お前は、本当に治療したいのかい?
2011/04/23/Sat
いきつけの飲み屋で見知らぬオヤジから「○○ちゃん元気ぃ~」と声をかけられた。
わたしは「○○ちゃん」ではないので人違いだと思い、「○○じゃないです」と答えたのだが、オヤジは「ああごめんごめん、それでさ……」と変わらぬ態度でわたしに話し続けた。
ナンパのつもりか、などと思いつつよくわからないまま話を聞いていると、「○○ちゃん」というのは別の店の子の名前で、源氏名のようだ。おそらくオヤジは「何か事情があってすっとぼけている」とでも思っているのだろう、と思った。
まあ、飲み屋ってそういうもんだと思うし、話もおもしろくなくはなかったので、つきあってやった。「○○ちゃん」だけどすっとぼけてる「わたし」として。
とはいえわたしは「○○ちゃん」がどういう子なのか知らないので演技はできない。最初からその子を演じてやろうなんてつもりはなかった。話の流れでわたしが「○○ちゃん」じゃないと気づかれたとしても、勝手にそっちがそう勘違いしてただけだし、と思っていた。
それから数度あったが、ばれたかどうかはわからないが別に変わった様子もなく、お互い別の客と話していて挨拶程度しか交わさなかったこともあれば、バカ話したりもした。
しばらくするとそのオヤジはこなくなって、マスターに聞いてみると、
「ああ、あの頭おかしい人?」
とか言ってきた。
え、おい、やっぱそうだよね、マスターもそう思ってたんだ、ってじゃあ助けろよっ、と思ってそのようなことを言うと、
「いや楽しそうだったし」
と笑って返された。
この記事から。
=====
それゆえ,精神病の臨床においては,「なにかいわくありげだ」と患者に感じさせるような「思わせぶり」な介入をしてはならない.精神病の妄想はまさに「なにかいわくありげだ」(病的な自己関係付け!)から発生するからである.精神病者に対しては,神経症者に対してすすめられるような,無意味のシニフィアンを生じさせるような解釈(Seminaire XI)などもってのほかである.そこに患者は私たちの享楽の意志を見出すかもしれないからである.私たちはむしろ,狂者の秘書となり,曖昧さのない言葉で,彼らの生きる構造的二重見当識を十分に尊重することが必要である.
=====
ってのもさ、こう簡単に書いているけど、「思わせぶりじゃない言い方」ってそんな簡単なもんか? って思うんだ。
わたしにとっては「○○ちゃん」ではないということはわたしの主観事実であり、明確に、曖昧さのない言葉で、「○○じゃないです」と言ったのだが、その「頭おかしい」オヤジにとってすれば、「何か事情があるんだろう」というような「なにかいわくありげ」な「思わせぶり」な言葉となっているだろう。
治療者の言葉を、「いわくありげ」「思わせぶり」と思うのか、「曖昧さがない」と思うのかは、あくまで患者側だ。いやまあそのオヤジが精神病かわからんけどさ。本気で勘違いしてただけの普通の人かもしれない。
このように考えていると、こういった文章もあまり意味のないもののように思えてくる。
「キチガイとコミュニケーションは無理」と割りきって、薬をどう処方するかに専念した方がいいんじゃねえの、と。
「狂者の秘書」になんかなる必要はない。「秘書」だって疑心暗鬼の対象になりうるだろう。「「秘書」であれば「思わせぶり」にならない」という発想は、この筆者の主観にすぎない。
ほら、わたしにしろ、わたしという患者(あ、一応リアルではパニ障でござい。あと藤田博史センセーなどからBPDと診断されております。ネット上診断ですが)にとっては、この「狂者の秘書となり,曖昧さのない言葉で,」という言葉自体が「いわくありげ」なものに思えている。
無理すんなよ。ほんとに。「キチガイわけわかんねー」とかって2ちゃんねるの言葉の方がよっぽど「曖昧さのない言葉」だ。自分が「自分の考え」について「わけわかんない」のだから(だからこそ「語りを為す」のが困難)、そう言ってくれた方がよっぽど曖昧さはない。
明確な「享楽の意志」と受け取れる。
なんかこう、いくつか記事読んだけど、この人まぶしいね。リア充なイメージ。
なんかな。
ってプロフィールみてびっくり。二十代か。そらまぶしいわ。
というラカン村ヲチ。
「享楽の意志」か。
=====
つまり,精神病者は分析家に享楽の意志を見出し,その享楽の対象aとされてしまう.このような事態を,後にラカンは「屈辱的エロトマニー(érotomanie mortifiante)」と呼んでいる.
=====
ぱっと連想するのはアルトーのゴッホ論だなー。「ゴッホは精神科医に殺された。「治療のため」とゴッホを写生にいかせたから、ゴッホは自殺したのだ」って。
だからと言ってアルトーは「ゴッホに写生にいかせるべきではなかった」とは言っていない。そのようなメタ言語を読み込んではならない。字義通りに受け取らなければならない。
アルトーは、ゴッホにとっては絵を描くことが享楽だったのだ、と主張しているのである。
ここもそうだ。精神科医はゴッホの治療のために、つまりゴッホを狂気から脱出させるために、写生を提案したのだろう。
しかしゴッホにとってそれは、「享楽しろ」という意志だった。
キチガイに享楽を回避させるのは困難なことだろう。
それ以前に、享楽を回避させるのは、キチガイにとって幸福なのだろうか。
ゴッホは写生にいかない方が幸福だったのだろうか。
ゴッホは画家になろうとしていたのではない。絵筆になろうとしたのだ。
他者のいない世界が享楽。
まあ、こんなこと言っちゃうと治療そのものが成立しないだろうし、医者の立場としては享楽を回避させなきゃなんないのはわかるけどさ。
あたしゃ医者じゃねえからこんなこと言えるだけで。
やっぱ、ラカン(村)つまらないかも。
はーあ。
なんでこう、死んでいるように生きている人たちばっかなんだろう。
生きている価値が見出せない人間ばっかなんだろう。
八割の人間は死ね。
わたしのこの言葉は、(死んでいるように生きている)あなたたちは、なんで生きているの? という問いでもある。
だる。
つまんね。
で?
お前の「享楽しろ」という意志は、どうなんだい? その意志はお前のうちにあるのかい? ないのかい?
お前は享楽に向かいたいのではないかい?
狂気を悪化させたいのではないかい?
本当にキチガイを治療したいのかい?
え、どうなんだい?
わたしのこういう症状は、前精神病と言うより、ヒステリーだと思える。
むしろ、相手(多くの場合は「男」になるだろう)に「享楽の意志」を見出すのは、ヒステリーなのではないだろうか。
たとえばelveさんなどは、一緒に飲んでいるおっさんを楽しませるために自虐的にシモネタを言う(ここのコメント欄)。シモネタは「リビドー的な構造」を「弛緩」させるだろう。
こういったのも非常に卑近な例ではあるが「屈辱的エロトマニー」なのではないだろうか。
また彼女はこう言う(ここのコメント欄)。
=====
私もこんなに不幸なんだからあなたも不幸になって
=====
これは享楽的な意味だと解釈される。
こういったことを考えると、「「精神病の精神分析」と銘打ちながらも,実際はヒステリーの重症例の分析であるような分析」を避けるのは、理論装置上困難なのではないだろうか、と思える。
つまらん。
ネトゲの方がおもろい。
最近FPSに目覚めた。
なんつか作業だな。この記事もただの作業。上滑り。
耳きってみよっかな。
ラカニアンの誰かに呪いかけてみよ。
享楽の臭いを扇いでみよ。
乞うご期待!
っしゅん。
つまらない方がライトノベルチックにおもしろいんだけどね。
トリビアっていうか。
あれねー。「曖昧さのない言葉」とはどういうものか、ってことが考えられていないのでアウト。この記事では、だけど。別の記事で書いてるのかもしれんが。
正常人にとっての「曖昧さのない言葉」とは、「文脈が強固な文章」となりかねない。
精神病は保留するが、少なくとも自閉症にとってはその文脈が曖昧になる。文脈が理解できないため、定型発達者がどんなに(自閉症療育でよく言われているように)「具体的な言葉」で述べても、会話にずれが生じる。
「曖昧さのない言葉」とは、いわば「ピン止め」の言葉でなければならない。
「文脈が強固な文章」は、自閉症には顕著だが、おそらく精神病にとっても「命令の言葉」となるだろう。そいつを「迫害的な人物」だと思うだろう。
目の前にあるわからなさと背後にあるわからなさは別物だ。背後にあるわからなさは正常人もわからないようだが、目の前にあるわからなさは正常人にとっては明確な、自明なことらしい。
なので被害妄想となる。
集団ストーキング妄想などとなる。
集団ストーカーたちに、背後のわからなさへ押しやられる。
享楽へ押しやられる。
これが「享楽の意志」。
お前たちが、多くの人間が「構造」に囚われていること自体が、そういう意志に見える。
ネトゲやろっと。
むしろそのときは、楽しかったように思う。
オヤジにとっての「わたし」はすっとぼけている「○○ちゃん」で、彼と共有されている過去を持った人物だ。今のわたしは自分の過去を知らない。オヤジとわたしは共有していない。
一方、オヤジだけと話していたわけではない、マスターなどは、その店での過去を「わたし」と共有できている。
しかしマスターの知らない過去だってわたしにはある。
マスターと共有している過去もオヤジと共有している過去も、ただのそういう記憶であることには違いはない。
わたしは子供の頃てんかんを疑われていた。そのせいか今でも記憶障害チックなところがある。日常生活にはなんら支障はないが。
しかしそのせいで、今起きている現実を吟味する癖がついたのだろう。
過去というよりどころなしにする吟味。
これは、うしろめたい行為だ。他の人間たちはおそらくやっていないだろう行為。他の多くの人間たちは、無意識的に彼自身の過去をよりどころにして、「語りを為」している。
わたしにとっての飲み屋とは大概そういうものだが、うしろめたい行為が、許されている、とは言えないが、気兼ねなくできる状況だった。
だから「楽しそうだった」とマスターに言われたのだろう。
享楽とは、本当にキチガイに回避させるべきことなのだろうか。
むしろ、享楽を知らない人間たち、正常人たちが、それを、自分勝手に恋焦がれているから、自分勝手に禁じているだけなのではないか。
むしろ、今考慮されるべきは、正常人たち自身の「主体」なのではないか。
今分析されるべきは、お前の「主体」なのではないか。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだーれ?」
現実の鏡はこう答える。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだーれ?」
あとさ、関係のない話だけど、ネット上で、ちゃんとラカン理論をわかって言ってるのかどうか知らないが、簡単に享楽を否定する言説を見かけるんだが。
享楽とは快楽を揺るがすものである、って定義をわかって言っているんだろうか、と思う。
享楽の否定は、自動的に、快楽、フロイトで言えばこの文章における「リビドー的な構造」を肯定することになる、と自覚して言っているのか、と。その文章において享楽への方向に導くのは「リビドー的な構造の弛緩」である。彼の享楽を否定する症状は、「嫉妬妄想の男」と同様に、その「弛緩」に対する拒絶反応である、となる。理屈通りに考えれば、だが。
いやもちろん、そいつ自身が精神病あるいは前精神病者で、統合失調症者と同様に、「享楽の意志」を、周囲の多くの人間から感じ取っていて、それに対する否定であるならば、まあ快楽の肯定とは言えないだろうが。それはあくまで「享楽の意志」に対する否定である。
正常人が享楽を否定することは、「自分は快楽主義者である」と言っているのと等値である。快楽主義者である自分の自己防衛である。
いやさすがにこのまぶしい若者はわかってると思うけど、それ以外の人ね。
分析が精神病を生むのは、理論的に当然のことだと思うけどな。
何が問題なのやら。
むしろ、「治療」という公理にしたがっている限り、解決されない問題だ、と考えるべきなんじゃね。
「思わせぶり」「いわくありげ」ではない「曖昧さのない言葉」、ってだけじゃ不十分なんだよな。正常人にそう言っても、彼らの言葉は「(文脈や意志が)強固な言葉」になりうる。いくら「秘書」でも「命令する秘書」になる。
そうじゃなくて、「曖昧さのない、素の言葉」だ。
それはたとえば、工場で働く技術者がその製造機械について述べた言葉だとか。
幻想を、理想を、現実化させないでくれ。お前たちは幻想を幻想のまま維持できる。わたしはできない。理想に限らないどんな幻想も現実化が容易だ。
幻想は幻想のままでいてくれ。
わたしに侵入しないでくれ。
そうであれば、まだ作り笑顔はできる。
また、幻想に確実性を付加しないでくれ。
固体の空気に押しやられて、崖下に落ちる。
理想は隠しておいてくれ。
幻想なら、作り笑顔で対応してあげる。
この記事もさ、「曖昧さのない言葉」とか、「いかに精神病を治療するか」って考えで書かれているわけじゃん。
「いかに精神病の精神を分析するか」じゃない。
分析と治療は別物だ、と認めろよ。基礎医学とかあるだろ、分析もああいうもんだと考えればいいんじゃねえの。
なんつーかさー、哲学系ラカニアンは哲学系ラカニアンで臨床しないし、臨床している医学系ラカニアンは医学系ラカニアンで治療という公理に囚われているし、この状態こそが精神分析が廃れた理由なんじゃないかって思うんだけど。
いやまあ、医学系の方はさ、仕方ないと思うから批判しないけど。わたしだって精神分析は受けてないけど精神科は通ってるわけだし。
臨床しない哲学系ラカニアンは批判するけどね!
わたしは「○○ちゃん」ではないので人違いだと思い、「○○じゃないです」と答えたのだが、オヤジは「ああごめんごめん、それでさ……」と変わらぬ態度でわたしに話し続けた。
ナンパのつもりか、などと思いつつよくわからないまま話を聞いていると、「○○ちゃん」というのは別の店の子の名前で、源氏名のようだ。おそらくオヤジは「何か事情があってすっとぼけている」とでも思っているのだろう、と思った。
まあ、飲み屋ってそういうもんだと思うし、話もおもしろくなくはなかったので、つきあってやった。「○○ちゃん」だけどすっとぼけてる「わたし」として。
とはいえわたしは「○○ちゃん」がどういう子なのか知らないので演技はできない。最初からその子を演じてやろうなんてつもりはなかった。話の流れでわたしが「○○ちゃん」じゃないと気づかれたとしても、勝手にそっちがそう勘違いしてただけだし、と思っていた。
それから数度あったが、ばれたかどうかはわからないが別に変わった様子もなく、お互い別の客と話していて挨拶程度しか交わさなかったこともあれば、バカ話したりもした。
しばらくするとそのオヤジはこなくなって、マスターに聞いてみると、
「ああ、あの頭おかしい人?」
とか言ってきた。
え、おい、やっぱそうだよね、マスターもそう思ってたんだ、ってじゃあ助けろよっ、と思ってそのようなことを言うと、
「いや楽しそうだったし」
と笑って返された。
この記事から。
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それゆえ,精神病の臨床においては,「なにかいわくありげだ」と患者に感じさせるような「思わせぶり」な介入をしてはならない.精神病の妄想はまさに「なにかいわくありげだ」(病的な自己関係付け!)から発生するからである.精神病者に対しては,神経症者に対してすすめられるような,無意味のシニフィアンを生じさせるような解釈(Seminaire XI)などもってのほかである.そこに患者は私たちの享楽の意志を見出すかもしれないからである.私たちはむしろ,狂者の秘書となり,曖昧さのない言葉で,彼らの生きる構造的二重見当識を十分に尊重することが必要である.
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ってのもさ、こう簡単に書いているけど、「思わせぶりじゃない言い方」ってそんな簡単なもんか? って思うんだ。
わたしにとっては「○○ちゃん」ではないということはわたしの主観事実であり、明確に、曖昧さのない言葉で、「○○じゃないです」と言ったのだが、その「頭おかしい」オヤジにとってすれば、「何か事情があるんだろう」というような「なにかいわくありげ」な「思わせぶり」な言葉となっているだろう。
治療者の言葉を、「いわくありげ」「思わせぶり」と思うのか、「曖昧さがない」と思うのかは、あくまで患者側だ。いやまあそのオヤジが精神病かわからんけどさ。本気で勘違いしてただけの普通の人かもしれない。
このように考えていると、こういった文章もあまり意味のないもののように思えてくる。
「キチガイとコミュニケーションは無理」と割りきって、薬をどう処方するかに専念した方がいいんじゃねえの、と。
「狂者の秘書」になんかなる必要はない。「秘書」だって疑心暗鬼の対象になりうるだろう。「「秘書」であれば「思わせぶり」にならない」という発想は、この筆者の主観にすぎない。
ほら、わたしにしろ、わたしという患者(あ、一応リアルではパニ障でござい。あと藤田博史センセーなどからBPDと診断されております。ネット上診断ですが)にとっては、この「狂者の秘書となり,曖昧さのない言葉で,」という言葉自体が「いわくありげ」なものに思えている。
無理すんなよ。ほんとに。「キチガイわけわかんねー」とかって2ちゃんねるの言葉の方がよっぽど「曖昧さのない言葉」だ。自分が「自分の考え」について「わけわかんない」のだから(だからこそ「語りを為す」のが困難)、そう言ってくれた方がよっぽど曖昧さはない。
明確な「享楽の意志」と受け取れる。
なんかこう、いくつか記事読んだけど、この人まぶしいね。リア充なイメージ。
なんかな。
ってプロフィールみてびっくり。二十代か。そらまぶしいわ。
というラカン村ヲチ。
「享楽の意志」か。
=====
つまり,精神病者は分析家に享楽の意志を見出し,その享楽の対象aとされてしまう.このような事態を,後にラカンは「屈辱的エロトマニー(érotomanie mortifiante)」と呼んでいる.
=====
ぱっと連想するのはアルトーのゴッホ論だなー。「ゴッホは精神科医に殺された。「治療のため」とゴッホを写生にいかせたから、ゴッホは自殺したのだ」って。
だからと言ってアルトーは「ゴッホに写生にいかせるべきではなかった」とは言っていない。そのようなメタ言語を読み込んではならない。字義通りに受け取らなければならない。
アルトーは、ゴッホにとっては絵を描くことが享楽だったのだ、と主張しているのである。
ここもそうだ。精神科医はゴッホの治療のために、つまりゴッホを狂気から脱出させるために、写生を提案したのだろう。
しかしゴッホにとってそれは、「享楽しろ」という意志だった。
キチガイに享楽を回避させるのは困難なことだろう。
それ以前に、享楽を回避させるのは、キチガイにとって幸福なのだろうか。
ゴッホは写生にいかない方が幸福だったのだろうか。
ゴッホは画家になろうとしていたのではない。絵筆になろうとしたのだ。
他者のいない世界が享楽。
まあ、こんなこと言っちゃうと治療そのものが成立しないだろうし、医者の立場としては享楽を回避させなきゃなんないのはわかるけどさ。
あたしゃ医者じゃねえからこんなこと言えるだけで。
やっぱ、ラカン(村)つまらないかも。
はーあ。
なんでこう、死んでいるように生きている人たちばっかなんだろう。
生きている価値が見出せない人間ばっかなんだろう。
八割の人間は死ね。
わたしのこの言葉は、(死んでいるように生きている)あなたたちは、なんで生きているの? という問いでもある。
だる。
つまんね。
で?
お前の「享楽しろ」という意志は、どうなんだい? その意志はお前のうちにあるのかい? ないのかい?
お前は享楽に向かいたいのではないかい?
狂気を悪化させたいのではないかい?
本当にキチガイを治療したいのかい?
え、どうなんだい?
わたしのこういう症状は、前精神病と言うより、ヒステリーだと思える。
むしろ、相手(多くの場合は「男」になるだろう)に「享楽の意志」を見出すのは、ヒステリーなのではないだろうか。
たとえばelveさんなどは、一緒に飲んでいるおっさんを楽しませるために自虐的にシモネタを言う(ここのコメント欄)。シモネタは「リビドー的な構造」を「弛緩」させるだろう。
こういったのも非常に卑近な例ではあるが「屈辱的エロトマニー」なのではないだろうか。
また彼女はこう言う(ここのコメント欄)。
=====
私もこんなに不幸なんだからあなたも不幸になって
=====
これは享楽的な意味だと解釈される。
こういったことを考えると、「「精神病の精神分析」と銘打ちながらも,実際はヒステリーの重症例の分析であるような分析」を避けるのは、理論装置上困難なのではないだろうか、と思える。
つまらん。
ネトゲの方がおもろい。
最近FPSに目覚めた。
なんつか作業だな。この記事もただの作業。上滑り。
耳きってみよっかな。
ラカニアンの誰かに呪いかけてみよ。
享楽の臭いを扇いでみよ。
乞うご期待!
っしゅん。
つまらない方がライトノベルチックにおもしろいんだけどね。
トリビアっていうか。
あれねー。「曖昧さのない言葉」とはどういうものか、ってことが考えられていないのでアウト。この記事では、だけど。別の記事で書いてるのかもしれんが。
正常人にとっての「曖昧さのない言葉」とは、「文脈が強固な文章」となりかねない。
精神病は保留するが、少なくとも自閉症にとってはその文脈が曖昧になる。文脈が理解できないため、定型発達者がどんなに(自閉症療育でよく言われているように)「具体的な言葉」で述べても、会話にずれが生じる。
「曖昧さのない言葉」とは、いわば「ピン止め」の言葉でなければならない。
「文脈が強固な文章」は、自閉症には顕著だが、おそらく精神病にとっても「命令の言葉」となるだろう。そいつを「迫害的な人物」だと思うだろう。
目の前にあるわからなさと背後にあるわからなさは別物だ。背後にあるわからなさは正常人もわからないようだが、目の前にあるわからなさは正常人にとっては明確な、自明なことらしい。
なので被害妄想となる。
集団ストーキング妄想などとなる。
集団ストーカーたちに、背後のわからなさへ押しやられる。
享楽へ押しやられる。
これが「享楽の意志」。
お前たちが、多くの人間が「構造」に囚われていること自体が、そういう意志に見える。
ネトゲやろっと。
むしろそのときは、楽しかったように思う。
オヤジにとっての「わたし」はすっとぼけている「○○ちゃん」で、彼と共有されている過去を持った人物だ。今のわたしは自分の過去を知らない。オヤジとわたしは共有していない。
一方、オヤジだけと話していたわけではない、マスターなどは、その店での過去を「わたし」と共有できている。
しかしマスターの知らない過去だってわたしにはある。
マスターと共有している過去もオヤジと共有している過去も、ただのそういう記憶であることには違いはない。
わたしは子供の頃てんかんを疑われていた。そのせいか今でも記憶障害チックなところがある。日常生活にはなんら支障はないが。
しかしそのせいで、今起きている現実を吟味する癖がついたのだろう。
過去というよりどころなしにする吟味。
これは、うしろめたい行為だ。他の人間たちはおそらくやっていないだろう行為。他の多くの人間たちは、無意識的に彼自身の過去をよりどころにして、「語りを為」している。
わたしにとっての飲み屋とは大概そういうものだが、うしろめたい行為が、許されている、とは言えないが、気兼ねなくできる状況だった。
だから「楽しそうだった」とマスターに言われたのだろう。
享楽とは、本当にキチガイに回避させるべきことなのだろうか。
むしろ、享楽を知らない人間たち、正常人たちが、それを、自分勝手に恋焦がれているから、自分勝手に禁じているだけなのではないか。
むしろ、今考慮されるべきは、正常人たち自身の「主体」なのではないか。
今分析されるべきは、お前の「主体」なのではないか。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだーれ?」
現実の鏡はこう答える。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだーれ?」
あとさ、関係のない話だけど、ネット上で、ちゃんとラカン理論をわかって言ってるのかどうか知らないが、簡単に享楽を否定する言説を見かけるんだが。
享楽とは快楽を揺るがすものである、って定義をわかって言っているんだろうか、と思う。
享楽の否定は、自動的に、快楽、フロイトで言えばこの文章における「リビドー的な構造」を肯定することになる、と自覚して言っているのか、と。その文章において享楽への方向に導くのは「リビドー的な構造の弛緩」である。彼の享楽を否定する症状は、「嫉妬妄想の男」と同様に、その「弛緩」に対する拒絶反応である、となる。理屈通りに考えれば、だが。
いやもちろん、そいつ自身が精神病あるいは前精神病者で、統合失調症者と同様に、「享楽の意志」を、周囲の多くの人間から感じ取っていて、それに対する否定であるならば、まあ快楽の肯定とは言えないだろうが。それはあくまで「享楽の意志」に対する否定である。
正常人が享楽を否定することは、「自分は快楽主義者である」と言っているのと等値である。快楽主義者である自分の自己防衛である。
いやさすがにこのまぶしい若者はわかってると思うけど、それ以外の人ね。
分析が精神病を生むのは、理論的に当然のことだと思うけどな。
何が問題なのやら。
むしろ、「治療」という公理にしたがっている限り、解決されない問題だ、と考えるべきなんじゃね。
「思わせぶり」「いわくありげ」ではない「曖昧さのない言葉」、ってだけじゃ不十分なんだよな。正常人にそう言っても、彼らの言葉は「(文脈や意志が)強固な言葉」になりうる。いくら「秘書」でも「命令する秘書」になる。
そうじゃなくて、「曖昧さのない、素の言葉」だ。
それはたとえば、工場で働く技術者がその製造機械について述べた言葉だとか。
幻想を、理想を、現実化させないでくれ。お前たちは幻想を幻想のまま維持できる。わたしはできない。理想に限らないどんな幻想も現実化が容易だ。
幻想は幻想のままでいてくれ。
わたしに侵入しないでくれ。
そうであれば、まだ作り笑顔はできる。
また、幻想に確実性を付加しないでくれ。
固体の空気に押しやられて、崖下に落ちる。
理想は隠しておいてくれ。
幻想なら、作り笑顔で対応してあげる。
この記事もさ、「曖昧さのない言葉」とか、「いかに精神病を治療するか」って考えで書かれているわけじゃん。
「いかに精神病の精神を分析するか」じゃない。
分析と治療は別物だ、と認めろよ。基礎医学とかあるだろ、分析もああいうもんだと考えればいいんじゃねえの。
なんつーかさー、哲学系ラカニアンは哲学系ラカニアンで臨床しないし、臨床している医学系ラカニアンは医学系ラカニアンで治療という公理に囚われているし、この状態こそが精神分析が廃れた理由なんじゃないかって思うんだけど。
いやまあ、医学系の方はさ、仕方ないと思うから批判しないけど。わたしだって精神分析は受けてないけど精神科は通ってるわけだし。
臨床しない哲学系ラカニアンは批判するけどね!
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