解釈の一本化
2006/11/11/Sat
以下の文章は、「芸術至上主義」の記事にいただいたコメントから思考をめぐらせたものである。
まず、私の芸術観から述べさせていただこう。以下は某サイトの掲示板における私のレスからの抜粋だ。
=====
私は、小説を含めた「芸術」というものは、表現者と受け取り手の間に生まれる感動などといった「現象」である、という考え方をしています。
(こう考えるといろんなことにつじつまが合うんですね^^;)
そう考えると芸術は「表面上」コミュニケーションの形式をとっていると言えますね。
……(略)
人間同士のコミュニケーションというものを考えると、現在では「言葉」というメディアが大きな位置を占めていると思います。ボディーランゲージなどありますが、現代では言葉の比重がより重くなっていますね。
言葉(の論理性)が重要になった経緯としては、言葉から哲学が生まれ、科学が生まれ、派生して数字など違った体系の記号が生まれるなどして、現在、人間社会において科学という概念が重要な位置を占めてしまっているからだと思います(乱暴な言い方になりました(汗))。
また、芸術と、単なる言葉によるコミュニケーションとの違いは、情報が「表現者→受け取り手」という双方向ではないという前提も挙げられると思います。
……(略)
本来、コミュニケーションの情報と考えるなら、その(言葉などの記号的な)情報は一義的が好ましいのですが、芸術においては、作品は(それ全体一つを記号として考えたら)情報というには曖昧すぎるわけです。
この「曖昧さ」が、重要になってくるわけですね。
受け取り手のその時の状態などその時々によって、全く違う意味を持ってくる情報、と言えばよいでしょうか。
つまり、受け取り手側からのやりとりとして、その作品を見るという行為自体が、一つのやりとりになるわけです。
見るという行為自体が「表現者←受け取り手」となるわけですね。
……(略)
Aさんが見た作品と、Bさんが見た作品は、同一のモノであっても、違った感動を生んでいるかもしれないのです。
わかりやすく喩えるなら、シュレディンガーの猫で有名な、量子力学の不確定性原理ですよね。
観測するという行為自体が観測対象に影響する。なので、観測しない限り、その観測対象は状態を確定しない、というものです。
=====
以上はあくまで不確定性原理という「喩え話」により私の芸術観を表現した文章と捉えていただきたい。
記号には二種類ある。一つの記号が多義性を持つ「シンボル」と、一つの記号が一義的にその意味と連結する「サイン」だ。ここで以前の記事で書いた、「現在のオタク文化は記号をサイン化する傾向があるのではないか」という論に戻る。
私の体験談からこの傾向を表していると思われる例を二つばかし挙げておこう。
まず、流行したアニメ・マンガ作品における「肯定派」と「アンチ」の対立。この「アンチ」の行動は見ていて非常に興味深い。全体的に見て、アンチと呼ばれる人間の作品批評は、肯定派のそれより論理的で、的を得ているものが多い。しかし、肯定派はそれをアンチとしてひとまとめにして対立する。二つの集団の対立に収束されていくわけだ。
商業的に考えたらこの対立自体もしめたものだ。流行「語」というのは、19世紀フランスを見ても明らかなように、それを広めようとする力と保守的な力の軋轢が拡散のエネルギーになる。しかしこのことはここでは脇に置いておこう。
問題は彼らの言説だ。彼らの対立の言説は、「オレはここはこうだと思う。だからお前の解釈は『間違っている』」「じゃあお前の解釈はどう『正しい』のか」という論旨が非常に多い。この「だから」「じゃあ」以降が問題なのである。
つまり、肯定派だろうがアンチだろうが、彼らは対立することでその作品における「解釈の一本化」を求めているのだ。
このこと自体は、視点を変えてみればそう悪くない。視聴者・読者間に置ける「解釈の交換(交感)」は評論の重要な役割になっている。面白い面白くないはその解釈の違いにすぎない。問題なのは解釈に「正しい」「間違っている」が彼らの前提としてある、ということだ。
彼らは無意識的に、「解釈の一本化」という固定観念に囚われているわけだ。全員が囚われていないにしても、全体の印象からそれが見え隠れする。ある一つの発言が解釈の交換を目的とした言説だったとしても(むしろアンチにこういう印象がある)、全体が解釈に一義的な答えがあるという前提の議論なので、肯定派/アンチに二項化され、集約され、それは埋没してしまうのだ。
これは、演劇畑で育った私などから見れば驚きの傾向である。
「芸術作品の解釈には、「正しい」「間違っている」などはなく、答えなどない」というのが私のまわりでは常識だったからだ。極論的に簡単に言えば、中高生でも「理系学問は解答が一つだが、現代国語は解答が一つではない」という感覚からわかることであろう。
もちろん最近はこれに気付いたのか、対立に飽きたのか、アンチと肯定派の対立の激しさは一時期より激しいものではなくなっていることを付け加えておこう。
精神分析的に考えれば、これもいささか極論的ではあるが、そのアニメなりゲームなりの表現作品と自己を同一化している人間が肯定派に多いのではないかという印象がある。それを「面白い」と思った自分まで否定されるということになり、反発したり内部にこもってしまうのかもしれない(断っておくが、アンチが肯定派より優れている、と言っているわけではない)。
もう一つは某サイトのチャットにおける作家の卵たちの発言である。詳細は忘れてしまったが、「講義で作者はこういうことを考えて作品を書いたなどとあるが、本当に考えていたのか疑わしく、それが滑稽だ」「自分が書いた作品で、(面白い面白くない限らず)作家としての自分が考えた解釈ではない解釈を読者はしている。だから批評はあてにならない」というような発言だ。
もちろん、作家の初心者的技法として、読者を物語の中で作家の思う通りに誘導することは必要だ。しかしそれは文法レベルの問題にすぎない。
また、学校教育において、現代国語でも解答があるという教育をしているのかもしれない。これは文法理解という点では、言葉は記号であるので、一義的な側面も持っていることから、そういう教育になるのは仕方なかろう。また、学問や現代社会などのロゴス中心主義においては論理的な一義的解釈による思考訓練も必要であると私は考える。だから学校教育において、現代国語で、文法理解などの基本レベルにおける解答があること自体は否定しない。しかし文法理解などを踏まえた上での表現作品の理解はそうではないことぐらい、高校生でも感覚的に理解できると思う。これも合理主義の集大成のシステムである資本主義の影響だろうか(断っておくが資本主義に対し全面的に異を唱えているわけではない)。
上記の発言からも、彼らが、作家が(意識的に)考えた解釈こそ正解だという、「解釈の一本化」の固定観念に囚われていることがよくわかる。
私などは、作家が意識してない、無意識的に表出する作品の道標を読み解くのも読書の楽しみであり、見えにくいそれ(言葉にできない感動の原因)を言葉にするのが評論家の役割であると思っている(これが当ブログのサブタイトルにも繋がっていると今自覚しました(汗))。
無意識の主体にはラカンのいうような言語的側面もあろうが、その中において、一本化という指向の根底にある一義性、論理性は、現実社会のそれと比べ非常に弱い。「芸術的知」と「ロゴス中心主義的知」は共有の仕方で相性が悪いという言い方もできる。だからといってこの無意識には規則性がない、無秩序である、というわけでもない。無意識層なりの秩序がある。「秩序」という言葉を通り越したその概念自体、本質は無意識下にあるものだろう。下の記事でも書いた中村雄二郎氏の言葉を借りるなら、「近代的知」では共有をとりこぼしている、この無意識的な、非論理的な「知の共有」の一部を、芸術視点で捉えた「演劇的知」が担っていると私は考える。
「解釈の一本化」に向かう傾向は、その作品を構成する最小要素である「(情報的な)記号の解釈の一本化」という傾向に還元される。
これこそが「記号のサイン化傾向」なのだ。
傾向というのは、その集団において、無意識的なものを含めた指向という意味である。
もちろん、こういう傾向が一集団であったとしても、またポストモダンという時代性を帯びているとはいえど、芸術的な知の共有である「近代的知」以外のところの知の共有が消滅するということはありえないと思う。
ここで「芸術至上主義」の記事でも書いた「不作の時期」について思考を泳がしてみよう。
19世紀フランスにおける「芸術」、現代の「オタク」のような流行語的なムーブメントにより、なぜ不作の時期が到来するのか。以下は私の仮説である。
それにより本来ピラミッド構造であったその表現の階層において、底辺の「表現者の卵」が爆発的に増える。近代的知を無意識的、無自覚的に信望している彼らは、底辺の秩序を生み出すために論理性、合理性を求める。なのでその作品の解釈や、作品の構成要素の解釈までも一本化という指向で彼らは捉える。オタク文化では記号のサイン化という表出となる。
ここでピラミッド構造を挙げたが(勘違いしないで欲しいのは私はその底辺にいたいと思っている人間だ)、芸術至上主義時代と、オタク文化は、このピラミッドが逆「T」の形になっているイメージだ。特にオタク文化はこの逆「T」字形が島宇宙的に複数存在しているという複雑な構造を持っていると思う。
つまり、底辺の急激な増加と、その内部で起こる合理的秩序化の運動が、底辺の層を中心に向かわせ、中心にあるものがどんどん上に持ち上げられる。結果、そのジャンルにおける表現作品を生み出すピラミッドの中層、上層と底辺の連結が弱くなり、芸術的知の共有の循環が阻害される。なのでその時期における作品は、名作が生まれたとしてもその時代の深層を抉らない、過去の(ピラミッド構造時代の)知の共有から生み出された作品となる。これは19世紀フランスでもその傾向があった。
オタク文化は情報化社会らしくその新陳代謝は19世紀と比較にならないほど早いと思われるので、歴史的には一瞬のトレンドに過ぎないものであり、単に過去に戻る、先祖がえりを起こすだけという反動が表出するだけかもしれない。
大塚英志氏が『物語消滅論』で語った、「近代(小説)にかえれ」という論はあながち間違っていないように思える。
私は、オタク文化における不作の時期の到来自体には危機感を持っていない。時代性が強く、それ以前の「オタク文化の歴史」をあっさり翻すことができるのがオタク文化だからだ。思想の断絶もあってよい。東浩紀氏のいう「動物化」を、無意識的思考と行動が直結するものと考えれば、無意識的な流れに注目してそれを読み解くことも可能であろう。
私が持っている漠然とした危機感は、オタク文化を含めた、東浩紀氏が『動物化するポストモダン』で定義した表現文化的傾向のポストモダン、つまり1960年代からの表現文化の時流の根底に流れるものに対してなのだ。
それが何だろうと考えてみれば、現実世界を記号化することによるシンボリズムの隆盛、それが行き過ぎた形での現代の「記号のサイン化」なのかな、という見当が「仮に」ついた。
もちろん大雑把な感覚なので、もっと思索を重ねるべきかもしれないが、まあ芸術文化のしなやかさを信じるなら、心配するほどのものでもないかもしれないという空いばり的な楽観論をとっておこうかな、と思ってます……。
まず、私の芸術観から述べさせていただこう。以下は某サイトの掲示板における私のレスからの抜粋だ。
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私は、小説を含めた「芸術」というものは、表現者と受け取り手の間に生まれる感動などといった「現象」である、という考え方をしています。
(こう考えるといろんなことにつじつまが合うんですね^^;)
そう考えると芸術は「表面上」コミュニケーションの形式をとっていると言えますね。
……(略)
人間同士のコミュニケーションというものを考えると、現在では「言葉」というメディアが大きな位置を占めていると思います。ボディーランゲージなどありますが、現代では言葉の比重がより重くなっていますね。
言葉(の論理性)が重要になった経緯としては、言葉から哲学が生まれ、科学が生まれ、派生して数字など違った体系の記号が生まれるなどして、現在、人間社会において科学という概念が重要な位置を占めてしまっているからだと思います(乱暴な言い方になりました(汗))。
また、芸術と、単なる言葉によるコミュニケーションとの違いは、情報が「表現者→受け取り手」という双方向ではないという前提も挙げられると思います。
……(略)
本来、コミュニケーションの情報と考えるなら、その(言葉などの記号的な)情報は一義的が好ましいのですが、芸術においては、作品は(それ全体一つを記号として考えたら)情報というには曖昧すぎるわけです。
この「曖昧さ」が、重要になってくるわけですね。
受け取り手のその時の状態などその時々によって、全く違う意味を持ってくる情報、と言えばよいでしょうか。
つまり、受け取り手側からのやりとりとして、その作品を見るという行為自体が、一つのやりとりになるわけです。
見るという行為自体が「表現者←受け取り手」となるわけですね。
……(略)
Aさんが見た作品と、Bさんが見た作品は、同一のモノであっても、違った感動を生んでいるかもしれないのです。
わかりやすく喩えるなら、シュレディンガーの猫で有名な、量子力学の不確定性原理ですよね。
観測するという行為自体が観測対象に影響する。なので、観測しない限り、その観測対象は状態を確定しない、というものです。
=====
以上はあくまで不確定性原理という「喩え話」により私の芸術観を表現した文章と捉えていただきたい。
記号には二種類ある。一つの記号が多義性を持つ「シンボル」と、一つの記号が一義的にその意味と連結する「サイン」だ。ここで以前の記事で書いた、「現在のオタク文化は記号をサイン化する傾向があるのではないか」という論に戻る。
私の体験談からこの傾向を表していると思われる例を二つばかし挙げておこう。
まず、流行したアニメ・マンガ作品における「肯定派」と「アンチ」の対立。この「アンチ」の行動は見ていて非常に興味深い。全体的に見て、アンチと呼ばれる人間の作品批評は、肯定派のそれより論理的で、的を得ているものが多い。しかし、肯定派はそれをアンチとしてひとまとめにして対立する。二つの集団の対立に収束されていくわけだ。
商業的に考えたらこの対立自体もしめたものだ。流行「語」というのは、19世紀フランスを見ても明らかなように、それを広めようとする力と保守的な力の軋轢が拡散のエネルギーになる。しかしこのことはここでは脇に置いておこう。
問題は彼らの言説だ。彼らの対立の言説は、「オレはここはこうだと思う。だからお前の解釈は『間違っている』」「じゃあお前の解釈はどう『正しい』のか」という論旨が非常に多い。この「だから」「じゃあ」以降が問題なのである。
つまり、肯定派だろうがアンチだろうが、彼らは対立することでその作品における「解釈の一本化」を求めているのだ。
このこと自体は、視点を変えてみればそう悪くない。視聴者・読者間に置ける「解釈の交換(交感)」は評論の重要な役割になっている。面白い面白くないはその解釈の違いにすぎない。問題なのは解釈に「正しい」「間違っている」が彼らの前提としてある、ということだ。
彼らは無意識的に、「解釈の一本化」という固定観念に囚われているわけだ。全員が囚われていないにしても、全体の印象からそれが見え隠れする。ある一つの発言が解釈の交換を目的とした言説だったとしても(むしろアンチにこういう印象がある)、全体が解釈に一義的な答えがあるという前提の議論なので、肯定派/アンチに二項化され、集約され、それは埋没してしまうのだ。
これは、演劇畑で育った私などから見れば驚きの傾向である。
「芸術作品の解釈には、「正しい」「間違っている」などはなく、答えなどない」というのが私のまわりでは常識だったからだ。極論的に簡単に言えば、中高生でも「理系学問は解答が一つだが、現代国語は解答が一つではない」という感覚からわかることであろう。
もちろん最近はこれに気付いたのか、対立に飽きたのか、アンチと肯定派の対立の激しさは一時期より激しいものではなくなっていることを付け加えておこう。
精神分析的に考えれば、これもいささか極論的ではあるが、そのアニメなりゲームなりの表現作品と自己を同一化している人間が肯定派に多いのではないかという印象がある。それを「面白い」と思った自分まで否定されるということになり、反発したり内部にこもってしまうのかもしれない(断っておくが、アンチが肯定派より優れている、と言っているわけではない)。
もう一つは某サイトのチャットにおける作家の卵たちの発言である。詳細は忘れてしまったが、「講義で作者はこういうことを考えて作品を書いたなどとあるが、本当に考えていたのか疑わしく、それが滑稽だ」「自分が書いた作品で、(面白い面白くない限らず)作家としての自分が考えた解釈ではない解釈を読者はしている。だから批評はあてにならない」というような発言だ。
もちろん、作家の初心者的技法として、読者を物語の中で作家の思う通りに誘導することは必要だ。しかしそれは文法レベルの問題にすぎない。
また、学校教育において、現代国語でも解答があるという教育をしているのかもしれない。これは文法理解という点では、言葉は記号であるので、一義的な側面も持っていることから、そういう教育になるのは仕方なかろう。また、学問や現代社会などのロゴス中心主義においては論理的な一義的解釈による思考訓練も必要であると私は考える。だから学校教育において、現代国語で、文法理解などの基本レベルにおける解答があること自体は否定しない。しかし文法理解などを踏まえた上での表現作品の理解はそうではないことぐらい、高校生でも感覚的に理解できると思う。これも合理主義の集大成のシステムである資本主義の影響だろうか(断っておくが資本主義に対し全面的に異を唱えているわけではない)。
上記の発言からも、彼らが、作家が(意識的に)考えた解釈こそ正解だという、「解釈の一本化」の固定観念に囚われていることがよくわかる。
私などは、作家が意識してない、無意識的に表出する作品の道標を読み解くのも読書の楽しみであり、見えにくいそれ(言葉にできない感動の原因)を言葉にするのが評論家の役割であると思っている(これが当ブログのサブタイトルにも繋がっていると今自覚しました(汗))。
無意識の主体にはラカンのいうような言語的側面もあろうが、その中において、一本化という指向の根底にある一義性、論理性は、現実社会のそれと比べ非常に弱い。「芸術的知」と「ロゴス中心主義的知」は共有の仕方で相性が悪いという言い方もできる。だからといってこの無意識には規則性がない、無秩序である、というわけでもない。無意識層なりの秩序がある。「秩序」という言葉を通り越したその概念自体、本質は無意識下にあるものだろう。下の記事でも書いた中村雄二郎氏の言葉を借りるなら、「近代的知」では共有をとりこぼしている、この無意識的な、非論理的な「知の共有」の一部を、芸術視点で捉えた「演劇的知」が担っていると私は考える。
「解釈の一本化」に向かう傾向は、その作品を構成する最小要素である「(情報的な)記号の解釈の一本化」という傾向に還元される。
これこそが「記号のサイン化傾向」なのだ。
傾向というのは、その集団において、無意識的なものを含めた指向という意味である。
もちろん、こういう傾向が一集団であったとしても、またポストモダンという時代性を帯びているとはいえど、芸術的な知の共有である「近代的知」以外のところの知の共有が消滅するということはありえないと思う。
ここで「芸術至上主義」の記事でも書いた「不作の時期」について思考を泳がしてみよう。
19世紀フランスにおける「芸術」、現代の「オタク」のような流行語的なムーブメントにより、なぜ不作の時期が到来するのか。以下は私の仮説である。
それにより本来ピラミッド構造であったその表現の階層において、底辺の「表現者の卵」が爆発的に増える。近代的知を無意識的、無自覚的に信望している彼らは、底辺の秩序を生み出すために論理性、合理性を求める。なのでその作品の解釈や、作品の構成要素の解釈までも一本化という指向で彼らは捉える。オタク文化では記号のサイン化という表出となる。
ここでピラミッド構造を挙げたが(勘違いしないで欲しいのは私はその底辺にいたいと思っている人間だ)、芸術至上主義時代と、オタク文化は、このピラミッドが逆「T」の形になっているイメージだ。特にオタク文化はこの逆「T」字形が島宇宙的に複数存在しているという複雑な構造を持っていると思う。
つまり、底辺の急激な増加と、その内部で起こる合理的秩序化の運動が、底辺の層を中心に向かわせ、中心にあるものがどんどん上に持ち上げられる。結果、そのジャンルにおける表現作品を生み出すピラミッドの中層、上層と底辺の連結が弱くなり、芸術的知の共有の循環が阻害される。なのでその時期における作品は、名作が生まれたとしてもその時代の深層を抉らない、過去の(ピラミッド構造時代の)知の共有から生み出された作品となる。これは19世紀フランスでもその傾向があった。
オタク文化は情報化社会らしくその新陳代謝は19世紀と比較にならないほど早いと思われるので、歴史的には一瞬のトレンドに過ぎないものであり、単に過去に戻る、先祖がえりを起こすだけという反動が表出するだけかもしれない。
大塚英志氏が『物語消滅論』で語った、「近代(小説)にかえれ」という論はあながち間違っていないように思える。
私は、オタク文化における不作の時期の到来自体には危機感を持っていない。時代性が強く、それ以前の「オタク文化の歴史」をあっさり翻すことができるのがオタク文化だからだ。思想の断絶もあってよい。東浩紀氏のいう「動物化」を、無意識的思考と行動が直結するものと考えれば、無意識的な流れに注目してそれを読み解くことも可能であろう。
私が持っている漠然とした危機感は、オタク文化を含めた、東浩紀氏が『動物化するポストモダン』で定義した表現文化的傾向のポストモダン、つまり1960年代からの表現文化の時流の根底に流れるものに対してなのだ。
それが何だろうと考えてみれば、現実世界を記号化することによるシンボリズムの隆盛、それが行き過ぎた形での現代の「記号のサイン化」なのかな、という見当が「仮に」ついた。
もちろん大雑把な感覚なので、もっと思索を重ねるべきかもしれないが、まあ芸術文化のしなやかさを信じるなら、心配するほどのものでもないかもしれないという空いばり的な楽観論をとっておこうかな、と思ってます……。