ナラティブセラピーとは都市伝説である。
2011/09/07/Wed
『やりすぎ都市伝説』見てて思ったのだが。
前記事でこう書いた。
=====
まあ心理療法なんてこの程度のものである。
「ナラティブセラピー」とかと同じ詐欺手法だな。
=====
「ファクティッシュ」という心理療法における一概念が「ナラティブセラピー」と同じだ、と言っているわけだが、微妙に違うな、と思った。
というのは、つかぶっちゃけ、「ナラティブセラピー」は「信じるか信じないかは、あなた次第です」なんだよな。
もちろん語り部は口ではそう言いながら「信じさせよう」としているわけだが、ハロバイの関とか、当初は「自分が好きな都市伝説を語っていた」わけだ。ぶっちゃけ、まあ信じてくれた方がいいっちゃあいいのだろうが、信じてもらうか信じてもらえないかなんかより視聴率の方が大事だったろう。「自分の趣味語って金もらえたらラッキー」ってな具合に。
ということは、というかハロバイ関に限らず、「あまり売れてない芸人」が「信じるか信じないかはあなた次第です」と言うから、このセリフは真実味を持つわけだ。つか司会の東野とジュニアがそういうキャラっつうか役割じゃん。本当はどうか知らないけど。演出上。「都市伝説とかアホか」ってツッコミ役なわけっしょ。
でもさー、関とか売れちゃったじゃん。今彼が言う「信じるか信じないかはあなた次第」って嘘クセーじゃん。
東野やジュニアのハロバイ関へのツッコミも「お前ただの変な奴やんけ」って感じになってるしね、当初よか。
まあでも関のキャラは、演技じゃなくて素なんだろうけど、「パラノイア方向にいっちゃった感じ」が嫌味じゃないからまだ続けられてるんだろうな。
いつかは堰越えるだろうけど。
ちょっと先週だかの奴は(録画で見てた)嫌味が出てた。関が堰越えそうだった。
で。
「信じるか信じないかはあなた次第ですが、信じること自体が重要なのです」ってのが「ファクティッシュ」の考え方なんだよな。
「信じるか信じないかはあなた次第で、私も信じるか信じないかはわかりません」ってのが「ナラティブセラピー」だわ。
ここが微妙に違う。
関なんかは「ナラティブセラピー」から「ファクティッシュ」な態度に移行しつつある、って話やね。
でも両方いいところ目をつけてるよ。その「都市伝説」なり「迷信、神話」なり「語り」が「嘘か本当か」はあまり重要ではなく、「信じるか信じないか」が問題、ってのは。
とっても構造主義です。
さよなら構造またきて構造。
「ナラティブセラピー」はまあ「ポストモダンの影響を受けただけ」って片づけられちゃいがちだけど(確かにデリダ論とつなげて論じてた奴いたな)、「ファクティッシュ」は現代だからこそ価値(という妄想)がある概念なんじゃね? お前ら正常人というパラノイアックな精神疾患者たちにとって。
ポストポストモダンって奴?
まああれか、ある視野で見れば「ナラティブセラピー」も「ファクティッシュ」も同じ類の思想だが、仮にニ項対立的に置いてみると、このような違いが、ひいては構造主義の「構造」の一端が見えてくる、って話だな。構造主義では二項対立思考大事なんだよね。つかソシュール言語学の「言語は差異のみによって表現される」ってのはそういう話だ。
思想界も充分お笑い番組だよな。人間の心理こそが、ひいてはその産物としての社会が、お笑い番組だ。
フロイトもラカンも「売れない芸人」なんだよね。
コラアゲンはいごうまんみたいな芸人がテレビ出る時代なんだあ、って以前からキワモノの需要はあったよな、なんて思った。
精神分析家の立場としての芸人、っつうか。大人計画もそんな感じだったけど社会に承認されてから大人しくなっちゃったもんな。
ワハハはまだ骨あるよな。
骨なさすぎたのがジョビジョバ。
ってウイキペディアたらたら見てたんだけど、
=====
16歳のとき、教育熱心であった父は、落ちこぼれた嘉宏と、同時期に大学受験に失敗した兄を憂い、酒を飲み暴れ「皆殺しや」と包丁を振り上げた際に、身を挺した母の手の甲に包丁が刺さり、母は泡を吹いて倒れてしまう。この悲惨なエピソードを、ネタにして友達に話したとき、思わず笑いがあがった。笑ってもらった時に、気持ちが楽になり、その感覚が「芸人的な思想」であることを感じ、お笑いの道へ踏み込んだ。
=====
これとかいわば「自我の解離」やん。
だから精神分析にとってヒステリーは重要なのだよ。
つか正統派なお笑い芸人たちはこいつ叩いた方がいいぞ。こういうのはいずれ「お笑いという幻想」もネタにする。お前らの奇術のネタをネタにする。潰すなら今のうち。もし関がもっとイッチャッテしまったりしたら、それをライブのネタにしたりしそうだな。
ロリコン落語家ぐらいに覚悟があれば生き残れるんだろうが。
こういう「分析的立場にいる芸人」って女芸人には少ないよな。友近レベルで特異になる程度に。オアシス大久保とかもうちょっと頭よかったらそういった立場を芸にできそうなもんだが。光浦は頭よさそうだけど解離しきれていない。
やっぱ女がヒステリーしちゃだめなんだよ。社会の嫌悪が酷い。
「あの素晴らしい女性たち、アンナ・Oやドラなど、昔のヒステリーたちは一体どこに行ってしまったのだろうか?」
「売れない芸人」は売れちゃだめだ。
前記事でこう書いた。
=====
まあ心理療法なんてこの程度のものである。
「ナラティブセラピー」とかと同じ詐欺手法だな。
=====
「ファクティッシュ」という心理療法における一概念が「ナラティブセラピー」と同じだ、と言っているわけだが、微妙に違うな、と思った。
というのは、つかぶっちゃけ、「ナラティブセラピー」は「信じるか信じないかは、あなた次第です」なんだよな。
もちろん語り部は口ではそう言いながら「信じさせよう」としているわけだが、ハロバイの関とか、当初は「自分が好きな都市伝説を語っていた」わけだ。ぶっちゃけ、まあ信じてくれた方がいいっちゃあいいのだろうが、信じてもらうか信じてもらえないかなんかより視聴率の方が大事だったろう。「自分の趣味語って金もらえたらラッキー」ってな具合に。
ということは、というかハロバイ関に限らず、「あまり売れてない芸人」が「信じるか信じないかはあなた次第です」と言うから、このセリフは真実味を持つわけだ。つか司会の東野とジュニアがそういうキャラっつうか役割じゃん。本当はどうか知らないけど。演出上。「都市伝説とかアホか」ってツッコミ役なわけっしょ。
でもさー、関とか売れちゃったじゃん。今彼が言う「信じるか信じないかはあなた次第」って嘘クセーじゃん。
東野やジュニアのハロバイ関へのツッコミも「お前ただの変な奴やんけ」って感じになってるしね、当初よか。
まあでも関のキャラは、演技じゃなくて素なんだろうけど、「パラノイア方向にいっちゃった感じ」が嫌味じゃないからまだ続けられてるんだろうな。
いつかは堰越えるだろうけど。
ちょっと先週だかの奴は(録画で見てた)嫌味が出てた。関が堰越えそうだった。
で。
「信じるか信じないかはあなた次第ですが、信じること自体が重要なのです」ってのが「ファクティッシュ」の考え方なんだよな。
「信じるか信じないかはあなた次第で、私も信じるか信じないかはわかりません」ってのが「ナラティブセラピー」だわ。
ここが微妙に違う。
関なんかは「ナラティブセラピー」から「ファクティッシュ」な態度に移行しつつある、って話やね。
でも両方いいところ目をつけてるよ。その「都市伝説」なり「迷信、神話」なり「語り」が「嘘か本当か」はあまり重要ではなく、「信じるか信じないか」が問題、ってのは。
とっても構造主義です。
さよなら構造またきて構造。
「ナラティブセラピー」はまあ「ポストモダンの影響を受けただけ」って片づけられちゃいがちだけど(確かにデリダ論とつなげて論じてた奴いたな)、「ファクティッシュ」は現代だからこそ価値(という妄想)がある概念なんじゃね? お前ら正常人というパラノイアックな精神疾患者たちにとって。
ポストポストモダンって奴?
まああれか、ある視野で見れば「ナラティブセラピー」も「ファクティッシュ」も同じ類の思想だが、仮にニ項対立的に置いてみると、このような違いが、ひいては構造主義の「構造」の一端が見えてくる、って話だな。構造主義では二項対立思考大事なんだよね。つかソシュール言語学の「言語は差異のみによって表現される」ってのはそういう話だ。
思想界も充分お笑い番組だよな。人間の心理こそが、ひいてはその産物としての社会が、お笑い番組だ。
フロイトもラカンも「売れない芸人」なんだよね。
コラアゲンはいごうまんみたいな芸人がテレビ出る時代なんだあ、って以前からキワモノの需要はあったよな、なんて思った。
精神分析家の立場としての芸人、っつうか。大人計画もそんな感じだったけど社会に承認されてから大人しくなっちゃったもんな。
ワハハはまだ骨あるよな。
骨なさすぎたのがジョビジョバ。
ってウイキペディアたらたら見てたんだけど、
=====
16歳のとき、教育熱心であった父は、落ちこぼれた嘉宏と、同時期に大学受験に失敗した兄を憂い、酒を飲み暴れ「皆殺しや」と包丁を振り上げた際に、身を挺した母の手の甲に包丁が刺さり、母は泡を吹いて倒れてしまう。この悲惨なエピソードを、ネタにして友達に話したとき、思わず笑いがあがった。笑ってもらった時に、気持ちが楽になり、その感覚が「芸人的な思想」であることを感じ、お笑いの道へ踏み込んだ。
=====
これとかいわば「自我の解離」やん。
だから精神分析にとってヒステリーは重要なのだよ。
つか正統派なお笑い芸人たちはこいつ叩いた方がいいぞ。こういうのはいずれ「お笑いという幻想」もネタにする。お前らの奇術のネタをネタにする。潰すなら今のうち。もし関がもっとイッチャッテしまったりしたら、それをライブのネタにしたりしそうだな。
ロリコン落語家ぐらいに覚悟があれば生き残れるんだろうが。
こういう「分析的立場にいる芸人」って女芸人には少ないよな。友近レベルで特異になる程度に。オアシス大久保とかもうちょっと頭よかったらそういった立場を芸にできそうなもんだが。光浦は頭よさそうだけど解離しきれていない。
やっぱ女がヒステリーしちゃだめなんだよ。社会の嫌悪が酷い。
「あの素晴らしい女性たち、アンナ・Oやドラなど、昔のヒステリーたちは一体どこに行ってしまったのだろうか?」
「売れない芸人」は売れちゃだめだ。
/ 未分類