フライパンの上の水滴
2007/05/04/Fri
熱せられたフライパンの上で踊る水滴のような思考状態。すぐ蒸発してしまう。水滴はフライパンと接触できない。
まあ、思考停止中ってこった。
今考えているのは強迫神経症者が畏れる、あるいは抑鬱症者が自己愛的に同一化する「無為」こそがアガペーなのではないか、ということ。
無を考えること。
フロイト・ラカン・クライン・クリステヴァ論をフランケンシュタインみたいにつぎはぎした対象a論の続き。
ここを記すことができれば、中沢新一論のスピリットとグレートスピリット、一神教の神と多神教の神の違いも輪郭がはっきりとしてくる。
――だけどね。
理論はある程度頭の中で完成している。理で厚化粧することもできる。だけど、理をつくせばつくすほど、いや言葉を重ねれば重ねるほど、それを論ずることが「無為」に思えてくる。
あったりまえだぶー。「無為」そのものに対する考察なんだから。
まあ、たいした理論じゃないけどね。思いついたはいいけど書くに値しない内容に思えてくる。そりゃー思考っていうのは言葉だから、思考の時点で無為に思えてきて当たり前さ。
なんていうか、「もったいない」という言葉がいちばんしっくりくる感じ。
……というなんでもない言い訳でした。
まあ、思考停止中ってこった。
今考えているのは強迫神経症者が畏れる、あるいは抑鬱症者が自己愛的に同一化する「無為」こそがアガペーなのではないか、ということ。
無を考えること。
フロイト・ラカン・クライン・クリステヴァ論をフランケンシュタインみたいにつぎはぎした対象a論の続き。
ここを記すことができれば、中沢新一論のスピリットとグレートスピリット、一神教の神と多神教の神の違いも輪郭がはっきりとしてくる。
――だけどね。
理論はある程度頭の中で完成している。理で厚化粧することもできる。だけど、理をつくせばつくすほど、いや言葉を重ねれば重ねるほど、それを論ずることが「無為」に思えてくる。
あったりまえだぶー。「無為」そのものに対する考察なんだから。
まあ、たいした理論じゃないけどね。思いついたはいいけど書くに値しない内容に思えてくる。そりゃー思考っていうのは言葉だから、思考の時点で無為に思えてきて当たり前さ。
なんていうか、「もったいない」という言葉がいちばんしっくりくる感じ。
……というなんでもない言い訳でした。