独り言?
2011/04/26/Tue
あ、なんかきてた。
=====
優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚している<あなた>にはこれはどうだろう。
=====
一応確認するけど、この<あなた>ってわたし?
いやわたしあてじゃない「糖菓」を受け取ってもね。
もしそうなら。
まず、わたしが「優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚している」ことを、「文字通り」にどこに書いているか「厳密に」説明して。
それはいまだお前の脳内わたしでしかない。
「どうだろう」はその次ね。順番にいこう。
それとも何、独り言? お前の脳内<あなた>との会話?
別にそれでいいんだけど、それならね、そう書いておいてくれない?
わたしも勝手に「お前という症状」を解釈してるだけだから。
「セックスの最中便意を我慢しすぎたゆえに漏らしてしまったうんこ」「それをスカトロ女優が笑っている」とか「優雅な自分の考え」なのか、君にとっては。この人とかは「呪詛」って思ってるみたいだが、これはしっくりくるんだけどな。意味として。藤田博史からは「下品」と言われたな。
パニック障害の発作を実況している文章も君には「優雅」に見えるのかな。
まあそこまで言うなら「優雅」でもいいや。君にとっての「優雅」という言葉の意味はそういう意味なんだろう。
「優雅」なのか「呪詛」なのかはっきりしてくれよ。
こうやって意味がわからなくなる。
そう言えばお前さ、「鏡像関係の泥沼」とか言ってなかった? ケンカになる前はこの記事とか「飄逸」って言っていたよな。
「鏡像関係の泥沼」はな、わたしのことだと考えれば、そうだと思うんだわ。自分では「鏡像関係の組み入れの失敗例」と思ってるし。失敗してるから正常人みたいな「泥沼」ではない「鏡像関係」を構築できない、と。そういう意味で考えれば理解できなくもない。「欲望のシーソー」で言えば、わたしは下になるが相手も下にならせようという、「わたしは不幸なままで、お前も不幸になれ」的な、だからもうシーソーじゃないんだけど。それこそ「泥沼」に溺れる者が誰かをひきずり込んで心中、みたいな。
でもさ、「飄逸」も「優雅」も、お前の勝手な印象論なわけじゃん。
お前が勝手に思った印象を、「<あなた>は錯覚してる」ってさ、おかしくね? 「俺の印象と同じ印象をお前も持ってるはずだ」ってこと?
ただの印象論の押しつけあいなら2ちゃんで充分です。アニメ板とかでよくやってる。
印象論じゃないなら「文字通りに」「厳密に」された解釈を聞かせて。
つかさ、お前わたしの文章読んでる?
わたしがお前の文章読んでるのはわたしの文章見ればわかるよな。
もし読まずに「優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚している<あなた>」とか言っているなら、それがパラノイアの妄想と同じだと気づいて言ってる?
あああと蓮實とかの文章なら別にいいよ。お前のエディコン症状だと自分で勝手に納得したし、お前の蓮實信仰は解釈できた。わたしの大学関係の個人的気持ち悪さも前記事でやっと卒業できたし。
わたしゃ別にそっちにゃ興味ない。
クリステヴァも文学系はよくわからんのよねえ。文学センスほんとないのよ。
まあそれについては興味あるのであとで反応するかもしれん。
で、何が言いたいの?
別に「優雅」じゃなくていいから「自分の考え」を述べてみてよ。
そんなアレルギー的に「引用」で隠蔽しないで。
一応もいっかい引用しとくね。
=====
それゆえ,精神病の臨床においては,「なにかいわくありげだ」と患者に感じさせるような「思わせぶり」な介入をしてはならない.精神病の妄想はまさに「なにかいわくありげだ」(病的な自己関係付け!)から発生するからである.精神病者に対しては,神経症者に対してすすめられるような,無意味のシニフィアンを生じさせるような解釈(Seminaire XI)などもってのほかである.そこに患者は私たちの享楽の意志を見出すかもしれないからである.
=====
わたし藤田博史の診断によるとBPDらしいからさ、そんな「思わせぶり」な文章、「享楽の意志」に思っちゃうかもよ?
よりお前の面の皮はいじゃうかもよ?
ある自称自閉症者が「正常人たちと会話していると「犯罪者になれ」と言っているように思える」とか言っていたが、こういうことだろうな。
藤田博史は公権力をちらつかせ、お前は偉い学者の名前をちらつかせ。
つまんない人間ばっかだな、ほんと。
虎の威を借る狐たち。
一応「構造」についてまとめとこ。これ「独り言」ね。
人間という動物に見られる非本能的なあるパターンの集団的習性を、「構造」と呼ぶ。
構造主義の「構造」とは、共時的「構造」である。
通時的「構造」は、オイディプス理論により成り立つ。
通時的、共時的、これら二つをあわせて「構造」とする場合もある。
ラカン理論は、構造主義の「構造」プラス「分析主体」である。
精神分析は、「構造」外の主体が研究範囲に含まれている。
以下私論。
「学問」は、オイディプス構造であってはならない。それは「父」が含まれるため、「宗教」あるいは「政治」となる。
オイディプス構造を容認すればするほど、「学問」と「宗教」あるいは「政治」の差異は曖昧になるだろう。
とはいえ、それは人間の集団的習性のため、完全に排除するのは難しいだろう。
したがって、「学問」は、オイディプス構造に対し慎重でなければならない。
以下余談。
「哲学」は、起源をさかのぼると、「自然科学」も含まれていたことがわかっている。
そこから、「欲動のディスクール」としての性質がより鮮明になった「自然科学」が独立した。
近代の「哲学」は、自然という研究対象を奪われてしまった。
「自然科学」だけではなく、学問が細分化されるほど、「哲学」の研究対象は奪われていった。
研究対象を見失った、と近代の哲学者の無意識は考えた。近代の哲学者はいわば「自我同一性の拡散」のごとき症状をひきおこした。
その結果、オイディプス構造や「リビドー的な構造」を、その発言のよりどころとする傾向が見られるようになり、「哲学」に特有の「コギトのような確実性の基盤となる主体」が主張されるようになった。
起源考えたら「自然科学」やりながら「哲学だ」って言い張ってもいいのにね。
わたし大学は自然科学系だったけど、別にいいよ。名称なんてどうでもいいから。
しかし現代の「哲学」は、「宗教」あるいは「政治」ではないため、その自己規定につねに追われている。
それが現代の「哲学」村の村民の症状としてあるのではないだろうか。
「「学問」は、オイディプス構造に対し慎重でなければならない。」をラカン理論にあてはめると、「学問」は象徴界であってはならない、という話になり、矛盾するように思える。
しかし象徴界とは大文字の他者である。
言語や数字そのものではない。
その裏にいる他者がはがれた言語や数字そのものがあってもよい。
それが、ラカン晩年の概念たる、「第四の輪」「サントーム」なのではないだろうか。
「学問」は、「サントーム」であれば、「政治」や「宗教」に回収されることはないだろう。
まあ、そもそも、「学問」が完全に「政治」や「宗教」と分離することは、学者たちの「リビドー的な構造」を「弛緩」させることになるだろうな。学者たち自身がそれを拒絶するだろう。
「学問」が「サントーム」でなければならなくなるときは、学者全員がジョイスのような症状になったときでしかない。
要するにただの妄想でした。
いいじゃん! たまにはパラノイア化させろよ!
妄想が暴走するのって楽しいよね。
被害妄想も暴走しちゃうけどね。
つかさ、恋愛占いとか心理テストとかやってるブログの人がうちきてるんだが、そういうブログじゃないよ? 精神分析もそういう学問ちゃうよ?
テレビタレント化した心理学者のトークみたいなの期待してるとがっくりくると思うよ。
ああいうのも楽しいよね。内心バカにしながらやるのがマナーだと思ってる。
そゆわけでバイバイ。
藤田も君もわたしという症状を解釈しないんだけど(藤田は診断はしたが)、なんのために精神分析やってるの?
あー藤田は裏で解釈を披露してるのかもしれないが。
解釈される側が解釈を聞いてもいいだろうに。知識はないこたないんだから。
クライエントに解釈を聞かせないこと自体が「享楽の意志」に思えちゃったりね。
精神病のケがある人は精神分析やらない方がいいんだろうな。
まあ解釈とかすげー労力いるわけだし、しないならしないでいいけど。
ストーカー被害にもあったことあるし、こういうパラノイア症状わたしがだめなだけだよ。
大体の人って、誰かについての印象論に対して「それはお前の脳内そいつという妄想だろ」みたいなことを言うと、「いや誰それも同じことを言っていた」とか言ってくるんだけど。ほんと人間の大体がパラノイア。
分析家にとってのクライエントも脳内そいつでしかない。
だからこそ、「文字通りに」「厳密に」欲望を捉えなくてはならないんだろ。「誰それも同じことを言っていた」なんて他者に逃げずに。
パラノイアの妄想と精神分析の解釈の違いは、そこだ。
わたしの中ではさ、もとの文章を字義通りに読まずにお前は引用している、ってことがわかったから、「どうだろう」と言われても、それ以前の問題なんだよね。「お前ちゃんともとの文章読めてる?」って。
まあそのパターンをあてはめると、文章に書かれていないお前の妄想の主人の意を汲み取って、「ボクチンの主人はこんなこと言っている!」って話かなとは思うけど。
わたしにとってはその人たち主人じゃないし、今やってるのは蓮實やクリステヴァ(という症状)の解釈ではないし、そういうのは遠慮しますです。
お前の脳内わたしはお前のものだから、好きに会話しといて。
わたしもわたしの脳内お前を解釈しているだけだから。ただし字義通りに厳密に文章を読んで解釈しているけど。
お前には「言い訳」に聞こえるみたいだが。
もちっとさ、自分の症状に対して真摯になれよ。
引用だけしていれば症状は寛解するってわけじゃねえぞ。
それは隠蔽にすぎん。
それこそ抑圧。
蓮實の「はしたなさ」って言葉に感化されたかしらんが、お前の神経症は悪化するだけだと思うがな。
藤田博史にしろ隠したがり屋だったわけだが、一般2ちゃんねらより煽り耐性が低かった(わたしの主観では。いやまあ匿名と実名の違いはあるだろうしな)。
君は藤田よか我慢できてたとは思うが、まあな。
必死に見栄を張っている人ほどもろいわけじゃん。いろいろ。抑鬱症の人格傾向もそうだよな。
何が「はしたない」かなんて人それぞれだよ。そうだろ、アフリカの乳丸出しな衣装なんて日本じゃ「はしたない」だろ。
別にお前をどうこうしたいわけじゃないが、キモイだけ。そういうの。わたしが。
ジジェクも言ってるじゃん。「汝の症候を楽しめ」と。
「自分の考え」を楽しめよ、もっと。
まあ確かにやりすぎたらこの記事にあるように精神病チックになっちゃうんだろうけどさ。
蓮實に「はしたない」と言われるだけだろ。あんなパワハラ大好きな奴の言うこと聞いてたらキリないと思うがな。そういうのがむしろいいのか。「ボクチンの父への欲望を試されている」的な。
ああそか、お前母親が精神病だと言ってたな。
母親みたいになりたくない、か。
ふーん。
引用という土砂で母親を埋めようとしている、か。
キチガイの母親が「はしたない」から。
「はしたない」と言ってくれる幻想の「父」を欲望して。
ご苦労さん。
お前の母親は放射能になったんだろうねえ。
あ、ごめん、もうすでに適当になってる。
「優雅」にやってるつもりならこんな長文書かねえよ。何度も「粘着」と言われたわ。
「優雅」どころか、わたしは「なりふり構わず必死」だ。この記事でも書いているじゃないか。
わたしは「自分の考え」を書くことに「なりふり構わず必死」だ。
「優雅」と「必死」って全然意味違うよな。
お前が「飄逸」と評した記事もな。お前の脳内で「飄逸」なわたしが想像されてたのだろう。あれ書くの「なりふり構わず必死」だったよ。トラウマみたいなもんだしな。思い出すのもいやなことだ。
だけどわたしは書く。自分の症状を知るために。
白鳥だっけか、水面下では「必死」に足を動かしているが水面上では「優雅」さを保っているとか。
白鳥が他人の目を意識しているわけねえだろ、って素で思うんだが。
人間が「優雅」に見えているだけ。お前が「飄逸」に見えただけ。
「優雅」なんて発想自体が、お前が大文字の他者を気にしている証拠なんじゃねえのか。
メンヘラにゃそんな余裕ねえんだよ。
こいつも強迫症なんだろうな。「引用」強迫症、か。
なんによって隠蔽するか、の違いか。彼らが固着しているのはその対象ではなくそれにより隠蔽することである。
藤田博史にしろ、ほんと強迫症者とは主観世界が違うんだろうな。
了解した。
もういいよ、君。
あ、一応言っておくけど印象論を否定しているわけじゃないよ。女の印象論とか鋭いときあるしね。フロイトも詩人の洞察に驚嘆したらしいが詩なんてな印象論だろ。
ただし、印象論と解釈は別物、ってことだ。ここのコメント欄。
=====
まあ一つ言うなら、解釈とは、相手の言った言葉と理論のみを根拠にすべきだ、としているのが精神分析なわけだが(したがって精神医学的な視覚による診断とはまったく別物)、elveさんの解釈はお前の想像で付加された部分が多そうではある。
とはいえわたしの経験上、メスどもってそういった「想像的な他人の内面の推測」ってすげー的中率高いし、elveさんの解釈は間違っている、とは言わないがね。
=====
君の場合印象論としても精度が低いので却下ですが。わたしの文章読まずに言ってるんだろーなー、レベル。いや確かにこんな粘着な文章読んでられんって気持ちもわかるけど。
君の脳内わたしと思う存分語っとけ。
一応ちらちら読んでるんだが、意味わからん。誰か翻訳してくれ。
やだ何この人怖い。
妄想だけで勝手に語ってるみたい。
うわまじ怖い。
壊れた? わたしかお前か。
「どうだろう」とか言われても、ストーカーに「お前はこうこうこう思っている」って脅されている気分だ、としか言えない。
何、ほんと意味わかんない。
「わたし」は「優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚している」。
意味わかんないから、それでいい。
それで、何がどうなのかが、わからない。
彼の脳内蓮實と脳内クリステヴァが脳内わたしを批判してる、ってこと?
それが意味わかんない。そんな妄想垂れ流してなんになるの? という。
気持ち悪い。
もしかして、「「飄逸」って言ってあげたのに、なんだこの仕打ちだ」って怒ってる? だから「優雅」とか書いたの? ごめん、誉めてる、とはわかったけど、別に嬉しくなかったんだよ。だってこっちは「必死」に書いてるのに「飄逸」とか言われても。
そういうこと?
わけわかんない。
「どうだろう」とか言われても、わたしの気分は先に書いた通りで、引用文そのものの意味はわかるけど、なんでそんな引用したのかがわからないし。
何この人。
怖い、まじで怖い。
ごめんなさい。
怖い。
キチガイだ。彼かわたしか。わたしでいい。
怖い。やばい。
なんでこう検証もしていない妄想を平気で押しつけられるんだろう。
「わたし」は「優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚している」。
あのさ、もし読んでなくて印象だけで語っているなら、そう明記してくんないかな。
別に読んでもらわなくても構わないから。印象論は否定しないし。一応「君という症状」の解釈したよ、という意味でトラバは打ったけど。
もし読んでてそう思ったのなら、まあいいやそれで。
君の脳内わたしと思う存分語ってください、ってことで。
なんかこう独り言で妄想をぶつぶつつぶやいている印象。あ、もちろんこれはわたしの脳内君。
わたしはお邪魔みたいだから勝手にやってるよ。
話が通じないとわかっただけでもよかったか。
印象論を理屈で検証する、ってのが学問なんじゃねえの?
こいつがやっていることは印象論を土台に引用を積み重ねているだけ。
それは学問ではなく政治家のスピーチ、プロパガンダだろ。
哲学ですらない。
パラノイアが勝手に妄想して勝手に何か言っているだけにしか見えない。
んー。これわたしへの「糖菓」じゃなかった?
いろいろ考えてそういう可能性が高いような気がしてきた。
ごめんなさい、ここまでの文章「病的な自己関連づけ」でした。
<あなた>がわたしじゃないにしても、また君が自分の欠点を他者に投影している文章に読める。
要するに、文学ファンだった、「優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚してい」た昔の君は、それらの文章に何か感ずるところがあったのだろう。
<あなた>も自分と同じような人間のはずだ(「全体性の幻想」)。自分はこれらの文章で気づいた。<あなた>は「どうだろう」、と。
君は引用だけをして「自分の考え」を書いてないつもりかもしれないけど、逆説的にほとんどが「自分の考え」を述べていることになっている。
強迫症だよな、それを過剰に忌避するあまり逆にそれに心的に近づいてしまう、という。
まあ、とりあえず「自分がなぜこれほど異常なまでに「自分の考え」を忌避するのか」ってこと考えてみたらどうだね?
分析主体として、さ。
そうやって他者に投影している限り、君の心的問題はどうにもならないと思うよ。
いや、ほんと意味わからないんだけどさ。わからないなりに無理矢理考えてみた。
違かったらどうでもいいよ。
解釈でもなんでもなく、わたしがわたしの脳内君についてとやかく言っている文章にすぎん。
まあ、ぶっちゃけ呆れたので終了。
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優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚している<あなた>にはこれはどうだろう。
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一応確認するけど、この<あなた>ってわたし?
いやわたしあてじゃない「糖菓」を受け取ってもね。
もしそうなら。
まず、わたしが「優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚している」ことを、「文字通り」にどこに書いているか「厳密に」説明して。
それはいまだお前の脳内わたしでしかない。
「どうだろう」はその次ね。順番にいこう。
それとも何、独り言? お前の脳内<あなた>との会話?
別にそれでいいんだけど、それならね、そう書いておいてくれない?
わたしも勝手に「お前という症状」を解釈してるだけだから。
「セックスの最中便意を我慢しすぎたゆえに漏らしてしまったうんこ」「それをスカトロ女優が笑っている」とか「優雅な自分の考え」なのか、君にとっては。この人とかは「呪詛」って思ってるみたいだが、これはしっくりくるんだけどな。意味として。藤田博史からは「下品」と言われたな。
パニック障害の発作を実況している文章も君には「優雅」に見えるのかな。
まあそこまで言うなら「優雅」でもいいや。君にとっての「優雅」という言葉の意味はそういう意味なんだろう。
「優雅」なのか「呪詛」なのかはっきりしてくれよ。
こうやって意味がわからなくなる。
そう言えばお前さ、「鏡像関係の泥沼」とか言ってなかった? ケンカになる前はこの記事とか「飄逸」って言っていたよな。
「鏡像関係の泥沼」はな、わたしのことだと考えれば、そうだと思うんだわ。自分では「鏡像関係の組み入れの失敗例」と思ってるし。失敗してるから正常人みたいな「泥沼」ではない「鏡像関係」を構築できない、と。そういう意味で考えれば理解できなくもない。「欲望のシーソー」で言えば、わたしは下になるが相手も下にならせようという、「わたしは不幸なままで、お前も不幸になれ」的な、だからもうシーソーじゃないんだけど。それこそ「泥沼」に溺れる者が誰かをひきずり込んで心中、みたいな。
でもさ、「飄逸」も「優雅」も、お前の勝手な印象論なわけじゃん。
お前が勝手に思った印象を、「<あなた>は錯覚してる」ってさ、おかしくね? 「俺の印象と同じ印象をお前も持ってるはずだ」ってこと?
ただの印象論の押しつけあいなら2ちゃんで充分です。アニメ板とかでよくやってる。
印象論じゃないなら「文字通りに」「厳密に」された解釈を聞かせて。
つかさ、お前わたしの文章読んでる?
わたしがお前の文章読んでるのはわたしの文章見ればわかるよな。
もし読まずに「優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚している<あなた>」とか言っているなら、それがパラノイアの妄想と同じだと気づいて言ってる?
あああと蓮實とかの文章なら別にいいよ。お前のエディコン症状だと自分で勝手に納得したし、お前の蓮實信仰は解釈できた。わたしの大学関係の個人的気持ち悪さも前記事でやっと卒業できたし。
わたしゃ別にそっちにゃ興味ない。
クリステヴァも文学系はよくわからんのよねえ。文学センスほんとないのよ。
まあそれについては興味あるのであとで反応するかもしれん。
で、何が言いたいの?
別に「優雅」じゃなくていいから「自分の考え」を述べてみてよ。
そんなアレルギー的に「引用」で隠蔽しないで。
一応もいっかい引用しとくね。
=====
それゆえ,精神病の臨床においては,「なにかいわくありげだ」と患者に感じさせるような「思わせぶり」な介入をしてはならない.精神病の妄想はまさに「なにかいわくありげだ」(病的な自己関係付け!)から発生するからである.精神病者に対しては,神経症者に対してすすめられるような,無意味のシニフィアンを生じさせるような解釈(Seminaire XI)などもってのほかである.そこに患者は私たちの享楽の意志を見出すかもしれないからである.
=====
わたし藤田博史の診断によるとBPDらしいからさ、そんな「思わせぶり」な文章、「享楽の意志」に思っちゃうかもよ?
よりお前の面の皮はいじゃうかもよ?
ある自称自閉症者が「正常人たちと会話していると「犯罪者になれ」と言っているように思える」とか言っていたが、こういうことだろうな。
藤田博史は公権力をちらつかせ、お前は偉い学者の名前をちらつかせ。
つまんない人間ばっかだな、ほんと。
虎の威を借る狐たち。
一応「構造」についてまとめとこ。これ「独り言」ね。
人間という動物に見られる非本能的なあるパターンの集団的習性を、「構造」と呼ぶ。
構造主義の「構造」とは、共時的「構造」である。
通時的「構造」は、オイディプス理論により成り立つ。
通時的、共時的、これら二つをあわせて「構造」とする場合もある。
ラカン理論は、構造主義の「構造」プラス「分析主体」である。
精神分析は、「構造」外の主体が研究範囲に含まれている。
以下私論。
「学問」は、オイディプス構造であってはならない。それは「父」が含まれるため、「宗教」あるいは「政治」となる。
オイディプス構造を容認すればするほど、「学問」と「宗教」あるいは「政治」の差異は曖昧になるだろう。
とはいえ、それは人間の集団的習性のため、完全に排除するのは難しいだろう。
したがって、「学問」は、オイディプス構造に対し慎重でなければならない。
以下余談。
「哲学」は、起源をさかのぼると、「自然科学」も含まれていたことがわかっている。
そこから、「欲動のディスクール」としての性質がより鮮明になった「自然科学」が独立した。
近代の「哲学」は、自然という研究対象を奪われてしまった。
「自然科学」だけではなく、学問が細分化されるほど、「哲学」の研究対象は奪われていった。
研究対象を見失った、と近代の哲学者の無意識は考えた。近代の哲学者はいわば「自我同一性の拡散」のごとき症状をひきおこした。
その結果、オイディプス構造や「リビドー的な構造」を、その発言のよりどころとする傾向が見られるようになり、「哲学」に特有の「コギトのような確実性の基盤となる主体」が主張されるようになった。
起源考えたら「自然科学」やりながら「哲学だ」って言い張ってもいいのにね。
わたし大学は自然科学系だったけど、別にいいよ。名称なんてどうでもいいから。
しかし現代の「哲学」は、「宗教」あるいは「政治」ではないため、その自己規定につねに追われている。
それが現代の「哲学」村の村民の症状としてあるのではないだろうか。
「「学問」は、オイディプス構造に対し慎重でなければならない。」をラカン理論にあてはめると、「学問」は象徴界であってはならない、という話になり、矛盾するように思える。
しかし象徴界とは大文字の他者である。
言語や数字そのものではない。
その裏にいる他者がはがれた言語や数字そのものがあってもよい。
それが、ラカン晩年の概念たる、「第四の輪」「サントーム」なのではないだろうか。
「学問」は、「サントーム」であれば、「政治」や「宗教」に回収されることはないだろう。
まあ、そもそも、「学問」が完全に「政治」や「宗教」と分離することは、学者たちの「リビドー的な構造」を「弛緩」させることになるだろうな。学者たち自身がそれを拒絶するだろう。
「学問」が「サントーム」でなければならなくなるときは、学者全員がジョイスのような症状になったときでしかない。
要するにただの妄想でした。
いいじゃん! たまにはパラノイア化させろよ!
妄想が暴走するのって楽しいよね。
被害妄想も暴走しちゃうけどね。
つかさ、恋愛占いとか心理テストとかやってるブログの人がうちきてるんだが、そういうブログじゃないよ? 精神分析もそういう学問ちゃうよ?
テレビタレント化した心理学者のトークみたいなの期待してるとがっくりくると思うよ。
ああいうのも楽しいよね。内心バカにしながらやるのがマナーだと思ってる。
そゆわけでバイバイ。
藤田も君もわたしという症状を解釈しないんだけど(藤田は診断はしたが)、なんのために精神分析やってるの?
あー藤田は裏で解釈を披露してるのかもしれないが。
解釈される側が解釈を聞いてもいいだろうに。知識はないこたないんだから。
クライエントに解釈を聞かせないこと自体が「享楽の意志」に思えちゃったりね。
精神病のケがある人は精神分析やらない方がいいんだろうな。
まあ解釈とかすげー労力いるわけだし、しないならしないでいいけど。
ストーカー被害にもあったことあるし、こういうパラノイア症状わたしがだめなだけだよ。
大体の人って、誰かについての印象論に対して「それはお前の脳内そいつという妄想だろ」みたいなことを言うと、「いや誰それも同じことを言っていた」とか言ってくるんだけど。ほんと人間の大体がパラノイア。
分析家にとってのクライエントも脳内そいつでしかない。
だからこそ、「文字通りに」「厳密に」欲望を捉えなくてはならないんだろ。「誰それも同じことを言っていた」なんて他者に逃げずに。
パラノイアの妄想と精神分析の解釈の違いは、そこだ。
わたしの中ではさ、もとの文章を字義通りに読まずにお前は引用している、ってことがわかったから、「どうだろう」と言われても、それ以前の問題なんだよね。「お前ちゃんともとの文章読めてる?」って。
まあそのパターンをあてはめると、文章に書かれていないお前の妄想の主人の意を汲み取って、「ボクチンの主人はこんなこと言っている!」って話かなとは思うけど。
わたしにとってはその人たち主人じゃないし、今やってるのは蓮實やクリステヴァ(という症状)の解釈ではないし、そういうのは遠慮しますです。
お前の脳内わたしはお前のものだから、好きに会話しといて。
わたしもわたしの脳内お前を解釈しているだけだから。ただし字義通りに厳密に文章を読んで解釈しているけど。
お前には「言い訳」に聞こえるみたいだが。
もちっとさ、自分の症状に対して真摯になれよ。
引用だけしていれば症状は寛解するってわけじゃねえぞ。
それは隠蔽にすぎん。
それこそ抑圧。
蓮實の「はしたなさ」って言葉に感化されたかしらんが、お前の神経症は悪化するだけだと思うがな。
藤田博史にしろ隠したがり屋だったわけだが、一般2ちゃんねらより煽り耐性が低かった(わたしの主観では。いやまあ匿名と実名の違いはあるだろうしな)。
君は藤田よか我慢できてたとは思うが、まあな。
必死に見栄を張っている人ほどもろいわけじゃん。いろいろ。抑鬱症の人格傾向もそうだよな。
何が「はしたない」かなんて人それぞれだよ。そうだろ、アフリカの乳丸出しな衣装なんて日本じゃ「はしたない」だろ。
別にお前をどうこうしたいわけじゃないが、キモイだけ。そういうの。わたしが。
ジジェクも言ってるじゃん。「汝の症候を楽しめ」と。
「自分の考え」を楽しめよ、もっと。
まあ確かにやりすぎたらこの記事にあるように精神病チックになっちゃうんだろうけどさ。
蓮實に「はしたない」と言われるだけだろ。あんなパワハラ大好きな奴の言うこと聞いてたらキリないと思うがな。そういうのがむしろいいのか。「ボクチンの父への欲望を試されている」的な。
ああそか、お前母親が精神病だと言ってたな。
母親みたいになりたくない、か。
ふーん。
引用という土砂で母親を埋めようとしている、か。
キチガイの母親が「はしたない」から。
「はしたない」と言ってくれる幻想の「父」を欲望して。
ご苦労さん。
お前の母親は放射能になったんだろうねえ。
あ、ごめん、もうすでに適当になってる。
「優雅」にやってるつもりならこんな長文書かねえよ。何度も「粘着」と言われたわ。
「優雅」どころか、わたしは「なりふり構わず必死」だ。この記事でも書いているじゃないか。
わたしは「自分の考え」を書くことに「なりふり構わず必死」だ。
「優雅」と「必死」って全然意味違うよな。
お前が「飄逸」と評した記事もな。お前の脳内で「飄逸」なわたしが想像されてたのだろう。あれ書くの「なりふり構わず必死」だったよ。トラウマみたいなもんだしな。思い出すのもいやなことだ。
だけどわたしは書く。自分の症状を知るために。
白鳥だっけか、水面下では「必死」に足を動かしているが水面上では「優雅」さを保っているとか。
白鳥が他人の目を意識しているわけねえだろ、って素で思うんだが。
人間が「優雅」に見えているだけ。お前が「飄逸」に見えただけ。
「優雅」なんて発想自体が、お前が大文字の他者を気にしている証拠なんじゃねえのか。
メンヘラにゃそんな余裕ねえんだよ。
こいつも強迫症なんだろうな。「引用」強迫症、か。
なんによって隠蔽するか、の違いか。彼らが固着しているのはその対象ではなくそれにより隠蔽することである。
藤田博史にしろ、ほんと強迫症者とは主観世界が違うんだろうな。
了解した。
もういいよ、君。
あ、一応言っておくけど印象論を否定しているわけじゃないよ。女の印象論とか鋭いときあるしね。フロイトも詩人の洞察に驚嘆したらしいが詩なんてな印象論だろ。
ただし、印象論と解釈は別物、ってことだ。ここのコメント欄。
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まあ一つ言うなら、解釈とは、相手の言った言葉と理論のみを根拠にすべきだ、としているのが精神分析なわけだが(したがって精神医学的な視覚による診断とはまったく別物)、elveさんの解釈はお前の想像で付加された部分が多そうではある。
とはいえわたしの経験上、メスどもってそういった「想像的な他人の内面の推測」ってすげー的中率高いし、elveさんの解釈は間違っている、とは言わないがね。
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君の場合印象論としても精度が低いので却下ですが。わたしの文章読まずに言ってるんだろーなー、レベル。いや確かにこんな粘着な文章読んでられんって気持ちもわかるけど。
君の脳内わたしと思う存分語っとけ。
一応ちらちら読んでるんだが、意味わからん。誰か翻訳してくれ。
やだ何この人怖い。
妄想だけで勝手に語ってるみたい。
うわまじ怖い。
壊れた? わたしかお前か。
「どうだろう」とか言われても、ストーカーに「お前はこうこうこう思っている」って脅されている気分だ、としか言えない。
何、ほんと意味わかんない。
「わたし」は「優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚している」。
意味わかんないから、それでいい。
それで、何がどうなのかが、わからない。
彼の脳内蓮實と脳内クリステヴァが脳内わたしを批判してる、ってこと?
それが意味わかんない。そんな妄想垂れ流してなんになるの? という。
気持ち悪い。
もしかして、「「飄逸」って言ってあげたのに、なんだこの仕打ちだ」って怒ってる? だから「優雅」とか書いたの? ごめん、誉めてる、とはわかったけど、別に嬉しくなかったんだよ。だってこっちは「必死」に書いてるのに「飄逸」とか言われても。
そういうこと?
わけわかんない。
「どうだろう」とか言われても、わたしの気分は先に書いた通りで、引用文そのものの意味はわかるけど、なんでそんな引用したのかがわからないし。
何この人。
怖い、まじで怖い。
ごめんなさい。
怖い。
キチガイだ。彼かわたしか。わたしでいい。
怖い。やばい。
なんでこう検証もしていない妄想を平気で押しつけられるんだろう。
「わたし」は「優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚している」。
あのさ、もし読んでなくて印象だけで語っているなら、そう明記してくんないかな。
別に読んでもらわなくても構わないから。印象論は否定しないし。一応「君という症状」の解釈したよ、という意味でトラバは打ったけど。
もし読んでてそう思ったのなら、まあいいやそれで。
君の脳内わたしと思う存分語ってください、ってことで。
なんかこう独り言で妄想をぶつぶつつぶやいている印象。あ、もちろんこれはわたしの脳内君。
わたしはお邪魔みたいだから勝手にやってるよ。
話が通じないとわかっただけでもよかったか。
印象論を理屈で検証する、ってのが学問なんじゃねえの?
こいつがやっていることは印象論を土台に引用を積み重ねているだけ。
それは学問ではなく政治家のスピーチ、プロパガンダだろ。
哲学ですらない。
パラノイアが勝手に妄想して勝手に何か言っているだけにしか見えない。
んー。これわたしへの「糖菓」じゃなかった?
いろいろ考えてそういう可能性が高いような気がしてきた。
ごめんなさい、ここまでの文章「病的な自己関連づけ」でした。
<あなた>がわたしじゃないにしても、また君が自分の欠点を他者に投影している文章に読める。
要するに、文学ファンだった、「優雅に自分の言葉に置き換えることが書くことだと錯覚してい」た昔の君は、それらの文章に何か感ずるところがあったのだろう。
<あなた>も自分と同じような人間のはずだ(「全体性の幻想」)。自分はこれらの文章で気づいた。<あなた>は「どうだろう」、と。
君は引用だけをして「自分の考え」を書いてないつもりかもしれないけど、逆説的にほとんどが「自分の考え」を述べていることになっている。
強迫症だよな、それを過剰に忌避するあまり逆にそれに心的に近づいてしまう、という。
まあ、とりあえず「自分がなぜこれほど異常なまでに「自分の考え」を忌避するのか」ってこと考えてみたらどうだね?
分析主体として、さ。
そうやって他者に投影している限り、君の心的問題はどうにもならないと思うよ。
いや、ほんと意味わからないんだけどさ。わからないなりに無理矢理考えてみた。
違かったらどうでもいいよ。
解釈でもなんでもなく、わたしがわたしの脳内君についてとやかく言っている文章にすぎん。
まあ、ぶっちゃけ呆れたので終了。
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