「助けたいという欲望」
2011/04/17/Sun
「神」は超えられる試練しか与えないのかもしれない。それは別にそうでいい。
だが「自然」は、超えられる試練も与えるが超えられない試練も平然と与えてくる。人間の都合などお構いなしに。
こういった超えられる試練も超えられない試練もごっちゃに与えてくる「自然」とつねに対峙しているのが、自然科学者だろ。
「医は仁術である」という医者ではなく、科学者としての医者は。
だからラカン派では「科学者はつねに狂気の崖っぷちにいる」なんて言うわけだろ。
「自然」ではなく「神」を想定するからこそ、人間は「健全な精神」を維持できる。
まあ精神分析はその「健全な精神」もパラノイアと類似の、つまり精神疾患的な精神構造だ、としているんだが。
やっぱいいドラマだな、『JIN -仁-』。
今回のスペシャル版のテーマとかわたしがこの記事で書いてることじゃん。
そうそうそうゆうことだよ。
科学というバックボーンを背負っている限り、医者の治療は「己の助けたいというファロセントリックな欲望」が根拠になっている現実を、医者当人につきつける。
そういう話じゃねえの。
え、違う?
まあいいじゃん。たかがドラマだし。
こういう「否定神学」ならいくらでも見てやるよ。
あとどうでもいいんだが市村さん演劇人時代から好きでなんであんなあっぱらぱーアイドルと結婚してんのよと思ったけど結婚してからの篠原涼子の演技とかなかなかいいしあー役者同士としていい関係なんだろうなあって思ってどうでもよくなってたんだが、このエピソード一話で完結させちゃだめなんじゃねえの。あー逆にちょろっとだからいいのか。
んー。ひっぱってもよかったと思うんだがな。経済的に考えて。
市村さんはいつもの通り役者バカでした。
あ、また揺れてる。
今回の余震縦揺れ多くね?
別に「死にたい」わけではない。ただし「生きたい」というわけでもない。
わからない。
自分がどうしたいのかわからない。
お前が言っている「助けたい」とは「わたしを生かせたい」という意味だろう?
しかし助けられる側であるわたしは「生きたい」とは思っていない。「死にたい」というわけではないが。咲の母親とはそこが違う。
結局、助けられる側であるわたしが、お前の脳内わたしが、「生きたい」と思っている、とすることで、自分の「助けたい」という欲望を隠蔽しているだけなんじゃないか?
「助かりたいわたし」はお前の脳内わたしでしかない。
助けようとしているお前に文句を言っているわたしからすれば、お前は一人相撲しているようにしか見えない。
ただ、その一人相撲の結果、わたしに「生かせる」という影響を及ぼすのは、別にどうでもいい。
お前が、自分の一人相撲だと自覚しながら助けるのなら、「助けたい」のは自分であると自覚して助けるのなら、別に拒否する理由はない。
わたしは「死にたい」わけではないから。
落ち着いたので『JIN -仁-』初回スペシャルの感想。
つめこみすぎかなあ、という第一印象。もちろん原作との尺の関係もあるんだろうが。
わたしは前作を見たのでついていけた。なのでつめこみなこの作品もおもしろく思えたが、本作から見始めた人はついていけるのか、と思う。話の内容は理解できても、物語世界の厚みを感じられるのかどうか、という。前作を見ていたわたしはそれを根拠に厚みを脳内補完できるが。
もちろん「前作を見た人にしか相手にしていない」という考え方もあるだろうが、やはり別シリーズとして放送するなら、そういった作法は守るべきではないかと。
アメリカドラマもシリーズものが多いが、こういったシリーズ間のバランス感覚が、日本ドラマより優れているように思う。計画的にシリーズ構成をしているように思える。日本ドラマはいきあたりばったりに感じることが多い。いやもちろん実際に計画的かどうかは知らないが。アメリカドラマは新シリーズから見てもおもしろく思えるが、日本ドラマの新シリーズは、どこかおいてけぼりにされているように思えるときが多い。『相棒』もそうだった。
逆に言えばドラマツルギーに忠実なのがアメリカドラマだ、ってことでもあるが。ハリウッド批判なんてのはそういうことだろ。なんつーの、予定調和主義的というか。
このつめこみすぎ感が、人気が出てしまったことに対する制作者たちの動揺あるいは調子ぶっこきのように思えて、若干萎えた。
物語世界そのものとっては、このつめこみすぎという非予定調和は、関係のないものだろ。シリーズのクライマックスでつめこむのはてんかん的な欲動の典型的な表現手法として理解できるが。
だから、このつめこみすぎ感は、物語外のことを原因にしている、とわたしは推測してしまった、という話。
でもおもしろかった。
あばばば。
ぎゃー。
うがー。
っぽん。
死ね、なんて生温い。
消滅しろ。
消滅させてくれ。
消滅したい。
「死にたい」ではなく。
「不倫の子」はなあ、泣かされる目的でわたしに相談してきたように思える。実際にわたしの中島みゆきのカラオケ大好きだったし。「泣けるから」と。
だけど別にわたしが泣かせたいわけじゃない。
わたしは自分が泣くために中島みゆきを聞いていた。だからその子を泣かせるような歌い方ができたのだろうが。
苦痛の伝染。不快の伝染。
周囲からは無鉄砲なわたしのお守り係みたいに思われてたと思う。「○○(わたしな)の相手大変だろ」とか冗談で言われてたしな。
わたしの方がお守りだと思ってた。
そいつは子供な自分を隠すのがうまいだけ。だけど隠しきれないから、わたしの前でさらけ出す。
elveさんにはこういった嫌味なところはない。
だけど似ている。
ストーキングされたシングルマザーの子にも似ているが、シングルマザーの子と不倫の子は似ていない。っていや大学時代だったしな、年食った彼女はシングルマザーみたいな「残念なおばさん」になっているかもしれない。
片足だけ、なんだよ。
わたしは両足つかまれている。それに。
わたしはだから歩かない、大人になろうと思えないのだが、彼女らは片足残されている。
片足で歩いている。
片足で歩くのが上手な順が、シングルマザー>elveさん>不倫の子、ってことか。自分が片親なわけだからそら片足で歩くのは上手だろう。
不倫の子は、歩いている片足が、歩かない片足を殺そうとしている罪悪感に悩んでいて、両足歩けないわたしに泣かされることで、償っているつもりだったのかもなあ。
そう思うと不倫の子がいやらしく思えてくる。いや嫌味な子だとは思っていたが。
elveさんも、わたしに対しそういうところがあるのなら、いやだ。それこそelveさん自身が書いているこの記事のようないやさ。この記事の「すっかり疎遠になっていた友達」とか罪悪感だろ、この行動原理は。
それがいやだ。
大野さんは、罪悪感は強そうだが、わたしに対する罪悪感は持っていなさそうだから、マシ。
ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ。
ぎゅううう。
っしょん。
だが「自然」は、超えられる試練も与えるが超えられない試練も平然と与えてくる。人間の都合などお構いなしに。
こういった超えられる試練も超えられない試練もごっちゃに与えてくる「自然」とつねに対峙しているのが、自然科学者だろ。
「医は仁術である」という医者ではなく、科学者としての医者は。
だからラカン派では「科学者はつねに狂気の崖っぷちにいる」なんて言うわけだろ。
「自然」ではなく「神」を想定するからこそ、人間は「健全な精神」を維持できる。
まあ精神分析はその「健全な精神」もパラノイアと類似の、つまり精神疾患的な精神構造だ、としているんだが。
やっぱいいドラマだな、『JIN -仁-』。
今回のスペシャル版のテーマとかわたしがこの記事で書いてることじゃん。
そうそうそうゆうことだよ。
科学というバックボーンを背負っている限り、医者の治療は「己の助けたいというファロセントリックな欲望」が根拠になっている現実を、医者当人につきつける。
そういう話じゃねえの。
え、違う?
まあいいじゃん。たかがドラマだし。
こういう「否定神学」ならいくらでも見てやるよ。
あとどうでもいいんだが市村さん演劇人時代から好きでなんであんなあっぱらぱーアイドルと結婚してんのよと思ったけど結婚してからの篠原涼子の演技とかなかなかいいしあー役者同士としていい関係なんだろうなあって思ってどうでもよくなってたんだが、このエピソード一話で完結させちゃだめなんじゃねえの。あー逆にちょろっとだからいいのか。
んー。ひっぱってもよかったと思うんだがな。経済的に考えて。
市村さんはいつもの通り役者バカでした。
あ、また揺れてる。
今回の余震縦揺れ多くね?
別に「死にたい」わけではない。ただし「生きたい」というわけでもない。
わからない。
自分がどうしたいのかわからない。
お前が言っている「助けたい」とは「わたしを生かせたい」という意味だろう?
しかし助けられる側であるわたしは「生きたい」とは思っていない。「死にたい」というわけではないが。咲の母親とはそこが違う。
結局、助けられる側であるわたしが、お前の脳内わたしが、「生きたい」と思っている、とすることで、自分の「助けたい」という欲望を隠蔽しているだけなんじゃないか?
「助かりたいわたし」はお前の脳内わたしでしかない。
助けようとしているお前に文句を言っているわたしからすれば、お前は一人相撲しているようにしか見えない。
ただ、その一人相撲の結果、わたしに「生かせる」という影響を及ぼすのは、別にどうでもいい。
お前が、自分の一人相撲だと自覚しながら助けるのなら、「助けたい」のは自分であると自覚して助けるのなら、別に拒否する理由はない。
わたしは「死にたい」わけではないから。
落ち着いたので『JIN -仁-』初回スペシャルの感想。
つめこみすぎかなあ、という第一印象。もちろん原作との尺の関係もあるんだろうが。
わたしは前作を見たのでついていけた。なのでつめこみなこの作品もおもしろく思えたが、本作から見始めた人はついていけるのか、と思う。話の内容は理解できても、物語世界の厚みを感じられるのかどうか、という。前作を見ていたわたしはそれを根拠に厚みを脳内補完できるが。
もちろん「前作を見た人にしか相手にしていない」という考え方もあるだろうが、やはり別シリーズとして放送するなら、そういった作法は守るべきではないかと。
アメリカドラマもシリーズものが多いが、こういったシリーズ間のバランス感覚が、日本ドラマより優れているように思う。計画的にシリーズ構成をしているように思える。日本ドラマはいきあたりばったりに感じることが多い。いやもちろん実際に計画的かどうかは知らないが。アメリカドラマは新シリーズから見てもおもしろく思えるが、日本ドラマの新シリーズは、どこかおいてけぼりにされているように思えるときが多い。『相棒』もそうだった。
逆に言えばドラマツルギーに忠実なのがアメリカドラマだ、ってことでもあるが。ハリウッド批判なんてのはそういうことだろ。なんつーの、予定調和主義的というか。
このつめこみすぎ感が、人気が出てしまったことに対する制作者たちの動揺あるいは調子ぶっこきのように思えて、若干萎えた。
物語世界そのものとっては、このつめこみすぎという非予定調和は、関係のないものだろ。シリーズのクライマックスでつめこむのはてんかん的な欲動の典型的な表現手法として理解できるが。
だから、このつめこみすぎ感は、物語外のことを原因にしている、とわたしは推測してしまった、という話。
でもおもしろかった。
あばばば。
ぎゃー。
うがー。
っぽん。
死ね、なんて生温い。
消滅しろ。
消滅させてくれ。
消滅したい。
「死にたい」ではなく。
「不倫の子」はなあ、泣かされる目的でわたしに相談してきたように思える。実際にわたしの中島みゆきのカラオケ大好きだったし。「泣けるから」と。
だけど別にわたしが泣かせたいわけじゃない。
わたしは自分が泣くために中島みゆきを聞いていた。だからその子を泣かせるような歌い方ができたのだろうが。
苦痛の伝染。不快の伝染。
周囲からは無鉄砲なわたしのお守り係みたいに思われてたと思う。「○○(わたしな)の相手大変だろ」とか冗談で言われてたしな。
わたしの方がお守りだと思ってた。
そいつは子供な自分を隠すのがうまいだけ。だけど隠しきれないから、わたしの前でさらけ出す。
elveさんにはこういった嫌味なところはない。
だけど似ている。
ストーキングされたシングルマザーの子にも似ているが、シングルマザーの子と不倫の子は似ていない。っていや大学時代だったしな、年食った彼女はシングルマザーみたいな「残念なおばさん」になっているかもしれない。
片足だけ、なんだよ。
わたしは両足つかまれている。それに。
わたしはだから歩かない、大人になろうと思えないのだが、彼女らは片足残されている。
片足で歩いている。
片足で歩くのが上手な順が、シングルマザー>elveさん>不倫の子、ってことか。自分が片親なわけだからそら片足で歩くのは上手だろう。
不倫の子は、歩いている片足が、歩かない片足を殺そうとしている罪悪感に悩んでいて、両足歩けないわたしに泣かされることで、償っているつもりだったのかもなあ。
そう思うと不倫の子がいやらしく思えてくる。いや嫌味な子だとは思っていたが。
elveさんも、わたしに対しそういうところがあるのなら、いやだ。それこそelveさん自身が書いているこの記事のようないやさ。この記事の「すっかり疎遠になっていた友達」とか罪悪感だろ、この行動原理は。
それがいやだ。
大野さんは、罪悪感は強そうだが、わたしに対する罪悪感は持っていなさそうだから、マシ。
ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ。
ぎゅううう。
っしょん。
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