールのときヒステリーだった」ってのはラカンは「自分の考え」を述べていたってことでもあると思ってたんだが。
ああ、ラカンだからいいのね。わたしには転移していない、と言いたいわけだ。
んじゃ「かまってほしい」とか言うなよ。それこそ蝿と思っておけばいい。
要するにお前は(主人のディスクールをしてしまうのが)「そうならざる得ない」自分について逃避しているだけ。
「僕は引用しかしていない。「自分の考え」など述べていない」などと言いたがるのも同じ自分からの逃避。
もし「引用なら「自分の考え」ではなくなる」のなら、患者の言葉はすべてそういう症状だ、とする精神分析は意味なくなるよな。お前の言う「構造」的見方すらなくなる。
その文章を引用したのはお前だろ。お前という存在がなくなったりなどしない。
パンツについたうんこのごとく、どこまでもついてくる。
本当に「自分の考え」がなくなるのは、この記事でジジェクが言っている通り、「欲動としての科学」の態度のときだ。
お前が「かまってほしい」と思ったのはお前の脳内わたしについてであり、「お前の考え」だ。
つかさー、「なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚」とかあるけどさ、「他の凡庸さ」って言うか、数多くの他人と会話した結果、「多くの他人には、わたしには理解できない共通の構造がある」って思うのは、「薄められた独創性の錯覚」なの? わたし子供の頃から浮いてたんだけど。まあこんなのが素なわけだから浮くに決まってるわな。
結局さ、ここで言われているのは「三人の囚人」における「他の囚人を出し抜くこと」だろ。「人間ではない何か」から逃れるために、より人間として認められるために、囚人たちは他人を出し抜いて走り出す。
わたしが言っているのは「お前はわたしと違う」。それがつもりつもって「他の人たちとわたしは違う」となった。
別に出し抜きたくてそうなったわけじゃない。
「他の凡庸さと違う自分」が苦しい。めんどくさい。
「凡庸さ」ってステキじゃん。中島みゆきもそんな歌歌ってなかったっけ。わたしもよく書いているじゃん、「わたしは目立たなくなるために化粧している」と。わたしにとっちゃ化粧はいわば迷彩だ。
凡庸でいられたらどれだけ楽か。少なくとも精神を病んだりしなかっただろうな。
自閉症者の二次障害ってこういうのが原因となっていると思うんだがな。自閉症者はよく「自分と他人は違う」と言う。わたしは彼らのこういった言葉に「三人の囚人」はあてはめない。「他の凡庸さ」を出し抜きたくてそうやっているわけではない、と思える。
つかお前精神分析の臨床について言及しているなら、ブログで臨床すればあ?
「引用」は臨床じゃないぞ。
お前が忌避したがっている「間主観的な、あるいは鏡像関係の泥沼」や「仲良しこよしの頷き合いだけにみえる井戸端会議風」を見つめ続けるのが臨床の現場だろ。フロイトのこの文章みたいに。
お前のここ最近の主張は「臨床からの回避」に見えるわ。
お前にとっての精神分析が、「想像的関係」を否認するための、あるいは自分の「父への欲望」を肯定するための道具じゃなければ、な。
つうかラカンは「自分の業績は鏡像段階論に尽きる」みたいなこと言ったらしいんだが、鏡像段階論こそ、「想像的関係」を、クラインの言う「投影」を、「鏡」という比喩を用いることにより「構造的」に概念化した仕事だろう。
「構造」をもって臨床する、って話であり、自己が「構造的」であればよい、と言っているわけじゃない。
まあ巷のバカラカニアンたちは「ラカンにとって治療に重要なのは、患者を象徴的な関係へと導くこと」とかって思ってるのかもしれんが。
あれだよ、トーラスだよトーラス。
それにゃたとえばお前のラカンに対する転移などこびりついていないだろう?
たとえば「ワニの口にするつっかい棒」こそが、お前にとってのラカンなのかもしれないが、棒は棒だろ。ワニがワニであるように。別のシーンではその棒につまづいてこけるときだってあろう。
その棒を与えてくれた「超越者」みたいなんを想像しているにすぎない。
別にワニに喰われてもいいじゃん。どうしてもうまくつっかい棒できなければ。
これまでと同じ「浮いている」生き方をすればいいだけなんだから。わたしにとっちゃ。
結局あれだよな、「他人と自分は違う」ってのを、なべて「三人の囚人」のごとき「他人を出し抜くためにやっている」と思っちゃうのは、精神分析は外部視点でなければならない、ってことを「メタ視点」と言っちゃうことと同じだよな。
出し抜くから、出し抜かれるから、「メタ」になる。
だーらあたし言ってるじゃん。精神分析は、少なくともラカン派は、「メタ視点」なんて言葉使わずに「村八分視点」って言葉を使った方がよくね、と。ここのコメント欄参照のこと。
これこそ「構造的」見方だと思うんだがな。
「独創性の錯覚」なあ。そんな発想できていたなら「浮いている、浮かないようにしなきゃ」なんて努力はしてこなかったろうよ。
「他人と違うこと」なんてそんないいもんじゃねえよ。
あ、わかったあ。
もしかしてお前、この記事で、
=====
「そーそーそーゆーことラカニアンとして一歩前進した(キチガイに近づいたとも言える)んじゃね君」
=====
ってわたしが書いたから、「俺の方がラカンを知っている!」と言いたくて、こんな記事書いたの?
ごめん、この文章ほんとただのギャグなんだけど。「ラカンをあるいは精神分析を多少知ってても、なーんもわたしの正常化には寄与しない。むしろキチガイ化を促進している」って事実が前提にあったから、こういったことを言ったんだけど。自虐の意味がある。自虐ギャグ好きなんだよな。中島みゆきのANNだって大概そうだったろ。
いや、どこに釣れたかがわかんなくてさ。
なんでいきなり「原典」とかの話になったのか、って。
だから「それお前の症状だろ」って話になっちゃったんだよね。
お前がどういう考えでこういった記事を書いたかわかれば、そういった風に述べてあげてもいいよ?
なんかあれだよな。「原典大事」って基本、文系の発想だよな。理系はそら大体数式なわけだし(数式含めた)テクストなんかより実験の方が大事なわけだし。
ジジェクもそう書いてあるじゃん。
=====
科学とは、《存在》のエポックの歴史性というハイデガー的意味においてですら厳密に非歴史的であるディスクールの、 初めての(そしておそらく唯一の)ケースなのである。
=====
と。「非歴史的」だから「原典大事」になんてならない。いわば(新宮一成が「大学のディスクール」を読み替えたそれではない)「無頭」たる「科学のディスクール」こそが「蝿頭」だ。
いやまあそら「ラカンという症状」を臨床する際には「原典」あたらなきゃならないんだろうけどさ。そうじゃなければその限りではない。
文系ってほんとよくわからん。「テクスト論者」ってどういう意味かわからんが(ここではわたしの言葉で言う「大文字の他者主義者」と類似の意味だと勝手に解釈している)、理系脳ではあると思う。
あ、わたしは「科学」が「唯一のケース」だとは思わないけど。
ガキは結構普通にしてると思うけどな。「リビドー的な構造」から外れた、いわば自閉症者のエコラリア的なディスクールを。ああまあ「大文字の他者主義者」からすればこんなの「他のケース」とはならないんだろうが。
そういう感じ。
本当に「蝿頭」になりてえよ。
「無頭児になりたい」と再三言ってるじゃんけ。無頭児なら科学すらやらなくていい。
ねえねえ、あなたはなぜこの記事を書いたの? それぞれの言葉の意味は、どういう「あなたの考え」をもってして、述べられたの?
「蝿頭」だから行間とかわかんなーい。
まあそういった意味でほんと文学とは相性の悪い人間だとは思うわ、あたし。
文学者の脳内女って大概単純だよな。この記事とかギャグだがむしろ「女性デー」という単語から上二点のような連想をするお前が滑稽でおもしろかった。グーグルで検索したけどそんな「美女」の写真上の方にはないお? わざわざスクロールして「美女の写真」を探した、と思えちゃうんだけど。少なくとも「たまたまネットサーフィンしてて見つけた」って類のものじゃないだろう。いやまあグーグルなんて時期によって変わるから、お前が見た時期は「美女の写真」がいっぱいあったのかもしれんが。
認めちゃえよ、「ボクチンは想像的関係にどっぷりです」って。別キャラ用意するとかしちめんどくさいことしないで。
まあそのしちめんどくさいことをしちゃうのが神経症だけどな。
わざわざ脳内女を作ってまで女に父を欲望させようというのは、オタクの美少女ハーレム系作品と精神構造は同じ。
大野さんとかはそりゃ確かに父を欲望してるのかもしれないが、そうじゃない女もいる。
ただお前の主観世界に「存在しない」だけ。
あー、こいつが勝手にわたしを「テクスト論者」に仕立てあげて転移してただけか。
つかブログなんて「自分の考え」を書くところだろ。分析主体ってそういうもんじゃねえの。
まさか文献を読むことが分析だなんて思ってないだろうな。文献を読むことは道具として必要だからであって、そういった機能的なこと以外の何かをわたしに期待している、と。
「かまってほしい」なあ。わたしよくそう思われるんだよな。そう思うことがわたしに対する転移だろ、って思うんだが。
ほっとけよ、ほっとくなら、って素で思う。中坊さんとのケンカだって無視してたら勝手に収まった。そういうものだ。
わたしはそれこそ蝿だからね。蝿はかまってほしくてうんこにたかってるのか?
あああと、ime.nuからきてたから検索してみたんだが、なんか2ちゃんにさらされてたよ。わたしとあんたのブログ。そっからの野次馬もきてるんじゃね。全然関係のないスレだったからあたしはどうでもいいが。
蝿は蝿だからね、人間の言うことなんか聞きやしないだろ。
まあ、うんこを置いて誘い出すことはできるかもしれないが。
ぽつぽつと。
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下にあなた用に蓮實重彦の文を引用するけど、そこに書いてるように、私はときにあなたのテキストが《「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞うような人の書いたものに見えるわけ。
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これはもっとラディカルなレベルで「同義語」だよ。「理解すること」自体が「気分」だから。逆に言えば、「気分」ではない「理解」などない。
蓮實のこの文章は逆から言えば彼の「真理に対する期待」という症状だ。
ここ素で意味がわからない。
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つまり《ラカンは精神分析が想像的な二者関係への還元に陥っていると再三警告しているが、ここでは特にクラインの対象関係論を批判している。ラカンにとって治療に重要なのは、患者を象徴的な関係へと導くこと》などと言われることに反論してみたらどう?
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ラカンはラカンの言っていることで、クラインはクラインの言っていること、だろ。わたしはラカンでもクラインでもない。彼らの論を道具として利用はするが。
あれだ、「蓮實はジジェクを批判している、だから並列に引用するな」と言われたわけだろ。わたしもあれ意味わからん。なんで批判していたら並列に引用したらいかんのか。
ここはなぜお前はこういう風に言ったのだい? お前は「自分の考え」によってこう言ったわけだろ。そのお前の「自分の考え」を聞いている。
わたしは「意味がわからん」という「考え」。
あれか、反論になっているか知らないが、藤田博史に対するケンカが、「ラカンにとって治療に重要なのは、患者を象徴的な関係へと導くこと」への反論になっていないか?
お前の「象徴的な関係」とやらは「想像的関係」を土台にしてるんじぇねえの、って。
「象徴的な関係」ってのは表層的なことであって、その原因としてファルスという概念化をして父の名あたりにいきついた、ってことなんじゃねえの。
すまんね、エセラカニアンだから、あたしも。わたしにとって重要なのはラカン理論なんかじゃなく自分の症状だから。ラカン理論は道具として利用するがラカン教に入信するつもりはない。いやまあ、ときどきは義理立てすることがあるがな。
ラカンは「象徴的な関係」を主に研究した。クラインは「想像的な関係」を主に研究した。
それだけの話だろ。
ラカンの「象徴的な関係」もクライン派の「ほどほどによくない母」を原因にしているとあたしゃ思うんだがな。
でもまあこれだけじゃ確かになぜこれだけ多くの人間の精神構造にファルスがあるのか説明できていないと思うけど。陰陽論とか持ってきたくなるわ。エセラカニアンとしては。非現実的な作用によりどちらか一極になることを事後的・二次的に防ごうとする作用がファルスとなった、とかって。これならラカンの言う「現実の二乗」って表現にもあわなくない。
蝿を追い払うコツ教えてあげよっか。
つねに動いていればいいんだよ。
わたしブログでもそうだろ。蝿がきたらいちいち追っ払っている。ここのコメント欄とかな。
まあわたしより「人間」には転移されやすいタイプじゃろうの。リビドー構造が刷り込まれている人間みたいだからな。実際の女より男が考えた「女」の方が男ウケするのはオタク文化見れば一目瞭然。
蝿は転移しないがな。
つかさ、わたしにとっちゃ「ぼけとつっこみ」なんだから、お菓子ではあるよ。蝿っつうより蟻。
そらお前の「予測どおり」になるわな。わたしはそういうつもりでつっこんでんだから。お笑いの基本構造。
あとここも意味がわからない。
=====
あなた、私が「精神病」と「神経症」って書いたの見てそれを受けて、「精神病」についてぐたぐた初歩的な教科書のようなこと書いたでしょ、フロイトやラカンが固執する「構造的」見方を全く失念して―――「失念」でしょうね、まさか知らなかったわけじゃないでしょうね、ちょっとそう見えたこともあるのだけれど―――、観察による症状の区別のみを延々と書き続けたときには、なかなかあいた口がふさがらなくてね
=====
えっと、君は臨床することに対して「あいた口がふさがらない」と言っているのか?
あとさ、わたしは君の言うような「構造的」見方をしたいとは思っていない。そのような見方をすることこそが(ラディカルなレベルじゃない)「「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞う」ことだと思っている。
わたしは、「人間という動物の集団傾向として共通する心理的構造がある」と主張する限りにおいて、構造主義者だ。
そしてその構造は外部からではないと見渡せない。内部にいると見えなくなる。
わたしは生まれてこの方ずっと外部を生きてきたと思っている。精神分析を学ぶ以前から「(他の人間たちにはできてわたしにはできない)テレパシーみたいなもの」と言っていたことがこの「構造」だなと最近推測している。
つまり、わたしは「構造」の外部にいる構造主義者だ、ってことだ。
逆に言えば「構造」の内部のことなんてわからん。それは「知らなかった」だと思うよ。フロイトはそうじゃないかもとは思うが、ラカンの言う「精神分析家たる者」ってのは、そういう存在だと思っているから。
そうじゃなければ向井雅明の言う「分析家はヒステリーであれ」なんて主張を理解できないはずだが。
お前の脳内ラカン、脳内フロイトからすれば「知らなかった」になるんだろう。
いやもちろんこれもわたしの脳内ラカン、脳内フロイトだがな。別にお前の脳内ラカン、脳内フロイトでもいいよ? ラカン本人、フロイト本人だってただの臨床素材だし。そこいらにいる(「人間はすべて神経症者である」という意味での)「神経症者」の一人。
なんかこう「ぼくのかんがえるさいきょうのらかんをけがすな」とか言われている気分だ。「ラカン理論の苛烈さ」とか言っているのはそういうこったろ。
そらお前、ラカンを大文字の他者的な何かとして転移しているお前の症状だ。
そらまあ、あたしにとっちゃラカン理論もただの道具でしかないからな。クライン理論もそうだが。わたし自身の症状を考えるための。
ここがお前の臭いところなんだよ。だから蝿になっちゃうの。
あれだな、わたしじゃないコメント者への反論とかもそうだが、お前の反論って大体「僕はそんなこと知っている!」だよな。
知っていたからどうなの、って話なんだが。
わたしが「「精神病」についてぐたぐた初歩的な教科書のようなこと書いた」のも、「お前はこんな簡単なことを知らないのか」とか言ったつもりはないんだが。それこそ「失念してるんじゃね?」と言っているだけ。
何、「「構造的」見方」って「初歩的な教科書のようなこと」は考えなくていい「見方」なの?
逆だろ、レヴィ=ストロースの「構造」はむしろ「簡単なこと」だ。いわば幼児の発想だ。「かたいものとやわらかいもの」とかそうだろ。
わたしはこんな「簡単なこと」が、いやそれ自体はわかるんだが、そこからまるで積木を組み立てたかのような「一般にある「構造」の症状」がわからない、ということになるか。
そんな「おがくず」みたいな知を頭につめこんでても意味ないだろ。これこそ(ラディカルなレベルではない)「「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞う」ということの具体的症状だと思うんだが。
頭につめこんだ「おがくず」の量を競いあっているだけに見えるわ。お前一人で。
その「おがくず」を道具として利用しているだけ、わたしは。
ああ、わたしの「「精神病」についてぐたぐた初歩的な教科書のようなこと書いた」ことを、そういう「振舞い」だと指摘されたと思い込んだのか。
そう思ってしまったことの自白か。これは。
どうよ?
人間一皮むけば中二病者。これ真理とまではいかなくても定理だと思うんだがな。
つか
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「ほどよくからかってください」なんて言ってくるのよ。「グサっ」てやっちゃだめで、ネタを提供し続けて、あなたに書かせてください、ということらしいわ。どうする?
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その「蝿」は文脈を読めてるんじゃね。わたしの「ぼけとつっこみ」ってつもりの文脈を。
わたしにとってのお笑いってハイレグジーザスやら大人計画とかありだから「グサッ」はありだけど。
なんでもありの総合格闘技とかギャグになることあるじゃん。マケボノとかさ。
なんかこう、藤田博史にも言ったじゃん、「じゃれあい」って。
それと似たような感覚なんだけどなあ。
言われる本人は違うのかね。
まあでもあれよ、精神衛生上はいいと思うよ。「じゃれあい」だから。前にも書いたじゃん、(ラカン的な意味ではない一般的な意味での)「リアル」からの逃避としてやってる部分はある。
「じゃれあい」される方がたまったもんじゃない、って話なわけか。
そりゃねえ、別に(「リビドー的な構造への組み入れ」としての)転移なんてしてないからのう。
蝿がうんこにたかるようにじゃれあってるだけだからねえ。
だからあれよ、お前が「わたしに対して」反応しようがしてまいが関係ないんだわ。
たまたま近くにあったうんこにたかっただけだから。
つまり、滑稽なお前につきあって滑稽になれるから、お前の文章へのつっこみはわたしにとってはお笑い的な予定調和だから、精神衛生上よい。
エチュードとかやってても「あああのパターンか」とわかった方がノリよくなるもんだろ。
いやさ、「リアル」でこんな屁理屈はこねられんだろ。グーが飛んでくるわグーが。経験論。結構暴力ふるわれるタイプ。
ネットだからです、ええ、ええ。
男の「リビドー的な構造の弛緩」に対する拒絶反応ってすごいもんだよ。「リアル」では。「リアル」でも、か。
そうそう、あれ、「ブリコラージュ」って概念知ってる? お前の主張する「知」は「ブリコラージュ」っぽくないんだが。
そこいらにあるものを利用するのが「ブリコラージュ」だろ。別に「原典」だろうが「三文解説」だろうが同じものだ。
そういうのが「構造的」見方だと思ってたんだけど、君の言うそれは違うの?
別に批判じゃなくて素で聞いてる。
いや別に「原典」をあたってもいいし「三文解説」で論じてもいいと思ってる人だけど。この記事でも書いている通り。
それになんの差があるのかがわからない。素で。いや、大文字の他者的な転移している君にとっちゃー差があるんだろうけれど。
頭ではわかるけどピンとこないんだよなー、ここら辺が。
つか君の言う「あずまんの転回」ってのも「原典の方が大事」ってこととおんなじじゃねえの。わたしはあずまんの本性が出てきたと思ったけどな。つか前からつかここ最近「権威は大事」みたいなことは言ってるじょ? 父性的なことへの転回、っつか。まあガキもできたしな。転回してもしゃああんめえ。
わたしはそんなところを問題にしているんじゃない。「原典」だろうが「三文解説」だろうが、「専門家の言うこと」であろうが「にわかジャーナリスト」の言うことであろうが、「リビドー的な構造」を押しつけるのが問題だ、としている。それがこの記事。「原典か三文解説か」「専門家の言うことかにわかジャーナリストの言うことか」なんて判断はお前らが勝手にしてくれて構わない。「どちらに大文字の他者的な転移をすべきか」なんて議論は。
その「転移」自体が問題なのだ。
いわゆる技術系の専門家の社会で生きてきたわたしからすれば「専門家だってただの人間だぜ」って思うんだがな。結構幼稚な思考回路してる奴らばっか。専門のことについても。いやまじで。
「言ってることは複雑だけど思考回路っつかバックグラウンド的な何かがすげー単純、これってなんだろう?」って考えてレヴィ=ストロースの「簡単なこと」による構造主義が「おお」と思えるようになった、って感じ。
幼稚になっちゃうもんだと思うよ、専門家になればなるほど。専門家じゃない営業畑の人たちの方が複雑な、っていうか葛藤丸出しの思考してたと今思った。
まあその葛藤はきらいじゃないがな。無自覚的にたかってしまう。葛藤という腐臭に。
つかお前わたしの「単純脳」って言葉に対しオウム返しで「単純な蝿頭」と言っているようだが、これを「僕は単純脳じゃない」という否認の意味だと考えれば(わたしが「単純脳」としたのは女言葉を使っている点であり、それについてどーのこーの言っているところからもそういう意味だと推測できる)、「僕の葛藤をわかって」って意味だと解釈できなくはないな。
「かまってほしい」のはお前の方なんじゃないか? もちろん相手はわたしじゃないかもしれないが。「人間」に。
ああこの「単純脳」が「侮蔑」になるのかね。わたし「うらやましい」って書いてるんだけど。「素で」とも書いているな。
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「女言葉使えば想像界を承認できる」って単純な脳みそがうらやましいわ、と素で思えた。
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な?
ほんとあれだ、もっと素直に受け取ってくれよ。それこそ「蝿頭」が言うことなんだから。
字義通りに受け取ってくれ。
ふと思ったが、構造主義って二項対立だろ、基本。二者関係の方が「構造的」見方じゃね。「人間」を「物」と考えれば。
ああでもソシュール言語学は三角形だな。
まあどっちでもいいけど、あたしゃ。使える方を使う。そのときどきによって。
お前の脳内わたしは「テクスト論者」らしいんだが、
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なかには「テキスト論者」への愛を語る人なのに、人物批判ばかりしている輩もいる
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これわたしのことだった?
ごめん、わたし自分を「「テキスト論者」への愛を語る人」だとは思ってなかったから、「え、もしかして自分かなあ、蓮實は批判してるけど、でもまあまともに読んでたら「「テキスト論者」への愛を語る人」とは思わないはずだけどなあ」とか思ってたんだけど。
ふうん、これが「愛」になるのか。だから「かまってほしいんだな」と思うんだろうな。
君ずばり言ってるじゃん、「蝿」と。
蝿にとっちゃー人間もただのそういう物だろうな。
蝿にも「愛」はあるのかい?
蝿はうんこにかまってほしくてうんこにたかっているのかい?
ああそうか、クリステヴァ論者だから「テクスト論者」だと思っていたのか。
うーんと。
あたし文学論者としてのクリステヴァってまったく興味ないのだよ。精神分析理論を文学に適用した本がおもしろいから読んでるだけで。むしろ文学評論家って考えたら自分の好みを最優先してしまう傾向があるからだめなんじゃね、って思うけどな。でもそこがヒステリーっぽくておもしろくはあるんだが。
つまりクリステヴァもわたしにとっちゃー臨床素材の一つだ。
あと晩年クラインと同様に「リビドー肯定」に走ったのは「つまんね」と思う。だからその辺ざっとは読んだが読み返してない。
それだけなんだけど。
お前にあるラカンあるいは蓮實への転移が、相手は違えど誰かに対して、わたしにもある、って思い込んでるんじゃねえの?
もしそうなら、「俺が欲望しているんだからお前も欲望しているはず」だよな。
このストーカー心理こそが人間の基本的精神構造だと思えるんだが。
なあなあ、素で質問なんだが、わたしのどの文章をどう解釈して「「テキスト論者」への愛を語る人」だと思ったの?
いや、そんな思わせぶりな発言があるなら自覚しといた方がいいと思うから。
それと逆にどこがどう
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まるで一つ一つの言葉が「テキスト論者」への侮蔑になっているかのように。
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と思ったのか。いあ両方もしこれがわたしについて言っているのなら、だけど。
「侮蔑」ねえ。まあ「侮蔑」ではあるがなあ。「じゃれあい」なんだよなあ。
「侮蔑しあうじゃれあい」って普通の文化で育っちゃったからなあ。アングラ演劇とか。
つか「自分の考え」を述べているテクストに興味をなくす人だとは思わなかったわ。「ラカンはセミネールのときヒステリーだった」ってのはラカンは「自分の考え」を述べていたってことでもあると思ってたんだが。
ああ、ラカンだからいいのね。わたしには転移していない、と言いたいわけだ。
んじゃ「かまってほしい」とか言うなよ。それこそ蝿と思っておけばいい。
要するにお前は(主人のディスクールをしてしまうのが)「そうならざる得ない」自分について逃避しているだけ。
「僕は引用しかしていない。「自分の考え」など述べていない」などと言いたがるのも同じ自分からの逃避。
もし「引用なら「自分の考え」ではなくなる」のなら、患者の言葉はすべてそういう症状だ、とする精神分析は意味なくなるよな。お前の言う「構造」的見方すらなくなる。
その文章を引用したのはお前だろ。お前という存在がなくなったりなどしない。
パンツについたうんこのごとく、どこまでもついてくる。
本当に「自分の考え」がなくなるのは、この記事でジジェクが言っている通り、「欲動としての科学」の態度のときだ。
お前が「かまってほしい」と思ったのはお前の脳内わたしについてであり、「お前の考え」だ。
つかさー、「なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚」とかあるけどさ、「他の凡庸さ」って言うか、数多くの他人と会話した結果、「多くの他人には、わたしには理解できない共通の構造がある」って思うのは、「薄められた独創性の錯覚」なの? わたし子供の頃から浮いてたんだけど。まあこんなのが素なわけだから浮くに決まってるわな。
結局さ、ここで言われているのは「三人の囚人」における「他の囚人を出し抜くこと」だろ。「人間ではない何か」から逃れるために、より人間として認められるために、囚人たちは他人を出し抜いて走り出す。
わたしが言っているのは「お前はわたしと違う」。それがつもりつもって「他の人たちとわたしは違う」となった。
別に出し抜きたくてそうなったわけじゃない。
「他の凡庸さと違う自分」が苦しい。めんどくさい。
「凡庸さ」ってステキじゃん。中島みゆきもそんな歌歌ってなかったっけ。わたしもよく書いているじゃん、「わたしは目立たなくなるために化粧している」と。わたしにとっちゃ化粧はいわば迷彩だ。
凡庸でいられたらどれだけ楽か。少なくとも精神を病んだりしなかっただろうな。
自閉症者の二次障害ってこういうのが原因となっていると思うんだがな。自閉症者はよく「自分と他人は違う」と言う。わたしは彼らのこういった言葉に「三人の囚人」はあてはめない。「他の凡庸さ」を出し抜きたくてそうやっているわけではない、と思える。
つかお前精神分析の臨床について言及しているなら、ブログで臨床すればあ?
「引用」は臨床じゃないぞ。
お前が忌避したがっている「間主観的な、あるいは鏡像関係の泥沼」や「仲良しこよしの頷き合いだけにみえる井戸端会議風」を見つめ続けるのが臨床の現場だろ。フロイトのこの文章みたいに。
お前のここ最近の主張は「臨床からの回避」に見えるわ。
お前にとっての精神分析が、「想像的関係」を否認するための、あるいは自分の「父への欲望」を肯定するための道具じゃなければ、な。
つうかラカンは「自分の業績は鏡像段階論に尽きる」みたいなこと言ったらしいんだが、鏡像段階論こそ、「想像的関係」を、クラインの言う「投影」を、「鏡」という比喩を用いることにより「構造的」に概念化した仕事だろう。
「構造」をもって臨床する、って話であり、自己が「構造的」であればよい、と言っているわけじゃない。
まあ巷のバカラカニアンたちは「ラカンにとって治療に重要なのは、患者を象徴的な関係へと導くこと」とかって思ってるのかもしれんが。
あれだよ、トーラスだよトーラス。
それにゃたとえばお前のラカンに対する転移などこびりついていないだろう?
たとえば「ワニの口にするつっかい棒」こそが、お前にとってのラカンなのかもしれないが、棒は棒だろ。ワニがワニであるように。別のシーンではその棒につまづいてこけるときだってあろう。
その棒を与えてくれた「超越者」みたいなんを想像しているにすぎない。
別にワニに喰われてもいいじゃん。どうしてもうまくつっかい棒できなければ。
これまでと同じ「浮いている」生き方をすればいいだけなんだから。わたしにとっちゃ。
結局あれだよな、「他人と自分は違う」ってのを、なべて「三人の囚人」のごとき「他人を出し抜くためにやっている」と思っちゃうのは、精神分析は外部視点でなければならない、ってことを「メタ視点」と言っちゃうことと同じだよな。
出し抜くから、出し抜かれるから、「メタ」になる。
だーらあたし言ってるじゃん。精神分析は、少なくともラカン派は、「メタ視点」なんて言葉使わずに「村八分視点」って言葉を使った方がよくね、と。ここのコメント欄参照のこと。
これこそ「構造的」見方だと思うんだがな。
「独創性の錯覚」なあ。そんな発想できていたなら「浮いている、浮かないようにしなきゃ」なんて努力はしてこなかったろうよ。
「他人と違うこと」なんてそんないいもんじゃねえよ。
あ、わかったあ。
もしかしてお前、この記事で、
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「そーそーそーゆーことラカニアンとして一歩前進した(キチガイに近づいたとも言える)んじゃね君」
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ってわたしが書いたから、「俺の方がラカンを知っている!」と言いたくて、こんな記事書いたの?
ごめん、この文章ほんとただのギャグなんだけど。「ラカンをあるいは精神分析を多少知ってても、なーんもわたしの正常化には寄与しない。むしろキチガイ化を促進している」って事実が前提にあったから、こういったことを言ったんだけど。自虐の意味がある。自虐ギャグ好きなんだよな。中島みゆきのANNだって大概そうだったろ。
いや、どこに釣れたかがわかんなくてさ。
なんでいきなり「原典」とかの話になったのか、って。
だから「それお前の症状だろ」って話になっちゃったんだよね。
お前がどういう考えでこういった記事を書いたかわかれば、そういった風に述べてあげてもいいよ?
なんかあれだよな。「原典大事」って基本、文系の発想だよな。理系はそら大体数式なわけだし(数式含めた)テクストなんかより実験の方が大事なわけだし。
ジジェクもそう書いてあるじゃん。
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科学とは、《存在》のエポックの歴史性というハイデガー的意味においてですら厳密に非歴史的であるディスクールの、 初めての(そしておそらく唯一の)ケースなのである。
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と。「非歴史的」だから「原典大事」になんてならない。いわば(新宮一成が「大学のディスクール」を読み替えたそれではない)「無頭」たる「科学のディスクール」こそが「蝿頭」だ。
いやまあそら「ラカンという症状」を臨床する際には「原典」あたらなきゃならないんだろうけどさ。そうじゃなければその限りではない。
文系ってほんとよくわからん。「テクスト論者」ってどういう意味かわからんが(ここではわたしの言葉で言う「大文字の他者主義者」と類似の意味だと勝手に解釈している)、理系脳ではあると思う。
あ、わたしは「科学」が「唯一のケース」だとは思わないけど。
ガキは結構普通にしてると思うけどな。「リビドー的な構造」から外れた、いわば自閉症者のエコラリア的なディスクールを。ああまあ「大文字の他者主義者」からすればこんなの「他のケース」とはならないんだろうが。
そういう感じ。
本当に「蝿頭」になりてえよ。
「無頭児になりたい」と再三言ってるじゃんけ。無頭児なら科学すらやらなくていい。
ねえねえ、あなたはなぜこの記事を書いたの? それぞれの言葉の意味は、どういう「あなたの考え」をもってして、述べられたの?
「蝿頭」だから行間とかわかんなーい。
まあそういった意味でほんと文学とは相性の悪い人間だとは思うわ、あたし。
文学者の脳内女って大概単純だよな。この記事とかギャグだがむしろ「女性デー」という単語から上二点のような連想をするお前が滑稽でおもしろかった。グーグルで検索したけどそんな「美女」の写真上の方にはないお? わざわざスクロールして「美女の写真」を探した、と思えちゃうんだけど。少なくとも「たまたまネットサーフィンしてて見つけた」って類のものじゃないだろう。いやまあグーグルなんて時期によって変わるから、お前が見た時期は「美女の写真」がいっぱいあったのかもしれんが。
認めちゃえよ、「ボクチンは想像的関係にどっぷりです」って。別キャラ用意するとかしちめんどくさいことしないで。
まあそのしちめんどくさいことをしちゃうのが神経症だけどな。
わざわざ脳内女を作ってまで女に父を欲望させようというのは、オタクの美少女ハーレム系作品と精神構造は同じ。
大野さんとかはそりゃ確かに父を欲望してるのかもしれないが、そうじゃない女もいる。
ただお前の主観世界に「存在しない」だけ。
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