精神病者は分析家の分析家になっている。
2011/04/27/Wed
ああうん、そうそう、わたしはそのAでお前がX先生だね。『アンチ・オイディプス』にも似たような症例があったよ。それを根拠に「精神分析家はオイディプスを拡散させている」ってね。
結局、『アンチ・オイディプス』が言ってることそのまんまになるけど、精神病者の共通の、精神分析家への言い分は、「お前の「父」(との問題)を押しつけてくんな」な気がするねえ。
新宮一成の言葉を借りれば、こういったとき、精神病者は、分析家より「チンパンジーのように人間から隔たっている存在」になっている。
分析家が「チンパンジーのように人間から隔たって」なくてはならないのに。
となると、このとき、精神病者は、分析家の分析家になっている、となる。
まあそうだよな。プレコックス感なんてのはそういうことかもな。
ここを認めた方がよいと思うんだがな。
何もおかしいことではあるまい。この記事から。
=====
つかさ。ここ。
=====
彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。
=====
これさ、分析家も同じことやってるわけっしょ。無意識を解釈するのが精神分析。
だとしたら、分析家はパラノイアと同じだ、となる。
でもそうであっちゃだめ、って話じゃん。他者と「リビドー的な構造」を共有しているのがパラノイアで、分析家はそれを禁じている。
この差異を、方法論として述べたのが、「欲望は文字通りに捉えなければならない」ってことだと思うんだが。
=====
分析家と精神病者の違いは、無意識に対する注意を、「解釈」にするか「妄想」にするかの違いだ。
逆に考えればそれだけ。
このX先生も、「父への欲望」をAに押しつけてたんだろうな。「リビドー的な構造」が共有されていた。彼の脳内では。
このときX先生はパラノイアだ。
信仰者ほどつまらない人間はおらん。
神が強力であればあるほど信仰に回収される。信仰にとって都合のいい解釈に歪曲される。
オイディプスは量産される。
どっちが狂ってるんだか。
『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』より。
=====
問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(上巻p206)
=====
まあ少なくとも精神分析は信仰じゃないので、そこは気をつけてくれな。
「優雅」な「糖菓」ありがとね(笑)。
スカスカでおいしくもなんともないけど。
このX先生って藤田博史でもあるな。お前も似たようなもんだが。
異常だろ、こういう人。こんなことで警察に電話するX先生は狂っている。わたしなんかより全然まともな言葉遣いじゃん。
「何という狂気の沙汰!」
「父親問題」を指摘されることに対する過剰な反応。
こういう人の異常性を論じたのがフロイトだろ。
それを指摘されるのがいやなら最初から精神分析なんかやんなよ、と。
こういう「精神分析の知識を持っている精神病患者の症例」って重要なんじゃねえの。
村民にとっては痛い症例になろうが。
そういう例じゃないの?
ああそうそう、「だからオイディプス理論は大事なんだ」って話なら、わたしゃ別にオイディプス理論を否定しておらん。むしろ安易なオイディプス理論批判を批判したこともあるくらいだ。
対象関係論もオイディプス理論もそのとき使える方を使う、って何度も言っているがそゆこと。
ブログを全部読んでもらえばわかるだろうが、実際その「残念なおばさん」たるelveさんや自閉症の解釈ではオイディプス理論はほとんど使っておらん。まそりゃそうだよな、ラカン派自身が自閉症を「鏡像関係の組み入れの失敗例」としているわけだし。
そゆこと。
ああうぜ。
いや反応しちゃうわたしがな。
一晩寝てみるわ。それで飽きてたなら飽きてるだろう。
どうでもいいけど、ネカマのおっさん笑われてるよ。「残念なおばさん」から。
異常性を指摘したら「お前が大衆に媚びており、私が大衆に媚びてないからだ」とかってなるのか。
ばからし。
他の読者の「呪詛」という表現からもわかるように、君のわたしに対する印象は一般のそれよりずれているものと思われる。まあほら一応役者やってたしな、そういうのはわかるんだよ。
君は「一般からずれている自分の印象」について、なんの疑いも表明していない。
これはまさしく信仰によるものだが、同時にこのことは「父の名」が(一般より)「排除」されかけている状態でもあろう。
とはいえ君は「超越論的ポジション」について「実体」を想定しないようにしている。これは君の「父の名の排除」からの防衛である、と解釈されるだろう。
お前がオイディプスだから、お前が勝手に「超越論的ポジション」を想定してしまい、それによる精神病化に対する防衛として、それに実体を想定しないようにしている、という話。
つまりはすべてお前の一人相撲なんだよ。繰り返し(「テープレコーダー」?(笑))になるが。
なんて言うんだろう。自家中毒?
起きた。
まとめとく。
まあ、確かに「ほとんど引用」である君のブログは、「君という症状」についての解釈は困難だった。君の「はしたないから隠蔽する」という行為はある程度の効果はあった。
しかし君は、わたしとやりあうことで、引用ではない「自分の考え」を書いてくれた。
よって解釈が可能になった。
その結果、君の症状は、エディプスコンプレックスであり、「主人のディスクール」であり、強迫症的な傾向があることがわかった。
うん、確かに「君という症状」については、オイディプス理論が有効だろうと思う。
エディプスコンプレックスが多くの人間個体に見られることはわたしも否定しないが、それだけでは解釈が難しい症例もある。
たとえばわたしが主に臨床している自閉症。
これはラカン派自身が「鏡像関係の組み入れの失敗例」としていることからわかるように、クライン派の理論が非常に有効である。事実このブログではクラインのみならずスターンやビオンの理論も幾度とひいている。
わたしは「そのとき研究に使える理論を使っている」にすぎない。
東大表象文化論などは違うのかもしれないが、精神分析はあくまで科学であり、精神疾患を研究するものである。
したがって、その精神疾患によって、学内の理論をあれこれ使いわけることは、なんら不当なことではない。
このわたしの態度から見れば、君の対象関係論批判には、合理的な根拠を見出せない。
君のラカン理論に対する「原典主義」態度と、その「原典主義」にもとづく対象関係論批判を見ていると、『アンチ・オイディプス』の精神分析批判と同様のことを言いたくなる。
精神分析は、(たとえば)オイディプス理論を教義とした宗教ではない。
オイディプス理論やラカン理論は、確かに君自身の症状解釈においては、非常に有効な理論であろう。わたし自身の解釈と矛盾しない。
しかしそれらはあくまでただの科学理論だ。「君という症状」は一つの研究対象にすぎない。
君はこの辺を勘違いしているのではなかろうか。
そしてこの勘違いは、科学の態度としても不適格なものではないか。
科学は、学問は、宗教でも政治でもない。
わたしはそう指摘する。
ま、わたしの言いたいことはこのようにまとまったので、あとは好きにやってくだちい。
結局、『アンチ・オイディプス』が言ってることそのまんまになるけど、精神病者の共通の、精神分析家への言い分は、「お前の「父」(との問題)を押しつけてくんな」な気がするねえ。
新宮一成の言葉を借りれば、こういったとき、精神病者は、分析家より「チンパンジーのように人間から隔たっている存在」になっている。
分析家が「チンパンジーのように人間から隔たって」なくてはならないのに。
となると、このとき、精神病者は、分析家の分析家になっている、となる。
まあそうだよな。プレコックス感なんてのはそういうことかもな。
ここを認めた方がよいと思うんだがな。
何もおかしいことではあるまい。この記事から。
=====
つかさ。ここ。
=====
彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。
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これさ、分析家も同じことやってるわけっしょ。無意識を解釈するのが精神分析。
だとしたら、分析家はパラノイアと同じだ、となる。
でもそうであっちゃだめ、って話じゃん。他者と「リビドー的な構造」を共有しているのがパラノイアで、分析家はそれを禁じている。
この差異を、方法論として述べたのが、「欲望は文字通りに捉えなければならない」ってことだと思うんだが。
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分析家と精神病者の違いは、無意識に対する注意を、「解釈」にするか「妄想」にするかの違いだ。
逆に考えればそれだけ。
このX先生も、「父への欲望」をAに押しつけてたんだろうな。「リビドー的な構造」が共有されていた。彼の脳内では。
このときX先生はパラノイアだ。
信仰者ほどつまらない人間はおらん。
神が強力であればあるほど信仰に回収される。信仰にとって都合のいい解釈に歪曲される。
オイディプスは量産される。
どっちが狂ってるんだか。
『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』より。
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問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(上巻p206)
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まあ少なくとも精神分析は信仰じゃないので、そこは気をつけてくれな。
「優雅」な「糖菓」ありがとね(笑)。
スカスカでおいしくもなんともないけど。
このX先生って藤田博史でもあるな。お前も似たようなもんだが。
異常だろ、こういう人。こんなことで警察に電話するX先生は狂っている。わたしなんかより全然まともな言葉遣いじゃん。
「何という狂気の沙汰!」
「父親問題」を指摘されることに対する過剰な反応。
こういう人の異常性を論じたのがフロイトだろ。
それを指摘されるのがいやなら最初から精神分析なんかやんなよ、と。
こういう「精神分析の知識を持っている精神病患者の症例」って重要なんじゃねえの。
村民にとっては痛い症例になろうが。
そういう例じゃないの?
ああそうそう、「だからオイディプス理論は大事なんだ」って話なら、わたしゃ別にオイディプス理論を否定しておらん。むしろ安易なオイディプス理論批判を批判したこともあるくらいだ。
対象関係論もオイディプス理論もそのとき使える方を使う、って何度も言っているがそゆこと。
ブログを全部読んでもらえばわかるだろうが、実際その「残念なおばさん」たるelveさんや自閉症の解釈ではオイディプス理論はほとんど使っておらん。まそりゃそうだよな、ラカン派自身が自閉症を「鏡像関係の組み入れの失敗例」としているわけだし。
そゆこと。
ああうぜ。
いや反応しちゃうわたしがな。
一晩寝てみるわ。それで飽きてたなら飽きてるだろう。
どうでもいいけど、ネカマのおっさん笑われてるよ。「残念なおばさん」から。
異常性を指摘したら「お前が大衆に媚びており、私が大衆に媚びてないからだ」とかってなるのか。
ばからし。
他の読者の「呪詛」という表現からもわかるように、君のわたしに対する印象は一般のそれよりずれているものと思われる。まあほら一応役者やってたしな、そういうのはわかるんだよ。
君は「一般からずれている自分の印象」について、なんの疑いも表明していない。
これはまさしく信仰によるものだが、同時にこのことは「父の名」が(一般より)「排除」されかけている状態でもあろう。
とはいえ君は「超越論的ポジション」について「実体」を想定しないようにしている。これは君の「父の名の排除」からの防衛である、と解釈されるだろう。
お前がオイディプスだから、お前が勝手に「超越論的ポジション」を想定してしまい、それによる精神病化に対する防衛として、それに実体を想定しないようにしている、という話。
つまりはすべてお前の一人相撲なんだよ。繰り返し(「テープレコーダー」?(笑))になるが。
なんて言うんだろう。自家中毒?
起きた。
まとめとく。
まあ、確かに「ほとんど引用」である君のブログは、「君という症状」についての解釈は困難だった。君の「はしたないから隠蔽する」という行為はある程度の効果はあった。
しかし君は、わたしとやりあうことで、引用ではない「自分の考え」を書いてくれた。
よって解釈が可能になった。
その結果、君の症状は、エディプスコンプレックスであり、「主人のディスクール」であり、強迫症的な傾向があることがわかった。
うん、確かに「君という症状」については、オイディプス理論が有効だろうと思う。
エディプスコンプレックスが多くの人間個体に見られることはわたしも否定しないが、それだけでは解釈が難しい症例もある。
たとえばわたしが主に臨床している自閉症。
これはラカン派自身が「鏡像関係の組み入れの失敗例」としていることからわかるように、クライン派の理論が非常に有効である。事実このブログではクラインのみならずスターンやビオンの理論も幾度とひいている。
わたしは「そのとき研究に使える理論を使っている」にすぎない。
東大表象文化論などは違うのかもしれないが、精神分析はあくまで科学であり、精神疾患を研究するものである。
したがって、その精神疾患によって、学内の理論をあれこれ使いわけることは、なんら不当なことではない。
このわたしの態度から見れば、君の対象関係論批判には、合理的な根拠を見出せない。
君のラカン理論に対する「原典主義」態度と、その「原典主義」にもとづく対象関係論批判を見ていると、『アンチ・オイディプス』の精神分析批判と同様のことを言いたくなる。
精神分析は、(たとえば)オイディプス理論を教義とした宗教ではない。
オイディプス理論やラカン理論は、確かに君自身の症状解釈においては、非常に有効な理論であろう。わたし自身の解釈と矛盾しない。
しかしそれらはあくまでただの科学理論だ。「君という症状」は一つの研究対象にすぎない。
君はこの辺を勘違いしているのではなかろうか。
そしてこの勘違いは、科学の態度としても不適格なものではないか。
科学は、学問は、宗教でも政治でもない。
わたしはそう指摘する。
ま、わたしの言いたいことはこのようにまとまったので、あとは好きにやってくだちい。
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