「表象文化論」は「宗教」か「科学」か。
2011/04/09/Sat
舞台で行われていることは、「宗教」か「科学」か。
「表象文化論」は「宗教」か「科学」か。
東大の表象文化論はまごうことなき「宗教」であった。
『天使と悪魔』的に言うならば、イルミナティの内部に潜入したヴァチカンのスパイだ。
ヴァチカンの内部に潜入したイルミナティがテロ行為を行っているのではない。現実は。逆だ。
人間も自然の一部である。
イルミナティの内部に潜入した信仰者たちがテロを行っている。
そもそも「表象文化論」は、「科学のディスクール」の中でももっとも「宗教」化しやすいティスクール形式である。
この危険性に、無自覚だとは言わないが、自覚していようが無頓着な、「そうなってしまうのも仕方ないだろ」それこそ「そうならざる得ない」となるような蓮實重彦やその信仰者たちが、表象文化論研究室を「宗教」化してしまった。
発足当初からそこで行われているのは「主人のディスクール」であり、ジジェクが言う「欲動のディスクール」としての「科学のディスクール」ではない。
イルミナティの内部でテロ活動する信仰者たち。
教養学部出身のわたしがそう言っている。
フェミニズムと同じ詐欺被害にあったって話だよ。表象文化論研究室には。わたしにとって。
いまいちだな、『天使と悪魔』。映画としては。前作はもっとB級臭かったのに。
ちょっと売れちゃったからってB級できなくなるのはアメリカ映画のお約束よね。
ここさ。
=====
「表象」というきわめて多義的な言葉が、 「対象的」ではなく「関係的」な概念であることを強調しておきたい。
=====
これわたしがここで書いていることそのままじゃん。
=====
そもそも量子力学を考えれば、すべての物質はその波動性によって相関している。これを原理にすえて自然科学全般を見直そう、というのが「相関基礎科学」であり、したがって複雑系研究なども取り入れられたりしているわけだが、東大ではなんか意味がよくわからない「新領域創成科学」とかって名称になっちゃったしな。「相関」という意味には「学問領域間の相関」ももちろん射程に入っているが、物質的な原理をもとにした名称だったのである。それをわけのわからない奴らが「学問領域間の相関」としての意味だけと勘違いしたから「新領域なんちゃら」なんて名前にした、とわたしは推測している。国語力のない奴のセンスだなあ、って思ったわ。この名称はじめて見たとき。
=====
逆なんだよな。原理が「相関」つまり「関係的」であるのに、それを「表象」に押し込めちゃってるんだよな。
物理が「相関」しているのであるのに対し、言説が「関係」していることに劣化しようとしているだけ。
キリスト教が「科学」を飲み込んで「聖書」に織り込むように。
「バロック」で宗教画を描かせたように。
舞台芸術論では、宗教演劇が流行した時代は不作の時代だと言われている。
要するに、いかに「主人のディスクール」が「欲動のディスクール」を飲み込むか、って話なんだよな。そして「欲動のディスクール」が飲み込まれた芸術はつまらない、ってだけ。
まあそりゃ表象文化論研究室の中には「欲動のディスクール」を目指している奴もいようがな。
普通に隣にあるんだがな、基礎科学科っていう「科学のディスクール」が。
「青い鳥」は家の中にいました、ってオチ。
「関係」を謳うならまず隣にある学科と「関係」すればあ。あ、関係した結果、物理的な「相関」を「人間間の関係」だと勘違いしたわけか。それが「東大改革」や「新領域創成科学」とかって言ってしまった症状として表れている、と。
まあ底割れ学科なのは事実だしいわゆる落ちこぼれ学科だから「関係」したくねえって気持ちもわからんでもないけどさ(笑)。
っていうか「絡む」のも「関係」だろ。こいつの言う「関係」には「絡む」は入ってないのかね。だとしたらこいつの言う「関係」こそ「共同体規範=象徴界の内での頷き合いのみに喜びを見い出している言説」ってことになると思うんだが。
異物との「相関」は「絡む」だろ。それこそ蝿がうんこにたかるごとき。
あれだ、量子力学的、複雑系的「相関」が、「関係」に劣化しているから、スパイごっこになるんだよな。東大改革みたいに「社会に開かれた(つまりは「関係」する)大学に」とかってなる。
「相関」という「対象」だよ。
舞台演劇は「リビドー的な構造」たる「関係」を上演しているのではなく、その「裏打ち」たる「相関」を上演している。特に蓮實がアレルギー的に嫌う悲劇などは。彼はその「表象」である「リビドー的な構造」たる「関係」しか目に入らない。
「裏打ち」が見えていない。
同じ「関係」だからと、「ディスクール」だからと、同一視する。
しかし「裏打ち」たる「相関」であるそれは「関係」という「リビドー的な構造」に閉じ込められた人間にとっては「残酷」なものとなる。
だから「残酷演劇」ってわけ。
ここら辺、渡邊守章と蓮實の悲劇論読み比べたらわかると思うんだけどなあ。
そうそう、量子力学的複雑系的な「相関」ではない「リビドー的な構造」たる「関係」ってのがそれこそ「イヤヨイヤヨも好きのうち」だよ。このブログ主の症状。
他人のブログでもうしわけないがここのコメント欄。
=====
他人から認められたくて、他人から好かれたくて、学問をやってるなら、世間からの反発はそいつの心理上重要な問題となろうが、そうでなければ、単なる知の楽しさだけでやってるなら、研究がまったく阻害されるような事態に陥らない程度の反発なら、スルーできるだろ。機能的に世間からの反発が決定的な影響を及ぼさない程度の反発なら、ほっとけ。
まあそんな態度だと「社会から自閉する傾向がある学者」とかになるんだがな。東大改革が「悪」と決めつけた学者の態度に。
=====
まあわたしもここで「知の楽しさ」なんて言っているけど、それは「楽しさ」って表現よか「残酷」なんだよな。
だから「東大改革が「悪」と決めつけた」りする、ってわけ。
「欲動のディスクール」としての「科学のディスクール」は「残酷」だ。
そら人間からすれば「悪」だ。
ここちょっと笑った。
=====
今、21世紀 の「知」の空間に向かって大きくはばたこうとしている。
=====
その結果が『知の技法』だと思うと、見てるこっちが恥ずかしくなる文章だ。
当の東大生は大体バカにしてたけどな、あの本。特に理系は。
ここがわかんないな。
=====
「相対的に」優れた人の言説は、3.11により、大きく変わらずにはいられないだろう(参照:ラカン「四つの言説」(ヒステリー、分析家、大学人、主人の言説)。
=====
自分のように「主人のディスクール」をしてしまう、「そうならざる得ない」人たちの言説が変わるって話なのかね。
それとも「わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている」と言っているように、「なんだかんだ言ってみんな「主人のディスクール」になるんだよ、「歴史のディスクール」に。そういった人たちが「相対的に」優れた人」だ」って意味なのかな。
「どっちがどう優れてる」とかって発想自体が文系なんだよな。ああここがわたしがニーチェたいしたことねえなって思うところでもあるか。ニーチェは文系脳。ニーチェ嫌いじゃないけど。つうか「ニーチェという症状」で一番おもしろいのが「鏡像関係の泥沼」だろ。女にふられまくったところ。嫉妬心めらめらで書いた文章とか。
理系の発想は差異のみある。「どっちがどう優れてる」とかってない。
そらそうだろ、「水素原子とヘリウム原子どっちが優れてる?」とかアホな質問だろ。
それを大文字の他者としての「言葉」にするから優劣が生じる。「リビドー的な構造」の構成分子たる「他者」により優劣が決まる。
物の理に優劣などない。
人が優劣を決めるのだ。
「わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている」ってのもさ、その当時の言説を過去の言説として受け取る現代人が、それを「時代」に「捉える」わけだろ。そいつらの脳内で。
つまりそれは「そう捉える人間たちの症状」だ。
人類の多数が「主人のディスクール」から逃れられない、という意見なら同意しよう。
それを受け取る人類がそうだから、「わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている」のだ、という理屈なら。
現代の「わたしたちの言説」も、未来人たる大多数の去勢済み主体すなわち「主人のディスクール」しかできない「そうならざる得ない」人たちがそう受け取ることで、「歴史」「時代」に捉えられる。
そういう意味なら「そうでしょうねえ」とは言えるな。
つか自分の言説を「時代から超越している」なんて思っている奴なんかいるの? 「現時点の言説」だと思っている奴はいようが。わたしはそうだな。「超越」とか「は?」と思う。「歴史的視点で見た言説」とは差異のある「現時点の言説」だとは思うが。
当然だろ、未来人はわたしじゃない。
それを未来人がどう受け取るかは未来人による、ってだけの話。
ああ、この筆者自身が「時代から超越している」と思っている、ってことになるよな、精神分析の解釈理論なら。
こいつの鏡像関係的症状。自分がそう思っていることを他人に鏡像的に映している。要するに「言い訳」。
っていうか人間の「言葉」なんてすべて「言い訳」だろ。むしろ「自分の言葉は言い訳じゃない」と思える方がパラノイアックな精神疾患的症状だと思うな。
この文章とか
=====
「相対的に」優れた人の言説は、3.11により、大きく変わらずにはいられないだろう(参照:ラカン「四つの言説」(ヒステリー、分析家、大学人、主人の言説)。
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すげーパラノイアックな症状だと思えるんだけど。
わたしの脳内科学者はこう答えるだろうな。
「変わる可能性もあるし変わらない可能性もある。変わったら変わったそれを、変わらなかったら変わらなかったそれを研究する」
こういうのが「科学のディスクール」なんじゃねえの。
「そんなこと言うが研究できなくなるかもしれないんだぞ」
「もしたとえば私がこの震災の影響により命を落とすようなことがあっても、それは私が研究できなくなったというだけである」
みたいな。
「言い訳」は大事だよ、「主人のディスクール」から一歩離れるために。
この記事でも「超越」って言うより「村八分」だって書いているだろ。お前みたいな奴が、お前の主観を根拠に、つまり「俺が超越したいからお前も超越したいと思っているはずだ」って妄想を押しつけてくるのに対抗するための「言い訳」。「わたし自体」を守るために。
素で思うんだがな。「メタ」とか「超越」じゃなくて「村八分」ならしっくりくる、と。
ああそうそう、
=====
ところで、わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている、そう語ったのは89年の共産主義崩壊のあとの柄谷行人の態度変更のコンテクストであり、それが所謂「構造的」な視点というものである。
=====
なるほど、わたしの解釈である「構造主義的な見方」って意味での「「構造的」見方」ではなかったわけね。
ごめん勘違いしてたよ。君の言う「「構造的」見方」とは通時的視点なわけだ。そうじゃないかなとは思ったんだ。「構造」って言葉は通時的な意味を持つケースもあるしね。わたしの知っている「構造主義」の「構造」とは異なる意味。
そう解釈した方が君の言っていることは筋が通るし。そりゃあまったく逆だよな。わたしの早合点だ。ごめんごめん。
じゃああれだ、少なくともジジェクの言う「非歴史的なディスクール」たる「科学のディスクール」ではないわけね、君の「「構造的」見方」とは。
そして君の脳内ラカン、脳内フロイトは「「非歴史的なディスクール」たる「科学のディスクール」をしていない」ってことになるよな。
=====
フロイトやラカンが固執する「構造的」見方を全く失念して
=====
って言っているわけだから。
それでいいかい?
「精神分析は科学ではない」って理屈になるんだが。
まあ、「欲動のディスクール」をしきれない悲哀はありそうだけどな、ラカンもフロイトも。彼ら自身の症状によって。
ラカンはそうでもないけどフロイトが「精神分析は科学である」ってのに固執していたのは知っているが。
よくわからんなあ。いや、「対象関係論批判者」としての君の脳内ラカン、脳内フロイトに、君が固執しているのはわかるが。
なんかこう、ほんと「パパ大好きっ子」なんだなあ、って思った。「ミダラナコト」とかちょっとフイタわ(笑)。まさにここで言われている「嫉妬妄想の男」じゃんって。
こういう人を解釈するならそら確かに対象関係論よかオイディプス理論の方が切れ味鋭いとは思う。
とか言っているけどクラインもオイディプス理論多用してたんだけどね。そこを『アンチ・オイディプス』は批判している。一部は賞賛してるけど。「部分対象という発見はすばらしいが、オイディプス理論を多用しているから糞だ」ってね。
君が論拠にしているラカンのクライン派批判とはまったく逆だよな、「オイディプス理論を使っていないからだめだ」だろ。
でもさー、「オイディプスに固執している」って考えれば、『アンチ・オイディプス』も君みたいなラカニアンも同じなんだよね。
両方「パパ大好きっ子」。君もガタリも。
どっちでもいいじゃん。二者だろうが三者だろうが。要するにそいつ(臨床素材)の脳内がどうだって話なわけだから、解釈道具として使える方を使えばよろし。
そう思うんだけどー。あたしの考え方おかしい?
このフロイトの文章について補足。
ここ最近、動画実況サイトでエロトークしてストーキングされたってシングルマザーのおばはん(わたしより若い)と知りあったんだが、「エロトークしていたお前の自業自得だ」みたいな話になって(わたしじゃなく他の常連客(男性)がね)、「いやまあそうなんだけど」とか言ってたんだよな。でも詳しく話を聞くと、視聴者からそういうフリがあったらしいんだよ。あ、知らない人のために言っておくと、大抵の動画実況サイトは視聴者がリアルタイムでコメントを書き込めるんだよ。で、その子のエロトークっていわゆるシモネタなんだよな。ギャグ。露悪的、自虐的な。「汁」とか普通に言うし。いやわたしその動画実況見てないからわからんけど、このノリでされたエロトークなら、この記事コメント欄で言う「マン汁垂れ流し」ではなかったと推測できる。どっちかってとelveさんよりだな。それこそ「残念なおばさん」。
で、何が言いたいかと言うと、本当にそれを「ミダラ」と思ってない人からすれば、そいつがそれを「ミダラ」と思うそいつの主観を押しつけられているんだよな。
この記事で書いた通り。
ヤハウェに憎まれたアスタルテにしたがう「獣のように性交する部族たち」は、自分たちを「ミダラ」だとは思ってなかったろうな。
お前の症状だよ、それは。誰でもないお前自身の。それを「ミダラ」だと思うのは。
「神」などと便利な「言い訳」があるだけ。
このブログ主の症状、この記事のおっさんの症状と、「構造的」に同じに思える。
これ両方とも「自らのリビドー的な構造が弛緩されたことからくる不安」だろ。
いまだにくる余震で家がみしみしいっている人たちの不安とは別物だ。
そのシングルマザーの人んちもドアが開かなくなって家入れなかったらしい。震災直後。こじ開けたそうだが。
あ、なんか新記事きてた。
=====
しかし、柄谷行人はヒュームへの回帰は退行と断じ、次のように語っている。
=====
ほらほらこれだよ。「大人になりたがり病」すなわち「父への欲望」。
こういう人たちが、器質因で「退行」のまま生きている発達障害者たちを迫害しているんだろうな。もちろんわかりやすい迫害ではないだろうが。
「退行」していて何が悪い。
お前がそれを汚らわしく思っているだけ。
お前個人の症状だ。
あとここ。
=====
もちろん、このような(超越論的)「ポジション」を実体的に捉えてしまえば、ドゥルーズの次のような言葉を思い出さざるを得ないことにもなる。
=====
おいおい、お前が勝手に
=====
なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚
=====
とか言っているんだぞ?
つまりお前が勝手に「超越論的ポジション」だとしてそのことを批判しているだけ。
わたしは「村八分」という表現を使っているじゃないか。しかもこういった会話をする以前から。
お前の脳内一人相撲だ。
お前の言っていることの方が「言い訳」ってことにならないか?
ほれ、これが「自分のしっぽを追っかけてくるくる回る犬」って奴だよ。自分で作りあげた妄想に文句を言っている。
むしろあれだ、わたしは自閉症などという具体例を挙げて述べることで(つまりは「実体的に捉え」ることで)、「超越論的」などではない、と言っているんだが。
要するに「超越」自体がお前の妄想だってことだ。お前が言い出した要件だろ。であるならばそれはお前の主観にあったものだ。
それはお前の「父」はお前個人の妄想だと。そういうパラノイアックな「お前という症状」だと。
結局さー、お前の、去勢済み主体としての、「主人のディスクール」から逃れられない、「そうならざる得ない」ことのルサンチマンなんだよ。
お前自身のうちに「鏡像関係の泥沼」があるんだ。
あーあとここ。
=====
なぜならマルクスの『資本論』は、他者をたんに「手段」としてのみ扱うような資本制経済批判なのだから。
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ここはわたしと解釈違うな。なんかこの解釈すげー「間主観的」だよね。
そうじゃなくて、(おそらくそこら辺のくだりは)剰余価値が経済システムに組み込まれていないことの指摘だろ。
それを実際に経済システムに組み込むかどうかはわたしは知らん。
「それに対する不払いがある」という指摘から、「資本家はそれに対し金銭を支払うべき」となったら、他者をより、究極的に「手段」としてのみ扱うことになるだろうが。
それがいきつく先は、経済自体が、お金自体が人間を「手段」とする状態だろうな。それが今の資本主義社会だと思うんだが。
問題はそこじゃなくてさー、なんで「他者をたんに「手段」としてのみ扱う」ことを、お前自身が厭っているのか、考えたらどうだ?
まあ答えは簡単なんだけどさ。
お前自身の「リビドー的な構造が弛緩する」から。
わたしはスタッフや設計やってたとき「手段」ってか「そういう機械」だと思ってやっていたけどな。「社会の歯車」になりたくて社会人になったんだし。
なーんかイイカンジに症状が露出してきたじゃーん。
そうそう、それでいいんだよ。
お前の「自分の考え」を述べればよい(笑)。
ブログなんだしー。
剰余価値って対象aだよねえ。
そうそう、鏡像関係。
やべえ、オラ楽しくなってきたぞ。
なんかお前自分で言ってたから言うけど、ほんと小者だね(笑)。
やっとわかってきたよ、「俺みたいな小者と関わるな」ってこういうことかと。
うんうん。
でもあれよ。小者は小者でおもしろいよ。
藤田博史とそこが似てる。なんて言うのかな、「虎の威を借る狐」臭っていうか。
中途半端ってか。
あーそか、だからわたしは「じゃれあい」って思っちゃうんだろうなあ。
なんてか、自分が勝手に誰かを「父」として妄想し欲望しているだけなのに、その「父」なる妄想をおっかぶされた誰かの名前(「父の名」ちゃうよ!)、この場合ラカンやフロイトや蓮實や柄谷になるわけだが、それを出せば相手は大人しくなると思い込んでいる人、って言うか。
おもすろーい。
水戸黄門の印籠を外人に見せても「へへー」とはならんだろ。
その外人は「超越」しているのかい?
あれなんだよな、ぶっちゃけ、「ボクチンが欲望している他者が正しくて美しいんだい」なんだよな。
あれなんだよね。「ラカン論は否定神学だ」って批判はよくあって、わたしも「いやそうじゃないだろ」とは思うんだが、だからといって「「神」に肯定的である」って反論はバカだと思うんだよね。「科学としての精神分析」自体をわかってないんじゃないかと。
それこそ水戸黄門の印籠を見せられた外人だ。その外人は印籠を否定も肯定もなく見ているだろう。ただのそういうものとして。
精神分析に限らず、科学自体がそういう症状だと思ってたんだけどなあ。
ラカン界隈って必ずこういった「超越論どーたら」って話になるんだけど、意味がよくわからん。どういった文脈でそんな話になっているのか。
それこそ「ラカン論は否定神学だ」って批判する奴もそれに顔真っ赤にして反論する奴も同じ穴の狢だろ。
お前らが「超越」なるものに固執しているだけ。
「表象文化論」は「宗教」か「科学」か。
東大の表象文化論はまごうことなき「宗教」であった。
『天使と悪魔』的に言うならば、イルミナティの内部に潜入したヴァチカンのスパイだ。
ヴァチカンの内部に潜入したイルミナティがテロ行為を行っているのではない。現実は。逆だ。
人間も自然の一部である。
イルミナティの内部に潜入した信仰者たちがテロを行っている。
そもそも「表象文化論」は、「科学のディスクール」の中でももっとも「宗教」化しやすいティスクール形式である。
この危険性に、無自覚だとは言わないが、自覚していようが無頓着な、「そうなってしまうのも仕方ないだろ」それこそ「そうならざる得ない」となるような蓮實重彦やその信仰者たちが、表象文化論研究室を「宗教」化してしまった。
発足当初からそこで行われているのは「主人のディスクール」であり、ジジェクが言う「欲動のディスクール」としての「科学のディスクール」ではない。
イルミナティの内部でテロ活動する信仰者たち。
教養学部出身のわたしがそう言っている。
フェミニズムと同じ詐欺被害にあったって話だよ。表象文化論研究室には。わたしにとって。
いまいちだな、『天使と悪魔』。映画としては。前作はもっとB級臭かったのに。
ちょっと売れちゃったからってB級できなくなるのはアメリカ映画のお約束よね。
ここさ。
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「表象」というきわめて多義的な言葉が、 「対象的」ではなく「関係的」な概念であることを強調しておきたい。
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これわたしがここで書いていることそのままじゃん。
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そもそも量子力学を考えれば、すべての物質はその波動性によって相関している。これを原理にすえて自然科学全般を見直そう、というのが「相関基礎科学」であり、したがって複雑系研究なども取り入れられたりしているわけだが、東大ではなんか意味がよくわからない「新領域創成科学」とかって名称になっちゃったしな。「相関」という意味には「学問領域間の相関」ももちろん射程に入っているが、物質的な原理をもとにした名称だったのである。それをわけのわからない奴らが「学問領域間の相関」としての意味だけと勘違いしたから「新領域なんちゃら」なんて名前にした、とわたしは推測している。国語力のない奴のセンスだなあ、って思ったわ。この名称はじめて見たとき。
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逆なんだよな。原理が「相関」つまり「関係的」であるのに、それを「表象」に押し込めちゃってるんだよな。
物理が「相関」しているのであるのに対し、言説が「関係」していることに劣化しようとしているだけ。
キリスト教が「科学」を飲み込んで「聖書」に織り込むように。
「バロック」で宗教画を描かせたように。
舞台芸術論では、宗教演劇が流行した時代は不作の時代だと言われている。
要するに、いかに「主人のディスクール」が「欲動のディスクール」を飲み込むか、って話なんだよな。そして「欲動のディスクール」が飲み込まれた芸術はつまらない、ってだけ。
まあそりゃ表象文化論研究室の中には「欲動のディスクール」を目指している奴もいようがな。
普通に隣にあるんだがな、基礎科学科っていう「科学のディスクール」が。
「青い鳥」は家の中にいました、ってオチ。
「関係」を謳うならまず隣にある学科と「関係」すればあ。あ、関係した結果、物理的な「相関」を「人間間の関係」だと勘違いしたわけか。それが「東大改革」や「新領域創成科学」とかって言ってしまった症状として表れている、と。
まあ底割れ学科なのは事実だしいわゆる落ちこぼれ学科だから「関係」したくねえって気持ちもわからんでもないけどさ(笑)。
っていうか「絡む」のも「関係」だろ。こいつの言う「関係」には「絡む」は入ってないのかね。だとしたらこいつの言う「関係」こそ「共同体規範=象徴界の内での頷き合いのみに喜びを見い出している言説」ってことになると思うんだが。
異物との「相関」は「絡む」だろ。それこそ蝿がうんこにたかるごとき。
あれだ、量子力学的、複雑系的「相関」が、「関係」に劣化しているから、スパイごっこになるんだよな。東大改革みたいに「社会に開かれた(つまりは「関係」する)大学に」とかってなる。
「相関」という「対象」だよ。
舞台演劇は「リビドー的な構造」たる「関係」を上演しているのではなく、その「裏打ち」たる「相関」を上演している。特に蓮實がアレルギー的に嫌う悲劇などは。彼はその「表象」である「リビドー的な構造」たる「関係」しか目に入らない。
「裏打ち」が見えていない。
同じ「関係」だからと、「ディスクール」だからと、同一視する。
しかし「裏打ち」たる「相関」であるそれは「関係」という「リビドー的な構造」に閉じ込められた人間にとっては「残酷」なものとなる。
だから「残酷演劇」ってわけ。
ここら辺、渡邊守章と蓮實の悲劇論読み比べたらわかると思うんだけどなあ。
そうそう、量子力学的複雑系的な「相関」ではない「リビドー的な構造」たる「関係」ってのがそれこそ「イヤヨイヤヨも好きのうち」だよ。このブログ主の症状。
他人のブログでもうしわけないがここのコメント欄。
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他人から認められたくて、他人から好かれたくて、学問をやってるなら、世間からの反発はそいつの心理上重要な問題となろうが、そうでなければ、単なる知の楽しさだけでやってるなら、研究がまったく阻害されるような事態に陥らない程度の反発なら、スルーできるだろ。機能的に世間からの反発が決定的な影響を及ぼさない程度の反発なら、ほっとけ。
まあそんな態度だと「社会から自閉する傾向がある学者」とかになるんだがな。東大改革が「悪」と決めつけた学者の態度に。
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まあわたしもここで「知の楽しさ」なんて言っているけど、それは「楽しさ」って表現よか「残酷」なんだよな。
だから「東大改革が「悪」と決めつけた」りする、ってわけ。
「欲動のディスクール」としての「科学のディスクール」は「残酷」だ。
そら人間からすれば「悪」だ。
ここちょっと笑った。
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今、21世紀 の「知」の空間に向かって大きくはばたこうとしている。
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その結果が『知の技法』だと思うと、見てるこっちが恥ずかしくなる文章だ。
当の東大生は大体バカにしてたけどな、あの本。特に理系は。
ここがわかんないな。
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「相対的に」優れた人の言説は、3.11により、大きく変わらずにはいられないだろう(参照:ラカン「四つの言説」(ヒステリー、分析家、大学人、主人の言説)。
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自分のように「主人のディスクール」をしてしまう、「そうならざる得ない」人たちの言説が変わるって話なのかね。
それとも「わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている」と言っているように、「なんだかんだ言ってみんな「主人のディスクール」になるんだよ、「歴史のディスクール」に。そういった人たちが「相対的に」優れた人」だ」って意味なのかな。
「どっちがどう優れてる」とかって発想自体が文系なんだよな。ああここがわたしがニーチェたいしたことねえなって思うところでもあるか。ニーチェは文系脳。ニーチェ嫌いじゃないけど。つうか「ニーチェという症状」で一番おもしろいのが「鏡像関係の泥沼」だろ。女にふられまくったところ。嫉妬心めらめらで書いた文章とか。
理系の発想は差異のみある。「どっちがどう優れてる」とかってない。
そらそうだろ、「水素原子とヘリウム原子どっちが優れてる?」とかアホな質問だろ。
それを大文字の他者としての「言葉」にするから優劣が生じる。「リビドー的な構造」の構成分子たる「他者」により優劣が決まる。
物の理に優劣などない。
人が優劣を決めるのだ。
「わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている」ってのもさ、その当時の言説を過去の言説として受け取る現代人が、それを「時代」に「捉える」わけだろ。そいつらの脳内で。
つまりそれは「そう捉える人間たちの症状」だ。
人類の多数が「主人のディスクール」から逃れられない、という意見なら同意しよう。
それを受け取る人類がそうだから、「わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている」のだ、という理屈なら。
現代の「わたしたちの言説」も、未来人たる大多数の去勢済み主体すなわち「主人のディスクール」しかできない「そうならざる得ない」人たちがそう受け取ることで、「歴史」「時代」に捉えられる。
そういう意味なら「そうでしょうねえ」とは言えるな。
つか自分の言説を「時代から超越している」なんて思っている奴なんかいるの? 「現時点の言説」だと思っている奴はいようが。わたしはそうだな。「超越」とか「は?」と思う。「歴史的視点で見た言説」とは差異のある「現時点の言説」だとは思うが。
当然だろ、未来人はわたしじゃない。
それを未来人がどう受け取るかは未来人による、ってだけの話。
ああ、この筆者自身が「時代から超越している」と思っている、ってことになるよな、精神分析の解釈理論なら。
こいつの鏡像関係的症状。自分がそう思っていることを他人に鏡像的に映している。要するに「言い訳」。
っていうか人間の「言葉」なんてすべて「言い訳」だろ。むしろ「自分の言葉は言い訳じゃない」と思える方がパラノイアックな精神疾患的症状だと思うな。
この文章とか
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「相対的に」優れた人の言説は、3.11により、大きく変わらずにはいられないだろう(参照:ラカン「四つの言説」(ヒステリー、分析家、大学人、主人の言説)。
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すげーパラノイアックな症状だと思えるんだけど。
わたしの脳内科学者はこう答えるだろうな。
「変わる可能性もあるし変わらない可能性もある。変わったら変わったそれを、変わらなかったら変わらなかったそれを研究する」
こういうのが「科学のディスクール」なんじゃねえの。
「そんなこと言うが研究できなくなるかもしれないんだぞ」
「もしたとえば私がこの震災の影響により命を落とすようなことがあっても、それは私が研究できなくなったというだけである」
みたいな。
「言い訳」は大事だよ、「主人のディスクール」から一歩離れるために。
この記事でも「超越」って言うより「村八分」だって書いているだろ。お前みたいな奴が、お前の主観を根拠に、つまり「俺が超越したいからお前も超越したいと思っているはずだ」って妄想を押しつけてくるのに対抗するための「言い訳」。「わたし自体」を守るために。
素で思うんだがな。「メタ」とか「超越」じゃなくて「村八分」ならしっくりくる、と。
ああそうそう、
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ところで、わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている、そう語ったのは89年の共産主義崩壊のあとの柄谷行人の態度変更のコンテクストであり、それが所謂「構造的」な視点というものである。
=====
なるほど、わたしの解釈である「構造主義的な見方」って意味での「「構造的」見方」ではなかったわけね。
ごめん勘違いしてたよ。君の言う「「構造的」見方」とは通時的視点なわけだ。そうじゃないかなとは思ったんだ。「構造」って言葉は通時的な意味を持つケースもあるしね。わたしの知っている「構造主義」の「構造」とは異なる意味。
そう解釈した方が君の言っていることは筋が通るし。そりゃあまったく逆だよな。わたしの早合点だ。ごめんごめん。
じゃああれだ、少なくともジジェクの言う「非歴史的なディスクール」たる「科学のディスクール」ではないわけね、君の「「構造的」見方」とは。
そして君の脳内ラカン、脳内フロイトは「「非歴史的なディスクール」たる「科学のディスクール」をしていない」ってことになるよな。
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フロイトやラカンが固執する「構造的」見方を全く失念して
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って言っているわけだから。
それでいいかい?
「精神分析は科学ではない」って理屈になるんだが。
まあ、「欲動のディスクール」をしきれない悲哀はありそうだけどな、ラカンもフロイトも。彼ら自身の症状によって。
ラカンはそうでもないけどフロイトが「精神分析は科学である」ってのに固執していたのは知っているが。
よくわからんなあ。いや、「対象関係論批判者」としての君の脳内ラカン、脳内フロイトに、君が固執しているのはわかるが。
なんかこう、ほんと「パパ大好きっ子」なんだなあ、って思った。「ミダラナコト」とかちょっとフイタわ(笑)。まさにここで言われている「嫉妬妄想の男」じゃんって。
こういう人を解釈するならそら確かに対象関係論よかオイディプス理論の方が切れ味鋭いとは思う。
とか言っているけどクラインもオイディプス理論多用してたんだけどね。そこを『アンチ・オイディプス』は批判している。一部は賞賛してるけど。「部分対象という発見はすばらしいが、オイディプス理論を多用しているから糞だ」ってね。
君が論拠にしているラカンのクライン派批判とはまったく逆だよな、「オイディプス理論を使っていないからだめだ」だろ。
でもさー、「オイディプスに固執している」って考えれば、『アンチ・オイディプス』も君みたいなラカニアンも同じなんだよね。
両方「パパ大好きっ子」。君もガタリも。
どっちでもいいじゃん。二者だろうが三者だろうが。要するにそいつ(臨床素材)の脳内がどうだって話なわけだから、解釈道具として使える方を使えばよろし。
そう思うんだけどー。あたしの考え方おかしい?
このフロイトの文章について補足。
ここ最近、動画実況サイトでエロトークしてストーキングされたってシングルマザーのおばはん(わたしより若い)と知りあったんだが、「エロトークしていたお前の自業自得だ」みたいな話になって(わたしじゃなく他の常連客(男性)がね)、「いやまあそうなんだけど」とか言ってたんだよな。でも詳しく話を聞くと、視聴者からそういうフリがあったらしいんだよ。あ、知らない人のために言っておくと、大抵の動画実況サイトは視聴者がリアルタイムでコメントを書き込めるんだよ。で、その子のエロトークっていわゆるシモネタなんだよな。ギャグ。露悪的、自虐的な。「汁」とか普通に言うし。いやわたしその動画実況見てないからわからんけど、このノリでされたエロトークなら、この記事コメント欄で言う「マン汁垂れ流し」ではなかったと推測できる。どっちかってとelveさんよりだな。それこそ「残念なおばさん」。
で、何が言いたいかと言うと、本当にそれを「ミダラ」と思ってない人からすれば、そいつがそれを「ミダラ」と思うそいつの主観を押しつけられているんだよな。
この記事で書いた通り。
ヤハウェに憎まれたアスタルテにしたがう「獣のように性交する部族たち」は、自分たちを「ミダラ」だとは思ってなかったろうな。
お前の症状だよ、それは。誰でもないお前自身の。それを「ミダラ」だと思うのは。
「神」などと便利な「言い訳」があるだけ。
このブログ主の症状、この記事のおっさんの症状と、「構造的」に同じに思える。
これ両方とも「自らのリビドー的な構造が弛緩されたことからくる不安」だろ。
いまだにくる余震で家がみしみしいっている人たちの不安とは別物だ。
そのシングルマザーの人んちもドアが開かなくなって家入れなかったらしい。震災直後。こじ開けたそうだが。
あ、なんか新記事きてた。
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しかし、柄谷行人はヒュームへの回帰は退行と断じ、次のように語っている。
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ほらほらこれだよ。「大人になりたがり病」すなわち「父への欲望」。
こういう人たちが、器質因で「退行」のまま生きている発達障害者たちを迫害しているんだろうな。もちろんわかりやすい迫害ではないだろうが。
「退行」していて何が悪い。
お前がそれを汚らわしく思っているだけ。
お前個人の症状だ。
あとここ。
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もちろん、このような(超越論的)「ポジション」を実体的に捉えてしまえば、ドゥルーズの次のような言葉を思い出さざるを得ないことにもなる。
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おいおい、お前が勝手に
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なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚
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とか言っているんだぞ?
つまりお前が勝手に「超越論的ポジション」だとしてそのことを批判しているだけ。
わたしは「村八分」という表現を使っているじゃないか。しかもこういった会話をする以前から。
お前の脳内一人相撲だ。
お前の言っていることの方が「言い訳」ってことにならないか?
ほれ、これが「自分のしっぽを追っかけてくるくる回る犬」って奴だよ。自分で作りあげた妄想に文句を言っている。
むしろあれだ、わたしは自閉症などという具体例を挙げて述べることで(つまりは「実体的に捉え」ることで)、「超越論的」などではない、と言っているんだが。
要するに「超越」自体がお前の妄想だってことだ。お前が言い出した要件だろ。であるならばそれはお前の主観にあったものだ。
それはお前の「父」はお前個人の妄想だと。そういうパラノイアックな「お前という症状」だと。
結局さー、お前の、去勢済み主体としての、「主人のディスクール」から逃れられない、「そうならざる得ない」ことのルサンチマンなんだよ。
お前自身のうちに「鏡像関係の泥沼」があるんだ。
あーあとここ。
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なぜならマルクスの『資本論』は、他者をたんに「手段」としてのみ扱うような資本制経済批判なのだから。
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ここはわたしと解釈違うな。なんかこの解釈すげー「間主観的」だよね。
そうじゃなくて、(おそらくそこら辺のくだりは)剰余価値が経済システムに組み込まれていないことの指摘だろ。
それを実際に経済システムに組み込むかどうかはわたしは知らん。
「それに対する不払いがある」という指摘から、「資本家はそれに対し金銭を支払うべき」となったら、他者をより、究極的に「手段」としてのみ扱うことになるだろうが。
それがいきつく先は、経済自体が、お金自体が人間を「手段」とする状態だろうな。それが今の資本主義社会だと思うんだが。
問題はそこじゃなくてさー、なんで「他者をたんに「手段」としてのみ扱う」ことを、お前自身が厭っているのか、考えたらどうだ?
まあ答えは簡単なんだけどさ。
お前自身の「リビドー的な構造が弛緩する」から。
わたしはスタッフや設計やってたとき「手段」ってか「そういう機械」だと思ってやっていたけどな。「社会の歯車」になりたくて社会人になったんだし。
なーんかイイカンジに症状が露出してきたじゃーん。
そうそう、それでいいんだよ。
お前の「自分の考え」を述べればよい(笑)。
ブログなんだしー。
剰余価値って対象aだよねえ。
そうそう、鏡像関係。
やべえ、オラ楽しくなってきたぞ。
なんかお前自分で言ってたから言うけど、ほんと小者だね(笑)。
やっとわかってきたよ、「俺みたいな小者と関わるな」ってこういうことかと。
うんうん。
でもあれよ。小者は小者でおもしろいよ。
藤田博史とそこが似てる。なんて言うのかな、「虎の威を借る狐」臭っていうか。
中途半端ってか。
あーそか、だからわたしは「じゃれあい」って思っちゃうんだろうなあ。
なんてか、自分が勝手に誰かを「父」として妄想し欲望しているだけなのに、その「父」なる妄想をおっかぶされた誰かの名前(「父の名」ちゃうよ!)、この場合ラカンやフロイトや蓮實や柄谷になるわけだが、それを出せば相手は大人しくなると思い込んでいる人、って言うか。
おもすろーい。
水戸黄門の印籠を外人に見せても「へへー」とはならんだろ。
その外人は「超越」しているのかい?
あれなんだよな、ぶっちゃけ、「ボクチンが欲望している他者が正しくて美しいんだい」なんだよな。
あれなんだよね。「ラカン論は否定神学だ」って批判はよくあって、わたしも「いやそうじゃないだろ」とは思うんだが、だからといって「「神」に肯定的である」って反論はバカだと思うんだよね。「科学としての精神分析」自体をわかってないんじゃないかと。
それこそ水戸黄門の印籠を見せられた外人だ。その外人は印籠を否定も肯定もなく見ているだろう。ただのそういうものとして。
精神分析に限らず、科学自体がそういう症状だと思ってたんだけどなあ。
ラカン界隈って必ずこういった「超越論どーたら」って話になるんだけど、意味がよくわからん。どういった文脈でそんな話になっているのか。
それこそ「ラカン論は否定神学だ」って批判する奴もそれに顔真っ赤にして反論する奴も同じ穴の狢だろ。
お前らが「超越」なるものに固執しているだけ。
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