字義通りに読むことの困難さ
2011/04/22/Fri
わたしは構造主義者を自称しているが、性格的にはやっぱ理系脳だし、そういう意味では機能主義的、あるいは合理主義的な人格傾向なのだと思う。
そんなわたしにも非機能的な心理はある。
割りきれない何か。対象a。
この領域では、機能主義と合理主義は区別される。
機能とは目的がなければならない。一方理は理であり、目的が必要ではない。逆に言えば、目的のために理を主に使用するのが、合理主義だ。
この領域では、理に使用される。理が目的となっているという意味ではなく、目的などではなく、禅的な意味での「自然」として理がある。自ずとそうである理。したがって理に使用される。
このように、この領域を語ろうとするとどうしてもデムパになる。ここは読み飛ばしてくれて構わない。
ところで非機能的な何かは、この領域以外にもある。
それこそ冒頭で非構造主義として機能主義を挙げたように、したがってここではそれを「構造」と呼ぶが、「構造」がある。
これはわたしの心理にもないことはないが、主に他人の心理に過剰にある機制である。
この「構造」とは、「非機能的な割りきれない何か」が、多くの人間の個体において共通しているものである。
それをどう表現するかは難しい。言語ではなおさらだ。言語そのものがこの「構造」下にあるから。
なのでラカンはトポロジーを援用し、「それはトーラスだ」と説明したのだと思う。
この点において、わたしはラカンがもっとも正統な構造主義者であるように思える。この記事で説明したごとき構造主義。
まあ、なんかね。
ぶっちゃけ、飽きてきた。ラカン。
困る。
それへの否認になるのか、これ。
この記事もさ。
例のブログ主は「ラカンの「構造」は構造主義では決してない」ことの論拠として
=====
構造主義においては主体が存在せず、構造がある。ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。
=====
という文章を引用したのだろうけどさ(あ、ごめんその記事ではジジェクが書いたことになってるけど間違ってたみたい)。
この文章は、ラカン理論は構造主義プラスアルファである、って意味じゃん。ラカン理論は構造主義をその一部に含んでいる、という意味だ。
それをさ、「そこでもラカンの「構造」は構造主義では決してない」とするのは、文意の歪曲だと思うんだけど。彼フロイトの文章も歪曲してたよな。
「原典主義」を主張するわりに、こういったもとの文意を歪曲する傾向が、彼にはある、と言ってよいだろう。
わたしは別に原典主義者じゃないので歪曲自体はいいんだよ。わたし自身歪曲しまくりだと思う。ラカン理論のみならず。でもわたしは原典主義者ではないので別にどうでもいい。「歪曲」とはもとの文章に「自分の考え」を付加させた結果でもある。
わたしは文章を字義通りに読んでいるだけなのだが。
この彼も、もとの文章に「自分の考え」を付加させているのだろう。その「自分の考え」はおそらく無自覚的なすなわち無意識的なものだろうが。
こういったところがね。この歪曲の仕方が、わたし以外の多くの人間で、ある共通性を持っているように思えるんだ。
それが「構造」だと思うんだよな。
具体的に言えば「メタ言語」とかってなるのかね。
彼は、先の文章やフロイトの文章に、字義通りの文意ではない、「メタ言語」を読み取っていた、というわけだ。
いや普通だと思うよ。それが正常人。「メタ言語」を読み取れるのが。たとえば自閉症研究においては、正常人が日常的に読み取りあっている「メタ言語」を自閉症者は読み取れず、言葉の字義通りにしか理解できない、なんて風に言われたりする。
しかしそのせいで、正常人は「字義通りの意味」を読み取るのが困難になっている、という事実も、この一件は逆に浮き彫りにしていると思われる。
あたしは、字義通りにしか理解できない自閉症メインに臨床してるから、字義通りに読むことってのを体でわかってる、という部分はあると思う。
いやまあ、「ラカン理論とは構造主義プラスアルファであり、構造主義そのものでは決してない」という意味で「ラカンの「構造」は構造主義では決してない」と歪曲などせずに言っている、とも解釈できうるが、となると今度は文脈に合致しないんだよな。
というのは、これ以前の会話で、彼にとっての「構造」は、引用文がラカン理論が一部として含んでいるとする「構造主義的な「構造」という概念」でないことが、合意されている。
この記事から。
=====
ああそうそう、
=====
ところで、わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている、そう語ったのは89年の共産主義崩壊のあとの柄谷行人の態度変更のコンテクストであり、それが所謂「構造的」な視点というものである。
=====
なるほど、わたしの解釈である「構造主義的な見方」って意味での「「構造的」見方」ではなかったわけね。
ごめん勘違いしてたよ。君の言う「「構造的」見方」とは通時的視点なわけだ。そうじゃないかなとは思ったんだ。「構造」って言葉は通時的な意味を持つケースもあるしね。わたしの知っている「構造主義」の「構造」とは異なる意味。
そう解釈した方が君の言っていることは筋が通るし。そりゃあまったく逆だよな。わたしの早合点だ。ごめんごめん。
=====
この記事を受けて、彼は「ラカンの「構造」は構造主義では決してない」という主張をした、とわたしは推測している。
これは、彼の言う「構造」が「構造主義的な「構造」という概念」ではないということが、彼とわたしのあいだで合意されている、って話になるよな。
したがって、彼の「ラカンの「構造」は構造主義では決してない」という主張について「ラカン理論は構造主義プラスアルファである」という文意の文章を引用するのは、もとの文章を歪曲している、と言える。
違う?
わたしの言っていることどこかおかしい?
……ぶっちゃけていい?
この人ラカン誤読しまくりなんじゃないの? って思うわたしは関係妄想ですか?
なんかもうね。
飽きもするよ、ラカン。
別にラカン村じゃなくてもいいもん、そんな「メタ言語」を観察するの。
日常で充分です。つか2ちゃんとかすげー有用。
ラカン理論においては「メタ言語は存在しない」ってことになっている。だとすると、自閉症研究における「正常人には読み取れて自閉症者には読み取れないメタ言語」って、構造的に「裸の王様が着ている服」と同じだよな。「発達障害」なわけで「子供」だし。
そしてそれは「主人のディスクール」でもあると思う。字義通りの意味ではない表現されていない意味を読み取る。奴隷は物言わぬ主人の意を汲む。
(自閉症研究における)「メタ言語」とは「主人のディスクール」だと思う。
今回の事例で言うならば。例のブログ主は「原典主義」的なことを主張しているが、ここで見たように引用元の文意を歪曲して用いる傾向があることから、彼が実際に重要に思っているのは、彼の思考回路に影響を与えているのは、「原典」という文章そのものではない、と言える。
おそらく、彼が重要に思っている、あるいはその思考回路に主に影響を及ぼしているのは、「原典を記した人物」なのだろう。
彼は、「原典を記した人物」という「物言わぬ主人」と、「主人のディスクール」をしているから、このような歪曲をしてしまうのだろう、とわたしは推測するが、どうか。
ねえねえ、「自爆」であることを認めちゃえば?
「自爆」ってある意味享楽的だと思うのだよね。もちろん「自爆」すべてがそうだってわけでもないが。
享楽への一つのアプローチとしては、ありなんじゃね。
YOU、「自爆」しちゃいなYO!
いやまあ、君みたいなタイプはそうできないんだろうなって思っている部分もあるのでこんなこと言うんだが。
ほんとじゃれあい。
わたし一年以上前から、多くのラカニアンは、ラカン理論(あるいはラカン)と「主人のディスクール」状態になっており、それは「科学としての精神分析」の態度ではないんじゃないか、というようなことを言っているんだよな。前にも挙げたけど他人ブログのコメント欄だけど。
=====
んで、ジジェクが売れててくやしいなら、日本にゃ2ちゃんねるなんてほんと精神分析からしてみればお宝の山があるのに、誰もしないんだよね。
ほんと日本のラカニアンって、精神分析理論がS2になってないと思う。つまり分析家のディスクールになってない。彼らの理論はS1になっている。宗教になっている。宗教になっているから、聖書の言葉で2ちゃんねるなんて便所の落書き語れない、ってことなのかね。
=====
彼とか、「ラカン理論がS1になっている」ってことの、典型的な症状だと思う。
おそらく彼にとってラカン理論は聖書のごときものだろう。なので「聖書の言葉で便所の落書きを語ってはならぬ」という主人の意を汲んでしまう。
「2ちゃんのごとき「ミダラナコト」を語ってはならぬ」という意を。
あ、わかった。
彼は、「ラカン理論は構造主義プラスアルファである」のプラスアルファである「主体」を、エスと解釈していないんだな。
もとの記事から。
=====
そもそも、分析における「主体」とは、「語る存在において想定されたもの」であり、実体的な主体でもなければ、思考の主体でも認識の主体でもない。「分析主体[analysant]」の主体は、分析という特殊な状況においてのみ、垣間見ることができるものなのである。これがまさに、ラカンを構造主義から分かつ点であり、同時にコギトから直接由来する哲学すべてに反対させる点である(Lacan, E93)。構造主義においては主体が存在せず、構造がある。ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。しかし、それはコギトのような確実性の基盤となる主体ではなく、「満ちたパロール」の析出によってはじめて姿をあらわすような主体である。
=====
わたしはこの文章から、そのプラスアルファである「主体」とは、エスあるいは分析主体の「主体」あるいはヒステリー的「主体」と解釈しているんだけど。要するに「構造主義には、ヒステリーが、精神疾患者が存在しない」という意味になるが、ラカンを学ぶ以前から構造主義を齧っていたわたしでも、この言い回しならすとんと納得できる。あごめ、フェミニズムの影響もあるからってだけかもしんないけど。
一方、彼にとっては、プラスアルファである「主体」とは、「父」あるいは「主人」あるいはS1なのだろう。それも確かに構造主義には存在しない。構造主義は神話は研究するが宗教団体ではない。「構造主義には神が存在しない」って当然だよな、学問なんだから。
それはどちらかというと、というかそれからの作用の結果として「コギトのような確実性の基盤となる主体」となると思うんだがなあ。
彼がそう考えているとするならば、彼にとっての「構造」が、通時的な意味すなわち歴史的な意味すなわち非構造主義的な意味になるのも理解できる。歴史とは、「父」あるいは「主人」の物言わぬ意を汲んで、人が創作するものである。ちょうど彼がもとの文意を歪曲したように。
なるほどな。
理解理解。
な、君やっぱ少年ジャンプ(ユング風に換言するなら「英雄神話」みたいな意味)な人じゃん。
今日地震多いな。
わたしだけが揺れてるのかもしんないと素で思ってしまう。
余談だけどってか基本的にわたしブログの記事って全部余談なんだけど、ラカン理論と自閉症を論じたこの斎藤環の論文、個人的には評価しているんだが、こんな一文がある。
=====
ラカンはかつて「ばかな人間を利口にすること以外なら、精神分析にはなんでもできる」と語ったというが、これは図らずも器質的存在としての人間に対しては、精神分析が効果を及ぼし得ないことを正しく含意している。
=====
この「器質的存在としての人間」って文脈から自閉症者あるいは統合失調症者なわけだけども。つまり、「ばかな人間」とは自閉症者や統合失調症者のことで、「利口」な人間とは正常人だ、という意味だろう。
これは、「メタ言語」を読めないから、字義通りにしか読めないから、「王様は裸だ」と言っちゃう子供だから、「ばか」だという意味なのだろう、と解釈すると、なるほど、と思える。
精神分析は「利口」な人間を「ばか」にすることならできる。
わたしは彼に「メタ言語」を読み込まず字義通りに読むことを説明している。「ばか」であることとはどういうことか説明している。彼自身の症状という具体例を挙げて。
うん、確かにこういうときに使いやすい。ラカン理論。
そういうことかなー、と。
「精神分析とはペストである」
だからと言って精神分析学べば「ペスト」を予防できるってわけじゃないよ?
精神分析やる側だって「ペスト」に罹りうる。
それが自然としての「ペスト」。
わたしはペスト。
放射能。
もし仮に、「放射能」を完全に除去できたなら、お前の「原典」は「原典」ではなくなるだろう。
「原典を記した人」は、お前が「放射能」になってしまうことから、お前を防いでいる。たとえばそれは、二階堂奥歯にとってのぬいぐるみだ。
しかし、これはおそらく心因以外の原因によるが、「放射能」がゼロマイクロシーベルトになっても、「原典」が維持される場合がある。おそらく今のお前が理想としている「原典」に到達できた人間もいる。たとえばそれは、ブラジャー姿で鏡の前に立ちヌミノースを感じているシュレーバーだ。
また、「原典を記した人」がいないまま、「放射能」に蝕まれながら、生きている人間もいる。たとえばそれは、自閉症者だ。
さて、君のいきつく先は、どれだろう?
=====
わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている
=====
結局これってただのお前の「主人のディスクール」の無意識下にある「全体性の幻想」なわけだけども、言い返すなら、わたしはこう言うかな。
「言説は、時代(という「全体性」)を考慮(あるいは「幻想」)することでそれから逃げおおせたように思えても、実はそれに囚われている」
「それ」こそが、「ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。」における、ヒステリー的主体たる、「主体」だ。
わかるう?
「精神分析とは放射能である」
精神分析を学べば学ぶほど、そいつは「放射能」汚染されるだろう。
でも、「主体の存在しない構造主義」なら、「放射能」じゃない。
「原典」は、なんだろうな、「イソジン」か。うがい薬としてのではなくデマとしての。
ラカンという、ただの一人の神経症者ではなくファルスが、ラカン理論から彼を守っているのか。
難しいもんだね、こういうの。
フロイトも「私の理論に忠実な人間は後継者にしない」って言ってたらしいけどねえ。
「原典を記した人」に対し忠実であればあるほど、「放射能」から離れてしまう。字義通りの意味を読み取れなくなってしまう。
お前たちが「王様は服を着ている」と思い込んでいるせいで、「王様の裸」が見えなくなってしまっている。見えない放射能になってしまっている。
そんな話か。
どうでもいい話だけど、「スイーツ(笑)」ってもう旬すぎてるけどさ。
いやただのトンデモなんだが、やっぱ糖分と、「鏡像関係」っつか「リビドー的な構造」って、関係している気がするんだよな。そういった脳機能を促進させる、っつか。
いやさ、『JIN -仁-』見たせいでドーナツ食べたくなっちゃってさ、ひさぶりにミスドいったんですよミスド。コーヒーもっとうまければいいのになミスド。で一個を二日かけて食べたんだけど、あーうん、そんな感じかな、って思うんだよね。
別に甘い物好きってわけじゃないんだよね。でもときどきふと食べたくなる。で、わたしは「鏡像関係の組み入れの失敗例」だったとして、糖分取っちゃうと、うまく働いていない脳機能を働かせることになるわけで、つまりは「下手の横好き」みたいになって、余計疲れるから、あんまり好きじゃないのかなー、と思ったのね。最近elveさんちによく書き込んでるのもそうかなと思ったがミスド買った日以前からだった。
でさ、何が言いたいかって、スイーツ大事だよ笑ってんじゃねえよ「スイーツ(キリッ)」だよバーカ、って話なんだけど、
はよ「糖菓」送ってこいカス。
わたしはわたしという放射能を送っております。いつもより大目に漏らしております。
染之助いつの間にベルトコンベアを弟子にしたんだ。
そんなわたしにも非機能的な心理はある。
割りきれない何か。対象a。
この領域では、機能主義と合理主義は区別される。
機能とは目的がなければならない。一方理は理であり、目的が必要ではない。逆に言えば、目的のために理を主に使用するのが、合理主義だ。
この領域では、理に使用される。理が目的となっているという意味ではなく、目的などではなく、禅的な意味での「自然」として理がある。自ずとそうである理。したがって理に使用される。
このように、この領域を語ろうとするとどうしてもデムパになる。ここは読み飛ばしてくれて構わない。
ところで非機能的な何かは、この領域以外にもある。
それこそ冒頭で非構造主義として機能主義を挙げたように、したがってここではそれを「構造」と呼ぶが、「構造」がある。
これはわたしの心理にもないことはないが、主に他人の心理に過剰にある機制である。
この「構造」とは、「非機能的な割りきれない何か」が、多くの人間の個体において共通しているものである。
それをどう表現するかは難しい。言語ではなおさらだ。言語そのものがこの「構造」下にあるから。
なのでラカンはトポロジーを援用し、「それはトーラスだ」と説明したのだと思う。
この点において、わたしはラカンがもっとも正統な構造主義者であるように思える。この記事で説明したごとき構造主義。
まあ、なんかね。
ぶっちゃけ、飽きてきた。ラカン。
困る。
それへの否認になるのか、これ。
この記事もさ。
例のブログ主は「ラカンの「構造」は構造主義では決してない」ことの論拠として
=====
構造主義においては主体が存在せず、構造がある。ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。
=====
という文章を引用したのだろうけどさ(あ、ごめんその記事ではジジェクが書いたことになってるけど間違ってたみたい)。
この文章は、ラカン理論は構造主義プラスアルファである、って意味じゃん。ラカン理論は構造主義をその一部に含んでいる、という意味だ。
それをさ、「そこでもラカンの「構造」は構造主義では決してない」とするのは、文意の歪曲だと思うんだけど。彼フロイトの文章も歪曲してたよな。
「原典主義」を主張するわりに、こういったもとの文意を歪曲する傾向が、彼にはある、と言ってよいだろう。
わたしは別に原典主義者じゃないので歪曲自体はいいんだよ。わたし自身歪曲しまくりだと思う。ラカン理論のみならず。でもわたしは原典主義者ではないので別にどうでもいい。「歪曲」とはもとの文章に「自分の考え」を付加させた結果でもある。
わたしは文章を字義通りに読んでいるだけなのだが。
この彼も、もとの文章に「自分の考え」を付加させているのだろう。その「自分の考え」はおそらく無自覚的なすなわち無意識的なものだろうが。
こういったところがね。この歪曲の仕方が、わたし以外の多くの人間で、ある共通性を持っているように思えるんだ。
それが「構造」だと思うんだよな。
具体的に言えば「メタ言語」とかってなるのかね。
彼は、先の文章やフロイトの文章に、字義通りの文意ではない、「メタ言語」を読み取っていた、というわけだ。
いや普通だと思うよ。それが正常人。「メタ言語」を読み取れるのが。たとえば自閉症研究においては、正常人が日常的に読み取りあっている「メタ言語」を自閉症者は読み取れず、言葉の字義通りにしか理解できない、なんて風に言われたりする。
しかしそのせいで、正常人は「字義通りの意味」を読み取るのが困難になっている、という事実も、この一件は逆に浮き彫りにしていると思われる。
あたしは、字義通りにしか理解できない自閉症メインに臨床してるから、字義通りに読むことってのを体でわかってる、という部分はあると思う。
いやまあ、「ラカン理論とは構造主義プラスアルファであり、構造主義そのものでは決してない」という意味で「ラカンの「構造」は構造主義では決してない」と歪曲などせずに言っている、とも解釈できうるが、となると今度は文脈に合致しないんだよな。
というのは、これ以前の会話で、彼にとっての「構造」は、引用文がラカン理論が一部として含んでいるとする「構造主義的な「構造」という概念」でないことが、合意されている。
この記事から。
=====
ああそうそう、
=====
ところで、わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている、そう語ったのは89年の共産主義崩壊のあとの柄谷行人の態度変更のコンテクストであり、それが所謂「構造的」な視点というものである。
=====
なるほど、わたしの解釈である「構造主義的な見方」って意味での「「構造的」見方」ではなかったわけね。
ごめん勘違いしてたよ。君の言う「「構造的」見方」とは通時的視点なわけだ。そうじゃないかなとは思ったんだ。「構造」って言葉は通時的な意味を持つケースもあるしね。わたしの知っている「構造主義」の「構造」とは異なる意味。
そう解釈した方が君の言っていることは筋が通るし。そりゃあまったく逆だよな。わたしの早合点だ。ごめんごめん。
=====
この記事を受けて、彼は「ラカンの「構造」は構造主義では決してない」という主張をした、とわたしは推測している。
これは、彼の言う「構造」が「構造主義的な「構造」という概念」ではないということが、彼とわたしのあいだで合意されている、って話になるよな。
したがって、彼の「ラカンの「構造」は構造主義では決してない」という主張について「ラカン理論は構造主義プラスアルファである」という文意の文章を引用するのは、もとの文章を歪曲している、と言える。
違う?
わたしの言っていることどこかおかしい?
……ぶっちゃけていい?
この人ラカン誤読しまくりなんじゃないの? って思うわたしは関係妄想ですか?
なんかもうね。
飽きもするよ、ラカン。
別にラカン村じゃなくてもいいもん、そんな「メタ言語」を観察するの。
日常で充分です。つか2ちゃんとかすげー有用。
ラカン理論においては「メタ言語は存在しない」ってことになっている。だとすると、自閉症研究における「正常人には読み取れて自閉症者には読み取れないメタ言語」って、構造的に「裸の王様が着ている服」と同じだよな。「発達障害」なわけで「子供」だし。
そしてそれは「主人のディスクール」でもあると思う。字義通りの意味ではない表現されていない意味を読み取る。奴隷は物言わぬ主人の意を汲む。
(自閉症研究における)「メタ言語」とは「主人のディスクール」だと思う。
今回の事例で言うならば。例のブログ主は「原典主義」的なことを主張しているが、ここで見たように引用元の文意を歪曲して用いる傾向があることから、彼が実際に重要に思っているのは、彼の思考回路に影響を与えているのは、「原典」という文章そのものではない、と言える。
おそらく、彼が重要に思っている、あるいはその思考回路に主に影響を及ぼしているのは、「原典を記した人物」なのだろう。
彼は、「原典を記した人物」という「物言わぬ主人」と、「主人のディスクール」をしているから、このような歪曲をしてしまうのだろう、とわたしは推測するが、どうか。
ねえねえ、「自爆」であることを認めちゃえば?
「自爆」ってある意味享楽的だと思うのだよね。もちろん「自爆」すべてがそうだってわけでもないが。
享楽への一つのアプローチとしては、ありなんじゃね。
YOU、「自爆」しちゃいなYO!
いやまあ、君みたいなタイプはそうできないんだろうなって思っている部分もあるのでこんなこと言うんだが。
ほんとじゃれあい。
わたし一年以上前から、多くのラカニアンは、ラカン理論(あるいはラカン)と「主人のディスクール」状態になっており、それは「科学としての精神分析」の態度ではないんじゃないか、というようなことを言っているんだよな。前にも挙げたけど他人ブログのコメント欄だけど。
=====
んで、ジジェクが売れててくやしいなら、日本にゃ2ちゃんねるなんてほんと精神分析からしてみればお宝の山があるのに、誰もしないんだよね。
ほんと日本のラカニアンって、精神分析理論がS2になってないと思う。つまり分析家のディスクールになってない。彼らの理論はS1になっている。宗教になっている。宗教になっているから、聖書の言葉で2ちゃんねるなんて便所の落書き語れない、ってことなのかね。
=====
彼とか、「ラカン理論がS1になっている」ってことの、典型的な症状だと思う。
おそらく彼にとってラカン理論は聖書のごときものだろう。なので「聖書の言葉で便所の落書きを語ってはならぬ」という主人の意を汲んでしまう。
「2ちゃんのごとき「ミダラナコト」を語ってはならぬ」という意を。
あ、わかった。
彼は、「ラカン理論は構造主義プラスアルファである」のプラスアルファである「主体」を、エスと解釈していないんだな。
もとの記事から。
=====
そもそも、分析における「主体」とは、「語る存在において想定されたもの」であり、実体的な主体でもなければ、思考の主体でも認識の主体でもない。「分析主体[analysant]」の主体は、分析という特殊な状況においてのみ、垣間見ることができるものなのである。これがまさに、ラカンを構造主義から分かつ点であり、同時にコギトから直接由来する哲学すべてに反対させる点である(Lacan, E93)。構造主義においては主体が存在せず、構造がある。ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。しかし、それはコギトのような確実性の基盤となる主体ではなく、「満ちたパロール」の析出によってはじめて姿をあらわすような主体である。
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わたしはこの文章から、そのプラスアルファである「主体」とは、エスあるいは分析主体の「主体」あるいはヒステリー的「主体」と解釈しているんだけど。要するに「構造主義には、ヒステリーが、精神疾患者が存在しない」という意味になるが、ラカンを学ぶ以前から構造主義を齧っていたわたしでも、この言い回しならすとんと納得できる。あごめ、フェミニズムの影響もあるからってだけかもしんないけど。
一方、彼にとっては、プラスアルファである「主体」とは、「父」あるいは「主人」あるいはS1なのだろう。それも確かに構造主義には存在しない。構造主義は神話は研究するが宗教団体ではない。「構造主義には神が存在しない」って当然だよな、学問なんだから。
それはどちらかというと、というかそれからの作用の結果として「コギトのような確実性の基盤となる主体」となると思うんだがなあ。
彼がそう考えているとするならば、彼にとっての「構造」が、通時的な意味すなわち歴史的な意味すなわち非構造主義的な意味になるのも理解できる。歴史とは、「父」あるいは「主人」の物言わぬ意を汲んで、人が創作するものである。ちょうど彼がもとの文意を歪曲したように。
なるほどな。
理解理解。
な、君やっぱ少年ジャンプ(ユング風に換言するなら「英雄神話」みたいな意味)な人じゃん。
今日地震多いな。
わたしだけが揺れてるのかもしんないと素で思ってしまう。
余談だけどってか基本的にわたしブログの記事って全部余談なんだけど、ラカン理論と自閉症を論じたこの斎藤環の論文、個人的には評価しているんだが、こんな一文がある。
=====
ラカンはかつて「ばかな人間を利口にすること以外なら、精神分析にはなんでもできる」と語ったというが、これは図らずも器質的存在としての人間に対しては、精神分析が効果を及ぼし得ないことを正しく含意している。
=====
この「器質的存在としての人間」って文脈から自閉症者あるいは統合失調症者なわけだけども。つまり、「ばかな人間」とは自閉症者や統合失調症者のことで、「利口」な人間とは正常人だ、という意味だろう。
これは、「メタ言語」を読めないから、字義通りにしか読めないから、「王様は裸だ」と言っちゃう子供だから、「ばか」だという意味なのだろう、と解釈すると、なるほど、と思える。
精神分析は「利口」な人間を「ばか」にすることならできる。
わたしは彼に「メタ言語」を読み込まず字義通りに読むことを説明している。「ばか」であることとはどういうことか説明している。彼自身の症状という具体例を挙げて。
うん、確かにこういうときに使いやすい。ラカン理論。
そういうことかなー、と。
「精神分析とはペストである」
だからと言って精神分析学べば「ペスト」を予防できるってわけじゃないよ?
精神分析やる側だって「ペスト」に罹りうる。
それが自然としての「ペスト」。
わたしはペスト。
放射能。
もし仮に、「放射能」を完全に除去できたなら、お前の「原典」は「原典」ではなくなるだろう。
「原典を記した人」は、お前が「放射能」になってしまうことから、お前を防いでいる。たとえばそれは、二階堂奥歯にとってのぬいぐるみだ。
しかし、これはおそらく心因以外の原因によるが、「放射能」がゼロマイクロシーベルトになっても、「原典」が維持される場合がある。おそらく今のお前が理想としている「原典」に到達できた人間もいる。たとえばそれは、ブラジャー姿で鏡の前に立ちヌミノースを感じているシュレーバーだ。
また、「原典を記した人」がいないまま、「放射能」に蝕まれながら、生きている人間もいる。たとえばそれは、自閉症者だ。
さて、君のいきつく先は、どれだろう?
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わたしたちの言説は、時代から超越しているようにみえても、実はそれに捉われている
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結局これってただのお前の「主人のディスクール」の無意識下にある「全体性の幻想」なわけだけども、言い返すなら、わたしはこう言うかな。
「言説は、時代(という「全体性」)を考慮(あるいは「幻想」)することでそれから逃げおおせたように思えても、実はそれに囚われている」
「それ」こそが、「ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。」における、ヒステリー的主体たる、「主体」だ。
わかるう?
「精神分析とは放射能である」
精神分析を学べば学ぶほど、そいつは「放射能」汚染されるだろう。
でも、「主体の存在しない構造主義」なら、「放射能」じゃない。
「原典」は、なんだろうな、「イソジン」か。うがい薬としてのではなくデマとしての。
ラカンという、ただの一人の神経症者ではなくファルスが、ラカン理論から彼を守っているのか。
難しいもんだね、こういうの。
フロイトも「私の理論に忠実な人間は後継者にしない」って言ってたらしいけどねえ。
「原典を記した人」に対し忠実であればあるほど、「放射能」から離れてしまう。字義通りの意味を読み取れなくなってしまう。
お前たちが「王様は服を着ている」と思い込んでいるせいで、「王様の裸」が見えなくなってしまっている。見えない放射能になってしまっている。
そんな話か。
どうでもいい話だけど、「スイーツ(笑)」ってもう旬すぎてるけどさ。
いやただのトンデモなんだが、やっぱ糖分と、「鏡像関係」っつか「リビドー的な構造」って、関係している気がするんだよな。そういった脳機能を促進させる、っつか。
いやさ、『JIN -仁-』見たせいでドーナツ食べたくなっちゃってさ、ひさぶりにミスドいったんですよミスド。コーヒーもっとうまければいいのになミスド。で一個を二日かけて食べたんだけど、あーうん、そんな感じかな、って思うんだよね。
別に甘い物好きってわけじゃないんだよね。でもときどきふと食べたくなる。で、わたしは「鏡像関係の組み入れの失敗例」だったとして、糖分取っちゃうと、うまく働いていない脳機能を働かせることになるわけで、つまりは「下手の横好き」みたいになって、余計疲れるから、あんまり好きじゃないのかなー、と思ったのね。最近elveさんちによく書き込んでるのもそうかなと思ったがミスド買った日以前からだった。
でさ、何が言いたいかって、スイーツ大事だよ笑ってんじゃねえよ「スイーツ(キリッ)」だよバーカ、って話なんだけど、
はよ「糖菓」送ってこいカス。
わたしはわたしという放射能を送っております。いつもより大目に漏らしております。
染之助いつの間にベルトコンベアを弟子にしたんだ。
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