エチュードしかできない。
2011/05/23/Mon
薄暗い。多分早朝。寒いのに薄着。もっと着てくればよかったと思う。
山の中。工場か倉庫のような建物がある。
パトカーと普通の車が計三台。周りにいる数人は全員警官だろう。
わたしは違う。
犯罪現場だろう。警官ではないのにわたしはなぜか建物の中に案内される。
関係者だ、と思う。
こういった風に自分の役割を認識するのに時間がかかることが多い。
わたしを案内する短髪のオヤジが
「気をしっかり持ってくださいね」
と言う。
被害者の家族かなんかか、と思う。
ここまできて、数独など最後の方一気に解けるタイプのパズルみたいに、一気に状況を把握する。
体が疲れているのがわかる。多分、知らせを聞いて、パニックみたいになったのだろう。茫然自失みたいになっていた。だから彼はこんなことを言った。
がらんとした倉庫の中に、逆さ吊りされている人体があった。男性。半裸で血まみれだ。
わたしの知らない人。
だが、役割として、わたしは関係者でなければならない。
演技だと自覚しながら、わたしはうずくまり、顔を伏せる。
案内していた男が肩に触れる。
泣き真似。
その実、演技プランを考えている。
おおまかに把握した状況と合致するプランを。
エチュードが始まる。
エチュードしかできない。
エチュードって、同じ相手とやっても、はまるときとはまらないときがある。お互いの脳内設定が、まるで脚本があるかのように合致することもあれば、あれこれやってもどうしてもすれ違ったままのときもある。
それで、やっぱり、あわないときが多い人と、あうときが多い人ってのがいる。相性。
観客(まあエチュードってな稽古だから=団員になるけどさ)にしてみれば、あう人とやった方が、見てて楽しいだろう。
だけど、個人的な好みと、エチュードがあう人あわない人ってのは、関係ない。
ここが違うと思うんだな。
正常人は、エチュードがあう人=自分が好感を持つ人、となっている。elveさんなどもそうだろう。
確かに、エチュードがあわない人とエチュードをやるのは、しんどい。めんどくさい。稽古じゃなく本番なら観客も見たくない芝居になるだろう。
だけど、個人的な好み、というか評価と、エチュードがあう人あわない人ってのは、やっぱり関係ない。
エチュードがあうかあわないかだけ。
いやまあ、脳内設定がすれ違ってるのも、なんつーの、ナンセンス系のお笑いに持ってけるけどな。チェーホフ的なすれ違い感っていうか。あごめん東京乾電池的な、か。
会話がすれ違うのも楽しいもんだぜ。「会話を成立させなければならない」なんて強迫観念を捨てれば。
逆にすれ違っている方が、相手のしたい物語が見えてくるもんだ。
なのに、お互いがお互い自分の物語に相手を飲み込もうとあれこれやると、泥沼劇となる。乾いた感じにならない。
それはそれでおもしろいけどな。メロドラマの基本原理は大体これだ。各人が別々の脳内物語を生きていて、相手をその登場人物にしたがるから、泥沼になる。
全員が同じ物語を生きていれば、予定調和になる。ウェルメイドだな。「物語には大きな事件・事故が必要だ」ってのは、その大きな事件・事故の下、全員が同じ物語を生きられるからだ。この事件・事故が一人の人間であってもいい。その中心となる事件・事故にもっとも近い人間が主人公と呼ばれる。
そういうことじゃねえの。
山の中。工場か倉庫のような建物がある。
パトカーと普通の車が計三台。周りにいる数人は全員警官だろう。
わたしは違う。
犯罪現場だろう。警官ではないのにわたしはなぜか建物の中に案内される。
関係者だ、と思う。
こういった風に自分の役割を認識するのに時間がかかることが多い。
わたしを案内する短髪のオヤジが
「気をしっかり持ってくださいね」
と言う。
被害者の家族かなんかか、と思う。
ここまできて、数独など最後の方一気に解けるタイプのパズルみたいに、一気に状況を把握する。
体が疲れているのがわかる。多分、知らせを聞いて、パニックみたいになったのだろう。茫然自失みたいになっていた。だから彼はこんなことを言った。
がらんとした倉庫の中に、逆さ吊りされている人体があった。男性。半裸で血まみれだ。
わたしの知らない人。
だが、役割として、わたしは関係者でなければならない。
演技だと自覚しながら、わたしはうずくまり、顔を伏せる。
案内していた男が肩に触れる。
泣き真似。
その実、演技プランを考えている。
おおまかに把握した状況と合致するプランを。
エチュードが始まる。
エチュードしかできない。
エチュードって、同じ相手とやっても、はまるときとはまらないときがある。お互いの脳内設定が、まるで脚本があるかのように合致することもあれば、あれこれやってもどうしてもすれ違ったままのときもある。
それで、やっぱり、あわないときが多い人と、あうときが多い人ってのがいる。相性。
観客(まあエチュードってな稽古だから=団員になるけどさ)にしてみれば、あう人とやった方が、見てて楽しいだろう。
だけど、個人的な好みと、エチュードがあう人あわない人ってのは、関係ない。
ここが違うと思うんだな。
正常人は、エチュードがあう人=自分が好感を持つ人、となっている。elveさんなどもそうだろう。
確かに、エチュードがあわない人とエチュードをやるのは、しんどい。めんどくさい。稽古じゃなく本番なら観客も見たくない芝居になるだろう。
だけど、個人的な好み、というか評価と、エチュードがあう人あわない人ってのは、やっぱり関係ない。
エチュードがあうかあわないかだけ。
いやまあ、脳内設定がすれ違ってるのも、なんつーの、ナンセンス系のお笑いに持ってけるけどな。チェーホフ的なすれ違い感っていうか。あごめん東京乾電池的な、か。
会話がすれ違うのも楽しいもんだぜ。「会話を成立させなければならない」なんて強迫観念を捨てれば。
逆にすれ違っている方が、相手のしたい物語が見えてくるもんだ。
なのに、お互いがお互い自分の物語に相手を飲み込もうとあれこれやると、泥沼劇となる。乾いた感じにならない。
それはそれでおもしろいけどな。メロドラマの基本原理は大体これだ。各人が別々の脳内物語を生きていて、相手をその登場人物にしたがるから、泥沼になる。
全員が同じ物語を生きていれば、予定調和になる。ウェルメイドだな。「物語には大きな事件・事故が必要だ」ってのは、その大きな事件・事故の下、全員が同じ物語を生きられるからだ。この事件・事故が一人の人間であってもいい。その中心となる事件・事故にもっとも近い人間が主人公と呼ばれる。
そういうことじゃねえの。
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