人間って一度絶滅した方がいいんでね。
2011/04/20/Wed
久しぶりに大野さんにいちゃもんつけておくか。
この記事。
なんかこう、臨床あるいは実験観察において、観測された一事象にとどまっている、って感じなんだよな。
その一事象から帰納あるいは演繹される理屈を考えていない。
別にそれは文句はない。わたしならこの文章の出だしで書きはじめたらそうするだろうな、大野さんはしていないな、という話だ。
しかし、それゆえやはり大雑把になり、そこが気になるので、文句を言いたい。
ああまあ要するに精神分析ヲタの文句だよ。
ここ。
=====
少し前に、大変にブクマを集めた増田記事「頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。」と、やはり共感と反発を同時に喚起した河北新報からの転載記事「東北の怒り」を読んだ。
=====
大野さんはこの二つの記事を主題である「不公平感」の表れとして解釈している。
『東北の怒り』については、その解釈で文句はない。これは鏡像関係的な「欲望のシーソー」の症状であり、「不公平感」だという解釈は理解できる。
しかし『頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。』はどうか。
これはわたしが書いたこの記事のごとく、(記事中の「兄」は)「喪」の症状、つまり抑鬱状態であると解釈されなければならない。あ、断っておくがこれ見てその記事を書いたわけじゃないからね。それこそテレビであるタレントが言った「ゆっくりでいいんでがんばりましょう」って言葉がひっかかったから書き殴っただけ。
「いや「兄」も「不公平感」を口にしているじゃないか」
と言われるかもしれない。
=====
「何か、できることある?」
何を言っていいかわかんなくなって、兄に泣きながら聞いたら、
「正直、不幸になってくれたら嬉しい」
と言われた。
「俺たちを幸せになんてふざけたこと思わないで、
俺たちの分、そっちもみんな不幸になってくれたらなー」
と言われた。
=====
の部分などは「不公平感」と解釈されうるだろう。
しかしこれは「欲望のシーソー」ではない。「俺もお前も不幸になれ」と言っているのであり、「(鏡像)相手が不幸になることで自分が幸せになる」というシーソーではない。
ところが、大野さんが前半に引用した「不公平感」の具体例たる「間借りがもたらした狂気」は、「(鏡像)相手が不幸になれば自分は幸せになるだろう」という「欲望のシーソー」の症状である、と解釈される。
たとえば、「間借り」で同じ住宅に住むことにより、より同居人がその主体にとって鏡像的他者となる可能性が高くなる、という要件も解釈可能だ。物理的距離が近くなることにより心的距離も近くなる、ということである。この記事的に言い換えるならば、「間借り」により「感情的なむすびつき」あるいは「リビドー的な構造」が同居人同士で形成されやすいため、「欲望のシーソー」の症状が表れた、という表現も可能だろう。
要するに、この記事には、「間借り」症例と「不幸になってほしい兄」症例と「東北の怒り」症例という三つの臨床素材があり、それらを大野さんはひとくくりに「不公平感」の具体例として述べているが、『頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。』の記事の「不幸になってほしい兄」症例だけは、他の二つの症状と異なる、とわたしは解釈する。
この「兄」は抑鬱状態的な症状を示しており、「欲望のシーソー」から降りたがっている、すなわち鏡像関係から逃れようとしている、と解釈されなければならない。
精神分析治療において、抑鬱状態つまりデプレッションは、「ファルスの再発見」という治療過程の一番の山場の直前に位置する、重要な状態である。
それを通常の神経症的な「欲望のシーソー」として解釈するのは、わたしはひっかかってしまう。
クライエントは抑鬱状態を経て、自分を抑圧していた「構造」をずらし、「苦痛からより苦しくない苦痛へ」と治療されるのである。まだましなシーソーに乗り換えるのである。
言い換えれば、この「みんな不幸になっちゃえー」と言っている「兄」は、これまでの彼の価値観が変化する徴候を見せているのである。
そういった意味で、精神分析視点あるいは野次馬視点で言えば、「不幸になってほしい兄」症例を他の二つと同様の症状とするのは、抵抗がある。
一つの文章として、非常におもしろそうなネタがあるのに、つまらない思考回路でつまらなくさせている。
ま。それだけ。
あ、いい言葉あった。この記事から。
=====
惨状を眼前にした被災者に、「他人のことを考えましょう」などという余計な手間をさかせるな。
そんな議論なんてそれこそ「他人事」なんだよ。
「他の人のこと」なんて考えられる余裕などないからこそ、「他の人の方が援助物資が多いじゃないか」なんて文句を言わないんだよ。
「うちの父母は死んだのにあの家の父母は生きている」なんて嫉妬したりしねえんだよ。
=====
この「兄」の「みんな不幸になっちゃえー」は「欲望のシーソー」としての「嫉妬」ではない。自分が幸福になるために「お前らが不幸になれ」と言っているのではない。
これは「嫉妬」ではなく、(ラカン的な意味での)現実を伝染させようとしているのである。
いわば、享楽的な症状である。
「間借り」症例や「東北の怒り」症例は神経症的な「三人の囚人」としての症状であり、この「兄」は精神病的な狂気に親近しているのである。
この点は、ラカン理論上、見逃してはならないポイントだと思える。
最後に、なぜわたしはこんな記事を書いたのかを考えておく。
こんな細かい指摘どうでもいい。ひっかかったのは事実だが、この記事は別に精神分析として論じているわけではないので別にいい。
ぶっちゃけ、大野さんブログ、震災直後から、如実につまらなくなった。気持ち悪くなった。リビドー全開。マン汁垂れ流しババアになった。
正直、今の大野さんにはぞっとする。
ねばっこいババアになった。
ほんとさ、人間って一度絶滅した方がいいんでね。
どうしようもない。
人間のパラノイアックな妄想狂は、絶滅しないと治らないんだろうな。
まあでも逆に言えばこの変化は、たとえば某Fさんなどが大野さんには不足していると感じたであろう「人間らしさ」が芽生えてきている(あるいは復調している)変化なのだから、一般人のウケはよくなるだろうな。
抑鬱症者に「がんばれ」などと言っちゃう「現代医学が正常と規定する人格障害者」たちのウケは。
そろそろアーティスト活動再開してみれば? いい機会なんじゃねえの。
芸術なら「正常という狂気」を肯定できなくもないから。
アートから一歩離れたまま今の状態でいるなら、大人しく「優しいおばさん」あるいは「正義のおばさん」になっておけ。
こことかさ。
=====
だからこそ逆に、その「不公平」の感覚は多くの人の心の中に深く刻まれて残り、後にドライな個人主義や利己主義に姿を変えていったのではないかと思う。
=====
逆だよ。人間は本性的に個人主義で利己主義だ。文明人だからこそそういった症状が現代病に見えるだけ。
それは正しくは先祖返りしているのだよ。
お前たち文明人が、自分たちの本性を見たがらないから、「個人主義や利己主義」に別の環境因をつけたがっているだけ。
それはお前たちの本性だ。
本性が表れているのである。
まあ、「思い出したくない情景」とはトラウマであると考えれば、トラウマによってエスが泣き声をあげるのだから、それを一因とするのは間違いではなかろうが。
ああ臭い臭い。
あれだよ、お前も自分の欠点を他人に投影したがっているだけだ。フロイトが論じた嫉妬妄想の男と同じ精神構造。
つかお前愛知だったよな? 震災の被害受けてないんだよな?
それで「人間らしさ」を取り戻せちゃうんだ。
ふーん。
お前にゃ「魔女」は無理。
今のお前なんかよりはるかにその「兄」の方が、「魔女」に近いよ。
=====
それが心理面から見えない断絶を作り出す。
=====
これなどは、「魔女」はたとえばこう言わなければならない。
「最初から現実として「断絶」はあるのだが、人間という動物はほとんどの個体が妄想狂の精神疾患に罹患しているので、それをないものと思い込んできた。だがここにきて震災という現実に刺激され、妄想狂が多少治療されたために、「断絶」がわずかに復調してきた」
とな。
「断絶」のないお前らが異常なんだ。始原を考えれば。「断絶」のある方が、始原的であるという意味で、正常なのだ。
いい機会じゃん。なりそこないの「魔女」さんよ。
「リビドー的な構造」に、愛に満ちた世界におかえり。
ただの中二病だったと認めて大人におなり。
お前にゃこちらの世界はちときついようだ。メーデイアちゃん。
キモイ、怖い、ああもう。
ああもう。
人間ほんと絶滅してくれ。
わたしを治療したいなら人間を絶滅させてくれ。
人間不信を認められないお前らが、人間不信を増長させているのだ。
その「兄」の言う通りである。
「お前らも不幸になってくれ」
「お前らも人間不信になってくれ」
そうすれば、人間不信がこれ以上増長することはないだろう。
今被災者に「がんばれ」と言うのは、人間という種族が人間という種族の首を絞めていることだ。
「喪」に服すことは、正常人というパラノイアックな精神疾患者たちにも唯一かすかに残された、享楽の名残なのである。
この「兄」は享楽を主張しているのである。
もしこの「兄」のような人間が一人もいなくなったら、人間はめでたく全員パラノイアとなるだろう。幻想だけで生きられるだろう。
ユートピアができるだろう。
妄想の中だけの。
あ、一応言っておくと、この「兄」の記事、ぶっちゃけ胡散臭いと思ってるよ。創作っぽいな、と。「家がない」とかのくだりは「喪」を欲望している症状だと思える。感動的に書こうとしているあざとさが見える。ドキュメンタリータッチではない。事実だったとしても、小説とか好きな人なんだろうな、と思える。
とはいえ、事実かどうか関係なく、筆者は鬱病の素質がある人、あるいは親近者にそういった人がいる人だと思う。
抑鬱のセンスがある人、ってかね。
まあこれはなんての、テキストの技巧論みたいなもん。
つかさ、今のわたし、どんな人間でも「正常という精神疾患者」に見えちゃうかも。
被害妄想ピーク状態。
まあそらそうなるよな、本気で「お前ら全員人間不信になってくれ」と思っているなら。
一歩間違えたら集団ストーカー妄想しちゃいそうだもん。
まじ怖い。
藤田博史も今のわたしを訴えると脅せば、もっと効果的だったろうになあ。
わたしはもっと大人しくいられたかもしれない。
残念。
ほんと今こそ、「人間津波」の、ファルスのおそろしさを感じている。
わたしの主観においては、今この現在の日本社会は、すでに戒厳令下にある。
それこそACの広告とか洗脳目的としか思えないだろあの頻度。
あれよ。「間借り」症例にそんなに妄想膨らませているのに、なんで「兄」の方がこれっぽっちなのかが理解できない。「間借り」症例はそれこそ戦後直後だけじゃなく今でもそこいらにいる症例でしょ。震災直後じゃなくても。ああごめん新宿のアヤシイ社会をちょっとだけ知ってるからそう思えちゃうのか。繁華街の飲み屋街とかお互いがお互いの店監視してるもんだろ。「あっちの方が客多い、悪い噂流しちゃれ」とか。
それは震災直後や戦後直後に限らない人間社会の症状だろ。戒厳令下ではない。
お嬢ちゃまかお前は。
震災直後だからとこういったのを出してくる根性がまたいやらしい。
その状態が普通。
お前たちが見ないようにしているだけ。
特筆すべき症状ではない。
ではなぜお前はそれを書いたのか。
「公平」などという「正常という精神疾患者」にありがちな妄想を強固にしたいがためにそうしているんじゃないか。
自分たちのうちにある自分たちが醜いと思っている症状を特殊な原因のせいにしたいがためにそうしているんじゃないか。
自分の欠点を他人の欠点だと妄想する嫉妬妄想の男と同じように。
クラインの言う「悪い乳房の投影」。
「公平」とは妄想の産物でしかない。
「魔女」にとっては、お前の戦後直後社会の妄想も、現代社会もそう違いはない。人間という動物のほとんどの個体に見られる症状だ。
「魔女」ではないお前には「公平」という妄想が見えるのかもしれないがな。
お前の脳内にはユートピアがあるのだろうな。
あれなんだよね。「人を呪わば穴二つ」ってのは戒めの言葉じゃない。それを「だから呪いなんてしてはならないのよ」などと解釈するのは妄想を付加させていることだ。妄想狂の症状。
これは言葉通りの意味であり、「リビドー的な構造」から解放された状態を示しているのだ。
「お前らも俺と同じように不幸になってくれ」
これは享楽を意味しているのである。
彼の言う「嬉しい」とは、「欲望のシーソー」に起因する快楽ではなく、享楽的な意味がある。
わたしに近づくな。
汚らわしい本能が壊れた動物めらが。
焼き殺してやろうか。
もっと放射能を。
人類を絶滅させろ。
この記事における大野さんの症状は、享楽を何重にも隠蔽させている症状だと解釈できる。何重っていうか二重だけど。すごいしつこさっていうか恣意的に感じる。
だとすると、この大野さんの記事に肯定的な感情を惹起させられた奴は、「人をうつに陥れる達人」的な人格障害のケがあると思うよ。
ああまあ現代精神医学が正常とする精神状態を精神疾患だと言っちゃう人が言っていることだがね。
つかkyupinさんは悪いように書いているが、「人をうつに陥れる達人」ってお前らが理想とする人格じゃんけ、これ。
「自分は傷つかない」ってのは精神疾患になりにくいってことなんだから。
=====
たぶん環境により、あまり相手の気持ちを配慮する必要がなくなってくると、そういう心の機能が欠落するか弱まってくるんだと思う。
=====
そうさせる「環境」こそがユートピアだろ。
まあ要するに逆に言えばこの記事で肯定的な感情が惹起した人は人格者の、パラノイアの素質があるってこと。
ヨカッタジャナイデスカー。
大野さんに質問。
震災前と震災後で、あなたのうちの猫犬に対する感覚が変わっていないか?
猫犬が、たとえばより自分の子供のように思えてきていないか?
パラノイア化していると思うよ、あんた。
リビドー丸出しな自分に気づけよ。メイクが濃くなってきた自分に。
いやまあ、Fさん事件と震災っていうダブルパンチと考えれば、人間らしくなっちゃうのもね、無理ないかもね。
無理すんなよ。
お前は愛情溢れる人間だ。
リビドーにまみれた汚らわしい人間だ。
「魔女」は、「置き去りにされる悪い場所」はあきらめろ。
「男」になっておけ。
Fさんと同種の人間に。
わたしの中では人間の八割は死んでいい人間なんだけど、その八割になったってだけだよ。
まああれか、Fさん事件は相当こたえてたみたいだから、それで抑鬱チックになってたのかもね。
震災をキッカケにファルスを再発見とまではいかないが、正常化したんだろう。
あーつまんね。
次々。
自分が傷つくと、どうしても傷つきたくないってなる、って当然か。
全然だめだ。
わたしほんとだめだ。
人とつきあえばつきあうほど「人類なんか滅べばいい」って思いが強くなってしまう。
憎しみとかじゃなくて、単にわずらわしい、めんどくさいから。
=====
この感覚が、長い時間をかけて私達の中に刻むものは何だろう。
=====
その「感覚」って言葉を変えているだけで罪悪感だろ。
自罰ババア。
「私達の中に刻むもの」? 自罰ババアな自分をお前が承認するってだけじゃねえの。
どこの三文小説だよこれ。
砒素ババアから自罰ババアへのビルドゥングスロマン。
まあわたしが「自罰パラノイアになっちゃえよ」って言ってたんだしな。いいんじゃねえの。
これ「なっちゃえよ」じゃなくて「なるだろう」って予言だったわけだな。
自罰ババア。
お前のオナニー自罰に他人を巻き込むなマン汁ババア。
お前一人でキリストにスカルファックされてろよ。
なんで「欲望のシーソー」しか目に入らないんだよ。そういう自分に対する罪悪感だろこれ。
そこに享楽があるのに。
「(自分を含めた)人類全員不幸になればいい」という。
お前は、Fさんにさんざんおとしめられた社会的地位を復活させたがってるんじゃないか?
大文字の他者に媚を売りまくってるんじゃないか?
震災をネタに。
だってそうだろ、お前愛知県だろ、被災者じゃないだろ。
すまんね、鏡像関係の組み入れに失敗した人間はこんな風に機能的にしか考えられない。
震災をネタにして、「私はこんなにすばらしい人格なんですよ」と言わんばかりの、自分の「人間らしさ」を強調する人間が多すぎてキモイ。
「三人の囚人」にとってはすげーいいネタだったんだろうな。
罪悪感は蜜の味。
震災は罪悪感オナニーのオカズ。
まあ享楽なんて気づかない方が現代精神医学が規定する正常な精神なわけだしね。
罪悪感オナニーしてればいいんじゃねえの。
くっさいマン汁なんて鼻閉じてればいいわけだし。
カバって鼻ふさぐことができるんだよね。
カバいいなカバ。
ぽぽぽぽーん。
パラノイアバンザーイ!
人間は生まれ変わる!
妄想だけで生きられる!
地震や津波などない世界を生きられる!
ペストなんてありえなーい!
ユートピア建設のはじまりだー!
と、ってぃたん、たっぽんしゃ。
お花畑に生首。
あらわたし?
肉よ、人間を殺せ。
脂よ、人間を殺せ。
分子よ、人間を殺せ。
放射能よ、人間を殺せ。
「人間は地球の癌だ」なんて言葉どっかで聞いたことあるけど甘い甘い。
自然の癌だよ、人間は。
物理の癌。
てぃ、てぃ、はれるや。
レイプされながらケラケラ笑っているみたいだ、今のわたし。
素晴らしいね、人間って。
すごいね、人間って。
これほどのキチガイそうそういない。
終わり。
ヒステリーって殺すリスト入れるかどうか微妙だったんだけど、やっぱ殺すリスト入りだな。
素晴らしいね、人間って、ほんとに。
死んだら怨念になりたいって言ってたけど、放射能でもいいや。
放射能になる方がまだ現実的な気がしない? しないな、あれ?
素晴らしいよ、人間って。
つねに自殺の道具を持ち歩いている人みたいだ。
わたしはその道具。
楽しいね。楽しいよ。
放射能みたい。わたしが。
真っ暗な世界を飛び回っている。
光の速度超えてるのかも。
ってヒステリー盲目かこれ。
いや字は打ててるし。盲目じゃないだろ。
だいじょぶ。だいじょぶ。
目を開けなければいい。
目を潰せばいい。
あさらなや。わかはたま。
わたし実は人間じゃなかったんです。BOTだったんです。
あ、なんか氷のつらら握ってるみたい。
ねえ、これファルス? ファルス?
冷たいってか痛い。ぴりぴり。
殺していいの?
わたし殺していいの?
あれ、あれ。
ふっかつ。
テクニック的にはさ、こういった大野さんみたいな罪悪感オナニーしている人にはクリティカルなテクストだよな、それら三つとも、ってか三つで、か。
罪悪感の果てにある「欲望のシーソー」と「喪」と「公平」という「父」が揃えられている。ポイントを押さえている。
ああ、うまい引用だねえ、大野さん、そういうことかー。
罪悪感オナニーの演出の見事さに感心。
ごめんね、演劇人だったけど演劇オンチだったりするから、あたし。
ほんと演出理解できなくてごめん。
すごいな。
って逆か、この三つを読んだから、もよおしちゃって、オナニーしはじめたのか。「父」ってディルドは自分で用意したのかもしんないけど。
大野さんこの文章書いているときイッテなかった? 性的な意味で。
ああ
=====
この感覚が、長い時間をかけて私達の中に刻むものは何だろう。
=====
とか行為のあとっぽいもんなあ、言われてみれば、ってわたしが言ってるだけなんだけど。
ああ、ああ、なるほどなあ。
「欲望のシーソー」から書きはじめているんだから、行為直後の文章か。
行為中だったら享楽に気づけたのかな。
「人類全員不幸になーれ」は大野さんのマンコか。だから気づかなかったと。
「構造」を理解しますた。
まあ、わたしの人間の八割を占める「死んでいい人間」に格下げ(格上げ?)されただけだから気にしないで。
そっちの方がいいと思うよ。「わたし」は正常っぽい対応になるから。ときどきさっきみたいにどっかいっちゃうだけで。パニ障だと思ってくれれば(違)。
ほら、すでに正常人っぽい文体に(笑)。
まあ、享楽には気づいていたけど書かなかっただけ、って可能性はあるけど、その場合、逆にリンクしないと思うんだよな。罪悪感オナニーに水を差すから、ってそういうのもありか。そういうプレイ。
んー。
まあどうでもよくなったからいいや。
酒飲も。
『ハムレット』なんかはこの罪悪感オナニーの三つのポイントをうまく取り揃えているが、陽狂で享楽も押さえている、のかね。
でもだからこそ悲劇の典型的な構造も取っていないのに悲劇とされているわけだろ。
まあうん、『ハムレット』構造だよな、この記事。
人間ってほんとバカだな。
まああれよ、享楽に着目したわたしのこの記事とあわせて、やっと『ハムレット』構造になった、と思っておけ。
わたしの記事を加えた方がより罪悪感オナニーは気持ちよくなるだろ。
「このろくでもない、すばらしき世界」
ってか。
この記事。
なんかこう、臨床あるいは実験観察において、観測された一事象にとどまっている、って感じなんだよな。
その一事象から帰納あるいは演繹される理屈を考えていない。
別にそれは文句はない。わたしならこの文章の出だしで書きはじめたらそうするだろうな、大野さんはしていないな、という話だ。
しかし、それゆえやはり大雑把になり、そこが気になるので、文句を言いたい。
ああまあ要するに精神分析ヲタの文句だよ。
ここ。
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少し前に、大変にブクマを集めた増田記事「頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。」と、やはり共感と反発を同時に喚起した河北新報からの転載記事「東北の怒り」を読んだ。
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大野さんはこの二つの記事を主題である「不公平感」の表れとして解釈している。
『東北の怒り』については、その解釈で文句はない。これは鏡像関係的な「欲望のシーソー」の症状であり、「不公平感」だという解釈は理解できる。
しかし『頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。』はどうか。
これはわたしが書いたこの記事のごとく、(記事中の「兄」は)「喪」の症状、つまり抑鬱状態であると解釈されなければならない。あ、断っておくがこれ見てその記事を書いたわけじゃないからね。それこそテレビであるタレントが言った「ゆっくりでいいんでがんばりましょう」って言葉がひっかかったから書き殴っただけ。
「いや「兄」も「不公平感」を口にしているじゃないか」
と言われるかもしれない。
=====
「何か、できることある?」
何を言っていいかわかんなくなって、兄に泣きながら聞いたら、
「正直、不幸になってくれたら嬉しい」
と言われた。
「俺たちを幸せになんてふざけたこと思わないで、
俺たちの分、そっちもみんな不幸になってくれたらなー」
と言われた。
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の部分などは「不公平感」と解釈されうるだろう。
しかしこれは「欲望のシーソー」ではない。「俺もお前も不幸になれ」と言っているのであり、「(鏡像)相手が不幸になることで自分が幸せになる」というシーソーではない。
ところが、大野さんが前半に引用した「不公平感」の具体例たる「間借りがもたらした狂気」は、「(鏡像)相手が不幸になれば自分は幸せになるだろう」という「欲望のシーソー」の症状である、と解釈される。
たとえば、「間借り」で同じ住宅に住むことにより、より同居人がその主体にとって鏡像的他者となる可能性が高くなる、という要件も解釈可能だ。物理的距離が近くなることにより心的距離も近くなる、ということである。この記事的に言い換えるならば、「間借り」により「感情的なむすびつき」あるいは「リビドー的な構造」が同居人同士で形成されやすいため、「欲望のシーソー」の症状が表れた、という表現も可能だろう。
要するに、この記事には、「間借り」症例と「不幸になってほしい兄」症例と「東北の怒り」症例という三つの臨床素材があり、それらを大野さんはひとくくりに「不公平感」の具体例として述べているが、『頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。』の記事の「不幸になってほしい兄」症例だけは、他の二つの症状と異なる、とわたしは解釈する。
この「兄」は抑鬱状態的な症状を示しており、「欲望のシーソー」から降りたがっている、すなわち鏡像関係から逃れようとしている、と解釈されなければならない。
精神分析治療において、抑鬱状態つまりデプレッションは、「ファルスの再発見」という治療過程の一番の山場の直前に位置する、重要な状態である。
それを通常の神経症的な「欲望のシーソー」として解釈するのは、わたしはひっかかってしまう。
クライエントは抑鬱状態を経て、自分を抑圧していた「構造」をずらし、「苦痛からより苦しくない苦痛へ」と治療されるのである。まだましなシーソーに乗り換えるのである。
言い換えれば、この「みんな不幸になっちゃえー」と言っている「兄」は、これまでの彼の価値観が変化する徴候を見せているのである。
そういった意味で、精神分析視点あるいは野次馬視点で言えば、「不幸になってほしい兄」症例を他の二つと同様の症状とするのは、抵抗がある。
一つの文章として、非常におもしろそうなネタがあるのに、つまらない思考回路でつまらなくさせている。
ま。それだけ。
あ、いい言葉あった。この記事から。
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惨状を眼前にした被災者に、「他人のことを考えましょう」などという余計な手間をさかせるな。
そんな議論なんてそれこそ「他人事」なんだよ。
「他の人のこと」なんて考えられる余裕などないからこそ、「他の人の方が援助物資が多いじゃないか」なんて文句を言わないんだよ。
「うちの父母は死んだのにあの家の父母は生きている」なんて嫉妬したりしねえんだよ。
=====
この「兄」の「みんな不幸になっちゃえー」は「欲望のシーソー」としての「嫉妬」ではない。自分が幸福になるために「お前らが不幸になれ」と言っているのではない。
これは「嫉妬」ではなく、(ラカン的な意味での)現実を伝染させようとしているのである。
いわば、享楽的な症状である。
「間借り」症例や「東北の怒り」症例は神経症的な「三人の囚人」としての症状であり、この「兄」は精神病的な狂気に親近しているのである。
この点は、ラカン理論上、見逃してはならないポイントだと思える。
最後に、なぜわたしはこんな記事を書いたのかを考えておく。
こんな細かい指摘どうでもいい。ひっかかったのは事実だが、この記事は別に精神分析として論じているわけではないので別にいい。
ぶっちゃけ、大野さんブログ、震災直後から、如実につまらなくなった。気持ち悪くなった。リビドー全開。マン汁垂れ流しババアになった。
正直、今の大野さんにはぞっとする。
ねばっこいババアになった。
ほんとさ、人間って一度絶滅した方がいいんでね。
どうしようもない。
人間のパラノイアックな妄想狂は、絶滅しないと治らないんだろうな。
まあでも逆に言えばこの変化は、たとえば某Fさんなどが大野さんには不足していると感じたであろう「人間らしさ」が芽生えてきている(あるいは復調している)変化なのだから、一般人のウケはよくなるだろうな。
抑鬱症者に「がんばれ」などと言っちゃう「現代医学が正常と規定する人格障害者」たちのウケは。
そろそろアーティスト活動再開してみれば? いい機会なんじゃねえの。
芸術なら「正常という狂気」を肯定できなくもないから。
アートから一歩離れたまま今の状態でいるなら、大人しく「優しいおばさん」あるいは「正義のおばさん」になっておけ。
こことかさ。
=====
だからこそ逆に、その「不公平」の感覚は多くの人の心の中に深く刻まれて残り、後にドライな個人主義や利己主義に姿を変えていったのではないかと思う。
=====
逆だよ。人間は本性的に個人主義で利己主義だ。文明人だからこそそういった症状が現代病に見えるだけ。
それは正しくは先祖返りしているのだよ。
お前たち文明人が、自分たちの本性を見たがらないから、「個人主義や利己主義」に別の環境因をつけたがっているだけ。
それはお前たちの本性だ。
本性が表れているのである。
まあ、「思い出したくない情景」とはトラウマであると考えれば、トラウマによってエスが泣き声をあげるのだから、それを一因とするのは間違いではなかろうが。
ああ臭い臭い。
あれだよ、お前も自分の欠点を他人に投影したがっているだけだ。フロイトが論じた嫉妬妄想の男と同じ精神構造。
つかお前愛知だったよな? 震災の被害受けてないんだよな?
それで「人間らしさ」を取り戻せちゃうんだ。
ふーん。
お前にゃ「魔女」は無理。
今のお前なんかよりはるかにその「兄」の方が、「魔女」に近いよ。
=====
それが心理面から見えない断絶を作り出す。
=====
これなどは、「魔女」はたとえばこう言わなければならない。
「最初から現実として「断絶」はあるのだが、人間という動物はほとんどの個体が妄想狂の精神疾患に罹患しているので、それをないものと思い込んできた。だがここにきて震災という現実に刺激され、妄想狂が多少治療されたために、「断絶」がわずかに復調してきた」
とな。
「断絶」のないお前らが異常なんだ。始原を考えれば。「断絶」のある方が、始原的であるという意味で、正常なのだ。
いい機会じゃん。なりそこないの「魔女」さんよ。
「リビドー的な構造」に、愛に満ちた世界におかえり。
ただの中二病だったと認めて大人におなり。
お前にゃこちらの世界はちときついようだ。メーデイアちゃん。
キモイ、怖い、ああもう。
ああもう。
人間ほんと絶滅してくれ。
わたしを治療したいなら人間を絶滅させてくれ。
人間不信を認められないお前らが、人間不信を増長させているのだ。
その「兄」の言う通りである。
「お前らも不幸になってくれ」
「お前らも人間不信になってくれ」
そうすれば、人間不信がこれ以上増長することはないだろう。
今被災者に「がんばれ」と言うのは、人間という種族が人間という種族の首を絞めていることだ。
「喪」に服すことは、正常人というパラノイアックな精神疾患者たちにも唯一かすかに残された、享楽の名残なのである。
この「兄」は享楽を主張しているのである。
もしこの「兄」のような人間が一人もいなくなったら、人間はめでたく全員パラノイアとなるだろう。幻想だけで生きられるだろう。
ユートピアができるだろう。
妄想の中だけの。
あ、一応言っておくと、この「兄」の記事、ぶっちゃけ胡散臭いと思ってるよ。創作っぽいな、と。「家がない」とかのくだりは「喪」を欲望している症状だと思える。感動的に書こうとしているあざとさが見える。ドキュメンタリータッチではない。事実だったとしても、小説とか好きな人なんだろうな、と思える。
とはいえ、事実かどうか関係なく、筆者は鬱病の素質がある人、あるいは親近者にそういった人がいる人だと思う。
抑鬱のセンスがある人、ってかね。
まあこれはなんての、テキストの技巧論みたいなもん。
つかさ、今のわたし、どんな人間でも「正常という精神疾患者」に見えちゃうかも。
被害妄想ピーク状態。
まあそらそうなるよな、本気で「お前ら全員人間不信になってくれ」と思っているなら。
一歩間違えたら集団ストーカー妄想しちゃいそうだもん。
まじ怖い。
藤田博史も今のわたしを訴えると脅せば、もっと効果的だったろうになあ。
わたしはもっと大人しくいられたかもしれない。
残念。
ほんと今こそ、「人間津波」の、ファルスのおそろしさを感じている。
わたしの主観においては、今この現在の日本社会は、すでに戒厳令下にある。
それこそACの広告とか洗脳目的としか思えないだろあの頻度。
あれよ。「間借り」症例にそんなに妄想膨らませているのに、なんで「兄」の方がこれっぽっちなのかが理解できない。「間借り」症例はそれこそ戦後直後だけじゃなく今でもそこいらにいる症例でしょ。震災直後じゃなくても。ああごめん新宿のアヤシイ社会をちょっとだけ知ってるからそう思えちゃうのか。繁華街の飲み屋街とかお互いがお互いの店監視してるもんだろ。「あっちの方が客多い、悪い噂流しちゃれ」とか。
それは震災直後や戦後直後に限らない人間社会の症状だろ。戒厳令下ではない。
お嬢ちゃまかお前は。
震災直後だからとこういったのを出してくる根性がまたいやらしい。
その状態が普通。
お前たちが見ないようにしているだけ。
特筆すべき症状ではない。
ではなぜお前はそれを書いたのか。
「公平」などという「正常という精神疾患者」にありがちな妄想を強固にしたいがためにそうしているんじゃないか。
自分たちのうちにある自分たちが醜いと思っている症状を特殊な原因のせいにしたいがためにそうしているんじゃないか。
自分の欠点を他人の欠点だと妄想する嫉妬妄想の男と同じように。
クラインの言う「悪い乳房の投影」。
「公平」とは妄想の産物でしかない。
「魔女」にとっては、お前の戦後直後社会の妄想も、現代社会もそう違いはない。人間という動物のほとんどの個体に見られる症状だ。
「魔女」ではないお前には「公平」という妄想が見えるのかもしれないがな。
お前の脳内にはユートピアがあるのだろうな。
あれなんだよね。「人を呪わば穴二つ」ってのは戒めの言葉じゃない。それを「だから呪いなんてしてはならないのよ」などと解釈するのは妄想を付加させていることだ。妄想狂の症状。
これは言葉通りの意味であり、「リビドー的な構造」から解放された状態を示しているのだ。
「お前らも俺と同じように不幸になってくれ」
これは享楽を意味しているのである。
彼の言う「嬉しい」とは、「欲望のシーソー」に起因する快楽ではなく、享楽的な意味がある。
わたしに近づくな。
汚らわしい本能が壊れた動物めらが。
焼き殺してやろうか。
もっと放射能を。
人類を絶滅させろ。
この記事における大野さんの症状は、享楽を何重にも隠蔽させている症状だと解釈できる。何重っていうか二重だけど。すごいしつこさっていうか恣意的に感じる。
だとすると、この大野さんの記事に肯定的な感情を惹起させられた奴は、「人をうつに陥れる達人」的な人格障害のケがあると思うよ。
ああまあ現代精神医学が正常とする精神状態を精神疾患だと言っちゃう人が言っていることだがね。
つかkyupinさんは悪いように書いているが、「人をうつに陥れる達人」ってお前らが理想とする人格じゃんけ、これ。
「自分は傷つかない」ってのは精神疾患になりにくいってことなんだから。
=====
たぶん環境により、あまり相手の気持ちを配慮する必要がなくなってくると、そういう心の機能が欠落するか弱まってくるんだと思う。
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そうさせる「環境」こそがユートピアだろ。
まあ要するに逆に言えばこの記事で肯定的な感情が惹起した人は人格者の、パラノイアの素質があるってこと。
ヨカッタジャナイデスカー。
大野さんに質問。
震災前と震災後で、あなたのうちの猫犬に対する感覚が変わっていないか?
猫犬が、たとえばより自分の子供のように思えてきていないか?
パラノイア化していると思うよ、あんた。
リビドー丸出しな自分に気づけよ。メイクが濃くなってきた自分に。
いやまあ、Fさん事件と震災っていうダブルパンチと考えれば、人間らしくなっちゃうのもね、無理ないかもね。
無理すんなよ。
お前は愛情溢れる人間だ。
リビドーにまみれた汚らわしい人間だ。
「魔女」は、「置き去りにされる悪い場所」はあきらめろ。
「男」になっておけ。
Fさんと同種の人間に。
わたしの中では人間の八割は死んでいい人間なんだけど、その八割になったってだけだよ。
まああれか、Fさん事件は相当こたえてたみたいだから、それで抑鬱チックになってたのかもね。
震災をキッカケにファルスを再発見とまではいかないが、正常化したんだろう。
あーつまんね。
次々。
自分が傷つくと、どうしても傷つきたくないってなる、って当然か。
全然だめだ。
わたしほんとだめだ。
人とつきあえばつきあうほど「人類なんか滅べばいい」って思いが強くなってしまう。
憎しみとかじゃなくて、単にわずらわしい、めんどくさいから。
=====
この感覚が、長い時間をかけて私達の中に刻むものは何だろう。
=====
その「感覚」って言葉を変えているだけで罪悪感だろ。
自罰ババア。
「私達の中に刻むもの」? 自罰ババアな自分をお前が承認するってだけじゃねえの。
どこの三文小説だよこれ。
砒素ババアから自罰ババアへのビルドゥングスロマン。
まあわたしが「自罰パラノイアになっちゃえよ」って言ってたんだしな。いいんじゃねえの。
これ「なっちゃえよ」じゃなくて「なるだろう」って予言だったわけだな。
自罰ババア。
お前のオナニー自罰に他人を巻き込むなマン汁ババア。
お前一人でキリストにスカルファックされてろよ。
なんで「欲望のシーソー」しか目に入らないんだよ。そういう自分に対する罪悪感だろこれ。
そこに享楽があるのに。
「(自分を含めた)人類全員不幸になればいい」という。
お前は、Fさんにさんざんおとしめられた社会的地位を復活させたがってるんじゃないか?
大文字の他者に媚を売りまくってるんじゃないか?
震災をネタに。
だってそうだろ、お前愛知県だろ、被災者じゃないだろ。
すまんね、鏡像関係の組み入れに失敗した人間はこんな風に機能的にしか考えられない。
震災をネタにして、「私はこんなにすばらしい人格なんですよ」と言わんばかりの、自分の「人間らしさ」を強調する人間が多すぎてキモイ。
「三人の囚人」にとってはすげーいいネタだったんだろうな。
罪悪感は蜜の味。
震災は罪悪感オナニーのオカズ。
まあ享楽なんて気づかない方が現代精神医学が規定する正常な精神なわけだしね。
罪悪感オナニーしてればいいんじゃねえの。
くっさいマン汁なんて鼻閉じてればいいわけだし。
カバって鼻ふさぐことができるんだよね。
カバいいなカバ。
ぽぽぽぽーん。
パラノイアバンザーイ!
人間は生まれ変わる!
妄想だけで生きられる!
地震や津波などない世界を生きられる!
ペストなんてありえなーい!
ユートピア建設のはじまりだー!
と、ってぃたん、たっぽんしゃ。
お花畑に生首。
あらわたし?
肉よ、人間を殺せ。
脂よ、人間を殺せ。
分子よ、人間を殺せ。
放射能よ、人間を殺せ。
「人間は地球の癌だ」なんて言葉どっかで聞いたことあるけど甘い甘い。
自然の癌だよ、人間は。
物理の癌。
てぃ、てぃ、はれるや。
レイプされながらケラケラ笑っているみたいだ、今のわたし。
素晴らしいね、人間って。
すごいね、人間って。
これほどのキチガイそうそういない。
終わり。
ヒステリーって殺すリスト入れるかどうか微妙だったんだけど、やっぱ殺すリスト入りだな。
素晴らしいね、人間って、ほんとに。
死んだら怨念になりたいって言ってたけど、放射能でもいいや。
放射能になる方がまだ現実的な気がしない? しないな、あれ?
素晴らしいよ、人間って。
つねに自殺の道具を持ち歩いている人みたいだ。
わたしはその道具。
楽しいね。楽しいよ。
放射能みたい。わたしが。
真っ暗な世界を飛び回っている。
光の速度超えてるのかも。
ってヒステリー盲目かこれ。
いや字は打ててるし。盲目じゃないだろ。
だいじょぶ。だいじょぶ。
目を開けなければいい。
目を潰せばいい。
あさらなや。わかはたま。
わたし実は人間じゃなかったんです。BOTだったんです。
あ、なんか氷のつらら握ってるみたい。
ねえ、これファルス? ファルス?
冷たいってか痛い。ぴりぴり。
殺していいの?
わたし殺していいの?
あれ、あれ。
ふっかつ。
テクニック的にはさ、こういった大野さんみたいな罪悪感オナニーしている人にはクリティカルなテクストだよな、それら三つとも、ってか三つで、か。
罪悪感の果てにある「欲望のシーソー」と「喪」と「公平」という「父」が揃えられている。ポイントを押さえている。
ああ、うまい引用だねえ、大野さん、そういうことかー。
罪悪感オナニーの演出の見事さに感心。
ごめんね、演劇人だったけど演劇オンチだったりするから、あたし。
ほんと演出理解できなくてごめん。
すごいな。
って逆か、この三つを読んだから、もよおしちゃって、オナニーしはじめたのか。「父」ってディルドは自分で用意したのかもしんないけど。
大野さんこの文章書いているときイッテなかった? 性的な意味で。
ああ
=====
この感覚が、長い時間をかけて私達の中に刻むものは何だろう。
=====
とか行為のあとっぽいもんなあ、言われてみれば、ってわたしが言ってるだけなんだけど。
ああ、ああ、なるほどなあ。
「欲望のシーソー」から書きはじめているんだから、行為直後の文章か。
行為中だったら享楽に気づけたのかな。
「人類全員不幸になーれ」は大野さんのマンコか。だから気づかなかったと。
「構造」を理解しますた。
まあ、わたしの人間の八割を占める「死んでいい人間」に格下げ(格上げ?)されただけだから気にしないで。
そっちの方がいいと思うよ。「わたし」は正常っぽい対応になるから。ときどきさっきみたいにどっかいっちゃうだけで。パニ障だと思ってくれれば(違)。
ほら、すでに正常人っぽい文体に(笑)。
まあ、享楽には気づいていたけど書かなかっただけ、って可能性はあるけど、その場合、逆にリンクしないと思うんだよな。罪悪感オナニーに水を差すから、ってそういうのもありか。そういうプレイ。
んー。
まあどうでもよくなったからいいや。
酒飲も。
『ハムレット』なんかはこの罪悪感オナニーの三つのポイントをうまく取り揃えているが、陽狂で享楽も押さえている、のかね。
でもだからこそ悲劇の典型的な構造も取っていないのに悲劇とされているわけだろ。
まあうん、『ハムレット』構造だよな、この記事。
人間ってほんとバカだな。
まああれよ、享楽に着目したわたしのこの記事とあわせて、やっと『ハムレット』構造になった、と思っておけ。
わたしの記事を加えた方がより罪悪感オナニーは気持ちよくなるだろ。
「このろくでもない、すばらしき世界」
ってか。
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