「鏡像関係の組み入れの失敗例」
2011/04/02/Sat
この記事のこれ。
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ガキは結構普通にしてると思うけどな。「リビドー的な構造」から外れた、いわば自閉症者のエコラリア的なディスクールを。
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この具体例ってどんなんか、って思って、具体例じゃなくただのわたしの創作なんだけど、この記事の登場人物の「岡村」の言動がわかりやすいな、とわたしが思ったのでメモ。
=====
変な知識ばかり覚えているのだろう。「虫は人間の小脳に寄生している」などと。「小脳とか」と僕は思わず笑ってしまう。九歳の女の子が使う言葉じゃない。いやそもそも物語とはそういうものじゃない。じゃあどういうものだ、と言われても答えられないけれど、少なくとも彼女の作る物語は童話じゃない。「小脳」がどういうものか知らずに使ってるだけだろう。そう言えば大人は納得してくれる、と。そう思ってそんな言葉を使っているのだろう。
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どうしても人間的に好きになれない少女が、大人の言う「小脳」という専門用語を真似して使っている。「どういう意味か理解していないまま使っている」とこの主人公は感じている。
これはいわばアスペルガー症候群のエコラリア的症状である。それは、普通の感性を持つ人間(この場合主人公)からすれば不愉快なものとなる。
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いや違う。見抜かれてなんかいない。猿が人真似をしているから不愉快なのだ。猿が人間の言葉をしゃべっているから。人間という猿にとってそれは、言葉なんてなんの意味もないことを思い出させるようなことである。
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これこそが先の記事で言う
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「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞う
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という印象になるのだろう。しかし「岡村」にしてみれば、わたしがそれに対し言った通りである。
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これはもっとラディカルなレベルで「同義語」だよ。「理解すること」自体が「気分」だから。逆に言えば、「気分」ではない「理解」などない。
蓮實のこの文章は逆から言えば彼の「真理に対する期待」という症状だ。
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これをあてはめると、その「岡村」の言動や自閉症者がするエコラリアには、「真理」が「感じられない」ということになる。
藤田博史に言われた「コトバハコトバノコトバカリ」(ここのコメント欄)ってのもそういうこったろうな。
この主人公は「岡村」の言葉に大文字の他者に対する転移を感じられなかったのだろう。
ここで言う「真理」とは、大文字の他者、あるいはそのうしろに控える「偉大なる父」、斎藤環の言葉を借りるなら「主体が外部において出会う、最初の大いなる他者」の承認を得られた「知」である。当然そんなものその主体の妄想にすぎないのだが。
「岡村」の言動や自閉症者がするエコラリアには、それに対する「気遣い」が感じられない。だから彼女の言葉は「真理」ではない。
そう主人公は思ったのだろう。妄想を根拠に。
「真理」など存在しない。「気分」ではない「理解」などない。「岡村」の言動は主人公の心理に対しそういった作用を及ぼした。結果彼は、「人間という猿にとってそれは、言葉なんてなんの意味もないことを思い出させるようなこと」と感じた。
そう考えると、先のブログ主が突然「原典大事」などと主張しはじめた心理も説明できる。
わたしは彼にとって「岡村」だった。わたしの述べるラカン理論は「岡村」が言う「小脳」だ。
「岡村」の言う「小脳」は、それを研究してきた歴史上の科学者たちに対する(転移的な)「気遣い」が感じられない。わたしの述べるラカン理論には、ラカンに対する「気遣い」が感じられない。
「歴史」に対する「気遣い」が感じられない。
「僕はこんなにラカンに転移しているのに」
知るかボケ。わたしにとっちゃーラカンもただの神経症者の一人だ。
「お前みたいな不敬な奴、ラカンが生きていたら不愉快に思うだろう。大文字の他者はお前の言うことなんか認めないだろう」
そんな「仲良しこよしの頷き合いだけにみえる井戸端会議風」お腹いっぱいです。つかこれを「不敬」だと言うならここでも書いているように「構造的」見方自体が「不敬」となるんだが。
何度も言ってるじゃんけ、別にあたしゃラカンに気に入られたくて、かまってほしくてラカン理論を学んでいるわけじゃない。自分が精神的に病んだから、その症状を考える道具として精神分析がそこにあっただけ。
「岡村」やわたしの言動は「ブリコラージュ」である。ジジェクの言う「非歴史的ディスクール」である。またジジェクの言う通り、「欲動としてのディスクール」を「科学」だと定義すれば、「科学的なディスクールである」となる。
大文字の他者なんてどうでもええわ。言葉は言葉だ。
余談。この「岡村」は別に自閉症者をモデルにしたつもりはないが、わたし自身あるいは分裂病型人格障害の幼児をモデルにした。もちろん主人公もわたしの一部であるが。
自閉症状が重篤な、「アスペルガー症候群」ではなく「高機能自閉症」と診断される(実際の医師がそんなこと言ってた。自閉症状が重篤であれば「アスペルガー」ではなく「高機能自閉症」と診断するって感じー、みたいなー、って軽いノリで)人々は、その本音を聞くと分裂病型人格障害のごとき思考パターンをしているケースが多い。
なのでわたしはこう書いた。
=====
あ、わたしは「科学」が「唯一のケース」だとは思わないけど。
ガキは結構普通にしてると思うけどな。「リビドー的な構造」から外れた、いわば自閉症者のエコラリア的なディスクールを。ああまあ「大文字の他者主義者」からすればこんなの「他のケース」とはならないんだろうが。
=====
わたしはこういったケースも「非歴史的ディスクール」だと思える。
この「非歴史」とはラディカルな意味で、である。
どういうことかと言うと、「三人の囚人」のごとき、「人ではない何か」から逃れるために「より人であろうとして」「他人を出し抜く」という心的機制はない。
最初からそんなゲームには参加していないのである。参加させられていたとしても自ら進んで参加していない。この記事から。
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あれは「三人が三人ともいち早く牢屋から抜け出したがっている」って前提があるから成り立つ推論だから。
中に「牢屋からは出たいけど、今この瞬間、この蟻が気になって仕方がないんだよ」なんて奴がいたら、その推論は成り立たない。
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なのでわたしはこう書いた。
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自閉症者の二次障害ってこういうのが原因となっていると思うんだがな。自閉症者はよく「自分と他人は違う」と言う。わたしは彼らのこういった言葉に「三人の囚人」はあてはめない。「他の凡庸さ」を出し抜きたくてそうやっているわけではない、と思える。
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『精神分析事典』によると、自閉症のラカン派解釈は、「鏡像関係の組み入れの失敗例」となっているよな。
「鏡像関係の組み入れ」が失敗しているから、大文字の他者に対する転移も不得手だ。
結果それは、「鏡像関係の組み入れの成功例」すなわち去勢済み主体からすれば、「非歴史的ディスクール」となる。
それだけの話だ。
まああれだろうな、その創作の「別れた彼女」あたりがそのブログ主にとっての「対象関係論者」になるんだろうな。「構造的」に見て(笑)。
彼も本気で「間主観的な、あるいは鏡像関係の泥沼」や「仲良しこよしの頷き合いだけにみえる井戸端会議風」から逃れたいのなら、自閉症を研究すればいいのに。それこそラカン派自身が「鏡像関係の組み入れの失敗例」としている自閉症を。
そういった主体がするディスクールは、「非歴史的ディスクール」となる。
つか彼が突然「原典大事」とかわめきだしたことこそが、わたしにとっては「間主観的な、あるいは鏡像関係の泥沼」だ。彼とラカンの「間主観的な」問題でしかない。
臨床しろよ、ほんとラカニアンは。斎藤環だって言ってただろ、「インストールし終えたラカン理論を無節操にでもいいから応用するべき時期だ」とか。わたしはそれを当の本人たるラカニアンたちに適用しているだけ。藤田博史や水上雅敏やお前というな。それこそ「無節操に」。
たとえばお前の好きな向井雅明はラカン派の文献学的態度をこのコラムで擁護しているが、言っていることは「ラカン派だって臨床している」であって、臨床を棄却すべきだ、という文意ではない。むしろ臨床に対応する理論はつねに「紆余曲折」している、という話だ。
このブログ主は臨床をしていない。
彼もまた、
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ラカンはクリスを批判してこう言っていた――「あなたの意図はまっすぐでも――なぜならあなたの判断も間違いなくまっすぐなのだから――、物事のほうは、曲折している」。
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の「クリス」だ。
お前のその記事の「原典主義」たる症状とか「意図」が「まっすぐ」すぎるだろ。こことか特に。
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あなた、私が「精神病」と「神経症」って書いたの見てそれを受けて、「精神病」についてぐたぐた初歩的な教科書のようなこと書いたでしょ、フロイトやラカンが固執する「構造的」見方を全く失念して―――「失念」でしょうね、まさか知らなかったわけじゃないでしょうね、ちょっとそう見えたこともあるのだけれど―――、観察による症状の区別のみを延々と書き続けたときには、なかなかあいた口がふさがらなくてね
=====
「観察による症状の区別のみを延々と書き続けた」こととか、向井の言う「実践」たる「紆余曲折」だってことにならないか?
お前の無意識が「クリス」のように「まっすぐ」だったから、「あいた口がふさがら」なかったんだろ。
ほんとこの記事のこれまんまだわ。
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あれだよ、ラカン派がわたしを研究したら、クライン派をぼこるヒントを得られるかもしんないよ?
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わたし自閉症じゃないけど「鏡像関係の組み入れの失敗例」だと思ってるからね。分析主体としてラカン理論を学んだ結果。
忌避すればいいってもんじゃねえぞ、それを。「想像的な関係」を。
それこそ「お前という症状」にも根底にあるそれを他人になすりつけているだけだ。
お前もフロイトの言葉を引用してこう書いているじゃんけ。
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どちらも、他人の欠点は目に付くが、実は、そうやって批判することは、自分の欠点を告白しているにすぎない、という指摘である
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お前がしている「対象関係論批判という症状」もそうだよ。
お前個人の症状の問題だ。
他人ブログのコメント欄だけど「原典うんたら」の件におけるわたしのスタンス一年以上前から明言してるじゃん。ここのコメント欄。
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ラカン派とか、文献学的にラカン論に接する人が多いのだよね。そこを臨床派につっつかれることがある。クライン派なんかは臨床重視だから、ラカン派vsクライン派なんて図式になることもある。このコラムのように。
http://psychanalyse.jp/columns.html#Theorie_et_pratique
で、わたしのラカン論に対する態度は、決して文献学的とは言えない。文献学派からすれば間違いが多いものになるだろう。実際ビオンなんか理論的な(じゃなくて文献学的な、なんだよな、「クラインの解釈とは違う」ってことなんだから)誤りを指摘されていることが多い。つかクライン論自体が理論的に穴だらけなんだがな。ラカン派(笑)のわたしからすれば。
んでもわたしはクライン論もラカン論もただの道具だから、どっちでもいいんだよね。自分のメスとして、その時使える方を使う。わたしの思想は基本ものすごーくクラインよりだとは思うけど、人を切る時はラカン論を多用するしね。切れ味いいから。
だから、文献学派みたいな人がいないと困る、ってのはある。メスは錆びるものだからね。研ぎ師みたいなものか。ありがたやーってすら思う。
だから、この向井さんのコラムの論旨、「文献学的態度も臨床重視態度も、どっちも大事だろ?」っていうのはほぼ同意で、つかわざわざそんなこと言う必要あるの? ってレベルだ。
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ってこと。
こういったブログ主みたいな奴が突然「原典大事」なんて主張しはじめるから、わたしは
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んで、ジジェクが売れててくやしいなら、日本にゃ2ちゃんねるなんてほんと精神分析からしてみればお宝の山があるのに、誰もしないんだよね。
ほんと日本のラカニアンって、精神分析理論がS2になってないと思う。つまり分析家のディスクールになってない。彼らの理論はS1になっている。宗教になっている。宗教になっているから、聖書の言葉で2ちゃんねるなんて便所の落書き語れない、ってことなのかね。
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なんて思っちゃう。わたしにとっちゃ彼のこういった症状こそが「宗教になっている。」と思える。
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ラカン理論は道具として利用するがラカン教に入信するつもりはない。
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日本のラカニアンたちはほんと自分の心を分析する時期なんじゃねえの。
分析主体になって。
あとさ、どうでもいいことだけど一応言っておくけど、「糖菓」とかってニーチェの言葉を引用しまくってるのなんでかな、って思ったんだが、こいつはわたしのことをこう考えているらしい。
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<あなた>がニーチェ的徳目を実践しているのはわかるけど、
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こいつの脳内わたしは「ニーチェ的徳目を実践している」。
ふうん、そうなんだあ、としか思わなかったんだよね。別にニーチェは嫌いじゃないし。
でもなー。(同じく電波である)アルトーと比べるとすっぱりわかりやすいと思うんだが、ニーチェはどうあがいても「観客」な人なんだよね。アルトーはどうあがいても「演劇人」(「観客」を含む)。
だからねー、別にニーチェってそんなたいしたこと言ってないように思えるんだよな。わたしという個人にとって。道具としてはいい道具だけど。
だから別にニーチェの言葉を引用されても、そういう言葉だなあ、としか思わないんだよね。
つかそのあとの言葉がわけわかんないな。
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軟弱な「対象」だと「幸福」の訪れは微々たるものだよ。
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彼の脳内わたしは「幸福」が訪れるためにこういった言動をしている、ということか。
この記事とか読んでほしいわ、行間とか読まずに字義通りに。
結局こういう思考回路って、「そんなこと言いながら「幸福」を「押し売り」されて嬉しいんだろ?」ってことだよな。つまりは「イヤヨイヤヨも好きのうち」。
単なるオヤジ思考じゃん。
だからお前みたいなのが女言葉使うとキモイのだよ。
またこの文章こそがお前が「想像的関係にどっぷりなこと」の証拠でもあると思うんだがな。
お前の脳内「リビドー的な構造」が揺るがされたことに対する反応だと、わたしは解釈するが、どうか。
でもあれか。
わたしがすべて引き受けようじゃないか。
お前たち人間という動物において動物行動学的に観察できるある集団傾向、「キチガイに対する偏見」という妄想を。
お前たち、現代精神医学において正常とされている人間たちをすべて敵に回して。
わたしがこんなことを言いはじめたら「なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚」と言われてもいいよ。
わたしゃただのパニック障害者だ。
パラノイアへのジョブチェンジだな。立派な「父の名が排除された」精神病者になるだろう。
ちょっとそのケはあるよな。
殺せ、殺せ、人間を殺せ。
結構マジでそう思ってる部分はある。ここでの「人間」は「現代精神医学において正常とされている人間たち」という意味な。
死ね。
素でそう思う。
傲慢すぎるんだよ、お前らは。男も女も「正常な人間」はみんな「イヤヨイヤヨも好きのうち」だ。わたしの「イヤ」という言葉に「好き」という妄想をおっかぶせてくる。「あなたのためよ」と言いながら「感情のむすびつき」をおっかぶせてくる。まるで「ほおらこれが気持ちいいんだろ?」とのたまうレイプ犯のごとく。「「幸福」の訪れは微々たるものだよ。」と言っちゃうお前の無意識は、あるいはお前の女キャラは、2ちゃんという便所の落書きにによく書かれている「ああん、いやなのに、らめえ! ビクンビクン」とかその系列コピペと精神構造は同じ。
わかりやすいようにヒステリーっぽく言ってみますた。
つか自閉症者のエコラリアとか「岡村」の言う「小脳」なんてまったく「独創的」じゃないだろ。なんでそんな発想になるのか自体が理解できんわ。
ここがピンと来ないわたしからすれば、「なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚」とか言っちゃう蓮實もそれを理解できちゃうお前も、「ああんらめえ、そんなこと言われてもどうしてもお父さまを欲望しちゃうぅ」なんてエロマンガにありがちな心の葛藤を述べているだけにしか見えないんだがな。
お前の女キャラってそういうキャラだよ。
そら男はそういうキャラ好きだろ。「自分の父に対するリビドーを肯定してくれる女」ってことになるからな。
こういうのこそが「リビドー的な構造」だと思うんだがな。
「ファルスとは自慰である」ってこういう意味だと思ってたけど、違うの?
こういうのを揺るがされる(「弛緩」)ことに対する過剰反応が、フロイトが論じた「嫉妬妄想」じゃないの?
あれだ、ぶっちゃけ、「通時的視点しかしてこなかった文化人類学や言語学に共時的視点を持ち込んだ」「非歴史的ディスクール」たる構造主義は、いわば「王様は裸だ」ってことだよ。
そらそうだろ、異文化の人間からすれば王様だってただのそういう人間でしかない。ラカンもフロイトも蓮實重彦も。
その上で、「なぜこの異文化の人たちは「素晴らしい服だ」とか言うのだろう?」と研究するのが、わたしにとっての構造主義だ。
わたしにとって「この異文化の人たち」とは「現代精神医学において正常とされている人間たち」だ。子供の頃からそうだった。「テレパシー」を使える人たち。わたしには見えない服が見える人たち。
それは去勢済み主体であり神経症者である、と。
精神病に対しては著しくその解釈能力が発揮できなくなるのに、神経症解釈においては鋭い切れ味を持つラカン理論という道具は、そんなわたしの研究にとってぴったりだろ?
え、なんかわたしの言ってることおかしい?
「スバラシイフクデゴザイマスネ」ぐらいは言えるさ。そら元演劇人だからな。
「あなたのちんちん決して大きくはないけど、わたしにはジャストフィットよ」
ぐらいはな。
ああそうそう。「蝿叩き」とか「グサッ」とか行間がわからなかったけど、「あんまりやるすぎるとお前潰すよ?」って脅迫の意味だったの? まさにレイプ犯の思考回路じゃんか。「力づくで言うことを聞かせてやる」とか。
ごめんねー、藤田博史みたいにはっきりと脅迫してくれないとわからないのよ。
あれよね、訴えるつもりはないのに「訴える」とか言うのも脅迫なんだよね。
そんなことするぐらいならその女キャラでもレイプしてろよ。脳内女なら「リビドー的な構造」を「弛緩」させてはこないだろ。「自慰」とはもっとも理想的な性関係である。
こういうのがファルスという症状だと思ってたんだけどなあ。
去勢済み主体がみんな持っている病理。
「嫉妬深い神」たるヤハウェってそういう解釈なんじゃないの。「リビドー的な構造を弛緩させられることに対する過剰な拒絶反応」ってのの象徴。
そら「動物のように性交する民衆を従えていた神」アスタルテを憎むわ。
精神分析的に言えば、欲望を揺るがす欲動に対する憎しみ。
ああ、「リビドー的な構造を弛緩させられることに対する過剰な拒絶反応を甘く見るな」って意味になるのか。
わたしよくわかってるつもりだけどな。実際に殴られもしたしストーキングもされたし。
あ、今気づいた。わたしにとっては向井の言う「紆余曲折」を、彼は「独創性」だと思ったのか。
何が「独創」なんだろうな。(ラカン的な意味での)現実って「独」(自体愛的な意味で、あるいはリビドー的な構造から外れているという意味で)ではあるが「創」ではないだろ。
彼の主観世界には現実が存在しないから、「創」になるのか。
ああ、まさに倒錯だよな。彼の文学作品の好みにも合致する。
「(正常な人間たる)医師の前に立った精神病者は、医師と比べるとあたかも過酷な冒険をしている冒険家のようだ」
って誰が言ったんだっけ。
つかこいつにつっこめばつっこむほどわたしの「原典とかどうでもいい」ラカン理論の切れ味が増しているような気がする。
ああ、これが「糖菓」ってこと?
刃物の切れ味が増すことって「甘い」の?
それこそ倒錯だろ。
お前が父を欲望しているから「甘く」なるだけ。
怖い。なんか急に怖くなった。
本当、男も女も死ねばいいのに。
ファルスという病理を持った「現代精神医学において正常とされている人間たち」は。
「リビドー的な構造を弛緩させられることに対する過剰な拒絶反応」をするキチガイどもは。
殺してやる。
殺しあい。
あー『JIN』またやるのかー。
死ねなくなったな。
大沢たかお役者として嫌いだったけどこれだけは認めてやる。
つかちょっとファンになってる。
内野の坂本龍馬もあの浮いている感が批判されてたりするんだけど、むしろそれがすげーなんかしっくりくる。このドラマ構造の中だと。『臨場』とかはアウトだったけど。あのドラマ構造であの演技はいかんだろ。厭世的な、それこそそのブログ主みたいなタイプが主人公だった方がしっくりくると思うんだけど。ドラマのテーマとして。
そうだよな、(このドラマの)龍馬みたいなのが、「三人の囚人」で出し抜こうとして「なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚」をした症状なんじゃないの? そんなセリフなかったっけ。「他人はあとからついてくる」みたいな。
ああそうか、「医療の限界」という現実的なことをテーマにしているドラマで、脇役だからいいんだな、内野龍馬は。これが主人公だったらさすがにうざいだろう。『臨場』は逆だよな。
自閉症ではないよな、龍馬は。ADHDだったとかっては言われてるけど。医療ドラマだからこそあのざーとらしい浮いている感にリアリティならぬアクチュアリティがあると思える、ってことか。こういう症状なんだな、って思える。
内野も素でADHDのケがあるんじゃないの、って思ってしまうほど、いい感じ。騙されてる。
『臨場』の主人公はどっちかってと離人症状あるいは解離症状だったんじゃないの、って思うな。ドラマの作りとして。トラウマあっただろ、主人公に。
今思ったけど「原典」に拘るならラカン理論で自閉症を語れないだろ。ラカン本人は(「原典主義」ではないわたしの管見では)自閉症に一切言及してないし。
なのに『精神分析事典』では自閉症を解釈している。
どうせ『精神分析事典』はOKなんだろうな。彼の中では。
彼の脳内『精神分析事典』執筆者は、ラカンに対し「気遣い」をしているのだろうから。
わたしの言う「小脳」がだめなのは、彼の脳内わたしはラカンに対し「気遣い」をしていないから。
そういう話なんじゃないの。
結局は彼の「主人のディスクール」という症状なんだよな。
ラカンという「物言わぬ主人」への「気遣い」。
彼の脳内ラカンという主人の奴隷になることで、彼は「物言わぬ」「死人に口なし」たる彼の脳内ラカンの主人となっている。
「原典主義」を主張することで、彼の無意識の「/S◇a」たる「全体性の幻想」は維持されている。
「そうならざる得ない」んだろうな。彼の症状なわけだから。
精神疾患者は精神疾患になりたくてなってるわけではないのと同様に。
「独創性」なんて求めて「他人と違ってしまう」わけではない自閉症者と同様に。
「そうならざる得ない」んだよ。
どう話しても「主人のディスクール」にならないのが未去勢者。
どう話しても「主人のディスクール」になっちゃうのがお前などという去勢済み主体。
お前はそれをうじうじ言っているだけ。
どう話しても「他人と同じ」になってしまうことの愚痴。「全体性の幻想」から逃れられないお前の症状。
「なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚」とか思ってしまうのはお前のルサンチマン。
「お前も俺たちと同様に他人と同じになってしまうんだよ」
お前がそうだからって他人に押しつけんなよ。
むしろ「他人と違うことなんてそんなうらやむようなことじゃねえよ、「独創性」とかって話じゃないわ」とわたしは言っている。
そらそうだろ、わたしが言っている「他人と違ってしまう人たち」ってのは未去勢者であり、たとえば自閉症などの精神障害者や精神疾患者だ。
お前は精神障害者をうらやんでいるのかい? 違うだろ?
彼らはお前らという「人間津波」に、お前らの「リビドー的な構造を弛緩させられることに対する過剰な拒絶反応」により迫害され殺されてきた人間たちだから。それこそ「蝿叩き」とかでな。
「キチガイは迫害してよい。なぜならわれわれのリビドー的な構造を弛緩させるからだ」
そんな立場がうらやましいのかい?
フロイトの言う「原父」はすべての女性を支配していたが、支配されたからと言って支配者を欲望しているとは限らないだろう。
それこそ「亭主元気で留守がいい」だ。
お前の脳内欲望しまくり女キャラはこんなセリフを言えないだろうな。
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ガキは結構普通にしてると思うけどな。「リビドー的な構造」から外れた、いわば自閉症者のエコラリア的なディスクールを。
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この具体例ってどんなんか、って思って、具体例じゃなくただのわたしの創作なんだけど、この記事の登場人物の「岡村」の言動がわかりやすいな、とわたしが思ったのでメモ。
=====
変な知識ばかり覚えているのだろう。「虫は人間の小脳に寄生している」などと。「小脳とか」と僕は思わず笑ってしまう。九歳の女の子が使う言葉じゃない。いやそもそも物語とはそういうものじゃない。じゃあどういうものだ、と言われても答えられないけれど、少なくとも彼女の作る物語は童話じゃない。「小脳」がどういうものか知らずに使ってるだけだろう。そう言えば大人は納得してくれる、と。そう思ってそんな言葉を使っているのだろう。
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どうしても人間的に好きになれない少女が、大人の言う「小脳」という専門用語を真似して使っている。「どういう意味か理解していないまま使っている」とこの主人公は感じている。
これはいわばアスペルガー症候群のエコラリア的症状である。それは、普通の感性を持つ人間(この場合主人公)からすれば不愉快なものとなる。
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いや違う。見抜かれてなんかいない。猿が人真似をしているから不愉快なのだ。猿が人間の言葉をしゃべっているから。人間という猿にとってそれは、言葉なんてなんの意味もないことを思い出させるようなことである。
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これこそが先の記事で言う
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「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞う
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という印象になるのだろう。しかし「岡村」にしてみれば、わたしがそれに対し言った通りである。
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これはもっとラディカルなレベルで「同義語」だよ。「理解すること」自体が「気分」だから。逆に言えば、「気分」ではない「理解」などない。
蓮實のこの文章は逆から言えば彼の「真理に対する期待」という症状だ。
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これをあてはめると、その「岡村」の言動や自閉症者がするエコラリアには、「真理」が「感じられない」ということになる。
藤田博史に言われた「コトバハコトバノコトバカリ」(ここのコメント欄)ってのもそういうこったろうな。
この主人公は「岡村」の言葉に大文字の他者に対する転移を感じられなかったのだろう。
ここで言う「真理」とは、大文字の他者、あるいはそのうしろに控える「偉大なる父」、斎藤環の言葉を借りるなら「主体が外部において出会う、最初の大いなる他者」の承認を得られた「知」である。当然そんなものその主体の妄想にすぎないのだが。
「岡村」の言動や自閉症者がするエコラリアには、それに対する「気遣い」が感じられない。だから彼女の言葉は「真理」ではない。
そう主人公は思ったのだろう。妄想を根拠に。
「真理」など存在しない。「気分」ではない「理解」などない。「岡村」の言動は主人公の心理に対しそういった作用を及ぼした。結果彼は、「人間という猿にとってそれは、言葉なんてなんの意味もないことを思い出させるようなこと」と感じた。
そう考えると、先のブログ主が突然「原典大事」などと主張しはじめた心理も説明できる。
わたしは彼にとって「岡村」だった。わたしの述べるラカン理論は「岡村」が言う「小脳」だ。
「岡村」の言う「小脳」は、それを研究してきた歴史上の科学者たちに対する(転移的な)「気遣い」が感じられない。わたしの述べるラカン理論には、ラカンに対する「気遣い」が感じられない。
「歴史」に対する「気遣い」が感じられない。
「僕はこんなにラカンに転移しているのに」
知るかボケ。わたしにとっちゃーラカンもただの神経症者の一人だ。
「お前みたいな不敬な奴、ラカンが生きていたら不愉快に思うだろう。大文字の他者はお前の言うことなんか認めないだろう」
そんな「仲良しこよしの頷き合いだけにみえる井戸端会議風」お腹いっぱいです。つかこれを「不敬」だと言うならここでも書いているように「構造的」見方自体が「不敬」となるんだが。
何度も言ってるじゃんけ、別にあたしゃラカンに気に入られたくて、かまってほしくてラカン理論を学んでいるわけじゃない。自分が精神的に病んだから、その症状を考える道具として精神分析がそこにあっただけ。
「岡村」やわたしの言動は「ブリコラージュ」である。ジジェクの言う「非歴史的ディスクール」である。またジジェクの言う通り、「欲動としてのディスクール」を「科学」だと定義すれば、「科学的なディスクールである」となる。
大文字の他者なんてどうでもええわ。言葉は言葉だ。
余談。この「岡村」は別に自閉症者をモデルにしたつもりはないが、わたし自身あるいは分裂病型人格障害の幼児をモデルにした。もちろん主人公もわたしの一部であるが。
自閉症状が重篤な、「アスペルガー症候群」ではなく「高機能自閉症」と診断される(実際の医師がそんなこと言ってた。自閉症状が重篤であれば「アスペルガー」ではなく「高機能自閉症」と診断するって感じー、みたいなー、って軽いノリで)人々は、その本音を聞くと分裂病型人格障害のごとき思考パターンをしているケースが多い。
なのでわたしはこう書いた。
=====
あ、わたしは「科学」が「唯一のケース」だとは思わないけど。
ガキは結構普通にしてると思うけどな。「リビドー的な構造」から外れた、いわば自閉症者のエコラリア的なディスクールを。ああまあ「大文字の他者主義者」からすればこんなの「他のケース」とはならないんだろうが。
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わたしはこういったケースも「非歴史的ディスクール」だと思える。
この「非歴史」とはラディカルな意味で、である。
どういうことかと言うと、「三人の囚人」のごとき、「人ではない何か」から逃れるために「より人であろうとして」「他人を出し抜く」という心的機制はない。
最初からそんなゲームには参加していないのである。参加させられていたとしても自ら進んで参加していない。この記事から。
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あれは「三人が三人ともいち早く牢屋から抜け出したがっている」って前提があるから成り立つ推論だから。
中に「牢屋からは出たいけど、今この瞬間、この蟻が気になって仕方がないんだよ」なんて奴がいたら、その推論は成り立たない。
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なのでわたしはこう書いた。
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自閉症者の二次障害ってこういうのが原因となっていると思うんだがな。自閉症者はよく「自分と他人は違う」と言う。わたしは彼らのこういった言葉に「三人の囚人」はあてはめない。「他の凡庸さ」を出し抜きたくてそうやっているわけではない、と思える。
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『精神分析事典』によると、自閉症のラカン派解釈は、「鏡像関係の組み入れの失敗例」となっているよな。
「鏡像関係の組み入れ」が失敗しているから、大文字の他者に対する転移も不得手だ。
結果それは、「鏡像関係の組み入れの成功例」すなわち去勢済み主体からすれば、「非歴史的ディスクール」となる。
それだけの話だ。
まああれだろうな、その創作の「別れた彼女」あたりがそのブログ主にとっての「対象関係論者」になるんだろうな。「構造的」に見て(笑)。
彼も本気で「間主観的な、あるいは鏡像関係の泥沼」や「仲良しこよしの頷き合いだけにみえる井戸端会議風」から逃れたいのなら、自閉症を研究すればいいのに。それこそラカン派自身が「鏡像関係の組み入れの失敗例」としている自閉症を。
そういった主体がするディスクールは、「非歴史的ディスクール」となる。
つか彼が突然「原典大事」とかわめきだしたことこそが、わたしにとっては「間主観的な、あるいは鏡像関係の泥沼」だ。彼とラカンの「間主観的な」問題でしかない。
臨床しろよ、ほんとラカニアンは。斎藤環だって言ってただろ、「インストールし終えたラカン理論を無節操にでもいいから応用するべき時期だ」とか。わたしはそれを当の本人たるラカニアンたちに適用しているだけ。藤田博史や水上雅敏やお前というな。それこそ「無節操に」。
たとえばお前の好きな向井雅明はラカン派の文献学的態度をこのコラムで擁護しているが、言っていることは「ラカン派だって臨床している」であって、臨床を棄却すべきだ、という文意ではない。むしろ臨床に対応する理論はつねに「紆余曲折」している、という話だ。
このブログ主は臨床をしていない。
彼もまた、
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ラカンはクリスを批判してこう言っていた――「あなたの意図はまっすぐでも――なぜならあなたの判断も間違いなくまっすぐなのだから――、物事のほうは、曲折している」。
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の「クリス」だ。
お前のその記事の「原典主義」たる症状とか「意図」が「まっすぐ」すぎるだろ。こことか特に。
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あなた、私が「精神病」と「神経症」って書いたの見てそれを受けて、「精神病」についてぐたぐた初歩的な教科書のようなこと書いたでしょ、フロイトやラカンが固執する「構造的」見方を全く失念して―――「失念」でしょうね、まさか知らなかったわけじゃないでしょうね、ちょっとそう見えたこともあるのだけれど―――、観察による症状の区別のみを延々と書き続けたときには、なかなかあいた口がふさがらなくてね
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「観察による症状の区別のみを延々と書き続けた」こととか、向井の言う「実践」たる「紆余曲折」だってことにならないか?
お前の無意識が「クリス」のように「まっすぐ」だったから、「あいた口がふさがら」なかったんだろ。
ほんとこの記事のこれまんまだわ。
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あれだよ、ラカン派がわたしを研究したら、クライン派をぼこるヒントを得られるかもしんないよ?
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わたし自閉症じゃないけど「鏡像関係の組み入れの失敗例」だと思ってるからね。分析主体としてラカン理論を学んだ結果。
忌避すればいいってもんじゃねえぞ、それを。「想像的な関係」を。
それこそ「お前という症状」にも根底にあるそれを他人になすりつけているだけだ。
お前もフロイトの言葉を引用してこう書いているじゃんけ。
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どちらも、他人の欠点は目に付くが、実は、そうやって批判することは、自分の欠点を告白しているにすぎない、という指摘である
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お前がしている「対象関係論批判という症状」もそうだよ。
お前個人の症状の問題だ。
他人ブログのコメント欄だけど「原典うんたら」の件におけるわたしのスタンス一年以上前から明言してるじゃん。ここのコメント欄。
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ラカン派とか、文献学的にラカン論に接する人が多いのだよね。そこを臨床派につっつかれることがある。クライン派なんかは臨床重視だから、ラカン派vsクライン派なんて図式になることもある。このコラムのように。
http://psychanalyse.jp/columns.html#Theorie_et_pratique
で、わたしのラカン論に対する態度は、決して文献学的とは言えない。文献学派からすれば間違いが多いものになるだろう。実際ビオンなんか理論的な(じゃなくて文献学的な、なんだよな、「クラインの解釈とは違う」ってことなんだから)誤りを指摘されていることが多い。つかクライン論自体が理論的に穴だらけなんだがな。ラカン派(笑)のわたしからすれば。
んでもわたしはクライン論もラカン論もただの道具だから、どっちでもいいんだよね。自分のメスとして、その時使える方を使う。わたしの思想は基本ものすごーくクラインよりだとは思うけど、人を切る時はラカン論を多用するしね。切れ味いいから。
だから、文献学派みたいな人がいないと困る、ってのはある。メスは錆びるものだからね。研ぎ師みたいなものか。ありがたやーってすら思う。
だから、この向井さんのコラムの論旨、「文献学的態度も臨床重視態度も、どっちも大事だろ?」っていうのはほぼ同意で、つかわざわざそんなこと言う必要あるの? ってレベルだ。
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ってこと。
こういったブログ主みたいな奴が突然「原典大事」なんて主張しはじめるから、わたしは
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んで、ジジェクが売れててくやしいなら、日本にゃ2ちゃんねるなんてほんと精神分析からしてみればお宝の山があるのに、誰もしないんだよね。
ほんと日本のラカニアンって、精神分析理論がS2になってないと思う。つまり分析家のディスクールになってない。彼らの理論はS1になっている。宗教になっている。宗教になっているから、聖書の言葉で2ちゃんねるなんて便所の落書き語れない、ってことなのかね。
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なんて思っちゃう。わたしにとっちゃ彼のこういった症状こそが「宗教になっている。」と思える。
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ラカン理論は道具として利用するがラカン教に入信するつもりはない。
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日本のラカニアンたちはほんと自分の心を分析する時期なんじゃねえの。
分析主体になって。
あとさ、どうでもいいことだけど一応言っておくけど、「糖菓」とかってニーチェの言葉を引用しまくってるのなんでかな、って思ったんだが、こいつはわたしのことをこう考えているらしい。
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<あなた>がニーチェ的徳目を実践しているのはわかるけど、
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こいつの脳内わたしは「ニーチェ的徳目を実践している」。
ふうん、そうなんだあ、としか思わなかったんだよね。別にニーチェは嫌いじゃないし。
でもなー。(同じく電波である)アルトーと比べるとすっぱりわかりやすいと思うんだが、ニーチェはどうあがいても「観客」な人なんだよね。アルトーはどうあがいても「演劇人」(「観客」を含む)。
だからねー、別にニーチェってそんなたいしたこと言ってないように思えるんだよな。わたしという個人にとって。道具としてはいい道具だけど。
だから別にニーチェの言葉を引用されても、そういう言葉だなあ、としか思わないんだよね。
つかそのあとの言葉がわけわかんないな。
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軟弱な「対象」だと「幸福」の訪れは微々たるものだよ。
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彼の脳内わたしは「幸福」が訪れるためにこういった言動をしている、ということか。
この記事とか読んでほしいわ、行間とか読まずに字義通りに。
結局こういう思考回路って、「そんなこと言いながら「幸福」を「押し売り」されて嬉しいんだろ?」ってことだよな。つまりは「イヤヨイヤヨも好きのうち」。
単なるオヤジ思考じゃん。
だからお前みたいなのが女言葉使うとキモイのだよ。
またこの文章こそがお前が「想像的関係にどっぷりなこと」の証拠でもあると思うんだがな。
お前の脳内「リビドー的な構造」が揺るがされたことに対する反応だと、わたしは解釈するが、どうか。
でもあれか。
わたしがすべて引き受けようじゃないか。
お前たち人間という動物において動物行動学的に観察できるある集団傾向、「キチガイに対する偏見」という妄想を。
お前たち、現代精神医学において正常とされている人間たちをすべて敵に回して。
わたしがこんなことを言いはじめたら「なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚」と言われてもいいよ。
わたしゃただのパニック障害者だ。
パラノイアへのジョブチェンジだな。立派な「父の名が排除された」精神病者になるだろう。
ちょっとそのケはあるよな。
殺せ、殺せ、人間を殺せ。
結構マジでそう思ってる部分はある。ここでの「人間」は「現代精神医学において正常とされている人間たち」という意味な。
死ね。
素でそう思う。
傲慢すぎるんだよ、お前らは。男も女も「正常な人間」はみんな「イヤヨイヤヨも好きのうち」だ。わたしの「イヤ」という言葉に「好き」という妄想をおっかぶせてくる。「あなたのためよ」と言いながら「感情のむすびつき」をおっかぶせてくる。まるで「ほおらこれが気持ちいいんだろ?」とのたまうレイプ犯のごとく。「「幸福」の訪れは微々たるものだよ。」と言っちゃうお前の無意識は、あるいはお前の女キャラは、2ちゃんという便所の落書きにによく書かれている「ああん、いやなのに、らめえ! ビクンビクン」とかその系列コピペと精神構造は同じ。
わかりやすいようにヒステリーっぽく言ってみますた。
つか自閉症者のエコラリアとか「岡村」の言う「小脳」なんてまったく「独創的」じゃないだろ。なんでそんな発想になるのか自体が理解できんわ。
ここがピンと来ないわたしからすれば、「なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚」とか言っちゃう蓮實もそれを理解できちゃうお前も、「ああんらめえ、そんなこと言われてもどうしてもお父さまを欲望しちゃうぅ」なんてエロマンガにありがちな心の葛藤を述べているだけにしか見えないんだがな。
お前の女キャラってそういうキャラだよ。
そら男はそういうキャラ好きだろ。「自分の父に対するリビドーを肯定してくれる女」ってことになるからな。
こういうのこそが「リビドー的な構造」だと思うんだがな。
「ファルスとは自慰である」ってこういう意味だと思ってたけど、違うの?
こういうのを揺るがされる(「弛緩」)ことに対する過剰反応が、フロイトが論じた「嫉妬妄想」じゃないの?
あれだ、ぶっちゃけ、「通時的視点しかしてこなかった文化人類学や言語学に共時的視点を持ち込んだ」「非歴史的ディスクール」たる構造主義は、いわば「王様は裸だ」ってことだよ。
そらそうだろ、異文化の人間からすれば王様だってただのそういう人間でしかない。ラカンもフロイトも蓮實重彦も。
その上で、「なぜこの異文化の人たちは「素晴らしい服だ」とか言うのだろう?」と研究するのが、わたしにとっての構造主義だ。
わたしにとって「この異文化の人たち」とは「現代精神医学において正常とされている人間たち」だ。子供の頃からそうだった。「テレパシー」を使える人たち。わたしには見えない服が見える人たち。
それは去勢済み主体であり神経症者である、と。
精神病に対しては著しくその解釈能力が発揮できなくなるのに、神経症解釈においては鋭い切れ味を持つラカン理論という道具は、そんなわたしの研究にとってぴったりだろ?
え、なんかわたしの言ってることおかしい?
「スバラシイフクデゴザイマスネ」ぐらいは言えるさ。そら元演劇人だからな。
「あなたのちんちん決して大きくはないけど、わたしにはジャストフィットよ」
ぐらいはな。
ああそうそう。「蝿叩き」とか「グサッ」とか行間がわからなかったけど、「あんまりやるすぎるとお前潰すよ?」って脅迫の意味だったの? まさにレイプ犯の思考回路じゃんか。「力づくで言うことを聞かせてやる」とか。
ごめんねー、藤田博史みたいにはっきりと脅迫してくれないとわからないのよ。
あれよね、訴えるつもりはないのに「訴える」とか言うのも脅迫なんだよね。
そんなことするぐらいならその女キャラでもレイプしてろよ。脳内女なら「リビドー的な構造」を「弛緩」させてはこないだろ。「自慰」とはもっとも理想的な性関係である。
こういうのがファルスという症状だと思ってたんだけどなあ。
去勢済み主体がみんな持っている病理。
「嫉妬深い神」たるヤハウェってそういう解釈なんじゃないの。「リビドー的な構造を弛緩させられることに対する過剰な拒絶反応」ってのの象徴。
そら「動物のように性交する民衆を従えていた神」アスタルテを憎むわ。
精神分析的に言えば、欲望を揺るがす欲動に対する憎しみ。
ああ、「リビドー的な構造を弛緩させられることに対する過剰な拒絶反応を甘く見るな」って意味になるのか。
わたしよくわかってるつもりだけどな。実際に殴られもしたしストーキングもされたし。
あ、今気づいた。わたしにとっては向井の言う「紆余曲折」を、彼は「独創性」だと思ったのか。
何が「独創」なんだろうな。(ラカン的な意味での)現実って「独」(自体愛的な意味で、あるいはリビドー的な構造から外れているという意味で)ではあるが「創」ではないだろ。
彼の主観世界には現実が存在しないから、「創」になるのか。
ああ、まさに倒錯だよな。彼の文学作品の好みにも合致する。
「(正常な人間たる)医師の前に立った精神病者は、医師と比べるとあたかも過酷な冒険をしている冒険家のようだ」
って誰が言ったんだっけ。
つかこいつにつっこめばつっこむほどわたしの「原典とかどうでもいい」ラカン理論の切れ味が増しているような気がする。
ああ、これが「糖菓」ってこと?
刃物の切れ味が増すことって「甘い」の?
それこそ倒錯だろ。
お前が父を欲望しているから「甘く」なるだけ。
怖い。なんか急に怖くなった。
本当、男も女も死ねばいいのに。
ファルスという病理を持った「現代精神医学において正常とされている人間たち」は。
「リビドー的な構造を弛緩させられることに対する過剰な拒絶反応」をするキチガイどもは。
殺してやる。
殺しあい。
あー『JIN』またやるのかー。
死ねなくなったな。
大沢たかお役者として嫌いだったけどこれだけは認めてやる。
つかちょっとファンになってる。
内野の坂本龍馬もあの浮いている感が批判されてたりするんだけど、むしろそれがすげーなんかしっくりくる。このドラマ構造の中だと。『臨場』とかはアウトだったけど。あのドラマ構造であの演技はいかんだろ。厭世的な、それこそそのブログ主みたいなタイプが主人公だった方がしっくりくると思うんだけど。ドラマのテーマとして。
そうだよな、(このドラマの)龍馬みたいなのが、「三人の囚人」で出し抜こうとして「なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚」をした症状なんじゃないの? そんなセリフなかったっけ。「他人はあとからついてくる」みたいな。
ああそうか、「医療の限界」という現実的なことをテーマにしているドラマで、脇役だからいいんだな、内野龍馬は。これが主人公だったらさすがにうざいだろう。『臨場』は逆だよな。
自閉症ではないよな、龍馬は。ADHDだったとかっては言われてるけど。医療ドラマだからこそあのざーとらしい浮いている感にリアリティならぬアクチュアリティがあると思える、ってことか。こういう症状なんだな、って思える。
内野も素でADHDのケがあるんじゃないの、って思ってしまうほど、いい感じ。騙されてる。
『臨場』の主人公はどっちかってと離人症状あるいは解離症状だったんじゃないの、って思うな。ドラマの作りとして。トラウマあっただろ、主人公に。
今思ったけど「原典」に拘るならラカン理論で自閉症を語れないだろ。ラカン本人は(「原典主義」ではないわたしの管見では)自閉症に一切言及してないし。
なのに『精神分析事典』では自閉症を解釈している。
どうせ『精神分析事典』はOKなんだろうな。彼の中では。
彼の脳内『精神分析事典』執筆者は、ラカンに対し「気遣い」をしているのだろうから。
わたしの言う「小脳」がだめなのは、彼の脳内わたしはラカンに対し「気遣い」をしていないから。
そういう話なんじゃないの。
結局は彼の「主人のディスクール」という症状なんだよな。
ラカンという「物言わぬ主人」への「気遣い」。
彼の脳内ラカンという主人の奴隷になることで、彼は「物言わぬ」「死人に口なし」たる彼の脳内ラカンの主人となっている。
「原典主義」を主張することで、彼の無意識の「/S◇a」たる「全体性の幻想」は維持されている。
「そうならざる得ない」んだろうな。彼の症状なわけだから。
精神疾患者は精神疾患になりたくてなってるわけではないのと同様に。
「独創性」なんて求めて「他人と違ってしまう」わけではない自閉症者と同様に。
「そうならざる得ない」んだよ。
どう話しても「主人のディスクール」にならないのが未去勢者。
どう話しても「主人のディスクール」になっちゃうのがお前などという去勢済み主体。
お前はそれをうじうじ言っているだけ。
どう話しても「他人と同じ」になってしまうことの愚痴。「全体性の幻想」から逃れられないお前の症状。
「なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚」とか思ってしまうのはお前のルサンチマン。
「お前も俺たちと同様に他人と同じになってしまうんだよ」
お前がそうだからって他人に押しつけんなよ。
むしろ「他人と違うことなんてそんなうらやむようなことじゃねえよ、「独創性」とかって話じゃないわ」とわたしは言っている。
そらそうだろ、わたしが言っている「他人と違ってしまう人たち」ってのは未去勢者であり、たとえば自閉症などの精神障害者や精神疾患者だ。
お前は精神障害者をうらやんでいるのかい? 違うだろ?
彼らはお前らという「人間津波」に、お前らの「リビドー的な構造を弛緩させられることに対する過剰な拒絶反応」により迫害され殺されてきた人間たちだから。それこそ「蝿叩き」とかでな。
「キチガイは迫害してよい。なぜならわれわれのリビドー的な構造を弛緩させるからだ」
そんな立場がうらやましいのかい?
フロイトの言う「原父」はすべての女性を支配していたが、支配されたからと言って支配者を欲望しているとは限らないだろう。
それこそ「亭主元気で留守がいい」だ。
お前の脳内欲望しまくり女キャラはこんなセリフを言えないだろうな。
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