セックスの最中便意を我慢しすぎたゆえに漏らしてしまったうんこ
2011/04/24/Sun
あっはっは。
まあ悲劇としては突然性が足りないけどな、許してやろう。
どちらかというと不条理か。今回の震災が、ではなくお前のこの心理が。不条理と悲劇も不可分だよな。
また悲劇は喜劇と紙一重だ。
ほんと「ざまあみろ」だ。お前が。
お前は自分のエスを窒息死させようとしていたんだよ。
オナニーのやりすぎで自殺。これほど滑稽なものはない。
セックスの最中に漏らしてしまったうんこ。
愛情に満ちたセックスの最中便意を我慢しすぎたゆえに漏らしてしまったうんこ。
そんな喜劇。
それをスカトロ女優が笑っている、ってだけだ。
ここではお前のナチュラルメイクは落ちてしまっている。
そんなのわたしの先生ではない。
しかしメイクが濃くなっていた以前のお前にも、わたしは習うつもりはない。そんなの習うなら演劇やるわ。頭の悪い退行的な三流大学の講師に習うよかな。
TPOにあわせるメイクを習いたいわけじゃないんだよ、あたしゃ。そんなのおそらく一般の喪女たちよか、いやお前以上に技術はあるだろう。腐っても舞台女優。
どうでもええが。
まあ精神分析はどうでもええよ。ラカン村にも飽きてきたし。
お前の最近の記事は「主体の存在しない構造主義」になっていた。
わたしがおもしろいと思っていた時期のお前はヒステリーだった。「悲劇の構造」があった。
「構造主義的な構造」と「悲劇の構造」は別物だ。その差異は構造主義とラカン理論の差異と同じである。この記事から。
=====
そもそも、分析における「主体」とは、「語る存在において想定されたもの」であり、実体的な主体でもなければ、思考の主体でも認識の主体でもない。「分析主体[analysant]」の主体は、分析という特殊な状況においてのみ、垣間見ることができるものなのである。これがまさに、ラカンを構造主義から分かつ点であり、同時にコギトから直接由来する哲学すべてに反対させる点である(Lacan, E93)。構造主義においては主体が存在せず、構造がある。ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。しかし、それはコギトのような確実性の基盤となる主体ではなく、「満ちたパロール」の析出によってはじめて姿をあらわすような主体である。
=====
こいつみたいなバカラカニアンがまた誤読するといけないので(つか筆者もそういった誤読への予防線を「それはコギトのような確実性の基盤となる主体ではなく」ってところで張っているのになんでこんな誤読するのか理解できないんだが)言っておくと、このラカン理論と構造主義をわかつ「構造主義には存在しない主体」とは、エスあるいは分析主体あるいはヒステリー的主体である。「父」や「主人」やS1などではない。
とはいえ、構造主義にはヒステリー的主体も存在しないが、「父」も存在しないのは事実である。
しかし、ラカン以前のもっとも伝統的な精神分析すら「父」を論じている。それこそオイディプス理論。
お前の『ラプンツェル』記事は構造主義的だが、『あらしの前/あらしのあと』記事 は伝統的な精神分析的記事だ、とは言える。
しかし、双方ともに、ヒステリー的主体が欠けている。
「悲劇の観客こそ、悲劇からもっとも遠い存在である」
このこと自体が悲劇なのだ。観客はロミオでもジュリエットでもないことが悲劇なのだ。
お前は悲劇の登場人物ではなかった。悲劇の観客だった。
ニーチェとアルトーの違いもここだ。ニーチェは残酷演劇の観客でしかない。アルトーはその演者だ。
観客は観客としてわきまえろ。
悲劇ならば悲劇であれ。
お前という悲劇から遠い存在であるわたしが、残酷に解釈してやる。
もう一度言っておくわ。
「ざまあみろ」。
字義通りの意味で。
どの口が「わたしはヒステリーだ」なんて言ってるんだよ、ったく。
これだけ物語が溢れているのに、形式的な悲劇も粗製濫造されているのに、構造主義的な視点で見ると、悲劇のポイントを押さえた物語はほとんどない。『JIN-仁-』はまあいいセンいっているが。「科学」って要件を借りなきゃ現代はきついんだろうな、「欲動のディスクール」としての「科学」に気づくかどうかって問題もあるが。
どんなに形式上は悲劇であっても、悲劇を構成する重要なポイントの一つである、享楽を押さえられていない。
いい言い回しを思いついた。この記事のこの
=====
つまり,精神病者は分析家に享楽の意志を見出し,その享楽の対象aとされてしまう.このような事態を,後にラカンは「屈辱的エロトマニー(érotomanie mortifiante)」と呼んでいる.
=====
文脈をひいて。
悲劇とは、一要件として、「享楽の意志」を感じさせるものではなくてはならない。
現在の形式的な悲劇は、その形式にあらかじめ組み込まれている「快楽が叶わないパターン」を再生産しているだけで、快楽を破壊する本性としての享楽を意志するものではなくなっている。
魔女が形骸化されている。
享楽の使徒としての魔女がいない。
そういった登場人物は「悲劇のヒロイン症候群」などと形骸化されてしまった。ただの被愛妄想と解釈されるようになった。
本当の悲劇のヒロインは、享楽の意志を感じるものではなくてはならない。
観客の快楽を、「リビドー的な構造」を破壊させる意志を、その無意識に読み込める舞台世界でなくてはならない。
それはいわば「廃墟」だ。
こういった「悲劇のヒロイン」を具体的に言えば。
恋愛が叶わなかった少女がいるとする。多くの女性には身に覚えがあると思うが、そういったとき一種のひきこもりというか、自閉的な心理状態になる。
この自閉状態で、自己愛が保存されていれば、彼女はいずれ新しい恋に向かって歩き出すだろう。幸福な恋愛を手に入れる可能性が高いだろう。ちなみにこの「自己愛が保存された状態での自閉」は、衣笠隆幸が、従来のスキゾイド型ひきこもりすなわち人格に起因したひきこもりと区別して定義した「自己愛型ひきこもり」と、心理状態は同じである、と言える。また多くの大学生が陥るモラトリアム状態も、この心理構造と類似しているだろう。
これではだめなのだ。悲劇の力が足りない。観客の「リビドー的な構造」を破壊しきれていない。
悲劇は観客を自体愛の状態にまで追いつめなければならない。
自己愛すら壊れた状態まで。
多くの人にとっては形骸的なものにしか感じられないだろうが、この状態を適切に表現しているとわたしが考える楽曲二作品がある。中島みゆきの『あの娘』と谷山浩子の『Pyun Pyun』である。
この歌の主人公は、「リビドー的な構造の破壊」が、自己愛にまで及んでいる。
この二人の「悲劇のヒロイン」は、享楽に溺れかけていると、狂気に親近した状態だと考えられなければならない。
悲劇は人をここまで追いつめなければならない。
快楽主義者たちを。
ここまで追いつめられた「悲劇のヒロイン」たちは、仮に立ち直ったとしても、悲恋を繰り返すだろう。
なぜならそれは享楽だったのだから。
こういった女たちは、いくら成長しようが、男の言葉に享楽の意志を見出すだろう。
いくら口では「幸福になりたい」などと言っていようが、彼女らが本当に求めているのは、不幸の極みである享楽なのだ。
もっと悲劇を。
人類全員を不幸におとしめる悲劇を。
それは、現代精神医学が正常と規定しているパラノイアックな精神疾患の治療に、いくばくかは役に立つだろう。
とか言いながら中森明菜の歌う『悪女』聞いてやっぱそんなのいやだわー、とも思った。
リアリティありすぎだろこれ。
呪われそうだわ。
ほんとそこいらにいる店の子だな。声も酒焼けしてる感じというか。
ここまでかっこいい夜の女は、ちとな。
わたしゃ大野さんやelveさんでいいわ。甘いカレーで。わたしが喰らう快楽主義者は。
すみません魔女としてもまだまだでした。
これもやべえ(笑)。
よくこんなの聞けるなお前ら。
歌はうまいってわけでもない。ただの店の子だ。男の幻想によって違いがあるだけ。店の子と明菜には。
それもわかって明菜は歌ってそうなのがまたな。「うまく歌う必要はない」感が。「わたしはただの女」感が。
店の子だってそうだろ。指名もらえる子ともらえない子の差は、男がする勝手な幻想だ。二人とも他人の家で寝ゲロ吐いちゃうような女だ。
こえーママだ。(一般的な感覚での)心のこもってなさがまた。
「るるるー~」とかこれ精神病レベルだろ。
この心のこもってなさで「火をつけたのが」とか歌われるとこの放火したスキゾイドとか連想してまうわ。
まあ、男どももときには魔女のしもべとなる、ってことか。こんな魔女を保存してきた明菜ファンども、ご苦労。
明菜もなー。
まあマッチとの恋愛がはじめてなわけではなかろうが、そもそも芸能界自体が「自己とは何か」を問い直させる装置だからな。この記事でもちらっと書いたが、(職業レベルでの)「演じる」ということは「自己を問い直すこと」と等値だ。
芸能界という国だと考えれば、洗脳されやすい状態に洗脳する国家だ。芸能人は一般人と比して洗脳されやすい人たちだろう。
そんな状態で強烈な悲恋にあったら、自己を問い直しているつまり自己が弱っている状態に不幸が襲ってくるわけで、いわば泣きっ面に蜂、重篤な病気にかかって入院しているところに大地震、ってな感じだったろう。
仕事は続けながらも、心は自閉していたのかもしれない。自体愛的な状態でいたのかもしれない。
まあ別にマッチとの悲恋が享楽だったとは言わないが、そんな妄想もできるよね、という話。
ほんと明菜って、芸能界という国家の被害者って言うとフェミっぽくなるので生贄、だと思うんだよなあ。芸能界という祭祀国家の生贄。
うんこ。
明菜もヒステリーではあるんだろうな。典型的な。先の動画などは、解離症状を表現している、と解釈されなければならないだろう。ゆえに「(一般的な意味での)心がこもっていない」となる。
「一緒に溺れましょう?」
何に? 快楽に? 「手紙は必ず宛先に届く」ユートピアに?
違うょ。まったく逆。
人間本当のところでは絶対にわかりあえないという現実に。
どんな人間も「孤児」である世界に。
ケバケバしく毒々しい世界に。
『紙吹雪』の世界に。
「みんな死んじまえ!」
明菜もそろそろこういう歌歌うべきなんじゃないかね。周りが許しちゃくれないだろうが。
このジャンルの大御所たる中島みゆきすら松田聖子と共演しちゃう今の時代こそに。
結構アイドル論楽しいよな、オナニーババアや。
「つまらない手紙につきあってくれてありがとう。さよなら」
こんなセリフのあとに流れる『もみの木』は、自閉症者の「「植物や空や月」となら,つながれる」という言葉を連想させる。
結局、こういうことなんじゃないだろうか。
「他者」なるものの傲慢さを、すべての精神疾患は原因としているのではないだろうか。
ある「僕は臨床をしていない」と明言した哲学系ラカニアンは「ラカン論は「他者」ではない環境を論じられない」と述べた。一理ある。しかしそれは、精神分析が臨床の学であることを根拠にしている。
臨床していない哲学系ラカニアンたちは、おそらく去勢済み主体である。わたしの臨床においても彼らは退行していない。精神疾患ではない。となるとそれは、彼の主観世界たる「環境」において、その構成要素一つ一つの裏に「他者」がいることの否認だ、となる。
お前らは、それを認めたくないだけではないか?
ただの否認ではないか?
「他者」のいない環境とは、享楽だ。
独裁スイッチ。
お前は精神疾患者ではない。
それは、分析主体になることからの逃避である。
お前など「他者ではない環境」を生きていない。
そんな環境を生きているのは、『もみの木』の「歌う主体」や、自閉症者だ。
やべえ『秋ぎつね』でぼろぼろ泣いてる。
つか全然「かわいい曲」なんかじゃねえよこれ。
やさぐれ女が聞くと。
『アンチ・オイディプス』の言う「孤児」が「他者の環境」を生きる人間に恋してしまった悲劇だ。
叶うわけないだろそんなの。きつねが人間になれるわけねえだろ。
永遠に「来年こそは」なんだよ。
無間地獄だ。
これはもっとも享楽が表現されている悲劇だ。
『パジャマの樹』なんかと一緒にすんなよ。
いやそれも好きだけど。似あわないのはわかってるけど。
谷山自身が『紙吹雪』入ってる『夢半球』ってアルバムを「黒歴史」って言っているらしいんだが、「黒歴史」だからいいんだよ。
オナニーババアのその「ざまあみろ!」記事もいわば「黒歴史」だろ。
わたし? 前にも書いているだろ、「わたしの人生すべて黒歴史だ」と。
まあ悲劇としては突然性が足りないけどな、許してやろう。
どちらかというと不条理か。今回の震災が、ではなくお前のこの心理が。不条理と悲劇も不可分だよな。
また悲劇は喜劇と紙一重だ。
ほんと「ざまあみろ」だ。お前が。
お前は自分のエスを窒息死させようとしていたんだよ。
オナニーのやりすぎで自殺。これほど滑稽なものはない。
セックスの最中に漏らしてしまったうんこ。
愛情に満ちたセックスの最中便意を我慢しすぎたゆえに漏らしてしまったうんこ。
そんな喜劇。
それをスカトロ女優が笑っている、ってだけだ。
ここではお前のナチュラルメイクは落ちてしまっている。
そんなのわたしの先生ではない。
しかしメイクが濃くなっていた以前のお前にも、わたしは習うつもりはない。そんなの習うなら演劇やるわ。頭の悪い退行的な三流大学の講師に習うよかな。
TPOにあわせるメイクを習いたいわけじゃないんだよ、あたしゃ。そんなのおそらく一般の喪女たちよか、いやお前以上に技術はあるだろう。腐っても舞台女優。
どうでもええが。
まあ精神分析はどうでもええよ。ラカン村にも飽きてきたし。
お前の最近の記事は「主体の存在しない構造主義」になっていた。
わたしがおもしろいと思っていた時期のお前はヒステリーだった。「悲劇の構造」があった。
「構造主義的な構造」と「悲劇の構造」は別物だ。その差異は構造主義とラカン理論の差異と同じである。この記事から。
=====
そもそも、分析における「主体」とは、「語る存在において想定されたもの」であり、実体的な主体でもなければ、思考の主体でも認識の主体でもない。「分析主体[analysant]」の主体は、分析という特殊な状況においてのみ、垣間見ることができるものなのである。これがまさに、ラカンを構造主義から分かつ点であり、同時にコギトから直接由来する哲学すべてに反対させる点である(Lacan, E93)。構造主義においては主体が存在せず、構造がある。ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。しかし、それはコギトのような確実性の基盤となる主体ではなく、「満ちたパロール」の析出によってはじめて姿をあらわすような主体である。
=====
こいつみたいなバカラカニアンがまた誤読するといけないので(つか筆者もそういった誤読への予防線を「それはコギトのような確実性の基盤となる主体ではなく」ってところで張っているのになんでこんな誤読するのか理解できないんだが)言っておくと、このラカン理論と構造主義をわかつ「構造主義には存在しない主体」とは、エスあるいは分析主体あるいはヒステリー的主体である。「父」や「主人」やS1などではない。
とはいえ、構造主義にはヒステリー的主体も存在しないが、「父」も存在しないのは事実である。
しかし、ラカン以前のもっとも伝統的な精神分析すら「父」を論じている。それこそオイディプス理論。
お前の『ラプンツェル』記事は構造主義的だが、『あらしの前/あらしのあと』記事 は伝統的な精神分析的記事だ、とは言える。
しかし、双方ともに、ヒステリー的主体が欠けている。
「悲劇の観客こそ、悲劇からもっとも遠い存在である」
このこと自体が悲劇なのだ。観客はロミオでもジュリエットでもないことが悲劇なのだ。
お前は悲劇の登場人物ではなかった。悲劇の観客だった。
ニーチェとアルトーの違いもここだ。ニーチェは残酷演劇の観客でしかない。アルトーはその演者だ。
観客は観客としてわきまえろ。
悲劇ならば悲劇であれ。
お前という悲劇から遠い存在であるわたしが、残酷に解釈してやる。
もう一度言っておくわ。
「ざまあみろ」。
字義通りの意味で。
どの口が「わたしはヒステリーだ」なんて言ってるんだよ、ったく。
これだけ物語が溢れているのに、形式的な悲劇も粗製濫造されているのに、構造主義的な視点で見ると、悲劇のポイントを押さえた物語はほとんどない。『JIN-仁-』はまあいいセンいっているが。「科学」って要件を借りなきゃ現代はきついんだろうな、「欲動のディスクール」としての「科学」に気づくかどうかって問題もあるが。
どんなに形式上は悲劇であっても、悲劇を構成する重要なポイントの一つである、享楽を押さえられていない。
いい言い回しを思いついた。この記事のこの
=====
つまり,精神病者は分析家に享楽の意志を見出し,その享楽の対象aとされてしまう.このような事態を,後にラカンは「屈辱的エロトマニー(érotomanie mortifiante)」と呼んでいる.
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文脈をひいて。
悲劇とは、一要件として、「享楽の意志」を感じさせるものではなくてはならない。
現在の形式的な悲劇は、その形式にあらかじめ組み込まれている「快楽が叶わないパターン」を再生産しているだけで、快楽を破壊する本性としての享楽を意志するものではなくなっている。
魔女が形骸化されている。
享楽の使徒としての魔女がいない。
そういった登場人物は「悲劇のヒロイン症候群」などと形骸化されてしまった。ただの被愛妄想と解釈されるようになった。
本当の悲劇のヒロインは、享楽の意志を感じるものではなくてはならない。
観客の快楽を、「リビドー的な構造」を破壊させる意志を、その無意識に読み込める舞台世界でなくてはならない。
それはいわば「廃墟」だ。
こういった「悲劇のヒロイン」を具体的に言えば。
恋愛が叶わなかった少女がいるとする。多くの女性には身に覚えがあると思うが、そういったとき一種のひきこもりというか、自閉的な心理状態になる。
この自閉状態で、自己愛が保存されていれば、彼女はいずれ新しい恋に向かって歩き出すだろう。幸福な恋愛を手に入れる可能性が高いだろう。ちなみにこの「自己愛が保存された状態での自閉」は、衣笠隆幸が、従来のスキゾイド型ひきこもりすなわち人格に起因したひきこもりと区別して定義した「自己愛型ひきこもり」と、心理状態は同じである、と言える。また多くの大学生が陥るモラトリアム状態も、この心理構造と類似しているだろう。
これではだめなのだ。悲劇の力が足りない。観客の「リビドー的な構造」を破壊しきれていない。
悲劇は観客を自体愛の状態にまで追いつめなければならない。
自己愛すら壊れた状態まで。
多くの人にとっては形骸的なものにしか感じられないだろうが、この状態を適切に表現しているとわたしが考える楽曲二作品がある。中島みゆきの『あの娘』と谷山浩子の『Pyun Pyun』である。
この歌の主人公は、「リビドー的な構造の破壊」が、自己愛にまで及んでいる。
この二人の「悲劇のヒロイン」は、享楽に溺れかけていると、狂気に親近した状態だと考えられなければならない。
悲劇は人をここまで追いつめなければならない。
快楽主義者たちを。
ここまで追いつめられた「悲劇のヒロイン」たちは、仮に立ち直ったとしても、悲恋を繰り返すだろう。
なぜならそれは享楽だったのだから。
こういった女たちは、いくら成長しようが、男の言葉に享楽の意志を見出すだろう。
いくら口では「幸福になりたい」などと言っていようが、彼女らが本当に求めているのは、不幸の極みである享楽なのだ。
もっと悲劇を。
人類全員を不幸におとしめる悲劇を。
それは、現代精神医学が正常と規定しているパラノイアックな精神疾患の治療に、いくばくかは役に立つだろう。
とか言いながら中森明菜の歌う『悪女』聞いてやっぱそんなのいやだわー、とも思った。
リアリティありすぎだろこれ。
呪われそうだわ。
ほんとそこいらにいる店の子だな。声も酒焼けしてる感じというか。
ここまでかっこいい夜の女は、ちとな。
わたしゃ大野さんやelveさんでいいわ。甘いカレーで。わたしが喰らう快楽主義者は。
すみません魔女としてもまだまだでした。
これもやべえ(笑)。
よくこんなの聞けるなお前ら。
歌はうまいってわけでもない。ただの店の子だ。男の幻想によって違いがあるだけ。店の子と明菜には。
それもわかって明菜は歌ってそうなのがまたな。「うまく歌う必要はない」感が。「わたしはただの女」感が。
店の子だってそうだろ。指名もらえる子ともらえない子の差は、男がする勝手な幻想だ。二人とも他人の家で寝ゲロ吐いちゃうような女だ。
こえーママだ。(一般的な感覚での)心のこもってなさがまた。
「るるるー~」とかこれ精神病レベルだろ。
この心のこもってなさで「火をつけたのが」とか歌われるとこの放火したスキゾイドとか連想してまうわ。
まあ、男どももときには魔女のしもべとなる、ってことか。こんな魔女を保存してきた明菜ファンども、ご苦労。
明菜もなー。
まあマッチとの恋愛がはじめてなわけではなかろうが、そもそも芸能界自体が「自己とは何か」を問い直させる装置だからな。この記事でもちらっと書いたが、(職業レベルでの)「演じる」ということは「自己を問い直すこと」と等値だ。
芸能界という国だと考えれば、洗脳されやすい状態に洗脳する国家だ。芸能人は一般人と比して洗脳されやすい人たちだろう。
そんな状態で強烈な悲恋にあったら、自己を問い直しているつまり自己が弱っている状態に不幸が襲ってくるわけで、いわば泣きっ面に蜂、重篤な病気にかかって入院しているところに大地震、ってな感じだったろう。
仕事は続けながらも、心は自閉していたのかもしれない。自体愛的な状態でいたのかもしれない。
まあ別にマッチとの悲恋が享楽だったとは言わないが、そんな妄想もできるよね、という話。
ほんと明菜って、芸能界という国家の被害者って言うとフェミっぽくなるので生贄、だと思うんだよなあ。芸能界という祭祀国家の生贄。
うんこ。
明菜もヒステリーではあるんだろうな。典型的な。先の動画などは、解離症状を表現している、と解釈されなければならないだろう。ゆえに「(一般的な意味での)心がこもっていない」となる。
「一緒に溺れましょう?」
何に? 快楽に? 「手紙は必ず宛先に届く」ユートピアに?
違うょ。まったく逆。
人間本当のところでは絶対にわかりあえないという現実に。
どんな人間も「孤児」である世界に。
ケバケバしく毒々しい世界に。
『紙吹雪』の世界に。
「みんな死んじまえ!」
明菜もそろそろこういう歌歌うべきなんじゃないかね。周りが許しちゃくれないだろうが。
このジャンルの大御所たる中島みゆきすら松田聖子と共演しちゃう今の時代こそに。
結構アイドル論楽しいよな、オナニーババアや。
「つまらない手紙につきあってくれてありがとう。さよなら」
こんなセリフのあとに流れる『もみの木』は、自閉症者の「「植物や空や月」となら,つながれる」という言葉を連想させる。
結局、こういうことなんじゃないだろうか。
「他者」なるものの傲慢さを、すべての精神疾患は原因としているのではないだろうか。
ある「僕は臨床をしていない」と明言した哲学系ラカニアンは「ラカン論は「他者」ではない環境を論じられない」と述べた。一理ある。しかしそれは、精神分析が臨床の学であることを根拠にしている。
臨床していない哲学系ラカニアンたちは、おそらく去勢済み主体である。わたしの臨床においても彼らは退行していない。精神疾患ではない。となるとそれは、彼の主観世界たる「環境」において、その構成要素一つ一つの裏に「他者」がいることの否認だ、となる。
お前らは、それを認めたくないだけではないか?
ただの否認ではないか?
「他者」のいない環境とは、享楽だ。
独裁スイッチ。
お前は精神疾患者ではない。
それは、分析主体になることからの逃避である。
お前など「他者ではない環境」を生きていない。
そんな環境を生きているのは、『もみの木』の「歌う主体」や、自閉症者だ。
やべえ『秋ぎつね』でぼろぼろ泣いてる。
つか全然「かわいい曲」なんかじゃねえよこれ。
やさぐれ女が聞くと。
『アンチ・オイディプス』の言う「孤児」が「他者の環境」を生きる人間に恋してしまった悲劇だ。
叶うわけないだろそんなの。きつねが人間になれるわけねえだろ。
永遠に「来年こそは」なんだよ。
無間地獄だ。
これはもっとも享楽が表現されている悲劇だ。
『パジャマの樹』なんかと一緒にすんなよ。
いやそれも好きだけど。似あわないのはわかってるけど。
谷山自身が『紙吹雪』入ってる『夢半球』ってアルバムを「黒歴史」って言っているらしいんだが、「黒歴史」だからいいんだよ。
オナニーババアのその「ざまあみろ!」記事もいわば「黒歴史」だろ。
わたし? 前にも書いているだろ、「わたしの人生すべて黒歴史だ」と。
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